第一話 本屋の仙人
なに、あの捨て台詞。わたしは肩を怒らせつつ、大学から市街地へとむかう長い長い道をたどっていた。車道のよこにある桜並木はすっかり葉をまとい、四月の木漏れ日をアスファルトのうえにおどらせていた。ここ数年の東京はとても暑い。五月になれば、すぐにも初夏のおとずれを感じるだろう。そうなったら、エアコンの効いた大学の研究室で、好きなだけデータをまさぐることができるのだ。
そのためには、OCRにかける作品を図書館で物色しないといけない。それとも、本屋にしたほうがいいだろうか。このあたりの大きな本屋って、どこだろう。わたしはスマホで地図アプリをひらいた。
「……駅前の本屋、つぶれてる?」
「本屋ならここに」
わたしは足をとめた。透き通った男性の声。
それはあまりにも透明感にあふれていて、リアリティがなかった。
錯覚だろうかとすら思う。けれど、視界がひとをとらえた。一本の桜の古木が、歩道を覆うように影を落とす。その影に守られて、ひとりの青年が籐椅子に腰をおろし、足を組んだかっこうで本を読んでいた。涼しげなまなざしの持ち主で、春の陽気は彼のまわりを避けているかのようだ。白い開襟シャツに黒いズボン。靴はありきたりな白のスニーカーで、ファッションに奇をてらったところがない。でも、着こなしは完璧だった。
「あの……今の声はあなたですか?」
おそるおそる、わたしは確認した。まちがっていたら、読書の邪魔になってしまう。
青年は顔もあげずに、
「はい」
と答えた。
「この近くに本屋があるんですか?」
「あなたのすぐそばに」
わたしは青年のうしろに視線をひっぱられた。
そこは、古びた空き家──ではなく、空き家を改装した本屋だった。ありきたりな本屋じゃない。もともとは喫茶店だったはずだ。唐草模様の黒い柱と、本屋には似つかわしくない観葉植物の数々。それを照らし出すランタンは、天井にぶら下がっておごそかな光を放っていた。地球儀とコンパス。木彫りの鳳凰が、店の奥からわたしをまなざす。おまえはどこから来たのかと、そう問いかけているかのようだ。
壁沿いにぎっしりと詰められた本棚と書物たち。わたしは無意識のうちに、その幻想的な空間へ足をふみいれていた。ひとつひとつ、古本たちの背表紙を視線でなぞる。
「なにかおさがしですか?」
ふりかえると、さきほどの青年が立っていた。澄んだ瞳は、どことなく非現実的な輝きをたたえて、わたしをじっと見つめる。緋色のくちびるに、ランタンからオレンジ色の灯りがさす。
「あの……卒業論文のテーマにいい本はないかな、と……」
「ジャンルは?」
わたしは推理小説だと答えた。
青年は無表情に、
「コナン・ドイルなどですか? どのような観点から?」
わたしは、卒論のテーマを説明した。
ま、伝わらないだろうな、と思っていると、意外な答えが返ってきた。
「そのテーマならば、推理小説はよろしくないように思います」
助教の先生とおなじアドバイスだ。わたしはびっくりしてしまった。
「どうしてですか? 文学部じゃないので、推理小説でもべつに……」
「機械学習をさせるためには、サンプル数が必要でしょう。推理小説を何百冊と書いている作家は稀です」
あ、そういうことか……しまった、助教の先生が言っていた【問題】は、それにちがいない。わたしは初歩の初歩でつまずいていたことに気づき、恥ずかしくなった。同時に、助教の先生とおなじ観察力を持つこの青年に興味が出た。
「ここ、以前は本屋じゃなかったと思うんですけど、いつから……」
青年はわたしの言葉を、カミソリのような語気でさえぎった。
「本以外の話題はご遠慮ください。わたしは現実に興味がないのです」
えッ……接客業にあるまじき対応だ。わたしは戸惑った。
「あの……店長はあなた……」
「現実に興味がおありなら、どうぞ大学へおもどりなさい。文学部の図書室に行けば、親切な司書が教えてくれます。本日はご来店、ありがとうございました。多謝」
わたしは逃げるように退店した。どこか不気味な印象をぬぐえない。このまま下宿先にもどると怖くなりそうで、いったん大学へもどった。食堂のカフェでひと息ついて、じぶんを落ち着かせる。なに、あのひと。美形だったけど、言動がありえない。
わたしは大きく深呼吸して──ふとさっきの会話を思い出す。
文学部の図書室に行けば、親切な司書が教えてくれます
……たしかに、これは否定できない。癪だけど、受け入れることにした。
わたしは文学部図書室の場所を調べる。三号館の七階だった。食堂を出て、真っ白な建物へとむかう。エレベータで七階へあがると、珈琲の香りがした。
「お邪魔します」
図書館の敷居をまたぐ。ずいぶんと広い。みっつの部屋が横に連結したつくりで、入り口はちょうど真ん中の部屋にある。左手が書庫、右手が読書室になっていた。わたしが今いる中央の部屋は、図書の貸出しやパソコンの検索をする、受付スペースだった。
「お邪魔します」
わたしはもう一度、声をかけてみた。珈琲メーカーのシューシューという音が、心地よく響いていた。だれもいないのだろうか。壁の時計を見る。まだ夕方の五時だ。閉室は夜の八時だったはず。たぶん。
出直そうとした矢先、奥の書庫からひとりの女性があらわれた。眼鏡をかけた若い女性で、サイド寄せヘアに三つ編みがかわいらしい。胸のプレートに小嶋と書かれていた。彼女は胸もとに本を抱きしめて、もうしわけなさそうな表情を浮かべた。
「すみません、本を整理していたもので……新入生のかたですか?」
わたしはじぶんの所属と、ここに来た目的を話した。
小嶋さんはすこしおどろいたようで、
「情報学科のかたですか……ここは文学部図書室ですよ? ご自身の判断でいらっしゃたのですか? それとも、どなたかのご推薦で?」
と、わざわざ確認を入れてきた。
わたしは、ほんとうのことを言ったものかどうか悩んだ。
でも、嘘をつくとあとでめんどうになると思い、
「ここから市街地へむかう途中の本屋の店主にすすめられました」
と答えた。
小嶋さんは、さも意外だという顔をした。
「え、书店仙人にお会いなさったんですか?」
「シュー……なんですか?」
「あ、すみません、今のは中国語です……市道沿いにある本屋の若いご主人ですよね? あのかた、中国からいらしたらしいんですけど、本名をだれも知らないんです。それで、東洋史の先生が书店仙人ってあだ名をつけて、みんなそう呼ぶようになっています」
「どういう意味ですか?」
「书店は『本屋』、仙人は『仙人』のことです。つまり、本屋に住む仙人という意味です」
わたしは、皮肉でつけられたあだ名ではないかと思った。ようするに、世俗離れたした変わり者。現代で「あなた仙人みたいですね」なんて言うと、かえって嫌味だろう。
「それにしても、なぜ情報学科の遠坂さんが仙人とお知り合いに? あのかた、他人と話をするのをだいぶ忌避されているようですが?」
わたしは出会い経緯を説明した。
すると小嶋さんは、半分うらやましそうにタメ息をついた。
「学生さんはいいですね。そういう口実ができて」
いや、まじめに本を探しているのだけれど。もちろん、お店自体は悪くなかった。店主のことは度外視しても、雰囲気がよかったし、都会の喧騒から逃れたいひとの憩いの場にはぴったりだ。この小嶋という女性も、文学部図書室の司書をしているだけあって、ああいう店が好きなのかもしれない。それとも案外、店主目当てだったりして。
「ところで、仙人のアドバイスでこちらへいらした、というのは?」
これもあんまり訊かれたくない点だった。
わたしは半分つくり話をする。
「機械学習をさせるほど多筆な推理作家はすくないだろう、と言われました。もしいるとしても全集を買わないといけなくなるので、ちょっとお財布的にきびしいな、と……そしたら、えーと、そのなんとか仙人さんから『文学部の図書室を利用してみては』と言われたんです」
小嶋さんは、あんまり理解が追いつかないような顔をしていた。
わたしは、巷で言われているAIのことだと告げた。
「ふむふむ、そういえば、形態素解析をしている子が、なにか言っていましたね」
「わたし以外に、情報科の子が来てるんですか?」
「いえ、形態素解析くらいなら、文学部の子でも多少はします。とくに言語学科の子は統計にすごくくわしいです。いずれにせよ、仙人のアドバイスは正しいですね。国文学でもコーパスを使うので、遠坂さんの力になれる子がいるかもしれません」
朗報。あとで言語学科にもあいさつしておこう。
「遠坂さんは、その機械学習とやらで、なにをなさるんですか?」
「作家の文体の特徴量を抽出して、新作を書かせたいんです」
小嶋さんは、複雑そうな表情を浮かべた。それまでの親しげなオーラが一変する。なにか虎の尾を踏んでしまったのだろうか。案の定、その予感はあたった。
「それは……ちょっとよろしくないんじゃないでしょうか」
「どうしてですか?」
「著作権などで問題があります。たとえば、既存の小説の登場人物をAIが借用したら、それは著作権法違反ですよね。著作権の問題を仮にクリアできたとしても、『これは誰々先生をマネした作品です』なんて、作家のひとにはいい気がしないと思います。へたをすると訴えられる可能性が」
「……そうですね」
落ち込んでしまう。法令遵守は研究の基本、という研究倫理の授業を思い出した。
小嶋さんは、すこしいい過ぎたと思ったのか、あわてて笑顔をつくった。
「あ、でも、むかーしの作家なら、そういう問題は起きないかもしれません。たとえば、江戸時代よりまえの……」
そこで小嶋さんは言葉を切った。
わたしは続きをうながす。
「江戸時代よりまえの、なんですか?」
「……そういえば、文学部の卒論のなかに、似たようなことをしているひとがいたような気がします。ようするに、作家のマネをしたいわけですよね? しかもミステリの?」
ちょっとちがうんだけどなぁ。機械学習を噛ませないと意味がない。同人小説とは発想が異なるのだ。同人小説でいいなら、わたしがじぶんで書いて単位をもらって終わり。それは情報学じゃないし、そもそも同人誌をつくって単位をもらえる学科はないだろう。
けれど、細かいつっこみを入れるのは野暮だと思った。小嶋さんは、わたしのためにいろいろと考えてくれているわけだ。司書さんとしてのやさしさを感じる。
「その卒論、閲覧させていただけませんか? なにかヒントになるかも」
「どうぞどうぞ、すぐさがします」
小嶋さんは、鍵束のひとつで、卒論の棚を開けてくれた。
「たしか、国文学科の卒論で、タイトルに『ミステリ』が入っていたと思います。手分けしてさがしましょう」
国文学科の卒論は、真っ黒な厚紙の表紙と裏表紙に、プリンタで印刷した論文を紐で綴じただけの、簡素な作りだった。卒論の墓場をみているみたいで、気が滅入った。
なるべく新しいものから、順番に調べていった。夏目漱石、芥川龍之介、森鴎外あたりの、有名な戦前の作家。戦後だと、三島由紀夫、安部公房、大江健三郎。両方をまたいでいるのは、太宰治だ。さすがにわたしでも知っているメジャーどころが多い。
二〇〇〇年以降の論文は見終わって、それ以前のものに取りかかる。一九九九、一九九八、一九九七と、数字が減っていく。
「ん?」
手をとめる。見まちがいだろうか。それっぽいタイトルが目に入った気がする。
二、三枚めくりなおすと、それは確かにあった。
雨月物語にひそむ志怪ミステリ
「志怪ミステリ……なにこれ?」
聞いたことのないジャンルだった。新本格でも倒叙でもない。表紙をめくってみると、言いようのない違和感をおぼえた。あまりにも薄い。三頁しかない。タイトルと目次、それに概要。不審に思いつつ、概要の第一段落に目を通した。
【概要】
鍵のかかった部屋から、ひとの話し声が聞こえる。とびらを開けると、そこにはだれもいない。たった一首、和歌が落ちている。そんな事件に出くわしたとき、あなたならどう考えるだろうか。幽霊? 物の怪? 普通のミステリならば許されないトリックが飛び出す。そういう推理小説を、志怪ミステリと名づけよう。この志怪ミステリを、今から二百年以上前に書いた人物がいる。上田秋成(一七三四〜一八〇九)だ。彼の有名な読本『雨月物語』(一七七六)を巡っては、これまで様々なプロット上の破綻が指摘されてきた。しかし、それが破綻ではないとしたら? 作者によって隠されたトリックであるとしたら? 本稿は、『雨月物語』が推理小説であること、そして、今回論じる四つの短編について、秘められた真相があることを明らかにする。
表紙を確認する。一九九三年五月十一日。
そのうえに、事務室の受理印が重なっていた。二十年以上も昔の日付だ。
「小嶋さん、これですか?」
わたしは小嶋さんに表紙をみせた。
「あ、これです、たぶん」
「本文がないみたいなんですけど」
「本文がない? ……破損ですか?」
小嶋さんは卒論を受けとって、中身を見た。そして、目を白黒させた。
「ほんとですね……タイトルと目次と概要しかない……」
「それで卒業できるんですか?」
まさか。そう言いたげに、小嶋さんは首をふった。
「さすがに指導教員が許しませんよ」
「じゃあ、どこかにあるってことですか?」
「優秀作に選ばれて、別置されているのかもしれません」
小嶋さんは、事務机のうしろの棚をあさり始めた。
すると、入り口から間延びした声が聞こえた。
「小嶋さん、読書室の鍵ぃ……あッ」
時間がとまる――捨て台詞の男子学生だった。
肩にかけていたかばんが、男子学生の肩からずり落ちる。
「な、なんでここにいるんだ?」
「それはこっちの台詞。あなたこそ、なんでここにいるの? まさかストーカー?」
「ちがう、俺は文学部だ」
男子学生がそう答えると、小島さんもうなずいて、
「朝茅くんは国文学科の三年生です。いつも読書室で小説を書いてるんですよ」
と言った。アサガヤくんは後ろから撃たれたかっこうで、真っ赤になる。
「な、ちょ、小嶋さん、それは秘密……」
「へぇ、小説を書いてるんだ。それであんな難癖をつけにきたんだね」
「朝茅くん、遠坂さんになにかちょっかいかけたんですか?」
「なにもしてないですッ!」
ウソをつくな。わたしは質疑応答の件を暴露しようとする。
アサガヤくんはあわてて口止めしようとした。
「ちがう、アレはわけがあるんだ」
「またウソばっかり。文学に理系が手を出したから、いちゃもんつけに来たんでしょ」
「いや、そういうわけじゃ……」
隠れてないで、こっちに来なよ。俺たちと遊ぼうぜ
……? わたしたちは周囲をみまわした。
どこから聞こえてきたのか、一瞬わからなかったからだ。
そうそう、悪いようにはしないからさ
……読書室っぽい? 確信は持てなかったけど、読書室の方向だった。声がくぐもっているから、ドア越しに聞こえているのかもしれない。
小嶋さんもそう考えたらしく、
「無断でだれか使ってますか?」
とあせった。ドアノブをまわす。鍵がかかっていた。
小嶋さんは、鍵束から読書室の鍵をさがそうとする。
ところが、男子の声はどんどん大きくなった。その声はもう、わたしたちには向けられていない。おたがいに言い争っていた。
いい加減にしろよ! 俺の女に手を出しやがって!
なにが俺の女だ。勝手にそう思ってただけだろ
ぶっ殺すぞ!
小嶋さんは、いそいで鍵を開けようとした。
でも、アサガヤくんがこれを押しとどめた。
「俺がみてますから、警備員さんを呼んでください」
「は、はいッ!」
小嶋さんは研究室を飛び出した。
アサガヤくんは部屋のかたすみにあったホウキを持って、ドアのまえで待機。
いや、それじゃあムリだと思うんだけど。わたしは遠くから固唾を飲んでみまもる。
……………………
……………………
…………………
………………声が聞こえなくなった?
演技だったのだろうか。わたしの楽観とはうらはらに、アサガヤくんは、
「まさか……殺っちまったんじゃないだろうな?」
と、恐ろしいことを口走った。
「そ、そんなはずないでしょ」
「いや、わかんないぞ。ぶっ殺すって言ってたし……」
廊下から、二人分の足音が聞こえる。
「お待たせしましたッ!」
小嶋さんは、制服を着た警備員さんに鍵をわたした。警備員さんは警棒片手に解錠し、ゆっくりと読書室のドアをあける。わたしたちはその肩越しに、ようすをうかがった――だれもいない。警備員さんもふくめて、わたしたち四人はあっけにとられた。
「……だれもいないみたいですが?」
警備員のおじさんは、室内へ足をふみこんだ。
まさか物陰にかくれていきなり――というわけでもなかった。わたしたちも、あとに続いて入室。白い長机がふたつと、それを囲む十三の椅子。とても手狭な部屋だった。南向きの窓からは夕日が射して、ノスタルジックな雰囲気をかもしていた。
「だれもいませんね」
警備員さんはそう言いながら、一応内部をチェックしてくれた。窓をしらべる。内側から鍵がかかっているだけでなく、半開きにしかならないように固定されていた。そもそもここは七階だ。飛び降りることなんてできない。テーブルの下にもかくれていない。
わたしはちょっと勘をはたらかせて、パソコンかスマホを使ったトリックではないかと疑った。けれど、室内にはICT機器がひとつもなかった。
「ほんとうにこの部屋からだったんですか?」
警備員さんは、疑うような目でわたしたちをみた。
小嶋さんは、もうしわけなさそうにあたふたして、
「え、あ、はい……この部屋から聞こえたような気がします」
と答えた。そして、テーブルのうえに目をとめた。一枚の色紙が乗っていた。
「これは……」
小嶋さんは首をかしげて、その色紙を手にとった。
わたしも横合いから目をとおす。新聞の切り抜きで文章が書かれている。大小とりどりの多角形が、真っ白な色紙のうえに踊っている。まるで犯行声明のようだ。わたしは思わず、それを読み上げてしまった。
「鳥の音も、秘密の山の、茂みかな……? 俳句ですか?」
わたしは、見たままの感想をもらした。
すると、アサガヤくんが、
「鳥の音じゃなくて鳥の音だろうな。でないと字余りになる」
と指摘してきた。むぅ、いかにも文学部って感じのコメント。
一方、小嶋さんは、ずっとけげんそうな顔をしていた。
「昨日最後に施錠したとき、こんな色紙はなかったような……」
小嶋さんは眉間に指をそえて、ギュッと目を閉じた。過去の風景を、念入りに思い出しているらしい。
「……近松先生の忘れ物でしょうか。最後にこの部屋を使ったのは、近松先生だったと思います。学生からのプレゼントかもしれませんね。わたしは書庫の整理をしていたので、相手の学生には気づきませんでしたが」
近松先生というのは、どうやら文学部の教授らしかった。わたしは面識がない。
ただ、学生がこんな変なプレゼントをするかな、と思った。
一方、警備員さんは色紙にまったく興味を持たなかったようで、
「しかし、なにもなくてなによりでしたな。それじゃ、これで」
と、さっさと退室してしまった。
わたしたちはその場に残り、狐に化かされたような気分になる。どこかしらうすら寒いものを感じた。その理由は、さっきの卒論の概要にあった。
鍵のかかった部屋から、ひとの話し声が聞こえる。とびらを開けると、そこにはだれもいない。たった一首、和歌が落ちている。そんな事件に出くわしたとき、あなたならどう考えるだろうか。
あなたならどう考えるだろうか──どこからか、女の声が聞こえた気がした。