第九話 二通の手紙
翌日、温かな夏の雨をくぐって、わたしは文学部の図書室をおとずれた。
小嶋さんがマジメな顔をして、書きものをしているところだった。
筆ペンを走らせている。だれかへの手紙かな、と思う。
「お礼状ですか?」
小嶋さんはようやくわたしの存在に気づいたようだ。
ハッとなって顔をあげた。
「あ、こんにちは……なにかおっしゃりましたか?」
「お手紙をお書きなんですか?」
小嶋さんはすこし気まずそうに、
「近松先生へのお見舞い状です」
と答えた。
「お見舞い状? ……近松先生、病気なんですか?」
「ええ、まあ、そうですね」
なんか煮え切らない返事だった。じつはラブレターでも書いて……そんなわけないか。わざわざ図書室で書く必要がないし、【お見舞い状】というのはとっさに思いついた言いワケとも思えない。真実味があった。
となると……なにか病気の内容が深刻とか? わたしは気になった。
「ってことは、今は大学にいらっしゃらないんですか?」
「ええ、そうですね……講義は行方先生が代行してらっしゃいます」
なんだか長期療養っぽい流れ。
わたしはあまり立ち入って訊かないことにした。
これでわたしの来室目的は空振りだ。とくにすることもない。研究室へ行こうかな、と思っていると、小嶋さんは筆を走らせながら、
「そういえば、今日は白河さんがいらっしゃいますよ」
と教えてくれた。そうだ。学会の手伝いで来るとか来ないとか言っていた。
何時頃に来そうか尋ねると、一三時だと言われた。あと一〇分ほどある。
「ここで待っててもいいですか?」
「まったくかまいません」
わたしは鞄を置いて、スマホをいじった。
しばらくして飽きてきて、手持ち無沙汰になる。
わたしの視線は、カバンの底に押し込まれた、例の卒論の写しへむけられた。
さっきから気にしないようにしているけれど、どうしても気になってしまう。
数秒ほど躊躇して、わたしは写しをとりだした。こっそり中をみる。
第三章は、「菊花の約」を論じる。本作は中国の白話小説「死生交」のオマージュであるが、出雲で殺人事件が起こる結末部分の評判は芳しくない。「いかにも後日譚らしく無難に収束されているだけで、特に心をひかれるほどの箇所はな」く(重友・一五六頁)、「出雲へ行く左門の行動には、原話の友の霊の依頼というごとき説明がない」(中村・八六〜八七頁)とされ、蛇足あるいは描写不足という評価が、一般的に見受けられる。しかし、この後日譚を巧妙に計画された遠隔殺人であると解することによって、両方の非難をまぬがれうることを、本稿では明らかにする。
あいかわらず曖昧な概要だ。こういう書き方はあまりお勧めしないって、卒論指導のマニュアルに書いてあった。大神さんは、学者タイプじゃなくて小説家タイプなのかもしれない。小説の帯の解説に似ている。いくら執筆前に亡くなったとはいえ、指導教授に注意されなかったのだろうか。まあ、わたしもあまりひとのことは言えないけれど。
「……よし、できました」
小嶋さんは筆をおいた。
両手をすこしばかりマッサージして、便箋をもう一枚とりだす。
「二通も出すんですか?」
「先日帰国されたサバティカルの先生宛です。本来ならば近松先生がお出しになられるとよいのですが、わたしが代筆することに」
サバティカル……総合図書館の本を文学部図書室にまちがって返却したひとだ。
「へぇ、それじゃあ英語で?」
小嶋さんは苦笑いした。
「いえ、日本語をお読みになられるので、日本語です。そこのテーブルのレターボックスに、その先生から送られた手紙がありますよ。日本語で書かれていますから、ご覧ください」
わたしはレターボックスを確認した。
筆ペンで書かれた、とても綺麗な草書体の手紙だった。
ところどころ、読めない箇所すらある。
日系かしら。そう思ったわたしに、小嶋さんは、
「マリア・シュヴァイクという、ドイツ系アメリカ人です」
と告げた。
わたしはたじろいだ。ここまで日本語を操れる先生だとは、思わなかったからだ。
さすがに日本文学を研究しているだけのことがある。
とはいえ、ひとつだけ気になる箇所があった。便箋末尾の署名だ。
「静香って書いてありますよ?」
「それはジョークです。彼女の苗字のSchweigは、ドイツ語で『沈黙』を意味する動詞のschweigenに似ています。これを文字って、静香という署名を使われているのです。本学での申請書も、すべて静香でとおされています」
なるほど、世のなかには変わったひとがいるようだ。老師みたいに。
案外グローバル基準だと、老師みたいなひとって多いのかしら。
いや、まさか。さすがにあれは例外だと思いたい。
小嶋さんは、ふたたび筆を走らせ始めた。
また手持ち無沙汰になったので、卒論の概要をもういちど読もうとした。
「遠坂さん、ずいぶんと熱心に勉強してるのね」
心臓が止まりかけた。
ふりかえると、入り口のところに白河先輩が立っていた。
わたしはあわてて卒論の写しをクリアファイルに隠した。
白河先輩は、
「学会のお手伝いで、ここへ来るように言われました」
と言って、図書室に入ってきた。
わたしのとなりに腰をおろす。わたしはクリアファイルをカバンに入れるタイミングを失ってしまった。白河先輩は、
「なんのお勉強?」
と尋ねて、わたしのクリアファイルをみた。
マズい。そう思ったのもつかの間、
「プリンタの電子透かしについて?」
と、全然違うコメントをされた。
よくみると、クリアファイルには講義のレジュメも挟まっていた。
前期の情報セキュリティ論で配布された資料だった。
白河先輩は、それを読み上げただけなのだ。
助かった。わたしは話を合わせる。
「はい、前期の復習をしてて……」
「偉いッ! テストが終わったら頭から消去しちゃうひとが多いのに」
いや、実用的な知識はそういうわけでもないと思うんだけど。
とはいえ、卒論の概要をごまかせるなら、なんでもいい。
わたしは今度こそファイルをカバンにしまった。
ぽつぽつと会話に華を咲かせる。おしゃべりに飽きると、
「白河先輩って、近松ゼミでもやっぱりリーダー格ですか?」
と、すこし突っ込んだ質問もしてみた。
白河先輩は、ちょっと寂しげな表情をうかべて、
「近松先生のゼミは、すごく応募が少ないの。今の四年生はわたしひとり」
ああ、そういうパターンか。
情報学科でも、先生によって応募数はだいぶ変わる。もっとも、今は比較的就職先がある学科だから、厳しくても、大手企業に推薦をもらえるゼミは人気がある。文学部では、厳しいゼミをわざわざ選ぶインセンティブが低いのかもしれない。
「遠坂さんのゼミは、人気?」
「はい、大手で働いているOB・OGもたくさんいます」
「それに比べて、こっちは労多くして益少なし、ってところかな。日本の文学部は、基本的に過去をふり返る場所よね。どうしてもうしろ向きなところがあって、今の時代に合わないのかもしれない」
そうだろうか。けっこうむずかしい問題だと思う。たしかに今は機械学習ブームだ。けれど、ブームはそのうち去る。長期的にどの学問が残るかを判断するのはむずかしいと、わたしの研究室の指導教授は言っていた。現に今の機械学習の枠組みが出てくるまで、人工知能研究は冬の時代が続いていた。それに比べると、文学は一千年以上の歴史がある。
ところでと、先輩は話題を変えた。
「『雨月物語』を盗んだ学生は、どうなったか知ってる?」
わたしは、知らないと答えた。そういえば、あれも謎だった。行方先生が総合図書館の閲覧課に電話をかけたとき、学籍番号を聞き出していた。はっきりと覚えている。あの学籍番号は、講談社学術文庫版の『雨月物語』を借り出した学生にちがいない。だったら、その学生が犯人のはずなのだ。つまり、行方先生は犯人を突き止めたことになる。
でも、そういう噂は、大学のどこからも流れてこなかった。小嶋さんに一度聞いたことがあるけど、知らないみたいだった。小嶋さんがウソをついているとは思えない。さっきの近松先生の病気の件からして、明らかにウソをつくのが下手だからだ。
そんなことを考えていると、行方先生が現れた。
「ん? ……小嶋くんが用意したのは、このふたりか?」
行方先生は眼鏡の奥から、わたしたちをじろじろと観察した。
とくにわたしのほうは不審に思われているらしかった。
「まあ、いい、国文科でそろえるという決まりもない……会議室へ移動するぞ」
わたしはあわてて、
「わたしはちがいます。もうひとりは朝茅くんです」
と答えた。
行方先生は、朝茅くんはどこにいるのかとたずねた。
だれも知らない。行方先生は眼鏡をなおしながら、
「さっそく遅刻か。べつの学生に変えたほうがよさそうだな」
と言い、小脇にかかえていた書類を小嶋さんに手渡した。
「学会事務局宛の書類だ。不意うちでポストに入れられて、気づくのが遅くなった。明後日の朝には、鷺宮キャンパスへ返送されていないといけない。てきとうな封筒に入れて、発送しておいてくれ」
鷺宮キャンパス? ……市街地にあるもうひとつのキャンパスだ。おなじ市内で郵便物を出すわけか。それなら、PDFにしてメールで送るか。クラウドにでもアップしてやりとりすればいいのにと思った。
「分かりました……校務でお忙しいのに学会の仕事もあるとたいへんですね」
「ああ、今度の学会では報告もしないといけない」
そのひとことに、小嶋さんはけげんそうな表情をうかべた。
「六月にキャンセルなさったとうかがいましたが?」
「多忙で間に合わないと思ったからだ。先々週、再度申し込んだ」
小嶋さんは書類をうけとると、茶色い封筒に入れて宛先を書いた。
そのまま事務机のうえに放置する。
行方先生は、もういちど腕時計を確認した。
「……朝茅は置いていくか」
「俺はここにいますよ」
入り口のところから、朝茅くんが姿をあらわした。
すごく眠そう。
行方先生はキッとにらんで、
「きみ、遅刻だぞ」
と注意した。朝茅くんは頭を掻きながら、
「すみません、夏休みで昼夜逆転してて」
と答えた。そういう喧嘩腰なの、危ないのでは。
「もういちど遅刻したら首だ」
行方先生はぷりぷり怒りながら、ふたりを連れて図書室を出て行った。
三度、手持ち無沙汰になる。
さすがに研究室へ行こうと思った。
ただ、そのまえに小嶋さんが珈琲を入れてくれた。遠慮するのも悪いと思って、それだけ飲んでから退室することに決めた。
「小嶋さんは、ここからキャリアアップする予定がありますか?」
わたしの質問に、小嶋さんはきょとんとした。
「キャリアアップ、とは?」
「例えば、大きな図書館の司書になりたいとか」
小嶋さんは、まさか、というような表情で、
「わたしは、そんなエリートじゃないですから。むしろ、落ちこぼれなほうで」
と謙遜した。
「院卒から空白期間なしで、大学の図書館員ですよね? 順調じゃないですか?」
小嶋さんは複雑な顔をして、「わたしは学者志望のリタイア組ですから」と卑下したうえに、「夢をあきらめて、安定した生活を送るひとがいるかと思えば、かなえつつ苦しい生活を送るひともいます。世のなか、ままなりませんね」と添えた。
「作家も、そうなんでしょうか?」
「現代の作家については、あまり知りません。でも、遠坂さんが調べていた上田秋成は、とても貧乏だったそうですね。晩年は、ほとんど失明していたとか」
そうか……また暗い雰囲気になった。
昨日、質問には気をつけようとした矢先だったから、また反省してしまう。
もうちょっと明るい話題を、と思った矢先、知らない女性事務員さんが入室した。
「郵便物の定時回収に参りました」
小嶋さんは郵便物一式を、事務員さんに手渡した。
事務員さんはそれをプラスチックの篭に入れて、すぐに立ち去った。
さっきの話題も立ち消えになり、わたしは珈琲を急いで飲み干した。
お礼を言ってから研究室へもどる。
アノテーションの続きをしていると、いきなりスマホが振動した。
遠坂へ
朝茅だ。いきなりメールですまん。電話番号知らないから、これしかなかった。
理工学部棟の六階会議室Bまで来てくれないか。
人手が全然足りないんだ。行方は追加でバイト代出してくれるらしい。
頼んだ。
メールマナーがめちゃくちゃじゃないですか。
わたしは呆れてしまう。
とはいえ、このようすだと白河先輩も困っているんじゃないかと思った。
席を立ち、パソコンをロックしてから研究室を出た。
エレベータで六階へ上がる。まさか理工学部棟で作業しているとは思わなかった。
窓の外は雨。銀色のしずくが風に流されて、一筋の川を描いた。
六階へはほとんど立ち入ったことがなかった。エレベータを降りたわたしは、案内図をよく確認した。会議室Bは、左に曲がって突き当たったところにある。プレートを頼りにその部屋を見つけた。
「失礼します」
とびらを開けると、そこにはだれもいなかった。灯りさえついていない。部屋の番号をもう一度確かめてから、わたしは足を踏みいれた。入り口近くのスイッチを押すと、無人の教室がパッと明るくなる。どこか蒸し暑い。傘立てのそばの窓がひらいていた。
「開放厳禁って書いてあるのに……」
わたしは、窓を閉めた。エアコンの冷気が外に漏れて、ぜんぜんエコじゃない。
それにしても、朝茅くんたちはどこにいるのだろう。この部屋には、なにか作業していたような形跡はあった。というのも、ハサミで切られた紙切れのようなものが、テーブルのうえにいくつか転がっていたからだ。わたしは、そばの椅子を引いて、スマホをとりだす。朝茅くんのメールに連絡を入れると、間髪おかずに返信があった。
すまん、取り込み中だ
ひとを呼び出しといて、それはないでしょう。
それとも、これが人手不足の理由なのだろうか。
なにかの対応に追われているとか?
それにしては、返信が異様に早かった。数秒とかかっていない。
しかたがないので、わたしはこの場で待機することにした。
スマホをいじっていると、唐突にうしろのとびらがひらいた。
「あれ? 遠坂じゃん」
朝茅くんが、驚いたような顔をして立っていた。
「なにやってるんだ?」
朝茅くんはそう言いながら、踵を中止にくるりと九〇度回り、とびらを全開にした。白河先輩と行方先生が入ってくる。
わたしは怒って席を立った。
「なにやってるんだ、じゃないでしょ。ひとを呼び出しといて」
朝茅くんはけげんそうな顔をした。
「だれを?」
「わたしを、よ」
「いつ?」
わたしはメールの件を説明した。朝茅くんは、出した覚えがないと答えた。
「そんな……だって、ここに……」
「朝茅くん、まだ打ち合わせ中だぞ。遠坂くんは、なぜここにいる?」
「え、あの、わたしは手伝いに呼ばれて……」
「手伝い? ……まあいい。人手は多いほうがいいからな。座りたまえ」
ワケが分からないうちに、わたしたちは着席させられた。
混乱するばかりで、行方先生の司会もほとんど耳に入らなかった。
「以上だ。当日は白河くんが受付、朝茅くんはレジュメの印刷を担当する。ジャージで来るんじゃないぞ。司会はわたしがやるから、パソコンのセッティングは……」
行方先生は、わたしのほうへ顔をむけた。
「ちょうどいい。情報学科の遠坂くんにやってもらおう」
わたしは承諾せざるをえなかった。
偽メールで呼び出されただけだから関係ありません、とはさすがに言えなかった。
「なにか質問は?」
こうして、打ち合わせは終わった。わたしは朝茅くんに、再度話しかけた。
「ほら、メール」
わたしはスマホの画面をみせた。
朝茅くんは細目にそれをのぞいて、首を左右にふった。
「こんなアドレス知らないぞ」
わたしはメールアドレスを確認した。大手のフリーメールだった。
「じゃあ、誰が……」
そのときだった。白河先輩が入り口で、
「遠坂さん、これ、あなたの傘?」
と尋ねてきた。
彼女は、窓際に置かれたビニール傘をゆびさしていた。
「いえ、わたしは研究室から直接来たので、ちがいます」
「そう……だったら、忘れものかな」
白河先輩は傘を持ちあげて、おやっという顔をした。
「名前が書いてある……おおかみ……いそよし?」
わたしは息が止まった――いそよし……磯良ッ!
「ちょ、ちょっとみせてください」
白河先輩は、白い把っ手の部分を、こちらに突き出した。
「大神……磯良……」
「いそらって読むの? めずらしい名前ね。知り合い?」
わたしは返事をしなかった。できなかった。三度目の模倣犯。
メールを出したのも同一人物? いったい、なんのためにわたしを巻き込むの?
わたしが呆然としていると、となりから行方先生も覗き込んできた。
先生は、なぜかわたしよりもずっと困惑していた。
わたしは先生になにか心当たりがあるんじゃないかと思って、尋ねた。
「どうしました? この傘に見覚えがあったりしますか?」
「昔……そういう名前の学生が亡くなったと、近松先生から聞いたことがある」
白河先輩さんはギョッとして、傘を落としかけた。
「なに? イタズラ?」
「……待て、なにか挟まっているぞ」
行方先生は、朝茅さんから傘をうけとって、光に透かせてみせた。
安っぽい透明ビニールのなかに、なにやら紙の束が詰まっていた。
先生はそれを慎重にとりだした。水で濡れた紙の束だった。文字が溶けて、ところどころ流れ出している。赤い【行方】の印影がみえた。
「これは……さっき出した書類じゃないか……ッ!」
行方先生は、わたしをキッとにらんだ。
「そうか、きみだったんだな、例の万引き犯は」
「ど、どうしてそうなるんですか?」
インクのにじんだ書類を、行方先生はわたしに突きつけた。
「これを図書室から持ち出してここまで運べるのは、きみしかいないだろう。わたしたちは先に出て、この部屋で作業をしていたんだ」
「さっきまでいなかったじゃないですか」
「印刷室に用事があって、三人で行った。だれも別行動はとっていない」
「ちがいます。あの封筒なら、小嶋さんがちゃんと出しました。わたしが犯人なら、なんで先生たちがもどってくるのを待つんですか? 傘を置いてすぐに逃げますよね?」
わたしは必死になって、無実を訴えた。白河先輩が仲裁して、図書室に確認をとってはどうかと提案した。行方先生は自分の携帯で、図書室に電話を入れた。小嶋さんを執拗に問いただす。いったん切ると、今度はべつのところにかけ始めた。
「もしもし、文学部国文科の行方だが……」
かけた先は、どうやら庶務課のようだ。行方先生は、図書室で郵便物を回収した女性を呼び出した。そして、こう尋ねた。
「郵便物を出すまえに、学生から声をかけられなかったか? ……ああ、ショートボブの子だ。眼鏡はかけていない。服装はベージュのカーディガンにスカート……」
わたしが道中で郵便物を横どりしたと、そう疑われているらしい。
だけどそんなはずもなく、行方先生はあきらめて電話を切った。
苦虫をかみつぶしたような顔で、こちらに一瞥をむけた。
わたしは気丈に、それを受けとめた。
「郵便物はすべて、定時に出したそうだ」
わたしは細部を確認する。
「ポストにですか?」
「いや、大学に併設されている郵便局に、だ」
「だったら、わたしが抜き出すことも不可能です」
当然だ、と言わんばかりに、行方先生はわたしの推理を無視した。
ただ、問題はここからだった。わたしの濡れ衣は晴れた。けど、三度目の模倣犯の正体がわからない。そう、これは『雨月物語』の模倣犯だ。空いている窓から、まるで封筒が飛び込んできて、すっぽりと傘に収まってしまったかのような演出になっている。怪談じみていることも、これまでの犯行と一致していた。
わたしたちは、いろいろな可能性について考察を始めた。朝茅くんは、書類が偽造なんじゃないかと疑った。たしかに、この推理には一理あった。書類を観察するかぎり、手書きの箇所はまったくなかったからだ。穴埋め部分は、すべてパソコンであらかじめ入力されていた。つまり、偽造はとても簡単。
ところが、行方先生は、印影が捨て判でなく、じっさいに自分が所有しているものと一致していることを指摘した。
「この書類自体は、学会のホームページからダウンロードできる。学生でも入手しようと思えば、できただろう。だがハンコはべつだ。わたしはハンコを紛失したことはないし、盗まれたこともない」
朝茅くんは降参した。
白河先輩は、だれかが郵便局員をだまして、封筒を取り返したんじゃないかと言った。
「……その可能性はあるな」
行方先生は、ふたたびわたしに視線をむけた。すると、白河先輩がそれを制した。
「遠坂さんが、とは言っていません。学生ではムリだと思います」
行方先生は、わたしにここまでの経路を尋ねた。
わたしは、文学部図書室を出て、研究室にいったん寄ったことを伝えた。
偽メールについては、伏せておいた。
わたしが説明を終えたところで、朝茅くんはポンと手をたたいた。
「そうだ、最近流行ってるラジコンみたいなのあるよな」
わたしは、ドローンのことかと尋ねた。空を飛ぶ小型プロペラ機だ。
「それそれ、郵便局で封筒を回収して、ここまで飛ばしたんだよ」
「あれって、雨のなかでも簡単に操縦できるの?」
「よく知らないけど、できるやつはできるんじゃないか?」
あやふやなわたしたちの会話に、白河先輩も割り込んできた。
「その可能性は、低いと思う。わたしと朝茅くんが作業していたのは、七階にある印刷室でしょ? 外の風景を見る限り、この部屋と同じ壁面ね。ドローンが空中をうろうろしていたら、気づいたんじゃない?」
朝茅くんも同意した。
「そういえば、印刷室は換気してましたね。油性ペンの匂いを消すために」
わたしはそのときふと、実験的な質問を思いついた。
「朝茅くん、作業中になにか、物音を聞かなかった?」
「物音? ……ああ、窓を閉める音が聞こえた」
「どっちの方向から?」
「……真下だった気がする」
わたしが窓を閉めたときの音だ。印刷室は、この真上ということになる。窓を閉める音が聞こえるなら、ドローンのプロペラ音も当然に聞こえたはずだ。その形跡がないということは、ドローンを使ったトリックじゃない。
一歩一歩、推理の階段をのぼる。行方先生は、濡れた書類を確認していた。
「……一式揃っているな」
「いったいなんの書類ですか?」
わたしの質問に、行方先生はすこしばかり顔をしかめた。
好奇心の強い学生と思われたかもしれない。だけど、情報収集に徹する。
「シュヴァイク先生から頼まれた書類だ。土曜日の学会で、彼女の英語論文を講評してもらいたいらしい。会員の推薦が必要だったから、わたしに頼んだのだろう。今回のイタズラは、シュヴァイク先生を侮辱する行為でもある。徹底的に調べあげるぞ。解明するまでは帰宅を遠慮してもらう」
これには白河先輩が猛然と抗議した。
「待ってください。またわたしたちを疑っているのですか?」
「あの書類を渡したとき、近くにいたのはきみたちだけだ」
「事前にカラーコピーされたのかもしれません」
「それはない。判を押したのは、封筒に入れる直前だった」
「印鑑が偽造という可能性もあります」
白河先輩の推理を、行方先生は鼻で笑った。
「教員が使う学内用の判だぞ。簡単に偽造できるわけが……」
そこで行方先生は、言葉を切った。あざけりの表情が消えて、その目は窓から遠く、灰色の町並みへとそそがれた。わたしたちも、その視線のさきを追った。
わたしは、なにか心当たりがあるのかと尋ねた。
「いや……なんでもない。明後日、土曜日の集合場所は鷺宮キャンパスの大講堂、集合時刻は朝の八時だ。遅刻しないように。いいな? バイト代は終わってから払う」
行方先生は急に取り調べをやめて、解散を宣言した。
あまりにも唐突だったせいで、わたしたちのほうが面食らったほどだ。
先生が去った途端、朝茅くんはかるく舌うちをした。
「なんだ、心当たり大有りじゃないか。どうせ書類をほったらかしてたとかだな」
そうだろうか。行方先生が反応したのは、印鑑の偽造についてだった。書類本体のほうではなかったような気がする。
朝茅くんはハァとため息をついて、
「とりあえず、お咎めはないみたいだし、もう帰らないか?」
と言った。
いや、そのまえにあの偽メールを――わたしは朝茅くんに声をかけかけて、やめた。
黙考する――今回の流れからして、今一番あやしいのは朝茅くんよね。彼からメールが送られてきたわけだし……模倣犯の正体って、やっぱり朝茅くん? 一回目のトリックを暴いたとき、わたしは朝茅くんの自作自演を疑っていた。彼を犯人候補から外したのは、解決時の行動が演技にみえなかったからだ。でも、それって客観的な証拠じゃない。ただのわたしの印象。人間の印象はまちがう。
「……白河先輩、朝茅くん、このあと我輩堂に行きませんか?」
白河先輩も朝茅くんも、理由をたずねてきた。
「スイーツが余ってるから知り合いを連れてきて欲しいって頼まれました」
ほんとうに隠れたウソ。
わたしは罠を張った。
もし朝茅くんが模倣犯なら――賽は振られたのだ。




