#326 Aims世界大会観戦旅行初日その六 『看病』
薄く、ぼんやりとした意識の中、冷たい物が頭に乗せられているのだけ感じる。
俺は今一体何をしているのだろう。
確か温泉に入りに行って、そこで雷人と何か話をして、それから──
それから──何があったっけ?
何か、とても大事な事を考えていたような気がする。でも……上手く思い出せない。それよりも、身体が熱くて、だるくて仕方がない。
余りの具合の悪さに身じろぎすると、冷たい何かが頬に触れた。
「……気持ちいい」
頬に触れたひんやりとした何かに、無意識に頬擦りする。
いつだったか。確か、まだ俺が小さかった頃。
こうして体調が悪い時、母さんが寝ずに看病してくれていた事があった。
心配そうな顔をしながら、ひんやりとした手で頬や頭を撫でてくれたのを覚えている。
中学に上がりたての頃のように、まだ色々と拗らせていなかった時の俺は、そんな母さんの無償の愛情を嬉しく感じていた。こうして、優しく撫でてくれる手が好きだった。
「…………好き」
その柔らかくてすべすべな何かは一瞬離れそうになるが、すぐにまた優しく触れてくる。
何度も、何度も労わるように俺の頬を優しく撫で続け、その心地良さに身を委ねていると再び意識が黒く染まっていく。
◇
「びっ、くりした……」
全身が沸騰したかのように熱い。わざわざ触れずとも分かる程、心臓が早鐘を打っていた。布団の上で寝込んでいる彼──渚君が苦しそうな表情をしていたので、少しでも和らいでくれると良いなと手を伸ばしたら、擦り寄るように甘えてきた事に驚いた。
(不謹慎だけど……可愛いって思っちゃった……)
伸ばしていた手を引き戻し、自身の胸元に持っていく。やはり、心臓はこれ以上ない程激しく動いているのが分かった。不意打ちとは言え、彼の口から「好き」という単語が出てくるとは思わず、必要以上に狼狽えてしまった。
「流石にただの寝言……だよね」
そうでなければ、彼が「好き」なんて単語が飛び出す筈も無い。どんな夢を見ているのかは非常に気になるが。
熱い吐息を吐き出し、安らかな寝顔になった渚君を見ながら呟く。
「折角、一番に浴衣姿を見てもらおうと思ってたのにな……」
つい数分前の出来事を思い返す。
大浴場から出る直前、ARデバイスに届いていた雷人君からのメッセージを見て酷く驚いた。
渚が風呂で気絶してしまったから部屋に連れて行く──そんな内容のメッセージを見て、逸る気持ちを抑えながら、走って部屋へと戻った。
肩で息をしながら部屋に辿り着くと、布団の上で寝かせられた渚君とその傍らで看病をする雷人さん、そして後藤さんの姿があった。
体調の悪化が見られるようだったら救急車を呼ぶという風に説明を受け、雷人さんと後藤さんの代わりに看病を引き継いで──今に至る。
「本当に、心臓に悪い人です。……色々と」
ただのぼせただけという事だったので胸を撫で下ろしたが、もしこれが何かの病気だったりでもしたら気が気でなかった。……本当にお騒がせな人だ、全く。
彼の頭に乗せていた氷嚢を取り換え、じっと彼の寝顔を眺める。
「……可愛い寝顔」
きっと本人が聞けば不機嫌になるかもしれないけれど。女性の私視点からでもドキドキしてしまうぐらい可愛らしい寝顔をしていた。
こうやって彼の寝顔を間近で見るのは膝枕をした時以来かもしれない。
あの時は自分も寝てしまったが、今はこうやって彼の寝顔をずっと眺めて居られる。
頭を優しく撫でていると、心の奥底から良くない気持ちが湧いて出てくる。
「早く元気になって起きてくれないと、ちゅ、ちゅーしちゃいますよ……?」
髪をかきあげ、すぅすぅと寝息を立てている渚君に顔を近づける。その柔らかそうな唇に顔を近付けていき、その距離がかなり近くなった所で踏み止まる。
「な、なーんて……」
「おっす渚、様子見に来たぞ~」
「!?!?!?」
その時、部屋の入り口の扉が開かれた。思わずビクッとなりながら体勢を起こすと、大量の袋を抱えた雷人さんが気まずそうな表情でこちらを見ていた。
「あー……。もしかしてお邪魔だった?」
「いえいえいえいえいえいえいえ、そんな事ないですっ!?」
「あ、そう……?」
顔を真っ赤にしながら手をぶんぶんと振って誤解を解く。ただの悪戯にしたって、今のは冗談が過ぎた。しかも、今のタイミングだと本当に寝込みを襲おうとしていたように見えたかもしれない。
気付いていませんように……と祈っていると、雷人さんは部屋の中に設置されていた冷蔵庫まで歩いていく。
「取り敢えず迷惑掛けたお詫びに色々買ってきたんで、部屋の冷蔵庫に入れとくな。後で渚と二人で飲んだり食ったりしてくれ」
「あ、ありがとうございます」
どうやら、持って来ていた袋の中身は差し入れだったらしい。
二人分にしてはかなり多い量の飲み物とお菓子を冷蔵庫に入れると、袋の中からフルーツ牛乳を一つ取り出し、こちらに差し出してくる。
「紺野さんって、フルーツ牛乳って飲める?」
「あ、はい。頂きます」
まだ買ったばかりなのか、冷えた状態のフルーツ牛乳を受け取る。
同時に渡された栓抜きを使って瓶のふたを開け、口を付ける。温泉から上がったばかりで乾いていた喉を、ゆっくりと潤していく。
とろりとした濃厚な口当たりと、後を引くフルーツの甘味に、思わず笑みがこぼれた。
「わ、美味しい。濃厚だけど凄く飲みやすい……!」
「一本400円するだけあって美味いよね、これ。通販とかやってたら買い溜めしとこうかな」
「え!? そんなにするんですかこれ!? さ、流石にお金払います!!」
「良いって良いって。これでも結構稼いでるからさ、これぐらいは出させてよ」
慌ててバッグからお財布を取り出そうとすると、雷人さんに止められる。そう言えば、雷人さんって1000万人も登録者が居る有名配信者だったな……。彼の収入からしたら微々たる額かもしれないけれど、庶民の私からしたら余りにも高い値段だ。先ほどまでごくごくと飲んでいたフルーツ牛乳を勿体なく感じ、じっと見つめてしまう。
「他にもいっぱいあるから、遠慮せず飲んじゃいなよ」
「うう、頂きます……」
私の考えている事を見透かしたのか、苦笑する雷人さん。
やはり勿体なく感じ、ちびちびと飲み進めていると、雷人さんが申し訳なさそうに頭に手を添えながら呟く。
「いや、悪い……。俺が渚と耐久勝負しようと言ったばかりにこんな事になっちまって……」
「命に係わるレベルだったら本気で怒ってましたよ。……でも、ただのぼせただけって知れて良かったです。……程々にしておいてくださいね?」
「面目ねぇ……」
ぷくっと頬を膨らませながらそっぽを向く。男の子ってなんでこう、こういう変な勝負をしたがるのだろうか。ゲームの中じゃあるまいし。
雷人さんは一度渚君の方を見た後、こちらへと顔を向ける。
「まあ、紺野さんが付きっきりで看病してくれるのなら大丈夫そうかな。渚も容体悪化してないみたいだし、俺はここら辺で失礼するよ」
そう言い、雷人さんはすっと立ち上がる。慌てて私も立ち上がり、見送る為に部屋の入口まで着いていく。
「えっと、雷人さんってどこの部屋なんですか?」
「俺は205号室だから2階の部屋だね。渚にも用事があったらそこの部屋に居るって伝えといて」
「分かりました。……差し入れ、ありがとうございます」
「いやいや、俺が迷惑掛けたんだからお礼を言われる事じゃないよ。……あ、それと」
そこまで言ってから、雷人さんはにやりと笑みを浮かべて言葉を続ける。
「呼ばれない限りは夜まで来ないから。煮るなり焼くなり、寝込みを襲うなり好きにしてていいからね」
「そそそそっ、そんなことしませんっ!!!」
や、やっぱり見られてた……!! うう、そういう事をするような子だと思われたかもしれない……。
「遠慮しなくていいのに、多分あいつは怒らんぞ」
「だから余計に駄目なんですっ!!」
渚君は優しいから、きっと私がそういう悪戯をしたとしても困ったように受け入れてくれそうだから困る。でも、そうやって無理矢理なんかじゃなくてお互いが望んだ上で──いやいや、何を考えてるの私!?
色々と想像してしまい、顔を真っ赤にしていると、雷人さんは苦笑しながら去っていく。
「じゃ、また夜に」
「はい。ではまた」
何とか雷人さんを見送った後、再び二人きりになる。
先ほど変な想像をしてしまったからか、ただ看病しているだけなのに胸がずっとドキドキ鳴りっぱなしだった。
それから、渚君が目を覚ましたのは一時間後の事だった。
雷人が看病していたらもれなく大事故が発生していました。