第八話 アノテーション
夏休みは、卒論を書く大学生にとって、あるようでないようなものだ。わたしは今日も日傘をさして、夏真っ盛りの歩道を歩いていた。大学に近づくにつれて、だんだんと街路樹が多くなる。木々の葉はすっかり生い茂って、道端の木漏れ日も、ところどころにちらついているだけだ。途中にある一本の川を渡る。護岸工事をほどこされたその川には、涼しげな水が流れている。そこを過ぎてしばらく歩くと、我輩堂の一本桜がみえた。
わたしは、なんとも奇妙な光景を目にした。朝茅くんがこちらに背をむけ、老師と向かい合ってなにかしている。わたしはゆっくりと近づいて、うしろからのぞいた。
「……囲碁?」
我輩堂で見かけた碁盤と碁石。ふたりは囲碁に興じていた。
白黒のまだらもようが、盤上に幾何学的なかたちをつくっている。
「こんにちは」
わたしがあいさつをすると、朝茅くんは、ようやくふりかえった。
「ん、いたのか」
「朝茅くん、囲碁できたの?」
「強くはないけどな」
朝茅くんの話によると、老師と打つのは今日が初めてらしかった。
わたしは囲碁がわからないから、どっちが優勢なのかも見当がつかなかった。
ただ、朝茅くんが「強くはない」って謙遜したところをみると、老師のほうかな。朝茅くんの性格からして、腕に自信があったら「こうみえても強いんだぜ」って言いそう。
老師は扇子でゆるやかに顔をあおぎながら、白い石を置いた。
朝茅くんは考え込んでしまう。
それを見計らったかのように、老師はわたしのほうへ顔をむけた。
「おはようございます」
「あ、おはようございます。朝から囲碁とか、風流ですね」
とはいえ、本屋の売り上げが心配になってくる。老師は、これでほんとうに生計がたっているのだろうか。アカデミックな世界では、学問のために清貧な暮らしをしているひとが多い。教授とかはべつだけど、いわゆるポスドクと呼ばれるひとたちはそうだ。望むと望まざるとに関係なく。博士号をとっても、なかなかそれだけで食べていくことはできない。わたしは学士をとったら、データサイエンスブームに乗って、サクっと就職するつもりでいた。情報学の界隈は、アカデミアと企業の壁がそれほど大きくはない。企業でも勉強することができる。
老師はあいかわらず世俗離れした調子で、わたしに椅子をすすめてきた。今回ばかりはさすがにことわる。研究室へ行こうとしていたのもあるし、朝茅くんと囲碁を打っているから、雑談に興じるというわけにもいかない――というのは、三割くらいの動機。のこりの七割は、大神磯良さんが故人だという知らせにあった。『雨月物語』にちょっかいを出すのが、怖くなってしまったのだ。
小嶋さんの話をまとめると、こうだ。二十二年前、国文科の四年生だった大神磯良さんは、「雨月物語にひそむ志怪ミステリ」というタイトルで、卒業論文の申請をした。指導教員は、近松という先生らしい。ずいぶんと優秀な学生だったのに、四年生の春以降、ぱたりと大学へ姿を現さなくなった。そして、その年の秋に亡くなったという連絡が、ご両親からあったそうだ。死因は不明。
こうして大神さんは、卒論を一文字も書かないまま、この世を去った。不可解なことが多すぎる。『雨月物語』の模倣犯は、いったいどうやって、存在しない卒論の中身を模倣したのだろうか。わたしは幽霊は信じていないし、非科学的だと思う。けど、あの卒業論文に模倣犯がいるのは事実なのだ。しかも、卒論は未完成で、本文はなかった。後日、小嶋さんに確認したところ、学生の冥福を祈って記念に納めてあっただけらしい。すると、最大の疑問は――なぜ模倣犯は、未完成の大神磯良さんが考えていたことをトレースできているのか、ということだ。模倣犯は、「白峰」のトリックも「吉備津の釜」のトリックも、両方再現できていた。大神磯良さんの本文がないにもかかわらず、何らかの方法で答えを発見したことになる。メモはあったのかもしれないけれど、二十二年後の現在まで保存されているとは思えなかった。
つまり、老師のように自分で気づいた可能性があるのだ。となると、そうとうのキレ者だ。そんな模倣犯をあいてに首をつっこむのは、なんだか危ない気がしてきた。
「遠坂さん、どうしました? 上の空ですね」
老師の問いかけに、わたしはハッとなった。
「あ、はい……えっと、大学へ行かないといけないので、今日はこれで……」
「道中、お気をつけて」
そういう不穏を言い方をしないで欲しい。
わたしはその場であいさつだけ済ませて、大学へとむかった。
情報学科の研究室のドアを開けると、四年生の先輩たちがパソコンにむかって、黙々と作業をしていた。わたしは助教の先生に話しかけて、進捗を報告する。まず、データセットとして選んだのは、『源氏物語』であること。これには助教の先生が、
「このまえの報告では、うなんとか物語じゃなかった?」
と質問してきた。わたしは適当に言いわけする。
「『雨月物語』は短編集なので、データサイズが小さすぎると判断しました」
「それはなにかの基準に照らして『小さすぎる』のかい? それとも勘?」
これにも、ちゃんと弁解を用意してある。
「データに対しておこなうアノテーションの量が多くなりすぎるからです。短編集の場合は、特定の品詞だけにアノテーションを付して比較することが困難です」
「ああ、そうか……しかし、『源氏物語』のほうがアノテーションは簡単なの?」
うーん、めんどくさい。いや、わたしのことを心配して質問してくれてるのはわかるんだけど、『雨月物語』から『源氏物語』へ移った理由は、もっとべつのところにあった。ひとつは、大神磯良さんの死を知って、あんまり手を出したくなかったこと。もうひとつは、白河先輩の存在だ。白河先輩は『源氏物語』に詳しい。わざわざ卒論のテーマに選んでいるくらいだ。それなら、文学の分野でどういう議論があるかとか、『源氏物語』に関するデータベースがどれくらい充実しているかとか、そういうことを調査しやすいと考えた。
わたしはすこし迷って、前者は言わずに後者だけ言うことにした。
「文学部のひとから、『源氏物語』ならサポートできる、と言われました」
「念のために訊くだけだけど、書くのを手伝う、って意味じゃないよね?」
「ちがいます。テキストの真正性とかコーパスとかを教えてもらう予定です」
助教の先生は、ようやく納得してくれた。
わたしはこれまでの作業状況を申告して、席につく。この研究室には、学生ひとりひとりの自習スペースが設けられていた。情報学科だからパソコンを一人一台以上使わないといけないので、あたりまえではある。ある先輩なんか、自前のディスプレイを複数持ち込んで、マルチ作業をしている。
わたしの席は、窓から町並みをみおろせる特等席。クジで当たった。ここからは、我輩堂がありそうな位置もみえた。けど、木々にさえぎられていて、正確には判断がつかない。あれが桜の大木かな、と思えるだけだ。また春がくれば、すぐに見分けがつくだろう。
わたしは大学の図書館が契約しているデータベースから、『源氏物語』のテキストデータをフルで入手していた。それをエディタでひらいて、接続詞のひとつひとつにアノテーションしていく。これがあまりにもめんどくさかった。古典だから接続詞を特定するところにひと苦労。そのあと全文検索して、ほんとうに接続詞なものとそうでないものとを分ける。例えば、「さて」という接続詞を検索すると、「さてさてをかしかりける女かな」というのが出てくる。この「さてさて」は接続詞の「さて」じゃなくて感嘆詞だから、除外しないといけない。
全文検索機能は便利だけど、最後は手作業だ。わたしはひと息つく。
「半教師なし学習のほうが楽かも……」
わたしのつぶやきに、となりの男子学生が、
「半教師なし学習はむずかしいぞ。うまくやらないと精度が出ない」
とコメントしてきた。それは、そう。
半教師なし学習というのは、アノテーションを一部だけして、のこりは生のデータでコンピュータに学習させる方法だ。これはコンピュータに対する教えが少ない分、精度を挙げる方法をよく考えないといけなかった。一番有名なのは、確率処理。ベイズ統計を利用する方法。ただ、雑にやるとかえって精度が低くなって、「犬」の画像と「魚」の画像をとりちがえたりしてしまう。
しかたがない。全部入れよう。わたしは悪戦苦闘しつつ、お昼までがんばった。昼食休憩になり、わたしは席を立つ。この研究室では生活が不規則なひとが多いのか、ブランチを食べたとか、あとで食べるとか、そういうひとが多かった。昼寝している先輩も。
わたしは研究室を出て、お昼のランチを食べる。今日はラーメンだ。ここの学食はおしゃれさよりも実利を取っているのか、施設のデザインはよくないけど美味しかった。わたしは食べる環境をそこまで気にしないから、こういう方針はうれしい。ラーメンの種類も豊富で、わたしはとんこつチャーシューを選択。
いただきます、を言った途端、となりから声がかかった。
「おっと、遠坂じゃん」
ふりかえると、朝茅くんが立っていた。トレイを持って、席をさがしている。
「すまん、混んでるからとなりでもいいか?」
「どうぞ」
朝茅くんはとなりに座った。鉄板焼きだった。ジュウジュウと音がする。
「お昼からけっこうヘビーね」
朝茅くんは箸を割りながら、
「朝飯を食べてないんだ。途中で仙人につかまったからな」
と答えた。ほんとかなぁ。老師のほうから積極的に誘ったとは思えないのだけれど。
彼の説明によると、遅めの朝食をとりに大学へむかっていた途中、我輩堂に立ち寄ったらしい。店内に囲碁盤があるのを見つけて、それから囲碁談義になったとか。
わたしは勝敗が気になって、遠回しにたずねた。
「けっきょく、どうなった?」
朝茅くんはさばさばした感じで答える。
「負けた負けた。あのあと何個か置いて中押し負け」
専門用語が出た。なんか大敗したっぽいのはわかる。
その証拠に、朝茅くんは囲碁から話題をそらした。
「ところで、ひとつ頼みたいことがある」
「またボイスレコーダの犯人探し?」
わたしが一発で言い当てたから、朝茅くんはちょっとびっくりした。
「よくわかったな」
だいたい察しがつく。わたしは頼まれるまえに断った。
朝茅くんは、わたしが拒否する理由がイマイチつかめないみたいだった。無理もない。朝茅くんからみれば、あれはただのいたずらだ。でも、わたしからみれば、あの事件は二重に気味が悪い。『雨月物語』という怪談をわざわざ模倣していることと、その模倣のネタになった卒論の作者が亡くなっていることだ。ヘタをしたら、犯罪に巻き込まれているのではないかとすら思う。
とはいえ、それを説明するわけにもいかない。わたしはべつの口実を用意した。
「データのアノテーションが忙しくて、そういうヒマはないの」
わたしの返しを、朝茅くんは理解しかねていた。
わたしは簡潔に説明した。
朝茅くんは、わかったようなわからなかったような顔をして、
「ようするに……接続詞かどうかを判定する仕事?」
と要約した。まちがってはいない。
「AIって、けっこう原始的なんだな」
「マスコミとかが煽りすぎなのよ。裏方は地味」
朝茅くんは、ふぅんと言って、
「だったら、白河先輩にチェックしてもらったほうがよくないか?」
とアドバイスしてきた。もちろん、それは考えてある。
「そのつもり。でも、できる限りじぶんでやらないと意味ないでしょ」
「ま、それはそうだよな。他人に卒論書いてもらっても実力にならない」
おっと、意外とすなおだった。わたしはちょっと感心して、
「ところで、朝茅くんの卒論のテーマは?」
とたずねた。朝茅くんは、まだ決めてないと答えた。今の時期に決めてないと、資料集めができないんじゃないかと思った。それとも、文学部はメソッドがちがうのだろうか。読書室で小説とか書いてる場合じゃないのでは。
わたしたちそれ以降、ありきたりな会話に終始した。
スープは半分以上のこしておく。減塩。
「スープ飲まないのか? 美味いだろ?」
「高血圧になるでしょ」
「大学生なんだから食を楽しめよ」
ま、それは一理ある。けど、ただでさえ一日中パソコンに向かっているし、多少は健康に気をつかいたい。わざわざ徒歩通学にしているのも、そのためだ。歩く。
わたしたちは食堂を出た。研究室にもどるか、それとも文学部に行って、わからなかった単語を調べるか迷う。白河先輩がわざわざ紙の辞書で調べものをしている理由がわかった。ネットで古文を調べるのは難しいのだ。辞書の画像アーカイブなんて、検索性がないから全然使えなかった。マウスで一枚一枚クリックしていたら、頭がおかしくなる。紙でパラパラとめくったほうが楽だ。
しばらく考えて、気分転換に文学部図書室をえらんだ。食後すぐにパソコンにむかっても、だんだん眠くなってしまう。朝茅くんといっしょに文学部棟の七階へ。中央の受付室へ入ると、小嶋さんがいた。
「あ、遠坂さん、こんにちは、すっかり常連ですね」
「す、すみません」
「いえいえ、ここはだれでもウェルカムなので。珈琲はいかがですか?」
ありがたくもらっておく。
食後の珈琲は最高だ。
朝茅くんもポータブルコンピュータをひらきながら、
「俺にもください」
と便乗してきた。小嶋さんはできたてのホットコーヒーを出してくれる。
ひと息ついたあとで、わたしは小嶋さんに尋ねた。
「白河先輩って、どのくらいの頻度で大学にいらしてますか?」
じぶんの分を淹れていた小嶋さんは、そうですねぇ、とつぶやいてから、
「今のところ週に一回、ほとんどゼミの日にしかいらしていませんね」
と答えた。
わたしはちょっとがっかりする
「白河さんが、どうかなさいましたか?」
あつかましいかな、と思いつつ、事情を説明した。わからなかった文章の意味を判定して欲しいのだ。とくに、ひらがなが連続すると、どこで文章を切ればいいのかも、よくわからなくなることがあった。現代語訳と比較して、ある程度まで推察するしかない。
話を聞き終えた小嶋さんは、
「それなら、朝茅くんに手伝ってもらってはいかがですか? 彼も国文科ですよ?」
と助言してきた。
いやいや、ない。わたしは手をふって返す。
すると朝茅くんは、
「俺だって三年生なんだぞ」
と不満そうだった。
「マジメに勉強してなさそうじゃない。GPAどれくらいなの?」
「ぐッ……」
ほら、あまり良くなさそう。
小嶋さんはわたしたちのやりとりを見かねて、べつの知恵を出してくる。
「それなら、仙人に尋ねてみてはいかがですか?」
ありかな、と一瞬思う。でも、すぐに考え直した。
「仙人はたしかに時間がありそうですけど……あれで生活できてるんですか?」
「ど、どうでしょうか。お金があるから、ああして趣味に走っていらっしゃるのでは?」
その可能性もある。じつはどこかの大株主で、配当だけで食べてるとか。
この会話を聞いていた朝茅くんは、
「そんなに心配なら、遠坂も一冊くらい買ってやればいいじゃん」
とつっこんできた。
「買ってるってば」
「マジか? あそこって技術書一冊も置いてないだろ?」
「このまえ、新編日本古典文学全集を買ったもん」
朝茅くんはびっくりした。
「あの全集買ったのか? 何十万ってするだろ?」
しまった、今のは説明がまずかった。全集を買ったんじゃなくて、そのうちの一冊だけ買ったのだ。わたしは訂正する。
「『雨月物語』が収録されてる巻だけ」
「なんでそこだけ?」
こらこら、詮索は禁止。
事情を多少を知っている小嶋さんが、助け舟を出してくれた。
「そういえば、朝茅くん、アルバイトしませんか?」
話の腰を折られた朝茅くんは、
「図書館の事務ですか?」
と、期待に満ちたまなざし。
「いえ、学会の手伝いです」
「学会の手伝い……?」
「今週の土曜日、うちの大学で国文学の大会があるんです? どうです? 二名募集で、ひとりは白河さんと決まっているのですが、もうひとりが就職活動中でして……」
時給はけっこういい、と小嶋さんは伝えた。金額を言わないのがあやしい。
多分、最低賃金だと思う。
情報学科でも、この手のアルバイトはちょくちょくみかけた。
ゼミによってはタダ働きらしいので、不平を聞くこともある。
「たいへんな仕事ですか?」
「受付、資料配布、マイクの受け渡しなど、ようするに裏方ですね」
朝茅くんはスマホでカレンダーを確認した。空いていると答えた。
「なにか事前に準備することってあります?」
「明日の十時から、ここで打ち合わせがあります」
その日は、これで解散になった。わたしは研究室へもどり、アノテーションの続き。
夕方には切り上げて、大学を出た。途中で我輩堂に寄る。
老師はいつも通り、入り口のまえの籐椅子で、本を読んでいた。
夕涼み。道には水が撒かれていた。
「こんにちは、老師」
老師は黙って、席を勧めてくれた。
わたしはそれに腰掛ける。ちょっと気まずいけど、例の頼みごとをする。
「老師って、日本語の古文の接続詞とか、判定できたりします?」
「判定とは?」
「どれが接続詞で、どれが接続詞じゃないとか、そういう判定です」
老師は、できると答えた。
いやぁ、すごい。超人的なひとが近くにいると助かる。
わたしは『源氏物語』の第一帖のコピーをとりだした。
不明なところに赤でマークがしてある。一応、自分なりの解釈は示してあった。
「まず、『侍ぬさてよにありと人にしられす』は、どこで切るんですか?」
「これは『侍ぬ』で一度切れています。その続きの文章は、ところで、この世にいるとは人に知られておらず、ですから、『さて』は接続詞です」
ぜんぜん違ってた。恥ずかしい。
老師は、さくさくと添削してくれた。
わたしは老師にお礼を言って、本を一冊買うことにした。
本棚をみる……やっぱりちょっと高価そうなのが多い。
「ムリをなさらなくてもけっこうですよ。義理と人情は世の常です」
わたしは老師の言葉に、すこしばかりおどろいた。
「老師、なんか日本人みたいなことを言うんですね」
「おや、よくご存知ですね。義理も人情も、和製熟語であって中国語ではありません」
これには、ちょっとした理由がある。『雨月物語』を調べているうちに、義理と人情は江戸文学以降に発達した日本の思想だということを発見したのだ。本に書いてあった。
「だてに『雨月物語』を調べてませんでした」
「……過去形になっているのは、なにか意味がおありですか?」
自白してしまった。
わたしは椅子にもどって、あの事件はもう追わないことを伝えた。
「というわけで、すみません、あの卒論の解明は、なかったことに……」
「そうですか……おもしろい暇つぶしでしたが、しかたがありませんね」
納得してくれて助かった。
老師はふたたび本をひらく。そして、ふいにこう告げた。
「大学の教員にも、チェックしていただいたほうがよろしいのでは?」
また、ムリな相談を。
「国文科の先生とは面識がないので、頼めないんです」
「近松という江戸文学の研究者が、白峯にはいらっしゃいませんでしたか?」
チカマツ? 知ら……あ、知ってる。
わたしは、最初の模倣事件のときの色紙を思い出した。小嶋さんは、あの和歌が書かれた色紙が、近松先生へのプレゼントじゃないかと言っていた。
「名前は聞いたことがあります」
「そうですか。白河さんのゼミナールの指導教授だとうかがっています」
え、そうなんだ。それは初耳だ。まあ、ふつうはそんなの教え合わない。
わたしは、その近松先生がどうかしたのかとたずねた。
「あのかたは、ずいぶんと教養のある方で、講義は厳格なようですが、学問については親身になっていただけるはずです」
「……お知り合いなんですか?」
「ええ、このお店に、一度いらしたことがあります」
囲碁も一局お相手しました、と、老師はつけくわえた。
そっか……意外だ。大学の先生が、ここへ足を運ぶとは思っていなかった。
「じゃあ、行方先生もごぞんじですか?」
「……はい」
ん? いまの空気はなに?
老師は表情は変えなかったけど、あんまりいい雰囲気にならなかった。
わたしはそれ以上深堀りするのが怖くて、話題を変えた。
なんか裏でいろいろある感じがする。わたしは質問に気をつけようと思った。
時計を確認する。そろそろ大学へ行かなきゃ。
わたしは席を立つ。出口のところで、ふいに声をかけられた。
「知人から甘味をいただいたのですが、ひとりでは食べきれません。もし遠坂さんがよろしければ、何人かお友だちをお連れいただけませんか。珈琲といっしょにおもてなしいたしますよ」




