Episode6 桜と月とあの日の約束 3
男の名は、河原町靖。彼には大切な妻がいた。彼女は去年の春に交通事故に遭い、それからはずっと眠り続けている。何故、目を覚まさないのかは医者にも分からないと言われた。
彼が手を握れば彼女はピクリと反応を示すし、ゆっくりと弱い力ではあるが握り返してもくる。ただ、眠ったまま意識だけが戻らないのだった。河原町は献身的に彼女の世話をした。きっと聞こえているはずだから、と積極的に話し掛け、彼女とのスキンシップも毎日のように行った。
そうこうしている内に一年が経とうとしていた。いつまで経っても目を覚ます気配のない彼女と何もできない自分への不甲斐なさ。河原町の心は限界に達し、悲鳴を上げていた。積もりに積もった寂しさと虚しさにどうしようもなく疲れてしまい、段々と憔悴していったのだ。
そして今日、訳も分からずどこに行くわけでもなく、ただふらふらとしていたところ、いつの間にか道路の真ん中に立っていた。それを認識した時には、眩しい光が大きな音を立てながら自分に向かってきているところで、ああもうこのまま、消えてしまおう。そんな感情に流されて気付かぬ内に死のうとしていたのだと言う。
「妻のキミカとは、去年籍を入れて一緒になったんです。俺の一目惚れだった。何度もアタックしてやっと、受け入れてもらえて……」
河原町が一通り話終える頃には、カップの紅茶はとっくに冷めてしまっていた。そんな冷めた紅茶を河原町はぐいっと一気に飲み干して、ふぅと息を吐き出す。
「河原町さん、あんたがそこまで追い詰められたのには、寂しいとかそういうのとは別で他にも何か理由があるんじゃないの?」
武瑠に問われ、河原町はゆっくりと頷いた。
「約束を……、彼女と約束をしていたんです」
「約束?」
「はい……。あと何回一緒に見られるか分からないけれど、一緒にいる限り毎年二人で桜を見よう、と。彼女は元々心臓に大きな爆弾を抱えていて、よく入退院を繰り返していたんです。俺と彼女は学生の時に出会いました。俺が骨折で入院した時に偶々彼女を見かけて。その時、彼女は病院にある桜の木の下で、ひらひらと舞う桜の花びらを見上げながら眩しそうに目を細めていた。太陽の光も相まって何だか俺にはとても神々しく見えて……、思わず見とれてしまいました。それからはもう、彼女と仲良くなる為に必死で……。彼女の好きなものをリサーチして、話し掛けて、話題が盛り上がるようにってあれやこれや試したりして。自分が退院してからも、彼女が入院していない時も二人で会うようになった……。彼女も自分と同じ気持ちでいてくれている、そう思っていました。だけど、彼女はなかなか一緒になる事に頷いてはくれなくて……。俺達が初めて会った日から二十年……キスをすることも抱き合うこともなく、俺達はそのままの関係でずっと一緒にいた……」




