第一四話 推理合戦
「みなさんは、これがミステリだと思いますか?」
老師はわたしたちに問いかけた。現実のトリックは、すでに判明している。
残された課題は、なぜ犯人が「夢応の鯉魚」を模倣したのか、それだけだ。
めいめい頭を悩ませつつ、先陣を切ったのは朝茅くんだった。
「鯉が絵から抜け出したっていう、ただのオカルト談義じゃないですか? 模倣犯は、さすがにこの話はミステリじゃないだろうと考えて、トリックがお粗末になった可能性もありますよ」
わたしもそんな気がしてくる。ミステリ要素が見当たらない。
トリックが簡単だったのは、犯人も大神さんの意図を見抜けなかったからだろうか。
「あの……ちょっとよろしいでしょうか……?」
そう言って手を挙げたのは、小嶋さんだった。
わたしは、すばやく反応する。
「発言は、どうぞご自由に」
小嶋さんは、「あ、すみません」と謝ってから、こわごわと口をひらいた。
「この話、なんだか矛盾しているような気が……」
矛盾? ……どこかに矛盾があっただろうか?
わたしが問いただすと、小嶋さんはますます恐縮した。
「み、ミステリで犯人当てがヘタなわたしでも、さすがに本文の矛盾は気づきます……テキストの読解は、大学院でみっちりやらされましたので……魚は、お坊さんの魂が変化したものなんですよね? それを包丁で物理的に斬って膾にするというのは、ありえないように思うのですけれど……」
彼女の指摘に、わたしたちは感心した。小嶋さんの言うとおりだ。実在する魚に興義の魂が乗り移ったわけではない。興義の魂が、あやしげな衣で魚に変身したのだ。魚は興義の魂そのもののはずで、魂を包丁で斬るというのはつじつまが合わなかった。
白河先輩も、次のように付け加える。
「そう言われてみると、興義のコメントにも矛盾があります。彼が目を覚ましたのは、魚が斬られた瞬間。そのあとで何に料理されるかは、目撃していないはずです。それにもかかわらず、膾だったと断言しています」
これに、朝茅くんが続いた。
「オチも変ですよね。膾を捨てる必要性ってなんかあったんですか?」
わたしは頭をフル回転させる。物語にいろいろなほころびが出てきた。
このほころびを整理して解決できれば、それがミステリの答えだ。
小嶋さんは調子が出てきたらしく、どんどん推理を披露する。
「やはり、魚とお坊さんが分離したのは気になりますね。こういうのはミステリだと、なんて言うんでしょうか? バラバラトリックですか?」
ミステリファンということを斟酌してか、小嶋さんはわたしに尋ねてきた。
「一人二役か二人一役……だと思います」
わたしは慎重に答えた。一人二役は、ひとりの人間が二人分の役を演じて、人数を水増しする手法、二人一役は、ふたりの人間が一人分の役を演じて、アリバイや犯行時刻などをごまかす手法で、どちらも古典的なトリックだった。前者だと変装、後者だと双子のトリックが有名だ。
「なるほど……二人一役、つまり、お坊さんと魚が共犯だということですか?」
「いえ、共犯はまたべつです。共犯というのは、犯人の人数をごまかすのではなく、ひとりでは不可能なトリックを複数人で実行することなので」
わたしは、お坊さんと魚が共犯だという情報は物語中にないことを指摘した。
さらに、朝茅くんが突っこみを入れた。
「魚ですよ、魚。魚が人間とつるんでイタズラなんかするわけないです」
普段はおとなしい小嶋さんも、今回は引っこまなかった。反論を用意していた。
「おかしな衣をくれたのは、海の神様じゃありませんでしたか? 神様が共犯なのかもしれませんよ? 幽体離脱の原因も、じつは神様だとは考えられないでしょうか?」
「神様が共犯なら、助けてくれなかったのは変ですよ。共犯じゃないです」
朝茅くんはそう言いきって、べつの推理を述べた。
「俺は、食事をしていた武士たちがあやしいと思います」
「それはないですよ」と、小嶋さん。
だけど、朝茅くんも頑強に自説をとなえる。
「まあ、聞いてください。やっぱりエンディングで武士が……名前は忘れたんで、武士にしときますよ。とにかく、魚の残りを捨てたじゃないですか。これはなにか、うしろめたいことがあった証拠です」
「うしろめたいこと? 例えば、なんですか?」
小嶋さんの質問に、朝茅くんは若干詰まった。賄賂や辻斬りなど、いかにも時代小説にありそうな設定を持ち出してくる。賄賂や辻斬りがあったかどうかなんて物語からはわからないだろうと、小嶋さんはそう反論した。ああでもないこうでもないと、ふたりのあいだで論争が始まった。
その論争を横目に見ながら、わたしは老師の動きを追っていた。老師は、朝茅くんと小嶋さんの推理合戦を、真摯に聞いているようではあった。でもその涼しげな瞳は、部屋の窓を通じて、遠方にかすむ山嶺を眺めていた。あるいは、遥か向こうに広がる雲海だろうか。いずれにせよ、この現場から心が離れているようにみえた。
結局、朝茅くんと小嶋さんは、おたがいに意見がまとまらないまま終戦した。
それとバトンタッチするかのように、白河先輩が言葉をついだ。
「興義の証言の矛盾が、どうにも気になります。目撃している範囲が、証言よりもずっと広いからです。普通に考えれば、だれかが嘘をついていることになると思います」
わたしは、おやっとなった。証人の嘘――偽証――概要のキーワードだ。
思いつくがままに、わたしは会話へ割りこんだ。
「今の白河先輩の推理、いい線だと思います。例えば、証言がすべて嘘だとは考えられませんか? 興義が死んだというのも嘘で、じつは次官たちの行動をこっそり監視していたとか。武士たちの悪事を突きとめたあとで、あたかも幽体離脱していたように装って、遠回しに忠告したんじゃないでしょうか?」
朝茅くんは、パチンと指をはじいた。
「冴えてるなあ、遠坂。それだ。俺の考えにもぴったりだし、探偵役はお坊さんだな。犯人は武士たちで、なにか悪いことでもしてたんだろう」
おたがいに誉め合っているところへ、小嶋さんは異議をとなえた。
「幽体離脱したという話が嘘なんですか? それってミステリとしてはアンフェアだと思います。全編まるまる作り話ということになるので。お坊さんの肉体がお寺に安置されていたのは事実ですし、それにもかかわらず武士たちの行動を言い当てたのも事実なはずです。幽体離脱が嘘なら、そんな芸当はできなかったんじゃないでしょうか。そういうことを示唆する文章が、物語のどこにもなかったように思います」
わたしは弁明する。
「明記されている必要はないです。ヒントさえあれば……」
「ヒントがありましたか? 遠坂さんは、どの箇所を念頭においています? 大神さんが使った志怪ミステリの『志怪』という言葉は、超常現象のことなんですよね? お坊さんが嘘をついているだけでは、ただの法螺話になってしまいませんか?」
わたしは反論に窮した。肝心の証拠になる描写が、思い当たらない。
しかたがないから、わたしは卒論の概要を正確に告げた。
朝茅くんはこれを聞いて、
「大神磯良も偽証だって言ってるのか……厄介だな……」
と、そうつぶやいた。
その瞬間、老師はパチリと扇子を閉じた。
「遠坂さん」
「は、はい」
「空想と現実の役割分担に従い。ここはお任せを……時間がありません」
「時間がないというのは、どういうことですか?」と白河先輩。
老師は釈明せずに、淡々と自説を述べはじめた。
場は静まりかえり、だれもが耳を澄ませる。
「皆さんのご意見はいずれも、ひとつの実相を異なる角度から眺めたものです」
わたしたちのアイデアを、老師はひとづずつ復誦した。まず、終盤で魚と興義が分離したのはおかしいと断じる、小嶋さんの指摘。次に、興義は斬られたあとの出来事も覚えていたという、白河先輩の疑問。三番目は、次官たちを怪しんでいる、朝茅くんの着想。最後に挙げられたのは、わたしの解決策――興義の嘘だった。
「これらの伏線と次の二点から、物語の真相が……すくなくとも、大神磯良さんの予定していた真相が見えてきます。一、興義の絵を所望する人間が多かったこと、二、興義の死後、湖に絵を散らしたところ、魚が抜け出たということ……」
老師はわたしにむきなおると、ひとつの質問を発した。
「大神さんは概要で、どのようなトリックを示唆していましたか?」
「偽証です。具体的なことは書かれていませんでした」
「ここで、遠坂さんの提案を見直してみましょう。興義が嘘をついて、次官たちの行動を監視していた……これ自体は、筋が通っています。しかし、証拠となる描写が作中に存在しません。よって、大神さんの意図は、ここにあらず。臨終には大勢の立ち会いがあったのですから、興義は一時的にせよ、亡くなったと考えるのが自然です」
だとすると、魚になったのが嘘なのだろうか。あまり納得できなかった。
「魚にならないと、次官たちの行動を監視するのは、無理な気が……」
「遠坂さん、思い出してください。興義は幽体離脱した初期の状態で、既に風景を観察しています。魚に化けて監視したという前提をとらなくてもよいのですよ」
そうか。魚に化ける必要はないのだ。先入観に囚われていた。海神の使いに出会ったという部分も、よくよく考えてみるとおかしい。琵琶湖は海じゃない。あの時点で興義は、自分の変身譚が作り話であることを、暗示していたのだろう。
「素の魂の状態で、次官たちの食事風景を見ていたわけですね?」
老師はうなずいて、三段ばかり扇子をひらいた。それで口もとをかくす。
「遠坂さんに質問です。なぜ食事風景を見られると、困るのでしょうか?」
「……食べちゃいけない魚だった?」と私は答えて、琵琶湖の主を例にあげた。
「もう一箇所、食べてはいけなさそうな魚の描写がありますよ」
老師のまとめを思い出して、わたしはポンと手をたたいた。
「そっか! 興義の絵から抜け出した魚ですね!」
「ご明察。なぜ興義の絵から抜け出した魚を、次官たちは食べていたのか? 簡単な話です。興義の絵を所望した者たちのなかに彼らも混じっていて、慰問の最中にこっそりとひとつ持ち去ったからに他なりません。なぜ次官たちはあわてて、のこりの膾を捨てさせたのか、その理由も、今や明らかになりました」
「興義は幽体離脱をしているとき、次官たちの窃盗を知ってしまったんですね。でも、彼は殺生が嫌いなお坊さんでしたから、刑事事件には持ち込まないで、暗にさとす方法をとった。作り話をすることで、おまえたちの悪事は知っているんだぞ、と、おどしをかけたわけですか」
わたしのまとめに、老師は首肯してくれた。とてもすっきりした解決だ。アカデミックな解釈はさておき、卒論の概要と符号している。
だけど、大神さんの真意が分かったせいで、わたしの気持ちはかえって暗くなった。犯人は「夢応の鯉魚」のように、こっそりとわたしたちを観察しているのかもしれない。そして今回の件は、そのことを暗示しているのかもしれなかった。おまえたちがいくら捜査しても、わたしは別の場所にいる――模倣犯は、そう言いたいのだろうか?
わたしは老師に尋ねた。
「犯人はわたしたちに、なにかを伝えたかったということですか? 幽体離脱はオカルトだから論外としても、遠距離監視なんて、現代だと簡単に……もしかするとこの会場に、犯人はいないのかも……べつの場所からカメラかなにかでわたしたちを……」
老師はふたたび扇子を閉じて、わたしを制止した。
「遠坂さん、わたしは物語とその解釈を提示したまでです。現実は、また別のこと」
そうだ……現実の事件は、わたしの担当なのだ。老師は、空想の世界の事件を解決してくれた。こんどは、わたしの番だ。現実の世界の事件を解く。
だけど、今回ばかりは、犯人の意図をつかみかねた。
もういちどイチから考え直そう。
そう思った瞬間、会議室のとびらがひらいた。
ふりかえると、行方先生が立っていた。怒っているようにみえた。
「なにをしているんだ。休憩時間は、とっくに終わっているぞ」
時計を確認すると、午後の部がすでに始まっていた。
どう弁明していいのか分からず、わたしたちは一様に口をつぐんだ。
さらに、行方先生の怒りの矛先は、老師にもむけられた。
「きみ、学生をたぶらかすようなマネをしてもらっては困る」
老師はなにも答えなかった。
行方先生には、それが気にいらなかったらしい。
ますます不機嫌そうな表情をうかべた。
わたしはあわてて介入し、事件のあらましを伝えた。
それを聴き終えた行方先生は、わたしの予想とはまったく異なる反応をしめした。
なぜ今まで教えなかったと、多少は怒られると覚悟していたからだ。
ところが、行方先生はフッと勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「なるほど……今回は『夢応の鯉魚』の模倣犯か……やはりな……」
なにが、やはりなのか――行方先生は、突拍子もないことを口走った。
「遠坂くん、わたしも手のうちを明かそう。犯人は、すでに特定できている」
行方先生が犯人を? 予想外な展開に、わたしは動揺した。
どういうこと? 行方先生も捜査を進めていたの?
た、たしかに、先生は今回の事件のうち三ヶ所に立ち会ったことになる。文学部図書室での『雨月物語』紛失事件、理工学部棟の会議室でのハンコ偽造事件、そして、今この部屋で起きた絵画のイタズラ事件。
わたしはそこまで考えて、ふと思い当たるふしがあった。
「二番目の事件で入手した学籍番号……あれが犯人のものだったんですか?」
「いや、関係ない。あの学籍番号の学生は、学生証を紛失していたんだ。それを拾った犯人が、『雨月物語』の貸出しに利用しただけだ。犯人の特定にはつながらなかった」
「だったら、先生は犯人をどうやって特定したんですか? もしかして、理工学部棟の会議室で急に解散を命じたのは、犯人の目星がついたからとか?」
「そうだ。きみたちのまえで名指しするのが、はばかられただけだ」
嘘だ……わたしはそう叫びたくなった。
わたしたちよりも先に解決していた? どうやって?
しかも、だれが犯人なのか、わたしにはいまだに見当がついていなかった。
「教えてください。先生が疑っているのは、だれなんですか?」
行方先生は勝利の確信に満ちた目で、ひと呼吸おいた。
わたしは心が逸るのを押さえて、その名前が明かされるのを待った。
「近松先生だよ」
まったく予想していなかった名前に、わたしは困惑した。
「近松先生……? 国文科の教授ですよね?」
「第一の事件が起こるまえ、読書室を最後に使ったのは、だれだ? 近松先生だろう。小嶋くんも、そう言っていたはずだが?」
行方先生は、小嶋さんに確認をとった。彼女も、うなずき返した。
わたしも思い出す。あの和歌が書かれた色紙がみつかったとき、最後に読書室を使ったのは近松先生だと、小嶋さんは言っていた。
「次に、第二の事件。他人の学生証を使うなんて、学生にできると思うかね? もちろん無理だろう。図書館の受付係の目も、節穴じゃない。学生証を読み取るときに、名前くらいは確認する。だが、教員なら話はべつだ。受付係に適当な用事を頼んで、目を離したすきに学生証を自分で読み取ればいい。さらに、第三の事件。わたしのハンコが押された書類を一番入手しやすい人物は? 同じ学科の教員に決まっている。これも近松先生が犯人である証拠だ」
説得されかけていたわたしは、突然、違和感をおぼえた。口をはさむ。
「ちょっと待ってください。近松先生は、第三の事件が起きたときには入院中でした。どうやって犯行に及んだんですか?」
「こっそりと病院を抜けだせばいい」
「抜け出す? どうやって? 顔を見られますよ?」
「監禁されているわけじゃないんだ。校内では変装すればいいだろう」
行方先生の推理に対する評価が、わたしのなかでぐらついた。トリックについては完璧だと思った。悔しいけれど、認めざるをえない。学生には難しいことも、教員ならばいくらでもやりようがあると感じられた。でも、移動手段にムリがある。ましてや、教授が変装したところで、校内の学生や職員にはすぐバレる。
わたしがその点を指摘すると、行方先生は、なんでもないかのように答えた。
「遠坂くんは、大学ですれちがうひとの顔をいちいち確認するのかね?」
「それは論点ずらしです。例えば、ベイズ推計をしてみます。近松先生が変装していることに気づく可能性が、学生一人当たりわずか一パーセントしかないとしても、百人の横を通過して気づかれない確率は約三七%しかありません。危険すぎます」
「三回に一回しか気づかれないなら、上出来だろう」
わたしはそれ以上、追及しなかった。統計や確率を重視しないひとと議論しても、水かけ論になるような気がしたからだ。
行方先生は、わたしが降参したと勘ちがいしたのか、さきを続けた。
「決定的なのは、今回の鯉の絵だ。遠距離からの監視……つまり、自分が病院から監視していることを、我々に伝えているのだろう。目的は知らんがな」
たしかに、これは反論がむずかしかった。
遠隔監視というのは、わたしもさっき出したアイデアだったからだ。
このままではブーメランになってしまう。
わたしは降参しかけた。でも、なにかがおかしい。
「遠坂くん、ほかに反論はないのかね? なければ会場へもどりたまえ」
小嶋さんたちも、わたしが言い負かされたとみているらしかった。
やや憐れみのこもった視線を送られる。
だけど、ひとつだけ、べつのまなざしを感じる――仙人の視線を。
現実と空想の境界線、その空想のサイドから、仙人はわたしを見つめてくる。
助けを求めたい。だけど、それはできない。
「……あります」
わたしははっきりとした口調で、そう告げた。
「反論はあります」
行方先生は、わたしが降参したものとばかり思っていたのか、一瞬顔をしかめた。
だけど、わたしを論破さないと気が済まないのか、受けてたってきた。
「ほぉ……どういう反論だ?」
わたしは逡巡する。こんな反論が許されるのだろうか。
「先生の説明では、物語が終わらないんです」
「物語が終わらない? きみ、統計だ確率だのと言っていたわりに、急にオカルトめいてきたな。そこの仙人の影響か?」
そうかもしれない。でも、あの老師のセリフ、「犯人のなかの物語を終わらせる」というセリフが、わたしの中でどうしてもひっかかっていた。
「先生の説明は、犯人がなぜ今回の事件を起こしたのか、その説明になっていません」
「なんだ、動機を教えろ、ということか。最初からそう言えばいい。いいかね、犯人の動機など、じっさいにはわかりようがないんだ。そんなものは、小説における作者の真意というまやかしと一緒だ。作者に真意などない」
わたしは意外に思った。国文科の先生からそんな言葉が出てくるなんて。
「先生は、国語を否定するんですか?」
「逆だよ。国語の問題の出題者は、作者の真意など訊いていない。テキストを踏まえた上での社会通念上の解釈を尋ねているのだ。文章には書き手の真意が隠れている、などという主張は、現代の文学理論では極めて異端だ。仮にそういうものがあるとしても、癌で余命短い老人の真意など、わかりようがないだろう」
これには朝茅くんが、
「癌? 近松先生が?」
と喫驚した。
行方先生はメガネの位置をなおしながら、
「そうだ。これは原則非公表だがね、こういう状況では言わざるをえないな」
と答えた。
わたしは先をつづける。
「癌をわずらった老人が、『雨月物語』を模倣する意味はなんですか?」
「さっきも言っただろう。動機などわかりようがない」
「今回の事件で犯人は、亡くなった大神磯良さんに感情移入する、とても強い動機があるように思います。でなければ、こんな事件は起こしません」
「だったら、その動機とやらを、遠坂くんが示してみたまえ」
わからない。ほんとうに見当がつかなかった。
わたしはこれまでの事件のすべてを思い返す。
そう、ミステリのすべてを。薄紫のもやがかかったようなミステリ。
犯人はなぜ『雨月物語』にこだわるのか?
なぜこんな迂遠な方法で事件を起こすのか?
動機は? 動機がわからない。動機――
そのとき、わたしはふたたび老師のまなざしを感じた。
「……」
「……」
わたしたちはお見合いになる――そうだ。わたしはまちがっていた。
動機を考えるのは、わたしじゃない。それは物語の世界の話だ。
犯人は、じぶんの空想に苦しめられている。
だとすれば、わたしが考えるのは、なにかリアルな……そう物証だ。
物証があれば、そこから犯人を突き止めることができる。
わたしは、最後まで科学的であろうとした。
そしてその決心が、わたしにあるひらめきをもたらした。




