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猫であること  作者: 藍沢義也
5/7

老猫

ユミに抱かれていたせいで、私は飼い猫だった頃の事を思い出した。

生まれ落ちた時の記憶はまるでない。物心ついたころには、私はすでに家猫だった。

もっとも古い記憶は、家の窓から見ていた景色だ。同じような家がずらりと並ぶ新興住宅街。このもっと先には、見える風景の果てには、一体何があるのだろうと想像したものである。

私が壁を引っ掻いたり、布団におしっこをしたりすると、烈火のごとく家人に怒られた事もよく覚えている。

生後半年くらいで、避妊手術をされた。

これはきつかった。お腹はしくしくと痛んだし、術後一週間は首にカラーを付けられていたので階段を上るのすら一苦労だった。

しかし、この手術のおかげで私は発情するオス猫たちを冷静に駆除することができたし、メス猫達とのオスをめぐる無用のトラブルからも無縁だった。

確かに、私のような優秀な遺伝子を後世に残せないというのは残念ではあるけれど、それはそれだ。今この瞬間に私が生きているという事が何より意味深いのではないかと思うのだ。

飼い猫と言っても様々で、外に出たがらない猫もいる。

私達猫は、自由気ままに見えて実は変化を嫌う者が多い。

必要に迫られない限り、できるだけ同じ生活パターンの繰り返しの中で生きていきたいと思う猫がほとんどなのだ。

しかし、私はそうではなかった。

生まれてこの方、外に出た記憶は一日としてなかったが、それゆえに外の世界への興味はどんどん膨れていった。不安よりも好奇心が勝っていたのだ。

七月頃だったと思う。人間で言うところの思春期といっていいだろう。無分別で、何でも成し遂げられてしまいそうに思える、あのやっかいな時期である。

ついにチャンスがやってきた。

荷物を運ぶか何かで、玄関とリビングのドアを開けっ放しにした家人の隙をついて、私は外の世界に飛び出した。

あの時の事は、忘れっぽい私でも鮮明に覚えている。

最高の気分だった。私を縛るものは何もなく、世界が私のために存在しているように思えた。草も土もアスファルトも初めて触れるものばかりで、ガラス越しに見ていたのとは違う、リアルで鮮やかな景色が最果てもなく広がっていた。

夢中になって歩いているうちに、私はまんまと迷子になった。

はて、もはやどの方角に戻ればいいのかすら分からなくなってしまった。

困ったな、とは思ったがそれほど深刻には考えていなかった。温室育ちのお姫様だったから。

夕刻まで歩いていたら、さすがにお腹がすいた。

けれど、どうやって食料を調達したらいいのか分からない。これまで、食べるものはいつだって自動で出てきたのだから。

誰かに助けてもらおうにも、猫達は縄張り意識が強く、

「あの……」とよそ者が近づいただけで、ふぎーっと威嚇してくる。怖かった。

もういよいよ疲れて歩けなくなり、私はその辺の草むらに潜り込むと体を丸めて横たわった。体力が回復したら、何とか食べるものを見つけようと思った。

しばらくそこでじっとしていたら、

「おい」と呼ぶ声がした。

ぴくり、と顔を上げると道端に老猫がいた。「なにやっとる」

「………」

「そんな所で寝とったらノミだらけになるぞ」

ノミ?ノミってなんだ?

老猫は、じぃっと私を見ると状況を把握したとみえて、

「ついてきなさい」と言って、自分の住まいまで案内してくれた。

老猫が住んでいたのは、古い農家の軒下だった。

ここにいれば余り物を分けてもらえるでな、と老猫が言った。農家のおばさんが餌をくれるのだそうだ。

「もう年だから、獲物を捕るのはしんどくてな」と老猫が言った。「だが、お前さんはまだ若いんだから色々覚えにゃならんぞ。そんな綺麗な首輪しとるって事はなにも知らんのじゃろ」

さすがは年の功で、お見通しであった。

それから、自分の餌を分けてくれた。

「まずは食いなさい。明日から獲物の捕り方を教えてやろう」

こうして、この老猫が私の師匠になった。



主人の妹とユミは、それからも何度か家にやってきた。

さすがに妹君、よく分かっている。こういう事はあまり間を空けない方がよい。火種ができたら、続けて薪をくべるべきなのである。

ユミの目当てはもちろん私であった。

私もその辺りの事は心得ているから、彼女が来るとすぐその膝に乗った。床で遊んでくれることもあった。猫じゃらしの扱いには相当長けていて、はからずも夢中になってしまう私であった。

主人は相変わらず挙動不審であったが、赤い顔をしながらも、少しづつユミと会話できるようになっていた。

「名前はつけないんですか?」とユミが訊いた。

「どこかの飼い猫みたいだから、そのうち出ていくんじゃないかと思って」

ユミは私の首輪を撫でると、

「でも、この首輪ぼろぼろですよ?鈴も錆びて音がしないし。飼われていたのはずっと前なんじゃないかしら。ここが気に入っているみたいだから、きっとずっと居てくれますよ」

「ほぉ」

ユミの推理力は主人より数段上だった。

ユミが私の喉をいじってくると、どうにも意識が飛びそうになる。とろとろとしたまどろみがやってきて、なぜか懐かしい気分になる。

また師匠の事を思い出した。

師匠は、私に獲物の捕り方を徹底的に仕込んでくれた。

かつては彼も相当の達人だったのだろうと思うが、私の才覚はすぐに開花し、師匠が呆れるほどにみるみる上達した。教えがいのある弟子で、師匠も嬉しかったことだろうと思う。

しかし今思えば、なぜ師匠は縁もゆかりもない私に技を伝授してくれたのだろうか。もちろん、私が美猫だからという事は否定しないけれども、おそらくは、生きているうちに何かを残したかったのだろうと思う。

それからすぐに師匠は死んだ。

間際に、師匠は私に言った。

「もうお前に教えることは何もない……」

獲物の捕り方しか教わっておりませんが、という突っ込み所はあったものの、師匠は満足そうに逝った。

一事は万事で、師匠に仕込まれた体術は獲物を捕るだけにとどまらず、特に護身にいたっては多いに役立った。

師匠がいなければ、いくら私と言えどもとっくに野垂れ死んでいたかもしれない。

私は技を磨き、生き抜く工夫と経験を積みながら方々を旅した。

そしてこの街にやってきたのだ。

取り立てて特徴のある所でもないが、暗にしばらく旅はいいかなと腰を据えていたところ主人と出会ったわけである。

ユミの言うように、ずっとここにいるのかは私にも分からない。

猫はきまぐれだから。



私は流れる水が好きだ。

主人が流しで洗い物なんかしていると、気になってすぐに行ってしまう。

トイレもそうだ。

手荒いに水が流れるのが面白くて、便座の上がる音を聞きつけると、毎度毎度かけつけてしまう。

それを面白がった主人が、卓上の小さな噴水を買ってくれた。

私はこれがすっかり気に入ったのだが、おそらく安物を買ってきたのだろう。すぐに壊れて水を噴かなくなった。モーター音だけがむなしく響く。主人のやることは、大抵裏目に出る。

夜になって主人がベットに横になると、すかさずその腹の上に乗る。

「重たいなぁ」と言いながらも、主人は私を腹に乗せたまま本を読み、眠くなったら寝る。

そして朝になり、目が覚めたら適当に起きる。

こんな自堕落で平凡な日々が繰り返されているわけだが、またしても大事件が起こった。

私がサンルームで惰眠をむさぼっていた時のこと、

うおおおおおぉという主人の吠える声に、私は目を開け、何事かと居間に向かった。

そこでは主人がひざまずき、神に捧げる生け贄のように携帯電話を掲げている。

なんだ、どうした。

主人は私の姿を認めると、

「にゃんこ!」と興奮気味に私の頭をがしがしと撫でた。「ユミさんと映画に行くことになった!明日」

なんだと!

これには私も驚きであった。

これはつまり、デートというやつではないだろうか。でかした、主人。

実は妹君のはからいで、主人とユミはメール交換なるものをしていたのだ。

そこで話が進んだのだろう。メールさまさまである。おそらく面と向かったら、あの主人の事だ、一生誘えず終いだっただろう。

主人は能天気に浮かれているが、これはゆゆしき問題でもある。

考えてもみろ、主人よ。お前に女性を楽しませるデートなど出来るか?

いや、出来ない。

私は主人という人間をよく知っている。おそらく緊張のあまり会話すらないに違いないぞ。楽しませるどころか、退屈させてしまうだけだろうに。

初デートというのは、とにかく大切である。ここで下手をやらかすと、一切が雲散霧消となる。

こんなチャンスは二度と訪れないかもしれないのだから、この機を逃すわけにはいかない。

仕方ない。

私はすっくと立ち上がった。この私が一肌脱ぐしかなさそうだ。

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