秦生
白河先輩のほそいゆびが、ゆっくりと紙の箱をあける。
なかからあらわれた白いレアチーズケーキに、わたしは歓声をあげた。
みるからにしっとりとしていて、チーズの甘い香りがただよう。
ふりかけられた粉砂糖は、初雪のように白かった。
「これ、有名なケーキ屋さんの限定品ですよね」
わたしの目利きに、白河先輩もうなずいた。
「友だちと並んで買ったの」
こういうのを役得というのだろう。
わたしたちのようすを傍目に見ていた老師は、
「よろしいのですか、そのような高価なものをいただいて」
と言った。今日は我輩堂で紅茶パーティ。今日の午前で、わたしと白河先輩は前期の試験をすべて終えた。落とした単位もなさそうだし、これから夏休みだし、ということで、すこしばかりハメをはずすことにしたのだ。お財布の紐もゆるめた。
スイーツはわたしたちが持参して、老師はお茶を用意することになっていた。
老師はいつものように、黒い鉄瓶でお湯を沸かしていた。おしゃれなかたちをした七輪の火にかけられて、注ぎ口からシュウシュウと湯気がたつ。テーブルのうえには、木製の茶盤と茶色の急須、それに、かわいらしいうさぎの絵が描かれた茶杯が三つ。
「紅茶も中国式で淹れるんですか?」
わたしの質問に老師は、
「紅茶はもともと中国茶の六色、緑、黄、白、青、紅、黒の一種です」
と答えた。
あらら、インドかどこかの名産品だと思っていた。
「すみません、中国産なんですね。どうもイギリスのイメージが……」
「いえ、遠坂さんのおっしゃりたいことも、まちがっているわけではありません。一九世紀にアッサム茶がインドで発見され、イギリスを経由して人気を博したのは事実です。製法に関しても、中国で普及したのは比較的最近です。もともとは山間部で限定的につくられていたようですね」
ふーむ、お茶の歴史も興味深い。
老師はいつもよりじっくりと時間をかけて、紅茶を淹れてくれた。これも紅茶特有の淹れ方で、蒸らす時間が長くなるらしい。茶杯にルビー色の液体がそそがれる。わたしと白河先輩は、ケーキを白い皿に移して、フォークとスプーンを用意した。
わたしはお砂糖とミルクの場所を、老師にたずねた。
「中国では、熱いお茶に砂糖などは入れないことになっています」
そうか、それなら仕方がない。中国式で飲もう。ケーキがとても甘そうだから、砂糖とバッティングさせるのはもったいないかな、という気もした。
すべてが整って、わたしたちは「いただきます」をする。
まず茶杯に手をそえて、匂いをかぐ。
すこしは礼儀作法を調べてきた。中国茶はまず香りを楽しむらしい。
「……いい匂いがします」
白河先輩もおなじように香りから入った。
「薔薇と蘭をブレンドしたような香りがかすかにします」
わたしの語彙力。
味はどうかな。
「あ、ほんとに紅茶ですね」
「コクがあってまろやかですが、アッサム茶よりも重厚ですね」
ああ、語彙力。
とはいえ、こればかりはしょうがない。国文科にゆずる。
わたしはとりあえずお茶を飲み、それからケーキに手をつけた。
「おいしぃ」
表面がこんがりと焼けたベイクドチーズケーキもいいけど、やっぱりレアチーズケーキの滑らかな甘さは最高だ。カロリーが気になったら負け。心から舌鼓をうつ。
「白河先輩、ありがとうございます。しあわせです」
「どういたしまして……老師は、いかがですか?」
老師もケーキの先端をフォークですくって、口に運んだ。
「……豆腐が入っていますね」
お豆腐? チーズケーキなんだけど。
老師、じつは味覚オンチなのかな、と思った矢先、白河先輩が、
「よくおわかりになられましたね。これは豆腐を練りこんであるそうです」
とおどろいていた。
わたしの味覚とは。
えーい、おいしければ、それでいい。もうひとくち。
会話もだんだんと盛りあがってきて、いつの間にか恋バナになった。
「遠坂さんは、カレシとかいるの?」
「いえ、いません……白河先輩は?」
いる、と即答された。おのれぇ、というわけでもなく、白河先輩にいるのは当然かな、という印象。あいてもよっぽどいい人なんだろうなぁ、と思う。
「文学部のひとですか?」
「ううん、他大の医学部のひと」
おのれぇ。
「じゃあ、彼も今年で卒業だったりします?」
「医学部って六年制だから、まだ彼は卒業しないの……遠坂さん、理工学部よね? 理工学部は男女比がかたよってるから、選びたい放題じゃない?」
いやいや、先輩、わかってない。
量がいればいいってもんじゃないんですよ。
わたしたちがあれこれ品定めしているあいだ、老師はまったく乗ってこなかった。というか、わたしたちは我輩堂で禁止されているリアルの話をしていることに気づいた。
ちょっと話題を変えようかな、と思ったけど、唐突に変えるのはこれまた変だ。
わたしはフォークをおいて、すこしばかり思案。
「……老師は、なにか恋の物語とかごぞんじですか?」
老師は茶杯をおいた。
「多少は」
「中国の恋の物語を、ひとつ教えてください」
老師は「そうですね」と枕にそえて、物語をはじめた。
「では、遠坂さんがお好きな『聊斎志異』からひとつ、恋の怪談をいたしましょう」
○
。
.
萊州、今の山東省に、秦という男がいました。彼は科挙の郷試の受験資格を得て、勉学に励んでいました。秦はある日、薬酒をつくろうと思い立ったのですが、間違えて毒を混ぜてしまいました。ところが、捨てるのも惜しかったので、封をしてそのまま保管しておきました。
さて、一年ほど経ったある夜、秦はお酒が飲みたくなりましたが、どこからも手に入れることができませんでした。そこで、あの毒酒のことを思い出し、開封してみたところ、えもいわれぬ香りがしてきて、腹がざわめき、よだれが垂れてきました。とうとう我慢ができなくなり、杯を手にしてこれを飲もうとしました。
秦の妻は止めようとしましたが、彼は笑って、
「飲みたいものを飲めずに死ぬより、飲んで愉快に死んだほうがいいだろう」
と言って、一杯飲んでしまいました。
さらにもう一杯飲もうとしたので、妻は瓶をひっくり返しました。
酒が地面に流れます。すると、秦は牛のように四つん這いになって、地面に口をつけてずるずると酒を飲みました。が、すぐに腹が痛くなって、しゃべることもままならなくなり、とうとう死んでしまいました。
妻は泣きながら棺桶を用意し、遺骸を納めました。ところが、翌日の夜、ふいにひとりの美しい女が家にやってきました。背丈が三尺もないその女は、まっすぐ棺桶のまえに進み出ると、甕の水を死体にふりかけました。
どうでしょう。秦は目を開けて生き返ったではありませんか。
秦はじぶんの頭を叩きながら、女にわけを訊きました。
「わたしは狐仙です。わたしの夫が陳さんの家に入り、そこでお酒を盗んで酔っ払ったまま死んでしまったので、助けに下界へ降りてきて、ちょうど帰るところだったのです。あなたの家のまえを偶然通りかかったとき、あなたが同じ病気で死んでいたので、夫が同情してわたしに助けるように言ったのです」
女はそう答えて、そのまま姿を消したということです。
○
。
.
怪談じゃなくて、ただの苦労話では。
わたしはあきれつつ、
「ダメンズウォーカーですね」
と言った。すると老師は手をとめて、
「だめ……なんですか、それは?」
と尋ねた。
老師に日本語を教えるの、はじめてかも。
「ダメな男性を渡り歩く女性のことです」
よくわからないと言われたので、もうすこし詳しく説明した。ようするに、つきあってると自分が苦労するような男性をわざわざ恋人や配偶者に選んでしまう女性のことだ。
老師はそれを聞いて、とくに表情も変えず、
「そうですか……当時は自由恋愛ではないので、すこし違うかもしれません」
と、冷静に批評してきた。
なるほど、じぶんで選んで結婚したわけではないのかもしれない。
それにしても、狐の仙人がかわいそうだ。妖怪なのにこき使われている。
怖いとか怖くないとかじゃなくて、同情してしまいそうだ。
「これって怪談ですか?」
とわたしはたずねた。
「これはどちらかというと笑い話です。その証拠に、このお話には、次のような余談が付されています」
○
。
.
話者の友人に、貢士の邱行素という酒好きの男がいました。ある夜、邱は酒を飲みたくなったのですが、買いに行くことができませんでした。寝返りをうっていると、どうしても飲みたくなったので、代わりに酢を飲もうと思いつきました。
妻に相談してみましたが、彼女は笑うばかりです。邱は怒ってむりに持って来させました。妻は酢を温めてお銚子に入れて出しました。邱はそれをからっぽにして、ようやく服を脱ぎ、いい気持ちで眠りました。
翌日、妻は召使いにお銚子一本分の酒代を渡して、買ってくるように言いつけました。召使いは途中で、邱の弟の襄宸に会いました。襄宸は召使いに、なにをしに行くのだとたずねました。召使いがわけを話すと、兄嫁が兄のために酒を買うとは、どうもあやしい、と思い、召使いを問い詰めました。すると、召使いは答えました。
「奥さまがおっしゃいますには、『家にはお酢がいくらもないのに、昨晩のうちに半分も飲んでしまうんだから。もう一晩飲まれたら、お酢のもとがなくなってしまうわ』とのことです」
これを聞いたひとびとは、みな笑ってすませたということです。
○
。
.
ダメだなぁ。
そんな感想をいだいていると、白河先輩が、
「お酢を飲むというところがよくわからないのですが、これはなにかの風習ですか?」
とたずねた。
老師は「お酢はお酒からできているのです」と答えた。
そうだ。お酢はお酒からできている。現代のお酢はすごく精巧に作られているから、もとがお酒だとは気づかないような味になっている。でも、むかしはお酒を容器で発酵させていただけだから、おそらくアルコールが残っていたのだろう。どちらかというと、みりんに近いんじゃないだろうか。
白河先輩はうなずいて、
「なるほど、発酵させるにはタネがないといけないので、お酢が家からなくなると困る、というわけですか。理解しました。しかし、お酢を飲んで美味しいのでしょうか?」
と首をかしげた。
これについては、作り話なのだからあんまり真剣に考えてもしょうがないと思った。
ようするに、アルコールが入れば、なんでもいいのだろう。
科学的な解説はこのくらいにして、わたしたちは評釈する。
わたしはまず、お酒のテーマが続くことにあきれて、
「むかしのひとたちは、よほどお酒の話が好きなんですね」
と言った。
これには白河先輩も笑って、
「お酒は漢詩でも重要なテーマだから。詩仙と呼ばれた李白にもお酒の歌が多いの」
と言い、中国文学史で習った詩をひとつ教えてくれた。
内に贈る
三百六十日、日日醉いて泥の如し
李白の婦爲ると雖も
何ぞ、太常の妻に異ならん
白河先輩の朗読は、じつに流暢だった。
「どういう意味ですか?」
「わたしの妻にこの歌を贈る。三百六十日、わたしは毎日酔っ払って、泥のようだ。あなたは李白の妻だけれど、これではいつも家にいない神官の妻であるのと変わらないね、っていう意味」
うーん、ダメだ。今日はダメンズしか登場しない。
「わたしだったら離婚しますね」
「時代的に離婚はむずかしいのかもしれないけど、現代ならそうね」
そういえば、老師は結婚しているのだろうか。
プライバシーだから訊かないけど、それっぽいひとと会ったことはない。
わたしがそんなことを考えていると、白河先輩が、
「そういえば、遠坂さんたちの研究室、マッチングアプリとかも作っているの?」
と訊いてきた。
「え……結婚マッチングとかですか?」
「キャリア関連のセミナーで、白峯からそういう就職先もあるって聞いたから」
わたしはちょっとびっくりして、
「白河先輩、そういう企業をねらってるんですか?」
とたずねてしまった。
白河先輩は即座に否定する。
「ちがうちがう。ただ、ああいうアプリって、ほんとにマッチングしてるのかな、って疑問があるの。人間の相性判断なんて、ほんとにできる? 質問項目だって、そんなに多くないじゃない」
わたしは返答に困った。
学部生だから、そんなに詳しいわけじゃない。
研究室にいる助教の先生か、せめて大学院のひとに訊いて欲しかった。
とりあえず、わかる範囲で回答する。
「質問項目は、すくないほうがむしろいいです」
「どうして? いろいろ考慮するほうが正確になるでしょう?」
「それは誤解です。例えばサッカーの勝敗は、ゴールの数だけで決めますよね? そこでルール変更して、全体的にどちらのチームがどのくらい押していたかも考慮したら、より正確なサッカーの実力が測れると思いますか?」
白河先輩はすこしだけ考えて、
「評価がすごく難しくなりそう。判定ミスも多いだろうし」
と答えた。
「そうです。評価項目が多いというのは、むしろ評価があいまいになるんです」
ところが白河先輩は、サッカーと恋愛の比較に納得しなかった。
「人間には『このひとは何点』なんてつけられないじゃない」
「もちろん、そうです。さっきのはあくまでも『パラメータの理想的な数は一個だ』という話で、現実はむずかしいです。わたしが言いたかったのは、パラメータをごちゃごちゃたくさん設定して判定するのは必ずしもよくない、ということです」
白河先輩は、わかったようなわからなかったような顔をした。
このへんはしょうがない気がする。というわけで、国文科のスタイルで攻める。
「例えば、国文科で論文を書くときは、小説の特定の語句とかに着目しますよね?」
「そうね。コーパスを使って解析するときも、語彙は限定するから」
「それと同じです。文章全体の印象みたいなものを使うと、評価があいまいになります」
これには白河先輩も同意してくれた。
「遠坂さん、説明がじょうず」
「いえいえ……あ、先輩、紅茶が冷めます」
老師は、温かいものと交換しましょうか、とたずねた。
もうしわけないけど、わたしたちはつぎなおしてもらった。
熱々の紅茶にケーキ。楽しい午後は、まだ始まったばかりだ。




