シルク
秋吉の射止めた役柄は、新人作家、音無 不比等の怪奇小説「シルク」の主人公、修二郎だ。
舞台は大正時代。帝大(架空の大学)の若い生物学者修二郎は、全国の山を調査に忙しくしている。
当時、日本は近代化へ力を注いでいて、輸出の花形であった絹糸を作り出す繭蛾を始めとした様々な動植物の調査には、政府や財界も惜しみ無く調査予算をつけてくれ、修二郎は比較的自由に日本を渡り歩いていた。
そんな生活で、修二郎は案内の為に知り合った炭焼き職人の娘、ナツに恋をする。
しかし、身分の違いを気にするナツは、修二郎の気持ちに答えようとはしなかった。
時は過ぎ、1930年商品市場が暴落し、町に失業者が溢れるようになると、家族の生活のためにナツも遊郭へと身を沈める決意をする。
しかし、初めての客に恐怖を覚え、逃げる最中に二階から足を踏み外して植物状態になる。
偶然その事を知った修二郎は、意識の戻らないナツの身請けをするのだった。
ナツを忘れられなかった修二郎は、郊外に一軒家を借り、目を覚ます事のない恋人を献身的に看病するのだった。
が、当時の医療技術では、ナツの生命維持は難しく、一ヶ月もかからないうちに痩せ細り、とうとう余命も幾日か…数えるほどになってしまう。
どうしても諦めきれない修二郎は、せめて姿だけでも留めたいと、ある賭けに出るのだった。
それは、人間の体内に寄生する未確認の虫の卵をナツに植え付けることだった。
全体的に不気味な雰囲気を醸しながら、それでも恋愛描写の美しさに救われる、この作品は、名作とまではいかなくても、少し昔の深夜アニメを思い起こさせて、コメントされるほどの悪い印象は私は受けなかった。
作者の生い立ちはどうあれ、物語事態は昭和の怪奇ものを思い起こさせて懐かしい気持ちになった。
特に修二郎の切ない恋愛描写や台詞回しには、少なからずファンもいるようで、演じ方によっては、本当に秋吉の代表作になるのではないか、と、期待を胸に作品を読ませてもらった。
が、中編程度の物語だったので、私もまだ、はじめの、今、説明した部分まで読むのがやっとだった。
「そうかな?はじめの部分だけを読んでみたけど、よく言われるWeb小説とは少し違って、私のような年配者でも読めるような作品だと思ったよ。江戸川乱歩の小説を読んでいた、そんな子供の頃を思い出させてくれたよ。」
私は、なぜか不安そうな秋吉に正直な感想をのべた。
「製作過程はともかく、久しぶりに面白い作品を読んだ気がしたよ。だから、折角、手にした素晴らしい役をそんな卑下をしなくても良いんじゃないかな?」
私は言葉を重ねて、新しい挑戦を躊躇する若者にエールを送った。
秋吉は、私を見つめて、それから、思い詰めたようにテーブルに視線をさげ、物思いに決別するように、残りのハイボールを空けるとその勢いを借りて、こう聞いていた。
「透也さん…。透也さんは、学者さんでしたよね?じゃあ、知りませんか?人間の体を養分に育つ虫なんて本当にいるのでしょうか?」
彼の真剣な眼差しに…
私は不覚にも笑ってしまった。
彼の年代では、既に「ぎょう虫検査」なんてなくなってしまったのだろう。
不機嫌そうな彼には申し訳ないが、私は毎年学校で配られる通称「マッチ箱」を懐かしく思い出していた。
「ああ、ごめん、ごめん。つい、ぎょう虫検査を思い出してね。君の時代にはもう、あの検査は無くなったのかと考えたら、つい、笑ってしまったんだ。私の時代には、まだ日本も不衛生な環境で、土がむき出しの道も沢山あったから、回虫やぎょう虫の検査があったんだよ。確かに、いるよ、人間に寄生する虫は。」
「…そうゆうのでは無くて、俺の言ってる寄生虫は、あの『シルク』に出てくるような…人間を内側から食い尽くすような、そんな虫の事です。」
秋吉は、真剣に私を見て言った。
酔いが冷めるような、そんな表情に、私も真面目に答えなければいけないと感じた。
「私は、製薬会社の研究員で、一般的な学者のイメージの人物ではないけれど、それでも、私の意見を言わせてもらえるなら、『蛾人間』は居ないよ。」
私の真剣な眼差しを秋吉は、綺麗な黒い瞳で受け止めた。
「モスマン…。確かに、そんなモンスターはいませんね。」
やがて、秋吉は、私から視線を反らして自嘲気味に左の口角をあげた。
「ごめん、あの話には、モスマンのようなモンスターは登場しないのかな?」
秋吉の様子に、私があの小説についてよく知らない事に失望しているのを感じて、私は慌てて言葉をそえる。
蛾人間…モスマンは、1966年年頃のアメリカを騒がせた未確認生物で、映画にもなったモンスターだ。
アニメの声優をしている秋元は、直ぐに反応してくれたが、若者に話しかけても普通は理解されないのだろう。(いや、ゲームにいるらしい)
「ええ、そんな話ではありません。そんな、大掛かりな未確認生物は、『シルク』には登場しないんです。でも…。」
秋吉は、少し感情的になったが、「でも」からの言葉を発することを、ためらった。いや、どう話すべきか迷っているようにも見えた。
私は静かに酎ハイを口に運び、この時点で、秋吉が祝ってほしいのではなく、アドバイスが欲しくてワザワザ私にメールをしてきたのを悟った。
「何か、問題を抱えているんだね?私で役にたつなら、手を貸すけれど。『シルク』を読み終えた方がいいかな?」
私は悩める若者の為にスマートフォンを取り出した。が、すぐに秋吉に止められた。
「いいえ、作品は読まなくても…、俺の話を聞いてくれますか?なんか、上手く説明できないかも知れないし、長くなるかもしれないけれど。その前に、お代わりを頼みましょう。」
秋吉は、明るく笑って注文ボタンに手をかけた。