第一二話 遠坂茉白の決意
翌朝、わたしはいつもより早起きをして、鷺宮キャンパスへとむかった。キャンパスは駅前から徒歩で通える場所にある。オフィス街の一角に数棟のビルを所有していて、会場に指定されたのはその中でも一番大きな建物だった。郊外キャンパスと同様に、白を基調とした壁面になっている。郊外には理工学と人文学が集中しているのに対して、こちらは社会科学がメインで入っているキャンパスだ。
昨日から一転して、真夏日を思わせる青空。まだ六時だというのに、そとは少しずつ暖かくなり始めていた。澄んだ空、流れる雲。朝の風に吹かれながら、わたしは指定されたビルの玄関でスタンバイ。守衛さんが自動ドアのロックを解除したと同時に飛び込んで、受付にあいさつする。
「おはようございます」
「おはようございます……どなたですか?」
時間が早い上に土曜日だから、すこし警戒された。
わたしは用意してきた作戦を実行する。
「今日、このビルで国文学の全国大会が開催されると聞きました。合っていますか?」
警備員のおじさんはファイルをひらいて、今日の予約を確認した。
「……はい、ありますね」
「わたしはそのスタッフなので、会場を開けてもらいたいです」
「鍵は学生に預けられないんですよ」
いきなり計画にほころびが出た。
「警備員さんのほうで開けていただいて構いません」
「あなたひとりですか? 会場に学生だけというのは問題が……」
わたしは内心で地団駄を踏んだ。
これでは早く来た意味がなにもない。行方先生が来てからでは遅いのだ。
わたしはあれこれ理由をつけた。会場の準備が必要だとか、行方先生から先に始めていいと言われたとか。でも、あんまりウソを重ねるわけにもいかず、警備員さんを納得させることはできなかった。どうやらなにかの学内規約があって、施設の鍵を学生に預けることはご法度らしかった。
あきらめかねていると、うしろで声が聞こえた。
「わたしが預かりましょう」
ふりかえると、思いもかけない人物が立っていた――老師だ。
老師はいつものように、開襟シャツと黒いズボンといういでたちだった。手には扇子を持っている。夏場にはふさわしいけれど、どこか世俗離れした印象を受けた。
我輩堂以外の場所で見かけたから、わたしはびっくりしてしまった。
「お、おはようございます……」
「おはようございます、遠坂さん」
老師は一歩前に出て、警備員さんとなにやら交渉を始めた。
ふところから一通の便箋をとりだし、警備員さんにそれを提示した。
「……あ、近松先生の代理のかたですか、うかがっています」
代理? なんの?
老師が近松先生と知り合いであることは知っていた。
でも、今日の学会に呼ばれていただなんて、ひとことも聞いていなかった。
なんとなくどぎまぎするわたしのよこで、老師は鍵を受け取った。
老師は便箋をしまい、鍵の名称を確認する。大講堂というラベルが貼られていた。
「さて……さっそく会場を開けますか?」
わたしは数秒ほどボーッとして、それから、
「い、いえ、先に学会宛の郵便物を預かりますッ!」
と答えた。すこし声が大きかったから、警備員さんにも聞こえて、
「はいはい、届いていますよ」
と言って、奥から郵便物を出してくれた。
わたしはお礼を言って確認する。
「……あった」
小嶋さんの文字が書かれた封筒。ついにみつけた。
わたしは開封しようとして、思いとどまった。
まだだ。開封はあと。今開封すると、中身をすり替えた云々と、いちゃもんをつけられる可能性があった。これは大切な証拠だ。変にいじらないほうがいい。
わたしはじぶんのカバンを開けて、なかからバインダを取り出した。封筒がみえないようにうまく挟み込む。このバインダを持ち歩けば、犯人に横取りされる心配もない。
「老師、お待たせしました。会場の設営を……」
「きみたち、なにをしているんだ?」
わたしは息を呑む――玄関のところに、行方先生が立っていた。
先生はサッとわたしたちに歩み寄り、それから老師をにらんだ。
「きみ、ここでなにをしている?」
「近松先生にご招待いただきました」
行方先生は眉をひそめた。そして、招待状があることに二度おどろいた。
「近松先生も、こういうあやしい人物を学会に誘ってもらっては困るのだが」
わざと本人に聞こえるように、行方先生はそうつぶやいた。
わたしは、行方先生が老師を一方的に敵対視していることも察しがついた。理由はわからない。ただ、老師が行方先生の名前に見せた以前の反応からして、ふたりの衝突は今回が初めてではないように感じた。衝突という言い方がふさわしいかどうかは、さておき。というのも、行方先生の中傷を、老師はまったく気にしていないようにみえたからだ――と、こんなことを考えている場合ではなかった。封筒を隠すタイミングを完全に逸した。
行方先生は、わたしが持っている郵便物に目をとめた。
「郵便物か。わたしが預かろう」
「い、いえ、わたしが会場まで持ちます」
とりあげられるかもしれないという恐怖が芽生えた。
ところが、行方先生は「そうか」とだけ言って、
「きみ、鍵を渡したまえ」
と、老師に指図した。老師はすぐに鍵を引き渡した。
この先生、観察力が高くなくて助かった。それとも、茶色い封筒なんてどこにでもあるから、まさか例の書類だとは思わなかったのかもしれない。となると――先生が模倣犯である可能性は低い? わたしの予想では、この封筒を回収しに模倣犯も早く来るんじゃないかと考えていた。だから、ビルの玄関が開く時間まで調べて、自動ドアのまえで待機していたのだ。今回のメンバーで一番最初にあらわれたのは、行方先生――でも、行方先生は郵便物に関心をみせなかった。
模倣犯は書類について、もうどうでもいいと思っているのだろうか?
だとすれば、ボイスレコーダのときとおなじで、指紋の採取は期待できなかった。
「会場は二階の大講堂だ。階段であがろう」
大きめの階段をあがると、右手にシャンデリアのついた吹き抜けがみえた。左手のほうにとってのついた両開きのドアがある。行方先生は鍵をあけて、わたしたちを中に入れた。数百人は収容できるホールが、わたしの目のまえに現れる。奥へ向かってだんだんと下がっていくタイプの講堂で、一番前に講演台と黒板がみえた。採光についてはすこしばかり不便で、入り口の電気をつけるまでは、朝だというのに暗かった。
会場の設営は、比較的簡単だった。掲示物を貼ったり、マイクを設置してボリュームを確かめたり、照明の具合を調整したり。ものの三十分ほどで完了した。
「予定より大幅に早く終わったな」
行方先生は腕時計を確認し、わたしたちにここで待機するように指示した。いつの間にか老師まであれこれこき使われていて、お客さん扱いされていないのが気になる。
先生が出て行ったところで、わたしは、
「すみません、お手伝いいただいて……」
と代わりに謝っておいた。
老師はとくに表情も変えず、
「かまいません。招待されたからと言って、客人とは思っておりませんので」
と答えてくれた。
しばしの沈黙。行方先生は当分帰って来ないようだ。
わたしたちは入り口の近くに腰をおろした。テーブルは白い三人がけにで、あちこちにラクガキがしてある。清掃員さんたちも諦めている感じだった。
「……老師、ひとつ質問してもいいですか?」
わたしは意を決してたずねた。
「ここは我輩堂ではありませんが、やはり本以外の話は……」
「空想と現実の境界線は、わたしたちが思っているよりも、曖昧だと思います」
老師はその美しいくちびるの動きをとめた。
流し目で、わたしの横顔をみすえる。
「……今のはだれの受け売りですか?」
「小嶋さんという、文学部図書室の司書のかたです」
老師は「正直でけっこうです」と言って、
「では、その境界線の話をしてください」
と告げた。
わたしは、これまでのできごとを打ち明ける。
「あの大神さんの卒論をめぐって、こういう事件があったんです」
わたしは、読書室から聞こえた痴話喧嘩、図書室での本の消失、濡れた書類のそれぞれを、くわしく説明した。すべてが『雨月物語』と大神さんの卒論をマネした模倣犯であること、そしていずれも怪奇現象ではなく、科学的に説明がつくこと、さらに、
「犯人まで、あと一歩だと感じるんです」
と、わたし自身の探偵的な勘を告げた。
老師はひとつも茶化すことなく、話を聞いてくれた。
「なるほど……期せずして、わたしが空想の世界の事件を、遠坂さんが現実の世界の事件を担当していたわけですね」
「はい……模倣犯を捕まえるためには、空想と現実の両サイドから考えないといけないんです。トリックは現実に属していますが、動機は空想に属しているからです。犯人は明らかに、『雨月物語』にこだわる動機を持っています。それがなにか、わたしにはわかりません」
「では、動機以外の解明は終わっている、というわけですか?」
わたしは老師を見つめ返した。
うつむきかげんになる。
「いえ……まだです。でも、今日この会場で、犯人を突き止めたいと思います」
静かな大講堂に、わたしの決意がこだました。
老師は手にしていた扇子を、口元にあてた。
「……わかりました。お手伝いしましょう。遠坂さんが現実の世界をご担当ならば、トリックについてあれこれと詮議はいたしません。わたしは空想の世界……すなわち動機について、ささやかながら助言させていただきます……犯人は、大神磯良になりたがっているのではないでしょうか」
「大神磯良になりたがってる? ……死のうとしてるってことですか?」
「不是。順番にまいりましょう。本歌取りという言葉をご存知ですか?」
わたしは知っていると答えた。本歌取りとは、有名な和歌の一部を借用して、新しい作品をつくることだ。わたしがこの言葉を覚えたのは、ミステリを通じてだった。有名な推理小説の一部を借用して、新しい作品をつくること。これも本歌取りと言う。
老師はわたしの知識が十分にあることを確認して、先をつづけた。
「遠坂さんが話してくれた事件のひとつひとつは、『雨月物語』の本歌取りをしたものです。本歌取りという手法は、読者の教養を試すもの。犯人は、知的な能力で平均よりも優れているか、すくなくともそのように自己評価している人物になります」
「それはすこし考えました。ようするに、インテリのイタズラなんじゃないかってことですよね。でも、イタズラにしては度が過ぎてます。ですから、犯人が『雨月物語』の本歌取りをしている理由は、他にあるんじゃないでしょうか? そう……さっき老師がおっしゃってくれたことが、今になるとしっくりきます。犯人は、大神磯良を演じきりたいと、そういう執念を持っている気がするんです」
老師は扇子をひらく、頬をあおいだ。大講堂の正面を悲しげにみやる。
「となれば、犯人は大神磯良に自己を投影している、ということになります」
自己投影。さすがに聞き覚えがあった。映画や歴史の登場人物に、自分の境遇を重ね合わせてしまうことだ。高校の倫理の授業で習った。
ただ、その推理は飛躍しているように感じられた。
「二十二年前の学生ですよ? 自己投影って、そんなに簡単に起こるんですか?」
「いとも容易く」
老師は、マウスのカーソルにさえ自己投影は起こると言った。
「マウスカーソルに?」
「遠坂さんは情報学科でしたね。このようなご経験はありませんか。マウスカーソルが処理落ちなどでふいに遅くなると、マウスを持つ手に重い感触が生じる、という。マウスを身体の一部であるかのように錯覚し、擬似的な力覚がもたらされるのです」
Pseudo-Hapticsという、生理学的に証明された現象だと、老師はつけくわえた。
「でも、亡くなった学生に自己投影だなんて、そんな……」
「もちろん、今のは極端な例です。マウスポインタへの自己投影は、腕の動きがマウスを通じて、矢印に反映されるからです。動機づけがなければ、対象に自己投影することはかないません。今回の模倣犯も、なんらかの動機づけがあって、大神磯良に対する思慕の念を得たのだと思います」
「死んだ女学生に自分を重ね合わせる動機って、いったい……?」
「それこそが、事件全体をつらぬく謎です。これを解決することによって、一切が白日のもとにさらされるでしょう。なぜ犯人は『雨月物語』を模倣しているのか、卒業論文がないにもかかわらず、なぜ大神磯良の真意が分かるのか……すべては、自己投影の動機にかかっているものと思われます」
「老師は、その動機がお分かりですか?」
わたしは老師の答えを待った。
「……遠坂さん、卒論の概要を今、お持ちですか?」
「はい」
さきほどのバインダから、概要の写しをとりだした。
最後に第四章では、「夢応の鯉魚」を論じる。本作は、魚に化けた僧侶の琵琶湖観光という体裁をとっており、三島由紀夫も絶賛した風景美の極地をなす。一見するとミステリ性は皆無であるが、主人公である僧侶の証言に矛盾があることは、既に研究者にから指摘されているところである。すなわち、「文四が釣り上げ、平の助の館で『膾』にきざまれた『大魚』が、もし興義の変身した姿であったということなら、このように興義蘇生ののちなお、『残れる膾を湖に捨てさせけり』とは、論理的につじつまがあわないのではないか」(永吉・四六一頁)というわけである。本稿では、偽証という観点から、離魂譚として書かれた本作の真相を明らかにする。
これをバインダへ入れておいたのには、わけがある。わたしはこの学会会場こそが、この第四章の舞台になるという予感がしていたからだ。
その理由は、この卒論の構成にあった。
「老師もご存知だと思いますが、この第四章が最終章なんです」
「そのようですね。『最後に』と冒頭にありますので」
老師はわたしの意図を察して、うなずいてくれた。
「つまり、このようにお考えなのですね。模倣犯が大神磯良の自己投影であるならば、必ずこの第四章をもって幕にする。その幕切れにふさわしい舞台は、国文学の全国大会にほかならない、と」
「そうです……ただ、確信があるわけじゃありません。もしかすると、大学のどこかの教室で小さな事件が起きて、それっきりという可能性もあります……そのほうが、みんなしあわせなのかもしれません」
大事件をのぞんでいるわけではない。
だれも傷つかないほうがいい。
できれば、模倣犯が事件を起こすまえに、それを予防したかった。
情報学科の講義でも、口を酸っぱくして言われる。よいプログラマの条件は、発生した問題を解決することではなく、問題が発生しないように未然に防ぐことだ、と。知り合いの法学部の女の子も言っていた。弁護士もおなじで、クライアントの問題を解決することも大切な仕事だけれど、クライアントが問題に巻き込まれないようにすることが一番大事なことだ、と。
「……犯人の正体を突き止めることは、必要なんでしょうか?」
老師はすぐには答えなかった。
わたしたちのあいだに、微妙な境界線が立ち現れる。それは言葉で伝えられるようなものではなかった。住んでいる世界が異なるような、そんな感覚に陥る。老師は、喩えて言えば、大海に棲む不思議な生き物のような存在。意思疎通はできても、異なる生き方をしている。この事件が解決したら、老師はわたしたちの前からいなくなってしまうのではないか――どこからともなく、そんな予兆を感じた。
「物語は、いつか終わりをむかえます」
それが事件のことを指していると理解するまで、数秒のときを要した。
「物語はそうかもしれません……でも、模倣犯は現実の人間なんです」
「犯人のなかの物語を終わらせる……それが、わたしの申し上げたかったことです」
老師の言っていることが、わたしには理解できなかった。
物語を終わらせる? 犯人のなかの物語を?
老師はわたしの混乱を察して、解説をしてくれた。
「空想と現実の境界線は曖昧……良いお言葉です。コジマというかたに、謝意をお伝えください。犯人はまさに、その境界線上でもがき苦しんでいます。大神磯良という物語に囚われた犯人を救い出すには、その物語を終わらせる以外に、術がありません」
でも、どうやって? 出口はみあたらない。
犯人を現実の世界へ引き戻す方法が、どこかにあるのだろうか。
わからない。わからないがゆえに、もどかしい。
「その終わらせ方がわかりません……どうすればいいのか……」
警察に相談することも考えた。それが一番現実的な解決なのかもしれない。
あるいは、放置する。ひとが殺されたわけではないのだ。十数年後、わたしがおばさんになってふりかえってみれば、ここまで深刻に考えることはなかったと、笑って済ませられる可能性が、なきにしもあらずだった。そう、おとなたちは言う。こどもの頃に悩んでいたことは、おとなになってみれば、取るに足らないことばかりだった、と。
そうだろうか。そういうひとたちは、過去の自分を置き去りにして、思い出を捨ててしまっただけなのではないだろうか。わからない。
「……老師なら、どうしますか?」
老師はしばらくのあいだ、扇子の動きをとめた。
助言のまえぶれ。バインダを持つわたしの手に、自然と力がこもった。
「遠坂さんは、声闻という中国語をご存知ですか?」
老師語った。声闻とは、サンスクリット語でスラーヴァカ、日本語で「聞き手」を意味する哲学用語らしい。それが仏教と一緒に日本へ伝わって、陰陽道と融合し、十二世紀頃に声聞師という民間芸能者が誕生した。彼らは読経や占いのほかに、舞などの伝統芸能を編み出した。能を創始したことで有名な観阿弥と世阿弥も、この声聞師の系譜に属するようだ。
「日本の能は、人生に苦しむ者の声をただひたすらに聞き、それを通じてその者を救うという構図になっています」
老師の言いたいことを、わたしはようやく汲み取ることができた。
「つまり……犯人の話を、わたしが聞くってことですか?」
「その通りです」
「聞いてどうするんですか? 大切なのは、そのあとだと思います」
「そのあと、とは?」
老師の率直な質問に、わたしは詰まった。
「心のケアとか……」
本心からの答えではないと、自分にも感じられた。
老師は扇子を閉じて、わたしに語りかけてくる。
「犯人の処遇に、わたしは関心を持っていません。現実の世界へ踏み入るつもりは、毛頭ないのです。わたしができることはここまで。ただ……」
老師はいったん、言葉を切った。
「ただ?」
老師はささやかな、ほんとうにささやかな笑みを浮かべた。
初めて見る笑顔だった。
「犯人の心をひらくにふさわしいのは、わたしではなく、遠坂さん、あなたです」




