第一五話 声闻
「どうした? もう待てないぞ。わたしは報告の準備を……」
「……封筒です」
「封筒?」
「封筒が物証なんですッ!」
わたしは、胸元にかかえていたバインダをひらき、例の封筒をとりだす。
行方先生は一瞬驚いてから、とがめるようなまなざしをむけてきた。
「なぜきみがそれを持っている?」
「今朝、受付に届いていました」
「そんなことを言って、きみが盗んだんじゃないのか?」
わたしは行方先生に、封筒をさしだした。
行方先生は眼鏡をなおして、念入りにそれをチェックした。
「……消印がある」
行方先生は開封した形跡をさがしたけど、そんなものはなかった。
先生が降参したところで、わたしは封筒を取り返した。
「で、それが物証だというのか? 指紋でも残っている、と?」
「はい……人間ではなくプリンタの指紋が残っているはずです」
行方先生は片目を細めた。
「プリンタの指紋?」
「そうです。電子透かしです」
レーザープリンタのなかには、情報漏洩を阻止する目的で、印刷物に目に見えないインクのパターンを残すものがある。そのインクのパターンを解析することで、プリントアウトした場所と日時が判明する。そして、白峯大学のキャンパスでは、理工学部からの研究情報の漏洩を防ぐために、このシステムが導入されていた。これは、情報セキュリティ論という講義で学んだ。あのクリアファイルのレジュメに書いてあったものだ。
行方先生は、わたしの説明を聞いてひるんだ。
「し、しかし、その申請書はシュヴァイク先生の……」
「そうでしょうか? この申請書は、行方先生のレターボックスへ、勝手に投函されていたんですよね? シュヴァイク先生がどのようなかたかは知りませんが、わざわざお礼状を日本語でお書きになられるひとです。行方先生に黙って依頼だけする、というのは考えにくくありませんか? それに、あのかたは達筆でした。そういうひとは、事務書類も自分で記入するんじゃないでしょうか? それなのにこの申請書は、すべてテキストエディタで穴埋めがされています。まるで筆跡鑑定を恐れているかのように」
つまり、この申請書は、犯人が学会のホームページからダウンロードして、でっち上げたものなのだ。わたしはそう推理した。
「しかも、ハンコの部分はカラーでプリントアウトされています。となると、学内のどこかのレーザープリンタを使った可能性が高いです。学内のレーザープリンタには、さきほど説明した電子透かしが入っているんです。ですから、これが物証です」
パチリと、扇子の音が鳴った。
「遠坂さん、まことにお見事です。現実の事件は、これにてすべて解決しました。ここからはわたしがお引き受けいたしましょう」
老師はゆっくりと前に出た。
行方先生はこの動きをみて、
「きみの出番? なにを言っているんだ。物証が出たならこれで終わりだ」
と言った。なぜか、急に話を終わらせたがっていた。
「……」
「なぜ黙る? ……まさか犯人の自首を待つつもりか?」
行方先生の問いかけにもかかわらず、老師はしばらくのあいだ沈黙を守り通した。
吐息すら聞こえるほどの静寂。
老師は悲しげなまなざしをみせた。
「名乗り出てはいただけませんか……では、不本意ながら……」
老師は扇子をスッと持ち上げ、ひとりの人物を指し示した。
「大神磯良の化身……否、白河景子さん、あなたの物語を、お聞かせください」
わたしたちの視線は、一斉に白河先輩へとそそがれた。
先輩は、あからさまに動揺して――にがわらいを浮かべた。
「わ、わたしが犯人? なにをおっしゃるかと思えば……」
「白河景子さん、あなたは大神磯良さんの親族ですね?」
「!」
わたしは突然の推理に、困惑せざるをえなかった。
でも、白河先輩の反応は、あきらかに老師の推理が正しいことを示していた。
非常に動揺している。
白河先輩がなにも反論しないから、代わりにわたしが尋ねた。
「老師、どうしてそう言えるんですか? まさか白河先輩の戸籍を?」
「いいえ、すべての手がかりは、遠坂さん、あなたの言葉のなかにありました。『雨月物語』に貼られたラベルの番号を覚えていますか?」
「たしか……白の三八、三九です」
「白はなんの意味だと解釈します?」
そういえば、その問題は解けていなかった。
ふつう、色は請求記号につけない。
わたしはそこまで考えて、白の意味に思い当たった。
「まさか……寄贈者の頭文字?」
「ご明察です。あれは色ではなく、寄贈者の名前をとったものです」
そ、そうか……そうだッ!
朝茅くんが持っていた俳句の本は、黒田というひとが寄贈していた。黒十二。
白、黒、緑みたいに色っぽくみえるのは、たまたまだったんだ。
「ってことは……紛失した『雨月物語』は大神磯良さんの遺族からの寄贈ですか?」
「左様です。あの二冊が紛失した理由も、今や明らかになりました。大神磯良さんは、あの『雨月物語』のなかに、卒論のヒントとなる書き込みを残しておいたのです。白河さんは、遠坂さんが卒論で『雨月物語』を扱うかもしれないことを知り、先回りしてあの『雨月物語』を回収したのです」
「でも、白河先輩には学生証を利用するチャンスが……」
そこまで言って、わたしはハッとなった。
チャンスは……あるッ!
わたしは、白河先輩とバス停で立ち話をしたときのことを思い出した。
先輩は、総合図書館で調べ物をしていたと言った。けど、そのまえに、土曜日は夕方からアルバイトがあると言っていた。しかも、大学の施設で。
「白河先輩、総合図書館で受付のアルバイトを……?」
「……」
白河先輩はわたしと視線を合わせるのを避けた。
受付のアルバイトなら、勝手に他人の学生証を読み取ることなど簡単だ。
「事件の真相は、こうです。第一幕は単純でした。あなたは近松先生のゼミのあと、読書室が閉められるまえに色紙をテーブルのうえに置き、さらに小嶋さんの目を盗んでボイスレコーダをセットしました。タイマー式で翌日に音声が流れる仕組みです。ところが、ここで誤算が起こりました。遠坂さんがこのトリックを解明してしまったのです」
わたしは、いったいなんのためのイタズラだったのかと尋ねた。
老師は、
「それはもうすぐわかることです」
とだけ答えて、先を続けた。
「第二幕へ移りましょう。遠坂さんはトリックを朝茅くんにも伝えたため、この件は国文科全体に広まってしまいました。あなたは焦ります。このままでは、最後に読書室を使った近松ゼミがあやしいことになってしまうからです。そこであなたは、ふたつの方針を立てました。ひとつ、遠坂さんを事件から排除すること、ふたつ、ダミーの容疑者をつれて来て、遠坂さんたちの注意をそちらに向けさせること……あなたは一時的に、他人の学生証を悪用することで、ごまかすことができました。けれども、やはり一時しのぎに過ぎません。恒久的に罪を背負ってくれるスケープゴートが必要でした。そこで、あなたは近松先生に目をつけました。癌という情報を好機だと捉えたのです」
「あの事件のときは、わたしも疑われました。お忘れですか?」と白河先輩。
「あなたは疑われたとき、こうおっしゃったそうですね。『容疑者がわたしと遠坂さんだけだなんて』と……なぜこのように不自然な発言が出たのですか? じっさいには、こうおっしゃりたかったのではありませんか? 容疑者はもっとたくさんいるはずなのに……大学の休講情報は、履修生にメールで送られます。四年生で履修が少なかったあなたは、土曜日の講義が一斉休講になったことを知らず、図書室にはもっと大勢が出入りするだろうと、タカをくくっていたのです」
そういえば白河先輩は、あの日が休講だと知らないようすだった。
老師の推理に、白河先輩は震える声で答えた。
「憶測です」
老師はそれを無視して、先を続けた。
「第三幕のトリックも、犯人があなたであることを示しています。遠坂さんを呼び出すためには、学会の準備がどこでおこなわれているかを知っていなければなりません。行方先生が最初に指定した集合場所は、理工学部棟の七階ではなく、文学部の図書室でした。ところが犯行は、理工学部棟でおこなわれています。なぜでしょうか? 行方先生たちが移動したことを、犯人は知っていたからに他なりません」
「憶測です。いい加減にしていただけませんか」
「そして、最終幕、あなたはわざと簡単な鯉の絵のトリックで、近松先生の外部監視というミスディレクションを完成させました。さきほどの行方先生の推理は、すべてあなたが用意した筋書きにすぎません。鯉の絵のトリックが簡素であったのは、この場ですぐに気づいてもらい、近松先生が犯人なのではないか、という曖昧な決着をつけて欲しかったからです」
「憶測だと言ってるでしょう」
白河先輩の口調は、だんだんと強くなっていた。
でも、老師はいたって冷静だ。
「残念ながら、物証があります。遠坂さんがお持ちの封筒のなかに」
「……」
白河先輩の肩が落ちた。
犯人は判明した。意外なかたちで。残る疑問はただひとつ――自己投影の動機のみ。
だけど、わたしは白河先輩から動機を聞き出す勇気がなかった。
わたしは一歩前に出て、白河先輩に声をかける。
「先輩のプライバシーに関わることなので、これ以上は詮索しません。先輩が文学部図書室から持ち出した『雨月物語』を返却さえしていただければ……」
「あれはわたしのものよ! だれにも渡さないわ!」
白河先輩の豹変に、わたしたちは凍りついた。
お嬢様然とした表情は消え去って、夜叉のような面持ちになっていた。
それまで老師と対峙していた白河先輩は、わたしにむかってニヤリと笑った。
「遠坂さん、その顔はどうしたの? ……いえ、分かってる。わたしのこと、あきれた女だと思っているんでしょう。でも、あの本はわたしのもの。父から相続した母の形見」
「相続した……? 形見……?」
先輩はわたしの言葉を無視して、行方先生にむきなおった。
怨霊が仇敵を名指すかのように、スッと右腕をあげる。
「我が母、大神磯良の名のもとに、行方久、あなたを告発します」
行方先生は青ざめて、一歩引きさがった。
「バカな……大神磯良は、在学中に亡くなったはずだ……なぜ娘が……?」
「母は学生結婚でわたしを産んで亡くなったの。大神は父の姓。その父も事故で亡くなって、わたしは母方の祖父に引き取られた。祖父には感謝してるわ。幼い孫娘のわたしを、大切に育ててくれたから。でも、ひとつだけ赦せないことがあった。母の形見を大学に寄贈してしまったのよ。相続人だったわたしの許可なしに」
わたしは、白河先輩の出迎えがひとりの老人だったことを思い出した。
でもそれ以上に気になったのは、白河先輩が口にした【告発】の意味だった。
わたしはたずねる。
「行方先生が、先輩の形見となにか関係しているんですか?」
「この男は、母のメモをじぶんの業績として発表しようとしているの」
わたしは、行方先生の講演タイトルを思い出した。
「そ、そっか……スケジュールにあった『国学における和歌の再評価』って……」
「さすがね、遠坂さん。行方の報告は、母が『仏法僧』で明らかにした豊臣秀次冤罪説の盗作なのよ。わたしは受付にいたとき、ちゃんとこの目で確認したわ」
行方先生は声をふるわせて叫ぶ。
「デタラメもいい加減にしろ! 証拠はあるのか!」
「母の『雨月物語』に、あなたのレジュメと一致する箇所があれば終わりよ!」
行方先生は口ごもって、視線を宙にさまよわせた。
白河先輩は、小動物を虐げるような笑みで、先を続ける。
「わたしは母の名誉のため、今回の計画を立てたの。そこにいる論文泥棒を、世の中に告発するためにね。もちろん、最初は警告で済ませてやろうと思った。だけど、わたしの警告は無視された。祖父はよく言っていたわ。わたしの母は、白河磯良は、ほんとうに文学が好きで、将来は小説家か学者を目指していたって。そんな母の思いを踏みにじった行方を、わたしは赦さない」
白河先輩は舞うように振り返って、わたしと老師をにらみつけた。
「これは学問のための正当防衛よ! 犯罪なんかじゃないわ!」
老師はうっすらと目を細めた。まるで憐れむかのように。
そして、ひとつの和歌を詠みあげた。
「よしや君、昔の玉の床とても、かからんのちは、何にかはせん」
白河先輩の表情が変わった。
和歌に、なにか心当たりがあるかのようだ。
「ふざけないで……わたしを説得するつもり?」
「白河さん、そのようなふるまいをなさっては、これまでのあなたの大学生活……否、あなたの人生そのものも、色あせてしまいかねません。神妙に願います」
「なにが神妙よ! わたしの行動に不純な点はないわ! 黙ってちょうだい!」
「いいえ、あなたの言葉には、偽りがあります」
「どこに? わたしと母を侮辱する気?」
「白河さんは、学問のためとおっしゃる……しかし、本音は私怨にほかならず」
「私怨じゃない。わたしの話を聞いていたの?」
「では、なぜ大学に、行方先生の盗作を告発しなかったのですか?」
「学生がそんなことを言って、信じてもらえると思う?」
「近世文学の専門家である、近松先生がいらっしゃいました」
「退院するのを待てなかった。退院しない可能性もあったのに」
「それは嘘です。あなたはこの事件の幕を開ける前日、近松先生に会ったのでしょう。あのときに相談することはできたはずです。あなたは最初から、単独で行方先生に復讐するつもりでした。そのときはまだあなたも、学問のため、母の遺志のために行動していたのかもしれません。第一の事件では、部外者に嫌疑が掛からないよう、密室トリックを用いたのですから。しかし……」
先生は、そっと扇子を浮かせた。
「第二の事件は違います。あのときからあなたは、他人に嫌疑が掛かるように動き始めました。保身に走ったとも言えましょう。学問のためと言うならば、なぜ遠坂さんたちに被害が及ぶトリックを使ったのですか? あげくの果て、入院中の近松先生をダミーに仕立てるという、忘恩行為に出ています。なぜですか?」
「それは……」
「それはあなたが文学から抜け出し、現実へ戻ってしまったからです。あなたはお母様がお造りになられた物語に浸りきれなかった。それがあなたの最大の不幸なのです」
白河先輩は小刻みに震えながら、くちびるを動かそうとした。
そして、あきらめに似た、深いため息をもらした。
「どちらでもかまわない……行方が破滅すれば、わたしは満足だから……たとえ……」
「やれやれ、茶番は困るよ、きみたち」
行方先生の声に、わたしたちは顔をあげた。
白河先輩は軽蔑のまなざしを送った。
「茶番? ……この期に及んで、しらを切る気? さっさと報告に行きなさいよ。わたしは母の『雨月物語』を使って、あなたの盗作を後日バラしてあげるわ」
行方先生は挑発を無視して、出口へとむかった。ドアノブに手をかける。
「小嶋くん、わたしは体調不良で、次の報告は欠席させてもらうよ。学生の戯れ言で侮辱されては、精神的にもたないからね。補欠報告者として、院生の田中さんに原稿を用意してもらっているから、彼女に頼みたまえ」
体調不良? 補欠報告者? どういうこと? これじゃまるで、この結末を予期していたかのような――混乱するわたしをよそに、白河先輩は行方先生をあざけった。
「あなた……盗作がバレる可能性を考えて、最初から逃げ道を用意してたの?」
「白河くん、きみも大学を無事卒業したいなら、すこしは言葉に気をつけたまえ。わたしが大神磯良の論文を盗んだ? 証拠はあるのか? きみはレジュメがどうのこうのと言っていたが、レジュメは公式出版物じゃない。それくらいのことは、きみも知っているはずだ。証拠? はん! もう一度よく考えたまえ! わたしは……」
「公式出版物の証拠があれば、よいのかね?」
威厳に満ちた問い――わたしたちは、入り口をふりかえる。
ドアのむこうがわに、ひとりの老人が立っていた。ウェーブのかかった白髪に、鋭い目つき。ステッキを突いたスーツ姿の小柄な老人は、会議室に足を踏み入れた。
行方先生はその場に立ち尽くし、ほほをひくつかせた。
「ち、近松先生……ッ!」
このひとが近松先生?
癌なのに病院から抜け出してきたの?
近松先生は行方先生のまえに立ち、ステッキで床をこつんと叩いた。
「行方くん、ひさしぶりだね」
「ち、近松先生……ご病気だったのでは……?」
「ああ、腰を痛めてな。いくら頭脳労働とはいえ、年はとりたくないものだ。事務員がしつこく尋ねるから、少し脅かしてやろうと思って、癌だと言ってしまったが……老人のたわむれだよ。本気にする輩もおるまいて、ハハハ」
目が笑っていなかった。故意のデマだと、暗にそう言っている。
「そ、そうでしたか……わたしは体調が悪いので、お先に……」
「『雨月物語』の盗作がバレたのかね? 以前、一度注意したはずだが?」
「……なんのことでしょうか」
「いや、いいんだ。きみが『雨月物語』を盗作したかどうかは、もはやどうでもよくなった。きみが助教申請のときに提出した論文、あれに、ほかの著作からの盗用が見つかってね。審査時に気づかなんだとは、わしも不覚だった。今、人事委員会と審議しているところだ。来月には、きみの進退も……いや、この表現はおかしいか。きみの処分も決まるから、おとなしく待ちたまえ」
行方先生は、こめかみを震わせながら、独り言のようにつぶやく。
「そうか……近松先生、あなたは、僕をハメるために癌だって噂を……」
「どうした? 体調不良なのだろう? ……退室したまえ。あとはわしがやる」
行方先生はスッと眼鏡をなおし、老師へと視線を走らせた。恨めしげというよりは、相手を軽んじるようなまなざしだった。そして、近松先生にむきなおる。行方先生の顔は、とくに悪びれたところもなく、むしろ挑戦的ですらあった。
「大学の校務で、わたしの代わりになる人物がいると、そうおっしゃるわけですか?」
「事務屋としてのきみの能力には驚かされるよ……だが、研究者としては失格だ」
「二十一世紀に入って、大学の、しかも国文科に、そもそも研究が必要とされているとお思いですか? 近世文学がご専門の近松先生なら、お分かりでしょう。先行研究がどうだの、引用がどうだの、そういうアカデミックな頑迷さと衒学は、もう評価されないんですよ。大衆を楽しませるのが、我々の仕事なんです」
たとえそれが嘘や誇張だとしても――行方先生は、そう付け加えた。
近松先生は屹然としたまま、持っていたステッキで絨毯を小突く。
「そういう考えがあってもいい……だが、白峯には必要ない。それだけのことだ」
「……後悔することになりますよ」
行方先生は、無理に堂々とした態度で、会議室を去った。
とびらが閉まり、近松先生は白河先輩とむきあう。
「ゼミの入室試験できみと面接をしたとき、どこか懐かしい気持ちに襲われた……大神磯良くんは、とても優秀な生徒だった。きみのように聡明で、文学に対する愛に満ちあふれていた……すこし前のめりなところも、きみにそっくりだったよ……」
近松先生は、どこか遠い昔を思い出すように、目を細めた。白河先輩と大神さんを重ね合わせて、在りし日の思い出にひたっているのだろうか。孫を愛でるかのようでもあり、若くして亡くなった学生を惜しむかのようでもあった。
静寂を破るように、となりの会場から拍手が聞こえた。
「まえの報告が終わったようじゃな……仙人」
「はい」
「わしの招待に応じて、わざわざ来日していただき、感謝する」
近松先生は丁寧に頭をさげた。
老師は扇子を閉じ、
「どうやら、物語は終わったようですね」
とだけ答えた。
近松先生は、小嶋さんに向きなおる。
「退職間近の老人の気まぐれに、三〇分ほど講演時間をもらえんかね」
近松先生はそう言って、一枚のプリントを小嶋さんと老師にそれぞれ手渡した。
小嶋さんは手早く目を通し、顔をあげた。
「この内容で、ほんとうによろしいのですか?」
「わしがセカンドオーサーだ。問題はなかろう」
小嶋さんは軽くうなずいて、理事の先生と話をつけるため、会議室を出た。
追加のレジュメの印刷があるとかで、朝茅くんも連れ出された。
「わしも、ひと足さきにいくよ」
白河先輩のそばを通り過ぎて、近松先生は、そのまま会場へとむかった。
会議室には、先輩と老師、そしてわたしだけが残された。
老師はさきほどまでの鬼気迫る雰囲気を失い、本屋の仙人にもどっていた。
老師は静かに語りかける。
「白河さん、次の近松先生のご講演を、聴かれてはいかがですか」
「わたしがやりたいことは、もう終わりました」
彼女の表情からは、険しさが消えていた。おだやかで、どこか淋しげにみえる。
老師は、近松先生からもらったプリントを白河先輩にみせた。
先輩はうっすらとまぶたをひらき、そして目を見張った。
「上田秋成における和歌の再生……?」
「大神磯良=近松博文の連名になっています」
わたしはそれが、あの「雨月物語にひそむ志怪ミステリ」のことだと理解した。
今日この場で、大神さんの遺志が果たされるのだ。実の娘のまえで。それは奇跡のようでもあり、どこか必然のようでもあった。文学に対する情熱が、空想の世界から現実の世界へと躍りだす。その瞬間を、わたしは目撃していた。
だけど、白河先輩は、そのプリントの受け渡しを拒み、老師へ丁寧に返した。
「わたしには、聴く資格がありません……ありがとうございました」




