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八大王

 北京、景山公園けいざんこうえんの西に、北海公園ほっかいこうえんという美しい建築群がある。三つの湖の北側、瓊華島けいかとうに広がる観光地だ。千年前に作られた庭園が、歴代王朝の皇帝の庭として残り、中華人民共和国になって一般開放された。瓊華島には白い仏塔ぶっとうが建っている。それが目印になるので、白塔山はくとうざんとも呼ばれているらしい。

 わたしと小嶋さんは、島の南にある湖畔こはんぞいのレストランに腰をおろし、歴史の流れを目で追った。湖面は春風にでられて、こんなわたしでも歌を詠みたくなる気分だ。

 小嶋さんはお茶を飲みながら、

「まさか有給をとって老師にお会いできるとは……夢のようです」

 と、うっとりしていた。

 そう、わたしは卒業旅行ということで、最後の春休みを利用して中国に来ていた。女性ひとりだと危ないから、小嶋さんにも声をかけたところ、快諾してくれた。老師に会うことだけが目的じゃない。ただ、それが半分くらい動機になっているのも事実だった。小嶋さんの場合は百パーセントかもしれないけど。

 わたしは腕時計を確認した。

「一二時二五分……そろそろですね」

 ひと混みのなかから、ほんとうに見分けられるのだろうか。

 わたしは心配になってきた。

 ところが、それは杞憂きゆうだった。

你好ニーハオ

 なつかしい声に、わたしたちはふりかえった。

 真っ白な開襟かいきんシャツに黒いズボン――わたしは立ち上がって、

「老師、おひさしぶりです。ニーハオ」

 とあいさつした。

「遠坂さんは、あいかわらずピンインのお勉強をなさっていないようですね」

 いやぁ、だってむずかしいもの。

 小嶋さんのほうは、もうすこし流暢りゅうちょうに、

你好ニーハオ仙人シィェンレン、おひさしぶりです」

 とあいさつした。

 老師は会釈しつつも、

「小嶋さん、その呼び方は周囲に誤解をまねきますので、ご遠慮ください」

 と言った。そうだ。仙人なんて女性に呼ばれていたら、あやしいひとにみえる。

 とはいえ、これには老師にも責任がある。だって本名を教えてくれないんだもの。

 小嶋さんも困ったようすだった。

「しかし、なんとお呼びしたものか……」

 わたしは「老師」でいいじゃないですか、と言った。

 小嶋さんは、これにも抵抗感があるようで、

「さすがにおじいさんではないので……老师ラオシーと呼ばせていただきます」

 と言った。なるほど、これは賢いかも。老师は「先生」の意味だから、周囲のひとに聞かれても違和感はない。

 わたしはテーブルの一角をゆびさして、

「そこ、取っておきました。どうぞ」

 と、腰をおろしてもらった。

 昼食を注文する。メニューをみる……英語版でいいかな。

「……なんか中華っぽくない?」

 わたしがそう言うと、

「遠坂さん、日本人が食べている中華料理は日式ですよ」 

 と指摘した。あ、そっか、豚骨ラーメンとかも日本のアレンジなんだっけ。

「んー……この点心と……」

 わたしたちは何品かてきとうに注文した。

 お茶のおかわりをもらって、三人で乾杯かんぱいする。

「おつかれさまです」

 老師も茶杯ちゃはいをあげつつ、

「日式ですね」

 とコメントした。たしかに。なんで疲れてないのに「おつかれさま」なんだろ。

 ちょっと会社の飲み会っぽいのも気になる。

 もっとちがう言い方にしようと思った。

「じゃあ、老師との再会を祝して」

「では、おふたりの健康に。ジューニィシェンティジァンカン

 料理が運ばれてくる。熱々の小籠包しょうろんぽうに、肉と野菜の炒め物。

 どろっとした濃いめのスープも出てきた。

 どれもボリュームがある。

 いただきます。さっそく箸をつけた。

 あつつつ、小籠包から入ったのは失敗か。

 でもおいしい。肉汁がアツいときに食べないとね。

 小嶋さんは猫舌なのか、スープをやたらと吹いていた。

老师ラオシーも、めしあがってください。今日はわたしたちがおごります」

「いえ、わたしのほうで持たせていただきます」

 いやいや、わたしたちが、と押し問答したあげく、けっきょく老師のおごりになった。

 あんまりお金の話をしてもしょうがないので、話題を変える。

 わたしは炒め物を小皿にとりわけながら、

「老師は、こちらでなにをなさっているんですか?」

 とたずねた。

「遠坂さんは、あいかわらず現実に興味がおありのようで」

 またこの対応ですか。もう、韜晦とうかいがきわまっちゃってるんだから。

 とはいえ、こうなると老師はまったく対応してくれない。ちょっとくらい、現実の話をさせて欲しいな、という気持ちはあった。というのも、わたしは無事、大手のIT企業に就職することができたので、そのお礼を言いたかったからだ。お礼というのは、老師のおかげで最終的に卒論の方向性が固まって、その成果を人事部のひとに評価してもらえたからだ。指導教授の先生からも、「学部生として適切」と好印象だった。発表会は、うわさどおりあちこちからつっこみが入ってたいへんだった。けど、小嶋メソッド(単位と関係ない野次馬だから全部てきとうにあしらう)でなんとかした。

 老師は、わたしが何者かということを、一度も気にかけてこなかった。わたしが大学生だろうが、どこかの有名企業の令嬢だろうが、はたまたべつのなにかであろうが、頓着しないのだろう。だから、物語の話に切り替えようと思った。

「老師、せっかくですから、本場の雰囲気で物語をひとつ聞かせてください」

 わたしのお願いに、老師は箸をとめた。お茶をそそぐ。

「そうですね……では、湖のそばにふさわしいお話を、ひとつ」


  ○

   。

    .


 臨洮りんとう、今の甘粛かんしゅく省に、ふうという郷試きょうしの年輩受験者がいました。じつは貴族の息子でしたが、すっかり落ちぶれていました。

 馮は、あるすっぽん獲りの漁師に金を貸していました。この漁師はお金で返すことができなかったので、すっぽんが獲れるたびにこれを馮にあげていました。

 ある日、この漁師が大きなすっぽんを持ってきました。ところが、額に白い斑点があったので、馮はこの風変わりなすっぽんをにがしてやりました。

 それからしばらくして、馮は娘婿むすめむこの家まで行った帰り、恒河こうがのほとりまでやってきました。すっかり日が暮れてしまっていたのですが、見ると、ひとりの酔っ払いが、こどもを二、三人従えて、よろめきながらこちらへ来ました。

 酔っ払いは、馮に気づいて、

「おまえはだれだ?」

 と訊いてきました。馮はてきとうに、

「通りすがりの者だ」

 と答えました。酔っ払いはこの返事に怒りました。

「おまえには名前がないのか? 通りすがりだ、などとは失礼な」

 馮は道を急いでいたので、相手にせず、さっさと通り過ぎようとしました。酔っ払いはますます怒って、馮のそでを掴みました。酒の匂いがぷんぷんします。馮はうんざいりして払いのけようとしましたが、できませんでした。

 馮は、

「きみはだれだね?」

 と訊きました。酔っ払いは、ろれつが回らない調子で、こう答えました。

「わしは南都なんとの県知事をしていた者だ。で、それを訊いてなんとする?」

「こんな県知事がいるなんて、世の中をバカにしているな。退職したからいいようなものの、今も県知事だったら、通行人を皆殺しにしてしまいかねないぞ」

 酔っ払いは激昂げきこうして、喧嘩けんかを始めようとしました。

 馮もこれを受けて、

「この馮が、ただ殴られると思うなよ」

 と啖呵たんかを切りました。すると、酔っ払いはいきなりにこにこし始めて、その場にひざまずいたかと思うと、馮を拝礼しました。

「失礼いたしました。わしの恩人とはつゆ知らず」

 酔っ払いは立ち上がって従者を呼び、酒の支度をするように言いつけました。馮はこれを断りましたが、手をとられて数里ほど歩くと、小さな村がありました。そこに、とてもきらびやかな建物があり、まるで貴人の館のようでした。

 酔っ払いの酔いがさめてきたので、馮はあらためて名前を尋ねました。

「驚かないでいただきたい。わしは洮水とうすい八大竜王はちだいりゅうおうです。たまたま西山せいざんの仙人から酒宴に招かれたので、思わず酔いすぎで失礼なことをいたしました」

 馮は、あいてが怪物だとわかっておどろきました。が、そのものごしはさっきと打って変わって丁重だったので、恐ろしくはありませんでした。酒の準備ができ、ふたりで楽しく飲み明かしました。竜王は酒豪で、たてつづけに何杯も飲み干しました。馮は、竜王がまた酔っ払ってからんでくるのではないかと心配し、もう酔ったふりをして、寝かせて欲しいと言いました。竜王は馮の心中を察して笑いました。

「あなたは、わしがまた酔っ払うのを恐れているのでしょう。お赦しいただきたい。じつのところ、酔っ払いがハメをはずしておいて、次の日には覚えていないというのは、口からでまかせにすぎません。酒飲みは十中八九、わざと無茶をしているのです。わしはあなたたち人間の仲間ではないですが、まだあなたのような学識のある人に手をあげたことはありません。そんなに怖がらないでいただきたい」

 馮は座りなおすと、威厳を正していさめました。

「自分でわかっていながら、どうして行ないを改めないのですか」

 竜王は答えました。

「わしは異界の県知事をしていたころ、酒浸りが今の比ではありませんでした。天帝のお怒りに触れまして、島送りになってからというもの、こうして少しは行ないを改めようと努力してきたのです。もう十年あまりも。しかしながら、わしも年をとってしまい、もう一度出世するというわけにもいかないので、やけになってまた酒を飲んでおり、我ながらあきれているところでした。あなたのご忠告に従うといたしましょう」

 話に気をとられていると、遠くでかねの音が鳴りました。竜王は馮の手をとって、

「これも奇縁きえんです。わしの宝にこういうものがありますから、これを使ってすこしばかりご恩に報いるとしましょう。ただし、これは人間がずっと持っておくというわけにはいかないので、願いが叶ったら、かならず返してください」

 と言って、口の中から一寸ほどの小人をはきだしました。そして、その爪を馮の腕にたてました。皮膚が裂けるような痛みが馮をおそいます。竜王は、小人をその傷のうえにおさえつけて、パッと手をはなしました。すると、小人は馮の皮膚のしたに入り込んでいました。爪の痕がだんだんと盛り上がり、しこりのようになりました。

 馮はおどろいて、いったいこれはなにかと問いただしましたが、竜王は、

「さあお帰りなさい」

 と言って、馮を送り出しました。

 馮がふりかえると、村も館も消え失せて、一匹の大きなすっぽんが、のそのそと水のなかへ入っていく姿だけがみえました。馮はしばらくあっけにとられていましたが、さっきの小人はすっぽんの宝だと気づきました。

 それからというもの、馮には特別な透視力が身につきました。宝がある場所は、地下であろうとすべて見えるようになったのです。また、それまでは知らなかったモノでも、勝手に口が動いてその名前を言えるようになりました。まず、自宅の寝室から数百金もの隠し金を見つけ出し、たいそう裕福になりました。さらに、あるひとが家を売りに出したとき、馮はそこに莫大な埋蔵金があることを見つけ出したので、これを買ってすみました。それからは王侯と肩をならべるほどの金持ちになり、火斉かせい木難ぼくなんなどの非常にめずらしい宝石も手に入れました。

 さて、あるとき、馮は一枚の鏡を手に入れました。裏には鳳凰ほうおうの飾りひもがついていて、これに湘水しょうすいと雲、そして湘水の女神との三体を描いた絵が描かれており、その光は一里先をも照らして、それを覗けば髭や眉をかぞえられるほどでした。さらに、美人がひとたび映ると、その残像ざんぞうが鏡にのこって、美人がべつのポーズをとるか、あるいはほかの美人を映すかしないかぎり、消えることがありませんでした。

 さて、そのころ、粛王しゅくおうの第三公主、すなわち三番目の姫は絶世の美人でした。そのうわさを聞いた馮は、たまたま姫が崆峒山こうどうざんへ遊びに来たとき、こっそりと山中に隠れました。姫が車から降りるところを狙って、馮は鏡に映しとり、帰って机の上にかざりました。今にも口をきき、今にも動き出しそうなようすで、馮はたいそう満足しました。一年ほど経ち、家人かじんから外に漏らされ、粛王の耳に入りました。粛王は激怒して、馮を捕まえさせ、鏡を没収したうえで斬首しようとしました。馮は側近の宦官かんがんに多額のわいろを渡して、王をなだめてくれるように頼みました。

 側近は、

「王が馮を赦して財産を没収するだけで済ませれば、天下の至宝しほうが手にはいります。単に殺してしまえば、それっきりということになり、王の利益になりません」

 と告げました。そこで王は、馮の家を取り潰して流罪にしようとしました。

 ところがここで、姫が、

「わたしの姿をみられた以上は、そのひとと結婚するしかありません」

 と言いました。王はこれを許しませんでした。すると、姫は閉じこもって、ものを食べなくなったので、娘を心配した王妃が王を説得することに成功しました。けれども、ここで問題が起こりました。馮には妻がいるので、姫は第二夫人ということになってしまいます。王侯の娘が第二夫人になることはありえないと考えた王は、馮に対して、今の妻を幽閉するように命じました。

 馮はこれを辞退して、

「こういう話があります。昔、宋弘そうこうという男の兄が亡くなり、この兄の妻であった湖陽こようという姫が、宋弘と再婚したがりました。けれども、宋弘にはすでに妻がおりました。そこで、湖陽の父であった光武帝こうぶていは、宋弘を呼び出し、『ことわざによれば、出世したら付き合いを変え、金持ちになれば妻を変える、というな。これが世の常であろう』と、暗に妻と別れるように諭しました。ところが、宋弘は、『困窮したときの付き合いを忘れてはならない、粗末な食卓をともにした妻は捨てない、とわたしは聞いております』と答えました。わたくしもこれに倣い、『糟糠そうこうつまどうよりくださず』にしたいと存じます」

 と説きました。

 王は怒って馮をふたたび捕えました。そこで、こんどは王妃が策略をめぐらし、馮の妻を毒殺することに決めました。ところが、馮の妻にじっさいに会ってみると、たいそう聡明な女性で、王妃に珊瑚さんごの鏡台を献上したので、王妃は気に入って、姫に会わせました。姫も馮の妻を気に入り、姉妹の契りを交わしました。王妃は妻に、どうにか姫と結婚するように馮を説得してもらえないか、と頼み、妻はこれを受けました。

 馮は妻に言いました。

「しかし、もしわたしが姫と結婚したならば、さすがに王族であるから、きみのほうが正妻というわけにはいかなくなるよ。たとえきみとわたしの結婚が先だとしても」

 妻は馮をむりに説得し、千人もの人手で結納ゆいのうを整えて、王のやしきにおさめました。そのなかには、王族ですら名前のわからない宝石がありました。王はこれを喜んで、馮を釈放して帰らせ、姫を連れ添わせました。姫は例の鏡を持って馮の家に嫁ぎました。

 さて、ある夜、馮がひとりで寝ていると、夢にあの八大竜王が現れました。竜王は笑いながら部屋に入ってきて、

「あの贈り物を返してもらいに来ました。あれは、あまり長いあいだ体のなかにいると、人の精気を吸い取って、寿命を縮めてしまいます」

 と言いました。馮は「わかった」と答えて、とりあえず酒宴をひらこうとしました。

 ところが、竜王は遠慮して、

「ご忠告を聞いてから、もう三年も禁酒しております」

 と言い、馮の腕を噛みました。馮が激しい痛みを感じて目をさますと、腕のしこりがなくなっていました。その後、馮は、いたって平凡なひとになってしまったそうです。


  ○

   。

    .


 話を聞き終えたわたしは、

「ちょっと時代錯誤的ですね」

 と批評した。

「馮の態度が、ですか? それとも馮の妻の態度が、ですか?」

 と老師はたずねた。わたしは両方だと答えた。

「ようするに配偶者と愛人をどうするか、って話ですよね。配偶者のほうが愛人に尽くすのって、むかしの女性観があらわれているみたいで、ちょっと古いかな、と」

 この解釈には、となりの小嶋さんもうなずいてくれた。

 と同時に、小嶋さんは、

「しかし、それ以外の点では妙に生々しいですね……出世したら付き合いを変え、金持ちになれば妻を変える……人間のドロドロしたところを捉えていると言いますか……」

 となげいた。

 わたしは小籠包をつまみながら、

「ああいうのって、じっさいにはドラマとかの話じゃないんですか?」

 と言った。

 小嶋さんはハァとわざとらしくため息をついた。

「遠坂さん、あなたは幸せなひとですね」

 なんですか、そのコメントは。お子様あつかいはダメ。

「じゃあ、小嶋さんのまわりにそういうひとってけっこういるんですか?」

「准教授になったからフッたとか、司法試験に合格したからフッたとか、医師国家試験に合格したからフッたとか、枚挙にいとまがありません」

 えぇ……とはいえ、それは小嶋さんのバイアスな気がする。

 わたしはそのことを指摘した。

 すると、小嶋さんもむりに自説を固辞しなかった。

「わたしは心理学科卒ですから、バイアスの可能性については否定しません。世の中、ものごとをポジティブに見るときとネガティブにみるときでは、風景がちがいます」

「物語のなかに出てきた竜王も、ネガティブな感情からお酒に走ってましたね」

「落ち込んでいるときのお酒はほんとうに危ないので、やめましょう」

 小嶋さん、体験談みたいなのがちょっと気になる。とはいえ、鬱のときにアルコールを飲むのはほんとうに危ないらしい。アルコールが鬱を加速させるから、負のスパイラルに陥ってしまうそうだ。

 わたしがそんなことを考えていると、小嶋さんは、

「AIはうつになったりそうになったりしないので、いいですね」

 とつぶやいた。

 わたしは野菜炒めのしゃきしゃきとした食感を味わいつつ、首をかしげた。

 そして、食べ終わってから口をはさんだ。

「AIも、学習のさせ方によっては、鬱になったり躁になったりすると思います」

「え? ほんとうですか?」

「感情分析AIがある以上、機械学習で感情を再現できないことはないはずです」

 完璧な理由づけだと思った。

 けれど、さすがに修士持ちなだけあって、小嶋さんは的確に反論してきた。

「それはAIが感情を分析できるというだけで、AI自身がポジティブな感情やネガティブな感情を持つ、ということではありませんよね? それに、躁鬱そううつは病気であって感情ではありません」

 なるほど、後者については反論がむずかしい。

 でも、前者については持論があった。

「例えば、わたしは今、うれしそうな感じですよね」

「そうですね。おいしいものを食べて、老师ラオシーにも会えて、ハッピーな感じです」

「それが演技だとしたら、どうですか?」

 小嶋さんは、わたしの質問の意図を察してくれた。

「なるほど、人間の感情は、一見すると内的な生理現象にみえて、じっさいには外面的な表情などで判定されているだけだ、だから、ディスプレイ上に笑顔のイラストでも表示させておけば、おなじことが言えるはずだ、という意味ですか」

「正解です。というわけで、もしAIがディスプレイにじぶんの顔を映して、そこで笑ったり泣いたりすれば、AIも感情を持っていると言えるはずです」

「しかし、その背後にあるものを読み取ろうとするのが、人間ではありませんか?」

 小嶋さんのひとことに、わたしは答えられなかった。

 わたしは口をつぐみ、道ゆくひとびとをみた。ほとんどは観光客だ。さまざまな国のひとびとが、中国の歴史をみつめ、さまざまな表情をみせる。それは、あとから美化される一瞬の思い出にすぎない。その向こうに広がるのは、平凡な街並みと、人民の日常。喜びと悲しみ、栄光と挫折、ささいなこと、たいせつなこと、過去と未来、空想と現実。

 ひとは生きるだろう。空想と現実のはざまで。

 わたしもまた生きて行こうと、そう思った。

【参考文献】

・重友毅「上田秋成と中国小説」文学21巻9号920-926頁(岩波書店、1953年)

・中村幸彦〔編〕『秋成』日本古典鑑賞講座第24巻(角川書店、1969年)

・蒲松齢〔著〕、増田渉ほか〔訳〕『中国古典文学大系40 聊斎志異 上』(平凡社、1970年)

・蒲松齢〔著〕、増田渉ほか〔訳〕『中国古典文学大系41 聊斎志異 下』(平凡社、1971年)

・土佐亨「雨月物語「仏法僧」の寓意」香椎潟19巻47-56頁(福岡女子大学、1973年)

・元田與市「「確かさ」の不在:「仏法僧」の視点」日本文学36巻11号21-35頁(御茶の水書房、1987年)

・田中厚一「『雨月物語』の「語り」の構造:「仏法僧」・「吉備津の釜」・「青頭巾」を例にして」帯広大谷短期大学紀要25巻1-15頁(帯広大谷短期大学、1988年)

・永吉雅夫「カタチの呪縛─『雨月物語』「夢応の鯉魚」と「吉備津の釜」をめぐって」追手門学院大学文学部紀要24号462-452頁(追手門学院大学文学部、1990年)

・中村幸彦ほか〔編〕『新編日本古典文学全集78 英草子・西山物語・雨月物語・春雨物語』(小学館、1995年)

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