エピローグ
「これで最後ですね」
うすい紐とじの冊子を五つ、わたしはダンボールに詰めこむ。『雨月物語』と題されたその表紙に、わたしはどことなく遠い過去を思った。すべては終わったのだ。
あの事件から一ヶ月後、老師は帰国することになった。今日はそのお手伝いとして、我輩堂のあとかたづけを手伝っていた。わたしだけじゃない。朝茅くんと小嶋さんもいる。白河先輩の姿はなかった。それだけは、すこしだけ心残りだ。
窓の外は明るく、秋風が吹いていた。まだ残暑が厳しいけれど、どこかしら秋めいてきたところがある。そう、たとえば葉桜の色合い、そのスキマから見える空の深さ、草むらで鳴く虫の声、道ゆく大学生たちのファッション。書物だけが永遠に思える。それとも、永遠なのはひとの言葉だろうか。
「みなさん、本日はお手伝いをいただき、ありがとうございました」
老師はそう言って、わざわざ拱手してくれた。
わたしたちもみんなで頭をさげる。
「こちらこそ、いろいろとためになる話をしていただき、ありがとうございました」
老師は最後、お茶にしましょうと言ってくれた。
みんなよろこんでご馳走になる。
いつもの鉄瓶から湯気があがり、秋の大気と溶け合う。明け放された玄関と窓は、旅立つ主人を見送る従者たちのようだ。老師が出て行ったあと、この建物は取り壊されてしまうらしい。残念だ。でも、前の家主が喫茶店を閉じたときから、もともとはそういう話になっていたと、風の噂で耳にした。だとすれば、老師はこのお店の命を、少しだけ伸ばしてあげたことになるのかもしれない。
わたしのとなりで、朝茅くんはタメ息をつきながら、
「それにしても、白河先輩が犯人だとは思いませんでした。いまでも夢な気がします」
とつぶやいた。
あの事件は、学内でもほとんどタブーになっていた。白河先輩を校内で見かけることはなかったし、朝茅くんと小嶋さんの話では、文学部図書室にも来ていないそうだ。小嶋さんは「卒論をお書きになられるのですから、多少は気まずくとも、顔を見せていただいたほうが安心するのですが」と心配していた。
老師は淡々とお湯をわかし、茶器を温め、急須で茶葉を蒸らしていく。
この別れも、老師にとっては人生のほんの一コマなのかもしれない。そういうふうに受け取れる仕草だった。だけど、この無関心は、今この場ではやさしさにすら感じられる。他人に無関心であることは、必ずしも悪いことではない。白河先輩の人生は、白河先輩のものだ。彼女が決めることであって、わたしたちが口を出すことじゃない。
にわかに、わたしの鼻を独特の香りがくすぐった。
「これって……金木犀ですか?」
わたしの質問に、老師はうなずいた。
「今日は花茶を用意いたしました。どうぞ、めしあがれ」
室内に金木犀の香りがひろがる。
そう、これも秋の名物だ。
どういう味なのだろうと思って口をつけると、ベースは緑茶だった。
わたしはこれまた意外に思って、
「金木犀って、緑茶とおなじ味がするんですか?」
とたずねた。
老師は急須をあけてくれた。
なかをのぞくと、お茶っぱにオレンジ色の花弁が混ざっていた。
「あ……ブレンドしてるんですね」
「さようです。お気に召しませんでしたか?」
「いえ、とんでもないです。おいしいです」
お世辞ではなかった。なんだかリラックス効果もあるような気がした。
小嶋さんも香りを楽しみながら、
「金木犀は、中国から日本へ伝来した花だったように記憶しています」
とつぶやいた。老師はうなずいた。
「日本人は花を観賞するため、花づきのよい雄株しか輸入しなかったようですね」
小嶋さんは、
「それもうかがったことがあります。雌株がないので受精では増やせないとか……ところで、老師のことですから、花茶のなかでも金木犀をお選びになられたのには、なにか意味がおありなのではないですか?」
とたずねた。
老師はひとくち飲んで、茶杯をおいた。
「いえ、とくには」
小嶋さんの予想ははずれた。それとも、老師は本心を語らなかったのだろうか。
金木犀の話はそれまでになって、わたしたちは本の話に移った。
せっかくだから古典だけでなく、中国の現代小説についてもいろいろと教えてもらう。朝茅くんはもともと文学部だし、小嶋さんはけっこう勉強してきたらしく、なかなかにくわしかった。朝茅くんはお茶を飲みながら、
「老師が以前、『聊斎志異』の話をしてくれたじゃないですか。中国人のノーベル賞作家の莫言も、『聊斎志異』の作者の浦松齢を高く評価しているみたいですね。人物描写が細かいというか、短編なのに生活臭がするというか……で、俺、思ったんです。怪談っていうのは、ありえない部分がおもしろいんじゃなくて、むしろありえる部分がおもしろいんじゃないかな、って。うまく説明できないですけど」
と語った。
老師は表情を変えずに問いかける。
「では、怪談にとって、不可思議なお話は、なんのためにあるのでしょうか?」
朝茅くんは「わからない」とすなおに答えた。
そして、彼自身の体験談から、こうつけくわえた。
「じつは俺、小説を書いてるんです。その一件で、遠坂とごちゃごちゃ揉めたあげく、今にいたってるんですけど……AIが小説を書けるかどうかについて、俺はペンディングにしておきます。専門家でもなんでもないですから。ひとつだけ言えるのは、もしAIが人間を主人公とする小説を書くなら、素材は俺たちの生活からとらないといけないわけで、ようするにAIと人間の共同作業になると思うんです」
朝茅くんはそう言って、お茶を飲み干した。
彼も真剣にとりくんでいるのだと、わたしはあらためて気づかされた。
わたしの卒論のテーマが話題にのぼったから、コメントしておく。
「AIで小説は書けると、わたしは今でも思っています。短編ならほかの研究グループが成果を出していますし、機械学習が小説に応用できないというエビデンスもありません。ただ、朝茅くんが言うとおり、AIが人間を主人公にするなら、人間というものを観察しないといけないわけですよね。けっきょく、機械だって経験にもとづいているんです。人間が変わっていけば、AIが描く小説も変わっていくんじゃないでしょうか」
老師は、わたしと朝茅くんの意見に耳をすませていた。
そして、傍観者の小嶋さんになぜか話しかけた。
「空想と現実の境界線は曖昧……これは、あなたのお言葉だそうですね」
「あ、はい」
「すばらしいお考えだと思います」
老師に褒められた小嶋さんは、恐縮をとおりこして混乱してしまったらしく、
「仙人に褒められるとか、これはもしや、わたしの空想なのでしょうか……?」
などと、あぶないことを口走った。
小嶋さん、落ち着いて。
一方、老師は淡々と先を続けた。
「さきほどの朝茅くんと遠坂さんがおっしゃられたことも、まさにそのことなのだと、わたしは解釈しています。創作のどこまでが空想であり、どこまでが現実か……これは読み手にも書き手にもわからないことなのでしょう。だとすれば、AIがなにを書こうとも、それは人間が営んできた文藝の延長にすぎないのかもしれません」
老師の講釈は、そこで終わった。
お茶を飲み終えたわたしたちは、最後にお店の掃除をする。テーブルに雑巾をかけ、棚のほこりを払い、床に箒をかけたところで、わたしはふと気づいた。
「老師……この『我輩堂』の看板は、どうしますか?」
今にも躍動しそうな筆致の看板。
老師は玄関まで来て、それを手にとった。
「……これは、いただいて帰ります」
「え、いいんですか? 中国だと意味が通じませんよね?」
老師は、あの大講堂でみせたときとおなじ、ささやかな笑みを浮かべた。
「書もまた文藝……わたしはそこそこ気に入っているのですよ。それでは、再见」
前略
ご結婚、おめでとうございます。
お手紙をいただいたときは、ほんとうに驚きました。
あの出来事から一度もお会いすることなく、少々さみしい日々が続いています。
お変わりないでしょうか。
私は大学4年生になり、卒論に取り組んでいます。テーマは「機械学習を用いたくずし字の解読法〜『雨月物語』を題材に〜」になりそうです。小説を創るのではなく、現代人が読めない古文書の解読をAIにさせる研究です。くずし字のデータセットが公開されているので、これを応用することになりました。『雨月物語』の著者が秋成だと知られたのは、彼の死後なのですね。私は、そんなことも知りませんでした。それとも、自分たちの過去を知っていることのほうが、ほかの生き物たちからみると不思議なのでしょうか。
なにが歴史に残り、なにが歴史に残らないかを決めるのは、当世のひとびとでもなければ、後世のひとびとでもなく、ただ時間だけなのかもしれません。いえ、老師の受け売りです。樹木が大地に消え、数百年の歳月が流れたあと、黒い彫刻材となって地表に浮かびあがることがあるそうです。まるで、思い出したかのように。その彫刻材で作られた美しい女性像を、私は一度だけ見たことがあります。
記録するだけでは駄目なのかもしれません。心を揺さぶって、思い出さなければならないのかもしれません。その思い出が未来へと繋がるとき、過去も、なにかしらの意義を持つのだと思います。
さようなら。私はまえを向いて歩きます。
みじかいあいだでしたが、ありがとうございました。
草々
遠坂 茉白
追伸 投函を悩んでいる最中、近松先生から、一本の論文をいただきました。昨年の学会の報告をまとめたものです。ここに同封しておきます。もしよろしければ、表紙に書かれたあのひとのお名前を、口ずさんであげてください。




