*第六話*
私は彼の長話に我慢ができなくなって右手をあげた。
「ちょっと待って下さい。あなたは自分の都合のことばかりおっしゃってますけど、社会で辛い思いをしているのはみんな一緒ですよ。不幸な人がいるのはわかりますよ。この国は決してユートピアではありませんからね。どこもかしこも、老いも若きも立派な競争社会です。でもね、自分の不幸を他人に押し付けるような真似をしたら、それもダメだと思うんですよ。なるほど、こんな競争社会では思い通りにならない人生もあるかもしれない。知らない内に一人取り残されていることもありますよね。でもね、それでもみんな歯を食いしばって隙間を探しているんですよ。どこかに自分の居場所はないかなってね。バブルの頃みたいに席は多くないですけど、それでも小さくて汚いけど空いている席はある。好きでもない人に頭を下げるのが嫌なのはわかる。他人とうまく共存できないのもわかる。でもね、それでも、我慢して進まなきゃいけないんですよ。みんながあなたみたいな屁理屈をこねて犯罪に走っていたら、とんでもない社会になってしまいますよ。騙す側もね、一時はいいかもしれませんが、いずれは自分が騙されるわけです。上には上が、下には下がいますからね。やはり、勉強する時間を惜しまずに真面目にやってきた人達は報われるべきでね。いや、私も他人に自慢できるような立場にいるわけじゃないですけど、それでも今は納得してますよ。ああ、裕福にはなれなかったけど、とりあえず生きていて良かったなあってね。他人の家を間借りしてまで汚く生きるより、まず自分を見つめ直すことですよ。道を踏み外しちゃいけません。間借りなんて楽な道を選んでしまうと、どんどんダメな人間になってしまいますよ。あなたが言うようにこの世界は下に向かっていくとキリがないですからね」
間借り人の男はうんうんと頷きながら聞いていた。そろそろ、反省するか納得するかして出て行って欲しかったのだが、まだ席を立とうかという気配は見えなかった。彼はコーヒー一杯で粘る喫茶店よろしく、自慢の饒舌で仕事までの時間いっぱい粘るつもりなのかもしれないが、彼が自分のやっていたことを悪いと思ってくれなければ、それは明日もまたここに来るということで、私としては非常に困ったことになるのである。それだけはなんとか避けたかった。私も再三警察という言葉で脅しているが、できればこれを事件にせずに穏便に解決したいとも願っていた。警察が介入して大事になってしまえば、他人に何年も家を使われていた私の心の傷はさらに深くなってしまうからだ。他人に家を使われていて気づかなかった自分の愚かさを第三者に語るつもりもない。私はもう、この男が一言謝罪して出て行ってくれれば、それでいいと思うようになっていた。百歩以上譲っているつもりなのだが、それでも、この男に通じてくれるかわからず不安だった。
「いやあ、あなたはやはり立派な人だ。こんな私を責めもせずに逆に真理の道を指し示してくれるなんてね。仏のような人ですね。しかしね、やはりそれは善の側から見た真理であってね、我々には通用しないところもあるんですよね。もうね、言ってしまえば、そういう人生の分岐点は過ぎちゃったわけですよね。数年前、4年くらい前かな? 自分がまだ社会に溶け込めると思ってたあの頃、純金のように無垢だった心。お金を入れればその分商品を出してくれる自動販売機のように、人生も努力をすればするほど報われると思っていた……。でも、私は悪魔も声に耳を貸しちゃったんですよね。酔い潰れて寝ているところを、黒いスーツの男に都会の道端で突然、『人生は上手くいっていますか?』ってね、尋ねられましてね。いってるわけねえだろ! ってね、そう答えましたよ。当時は何もかもがうまくいかなくてムシャクシャしていましたからね。金もなければ女もない、居場所もない、本当に社会からつまはじきにされていましてね。そんなときにその男は『それでは、あなたに家を紹介してあげよう』と言うんですよね。そりゃあ、私だって、最初は怪しいと思いましたよ。でも、その男が言うには、住宅街のアパートやマンションには昼間使われていない家がゴマンとある。そういう家は持ち主もきちんとしたスケジュール通りに生きているから、昼間忍び込んでも見つかる心配はないって言うんですね。眉唾な話でしたが、都内では数万軒の家が昼間は無人で放置されているって言うんですね。そこにはテレビもあればステレオもエアコンもパソコンもある。すべて使い放題だって言われましてね。その男はこれは犯罪だとは言わずに、しきりにもったいないと言っていましたね。そういう高価な電気製品が昼間使われずに置いてあるのはもったいないとね。君がそういう家でのんびりしたいのなら、一軒空いている部屋を紹介してあげようってね、うまいこと誘われてしまいまして、断ることもできたんですが、私は乗ってしまいましたね。金に困っていたっていうこともありますが、それよりも社会への復讐ってのも大きかったかな。自分をここまで追い詰めた社会へのね」
「それでは、質問させて下さい。二年間も他人の部屋を使ってきて、心が痛むような罪悪感はないんですか? それに反省の弁も一度もないようですが……」
私は恐る恐るそう尋ねた。
「あなたには申し訳ないですが、それはないですね。私はここを出ても次の間借りできる部屋を探すだけです。なぜって、私は人生を自然に歩んできてここへたどり着いたからですね。世の中には、生れつき家柄がよくて、勉強もできて、道なりに進んでいたら桃源郷だったっていう人もいるでしょうけど、私はそうではなかった。泥棒と言われても文句は言えませんけど堂々と生きていきますよ。私にこの仕事を紹介してくれた男は昼間空いている家の有効利用だと言っていましたが、私もそう思うことにします。罪悪感なんて糞喰らえです。今、家を乗っ取られていたあなたの心が少し痛んだと思いますけど、それは社会から迫害されてきた我々も一緒なんですよね。ですからね、こうやって少しずつみんなで不幸を分け合いながら、社会の真っ黒な不幸を薄めていく方がいいと思うんですよ」
男はそこで一度話を止めて、野菜ジュースの最後の一滴までグイッと飲み干した。
「それでは、言いたいことも大体言ったので、私は帰ります。あなたには本当にお世話になりましたね」
「もう二度と来ないと約束して頂けますか? これは、あなたの組織の他のメンバーも含めてですが……」
私が不安そうにそう言うと、間借り人の男はニッコリと笑って立ち上がった。
「では、組織の幹部にそう伝えますよ。この家は我々の組織の内情を知ってしまったから、もう間借りはできないとね。間違いなくそう伝えます。明日の朝になり、あなたが仕事に出かけても、もう誰も来ないはずですよ」
「それは助かります。私もあなたがたの人生に同情しないわけではないんですが、何しろ会社のいうものに所属してますと、どうしても、規則に縛られてしまい、法や道徳といったものを重視してしまうんですよね。応援はできませんが、これからも身体に気をつけて頑張ってください」
私は廊下を歩んでいく男の後を追いかけながら自分の喜びをそのように表現して伝えた。その男の歩む、玄関までの一歩一歩が私の精神の解放を意味しているような気がした。男は慣れた手つきで靴べらを使って自分の運動靴を履くと、ドアを静かに開けた。
「それではお邪魔しました。また何かのご縁がありましたらお目にかかります。あなたも体調に気をつけて仕事の方を頑張ってくださいね」
男はそう言って一礼すると、小走りに立ち去っていった。私はようやく重圧から解放され、肩から重い荷物が降りた気がして、床に座り込んでボウーッとしてしまったが、しばらくして、居ても立ってもいられなくなり、電話の受話器を取ると、母親のいる実家に電話をかけた。彼女にできるだけ詳しく事情を話すと、母親は少し強い口調で、「それは口が上手いだけの、ただの泥棒だから早く警察に電話しな」 と教えてくれた。私が我に返ったのは受話器を置いてしばらくしてからである。
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