開始
生グレープフルーツハイを二人で飲みながら、私は秋吉が話始めるのを焼き鳥を摘まみながら待った。
秋吉は、時より眉を寄せては、頭の中の出来事を少しづつ言葉に変えているように見えた。
いつのまにか、外は暗くなり薄い襖で仕切られた隣の部屋から、賑やかな男女の笑い声がこぼれてきた。
和やかな平日の居酒屋で、私はふと、サラリーマン時代の自分を思い出していた。
確かに、昔は私も職場の仲間と隣の連中のように飲んで騒いだりしていた。
たまに、恋もしたし、楽しかったが、結局私は独身のまま生涯を終えてしまうのだろう。
でも、秋吉は、秋吉はこれから、素敵な伴侶に恵まれて私の知らない幸せを手に出来るに違いない。
この仕事が成功したら。
そう思うと、少しだけ責任感がわいてきて、やはり、私はスマートフォンを取り出し、『シルク』を読んでみる事にした。
が、私が、かの小説を検索するより早く、秋吉が口を開いた。
それは、最終試験。自称軽井沢の別荘で行われた、作者による奇妙なオーディションの話だ。
「話が途中で切れちゃいましたけど、俺、ベンツで目隠しをされて、それから、結構広い綺麗な別荘に連れていかれたんです。」
秋吉は、現実場馴れしたその話を、少し自慢げに、それでいて、恥ずかしそうに話し出した。
目隠しは、多分、屋敷の場所を知られたくなかったからだろう。
だから、軽井沢と相手が言うなら、違う場所にある建物なのだ。
そこまでして、秋吉の何が知りたかったのか、私は謎の作者、音無について興味が出てきた。
この時点で、音無の作品にかける情熱が感じられて少し安心もした。
道楽であれ、なんであれ、この男に作品を作り上げようとする熱意があるなら、悪い仕上がりにはならない気がしたからだ。
「屋敷に入ると目隠しが取られて、控え室に通されたんです。そこには誰もいなくて、よくドラマなんかで見るような、執事の服に着替えるように言われたんですよ。」
秋吉にもそれは、珍しい事らしく、驚きに同意を求めるように目を見開いた。
「しかし…、『シルク』に執事なんて出てきたかな?秋吉の役は、主役の修二郎だろ?なのにどうして?」
私の疑問に秋吉も苦笑した。
「普通のオーディションなら、そんな事はしないけど、素人で初めての自分の作品のアニメ化だから、気合いが入ったんだと思いましたよ。その時は…音無さんは俺のファンかも、なんて、バカみたいなことを考えて。」
秋吉は、その後の事を思い出したのか、急に真面目な顔になった。
「でも、今考えると、本当に馬鹿ですよね。」
秋吉は一瞬、物思いに沈み、私を思い出して話を続けた。
「まあ、とにかく、俺は執事のコスプレをして秘書さんにオーディションの内容を聞いたんだ。」
秋吉は、音無が演じる「旦那様」に仕える4人の使用人を声で演じなければいけない。
名前は、
セバスチャン
ロイ
シャルル
ベン
準備時間に30分もらい、オーディションはスタートする。役作りをするならその時点で、あとはアドリブで乗り切るしかない。
その30分は、秋吉の人生の分岐の30分前とも言えた。
合格して、世の中に認められるか。
不合格で田舎に帰るのか。
覚悟を決めて、秋吉はワゴンを引きながら、ダイニングルームの扉の前に進んだ。
ワゴンの上には、食後のコーヒーの入った銀のポットが置かれ、彼の秘書が、秋吉の身だしなみを最後に確認してくれた。
「それでは、よろしくお願いします。」
初老の秘書は、若い秋吉よりも美しい立ち姿で、まるで本当の使用人に声をかけるように秋吉に言った。
さあ、扉を開いたら、オーディションの始まりだ。