決闘
私の筋力は完全に回復した。
地を蹴れば、天にも届こうかというほどの猫離れした跳躍力ももはや健在であった。
「機は満ちた」と私はつぶやいた。
私に深手を負わせたあの相手に、一矢報いねば私の気が収まらない。
念入りに爪を研ぎ、私はサンルームから外に出た。
まだ春の終わりだというのに気温は高く、土はひからびた中年女みたいに乾いていた。
アスファルトを避け、日陰の道を歩いていると、
「あねさん!」と声をかけられた。
見上げると、塀の上に"ドロ"がいた。
「お前か」
私が歩みを止めずにいると、ドロはピョンと塀から飛び降りると私の後をついてきた。
こいつの名はドロ。まだ若い雄猫だ。すばしっこくて、人の隙をつくのが上手い。"泥棒上手"からいつしか"ドロ"になった。猫達は長い単語を嫌う。面倒だからだ。
「しばらく見かけませんでしたね。どこにいたんです?」とドロが訊いてきた。
「もうすぐ夏だからね」と私は答えた。
「え?」
「バカンスに行ってたのよ」
「………」
ドロはしばらく押し黙った。
それから、「バカンスってのはどんな街ですか?外国ですか?」と聞いてくるので私はフフと笑った。
「そこはね、バカは入れないっていう、そりゃあ良い所よ」
「へぇ…。今度連れていって下さいよ」
自覚のないバカはかわいい。自覚のある奴は、「自分、頭悪いんで……」といちいちへりくだるのでうっとおしい。
「で、どちらへおでかけで?」
とドロが訊いてきたので、私は歩みを止めて左足の傷痕をみせてやった。
「こいつのお礼に行くのよ」
それを聞くと、ドロはぎょっとして、
「あねさんに傷を負わせるような奴がいるんですか?」
「ちょっと油断してね」
私が再び歩き出すと、ドロはきゅっと顔を引き締めてついてきた。
「一人じゃ危険だ。あっしも行きますよ」
来なくていいと言ったが、ドロは頑として首を縦に振らなかった。
全く、逃げ足の速さくらいしか特技のないくせに無駄に正義感だけ強い。
しばらく猫道を進み、大きな家に着いた。
資産家の家なのか庭も広く、様々な木や植物、花が咲いている。野菜も育っていて、小さな農園のようでもある。主人のほったらかしの庭と違い、きちんと手がかかっているのが分かる。おそらく、庭仕事の好きな女主人がいるのであろう。
「どこにいるんです?」とドロが声をひそめて訊いてきた。
私は黙って、庭の隅の方にあるクスノキを顎で指す。
そして、塀の上からクスノキの枝までひょいと跳び移った。完璧なバランス。
ドロが後を追ってきたが、どうにも危なっかしい。私と比べるのは酷であるが。
「下を見ろ」と私は言った。
「へい。……何もいないようですが」
「トゲ怪人だ」
「トゲ……、アロエのことですか?」
気の根本近くには、そのトゲトゲの植物が群生している。「それが何か……?」
「この間ここで涼をとっていたらね、カナブンの奴が飛んできた」
「へい」
「どうも飛んでるものを見るとちょっかい出したくなるもんでね。飛び上がって猫パンチを食らわせてやった」
「はぁ」
「で、着地したところにあのトゲの野郎がいたわけよ」
ドロは困ったように頭をかいた。
「つまり、あねさん。……その傷はアロエに飛び降りちまって付いた傷なんですね?」
「そう」
「じゃあ、お礼参りの相手っていうのは……」
「無論」
私はひらり、と地に飛び降りた。もちろん、アロエを避けて。「こいつよ」
「………」
決死の覚悟でついてきたドロは、すっかりテンションを落として、なんだかなぁという顔で降りてきた。
だから来なくていいと言ったのだ。
しかし、私には通すべき筋というものがある。
いかなる理由があろうと、この私の美しいからだを傷付けたものは、相手が誰であろうと必ずその代償をはらってもらう。私はそうやって生きてきたのだ。さすがに植物は初めてだったけれど。
向かい合うアロエと私。身の丈は私の三倍。
「葉を一枚もらう」
私はぐっと腰を落とし、爪先に意識を集中させた。失敗すれば、こんどは手に包帯を巻かれるはめになる。
勢いをつけて、アロエの葉の棘と棘の隙間に爪を滑り込ませる。
私の爪が葉をすり抜けると、少し間があって、まるで思い出したかのようにポトリと葉が落ちた。
「すげぇ…」
ドロが感嘆の声をもらす。「動機はともかくとしても」
切り取った葉の根本からは、透明な血がとろりと染み出してきた。
満足。
そんな、なんやかんやもあり、気が付けば半年ほども主人の家で暮らしている。
夏の暑さも一段落して、勢いをなくした太陽の光がちょうどいい。
私はサンルームで寝転びながら、心地よい風を感じ、極楽を味わっていた。うとうとするのに飽きたら、庭には遊び道具の猫じゃらしがわしわしと生えているから一向に退屈しない。
主人がやって来て、壁に体を預けるように座り、あぐらをかいた。
手には小ぶりの湯呑み茶碗と酒の瓶を持っている。まだ宵の口にもならないというのにもう飲み始めるつもりらしい。それでいて、
「お前は寝てばかりでいいなぁ」などと言う。頭がおかしい。
私からすれば、視界も悪い夜に、物音にも気付かずに正体をなくして長時間眠りこける人間のほうがよほど呑気である。私たちはそんな無警戒な真似はできない。おまけに主人ときたら、ろくに仕事をしている様子もないではないか。寝てばかりでいいとはよく言えたもんだ。
週に何度かは車で出掛けるので、何かしらで金は稼いでいるようだが、どんな仕事をしているのか皆目見当がつかない。2,3時間で帰ってくるし。
暇に任せて、何やら書き物をしているようだが、この主人の事だ。だぶんに違いない。賭けてもいい。
私が大きなあくびをすると、主人はそれを感心するように眺めていた。
私は「にゃあ」と一鳴きすると、主人のももの上にぴょんと乗った。主人のあぐらはいいベットになる。そこで丸くなると、主人は丁寧に私を撫でる。そういう時の主人は、いつもよりいっそう目を細くして幸せそうな顔になる。単純で羨ましいかぎりである。
主人は湯呑みに酒を注ぎ、静かに口に運ぶ。
「いい風だなぁ」
年寄りでもない、働き盛りでありながら、ここまでぐうたらしている人間を私は他に知らない。
主人は滅多に掃除をしない。
私という賓客がいるのだから多少は気を使ってもらいたいものだが、それを進言する者もいないし、当の本人がまるで不便を感じていないのだからどうしようもない。
いっそ、土間に住めと思う。
洗濯もいいかげんだ。
さぁいよいよ明日着る下着がないぞという段になって、ようやく洗濯機を回す有り様である。それでいて洗濯物を干したのを忘れ、一昼夜出しっぱなしというのはしょっちゅうだし、乾いたら乾いたでしわしわのまま平気でタンスに突っ込む。
携帯電話の支払い用紙なんかもよく紛失して、あれーどこだったかなぁと毎度探し回る羽目になる。
基本的な管理能力と家事能力が欠落しているのだ。
よくここまで生き延びてきたものだと逆に感心もするが、唯一料理に関してはマメな男である。
経済的な理由もあろうが、私は主人がコンビニエンスストアの弁当やら出前を頼んだりするのを見たことがない。もちろん、暇であることも考慮しなくてはならないだろうが。
たまに友人などが夜酒を飲みに寄ると、ありあわせと言いながらもなかなか手際よくつまみを作る。何かしら特技はあるものである。
「相変わらず汚い家だ」
歯に布を着せることなく入ってきたのは主人の同級生だ。
「そうかな」
一週間前に箒をかけたばかりなのにな、と主人の顔に書いてある。
この同級生というのが、三軒も美容室を経営するというそこそこのやり手起業家である。
経済力もさることながら、容姿、話力、そして女性を引き付ける性的な魅力と、主人とは対極にいる存在である。主人が唯一勝てるとしたら毛髪の量くらいではないか。
あいつは髪を染めすぎたんだろうと主人は言っていた。
どうも話の合いそうもない二人なのになぜか馬が合うらしく、月に一度くらいは顔とグラスを突き合わせていた。
友人にしてみれば、ふわりふわりと浮き世を流れている主人が、ある意味では達観しているように見えて面白いのかもしれない。私には単なる社会不適合者にしか見えないけれど。
酒は友人が持ち込み、肴は主人が作るというのがいつの間にか慣習になっているようだった。
やはり、気の置けない友人というのはいいものなんだろうと思う。
箸と杯が進んでいくと、まるで悪巧みをする学生のような雰囲気にも思える。
これは猫も人間も同じだが、差し障りのない話をしていたところで、結局のところ話は女の事になる。
私は、主人が取り込んだまま山に積んである洗濯物の上に丸まって話を聞いていた。
「いい加減、身を固めるつもりはないのか」と友人が言った。
「またそれか」
「考えてもみろ。一人で老後を迎えるつもりか?体が動かなくなったらどうする。誰が世話してくれるんだ」
「それでは、介護のために結婚するようではないか」
「そうは言わないが…。だけど結婚はしたいのだろう?」
「したくないと言えば嘘になる」
「だったら……」
「だがしたいかと言うとこれまた嘘になる」
「何を言ってるんだ、お前は。まぁ、分かった。でも女に興味はあるんだろう?」
「興味なら人一倍あるぞ」
なぜかそこは胸を張る主人。
「何年か前に町内に出来た病院あるだろう」と友人。
「うん」
「実はそこの看護婦さん達との飲み会に行ってきてな」
「お前、嫁さんがいるのにそんな事してるのか」
「数合わせで呼ばれただけだよ。何もしとらん」
「そうか」
「それでな、もうすごいぞ。ガンガン飲んでべろべろだ」
「看護婦さんが?……はぁ、ストレス溜まってるんだなぁ」
「もう、あれだったらどうにでもなるぞ」
「うーん、そういうのはちょっとなぁ…」
確かに。
主人が泥酔した女性を連れ帰ったところで、介抱して終わるのが関の山だろう。
「そもそもな」と主人が言った。「オレには恋愛の才能がないんだと思う」
何をバカな、と友人が笑った。
「才能で恋愛する奴なんかいるか」
「では本能か」
「まぁそれもあるが、要するに恋愛というのは需要と供給だよ」
「ほぉ、新説だな。聞かせてくれ」
「いいか。女というのは愛されたい生き物だ」
「ふむ」
「そして男は愛したい生き物だ。お互いの需要と供給が一致している。そういうことだよ」
「なるほどなぁ」
酒宴が佳境を迎えると、ありていに言えばお互いべろべろになってくると、話は段々哲学めいてくる。そうなると不思議なもので、何やら昔の文士みたいな喋り方になってくる。
「要するにだ」と友人が言った。
要するに、は酔った彼の口癖である。「全てを疑ってかかるのだ、友よ」
「ふむ。それたどういう意味か?」
「疑わなくなったら終わりだよ、君。疑わないということは信じるという事だ」
「何が悪い」
「要するに、信じるという事はそれ以上考えないという事だ」
「ふむ」
「要するに、当たり前にしてしまうわけだ。それは、己が生きる範囲を固定してしまうという事ではないか」
「確かに」
「だから疑うのだよ、全てを」
「例えば」
「例えば?そうだな。もし人間が空を飛べないということを誰も疑わなかったら飛行機は発明されなかっただろう」
「その通りだ」
「要するに、疑いこそが未知の人生と世界を創るのだよ」
「さもありなん」
翌日にはまるで覚えていないような事を、よくもまぁ熱く語れるものだと思う。
古今東西、男というのは本当に阿呆な生き物だ。もっと実のある話はいくらでもあるだろうに。
私は大あくびすると、ぐいっと背骨を伸ばして、一足先にベットに引き下がることにした。