冷房のない夏の日
暑い暑いと騒いだところで、夏の暑さが和らぐわけでもなく、ただひたすらに秋になるのを待つだけだと思う。
蝉の鳴き声をBGMと風鈴の音をBGMにすると風流かもしれないが、実際は徐々に苛立ち始めるもので、斜め後ろで丸椅子に座っていた彼女は、タンタンと床を踏み鳴らしている。
彼女が美術室にやって来たのはほんの数分前のことで、夏休みだと言うのに小説のデータをまとめる作業をするとかで登校していたらしい。
部室には冷房なぞ付いておらず、扇風機を出して作業をしていたらしいが――因みにその扇風機を何処から持って来て出したのかは聞いていない――印刷のために印刷室を訪れたら、全ての印刷機械が故障していて美術室に来たとのこと。
何故美術室なのかも聞いていない。
「……美術室って冷暖房完備じゃないんだね」
はぁ、と吐息混じりに出された言葉に振り返れば、いつの間にかアイスを口にしている彼女。
画材の乗せられた木製のテーブルに肘を置いて、丸椅子に腰を下ろしたまま、ぼんやりとアイスを齧っている。
シャリシャリと涼し気な氷の音がした。
美味しい?と問い掛けてみれば、冷たいとほんの少し外れた答えが返ってくる。
コンビニで一番安い水色の氷菓子。
アイスとしての分類は氷菓で、サイズは今主流のアイフォンくらいのもので、当たり外れの書かれた棒付きのもの。
「図書室とかパソコン室ならあるよねぇ」
「……印刷室にも付ければ良かったのに」
「器械のあるところには必要かもねぇ」
一口が小さいらしい彼女は、のんびりのんびりとアイスを口にする。
舌の上で転がすように閉じた口が円を描くように動く。
それを見ながら、ヒーターはあるんだよ、と答えるが、緩く首を振られてしまう。
その度にサイドで結えられた髪の毛が、ふわふわと小刻みに揺れる。
「それは冬に使うものだよ」と呟いた彼女は、また水色に齧り付く。
水滴が飛ぶのを見ていると、彼女の周りだけが光っているような錯覚に陥る。
そうだねぇ、と笑えば肩を竦められてしまった。
暑いことが嫌そうにタンタンと床を踏み鳴らしているのに、汗一つ浮かばない青白い肌は、夏という季節に合わないくらいに露出がない。
半袖らしいワイシャツに、本人曰く薄手の長袖パーカーに、校則を守り続けるスカートとストッキング。
そんな格好をしていたら暑いだろうに、彼女は眉を寄せているだけだ。
「……作ちゃん」
「んー?」
「ちょっとごめんね」
キャンバスから離れて立ち上がり、彼女の手を取る。
見るよりも小さく感じられるその手は、白く細く頼りなく、その上冷たい。
ひんやりとした陶器のような冷たさに驚いて、眉を寄せれば、ゆるりと目の前で傾けられる首。
「……作ちゃん、何で、こんなに冷たいの」
汗なんてかかない、とでも言うような涼し気なまでの無表情に、薄らと浮かび上がる疑問符が見えるような気がした。
シャリシャリ、氷を噛み締める音の隙間に、あー、と小さな唸り声。
体温がないわけではないが、この季節に何でそんなに、と思うほどの冷たさがある。
厚着と言ってもいい格好なのに、熱が篭らないのか。
答えを待つ俺を前に、ふわりと黒目が宙に向けられた。
「夏は冷たくて、冬は温かいんだって。皆に言われたよ」
俺の触れている手の指先を動かしながら、水色の氷を噛み締める彼女の言う皆には、心当たりしかない。
いつも彼女と一緒にいる幼馴染み達だろう。
と言うことは、これは普通、なのか。
きめ細かい肌の手を握り締めてみれば、ほんの少し俺の体温が移ったような気がする。
氷菓子のせいで血の気のない色の舌を見せながら、手汗だねぇ、と笑う彼女に、今度は俺が肩を竦めた。
アイスを口元に当てて笑っていたせいか、あまりにものんびりとしたペースで食べていたからか、彼女の体が小さく動いた時、溶けた水色が落ちる。
半分程度しか減っていないのに、アイスの持ち手の方から溶けてきていた。
重ねた手の上に落ちたそれを見ながら、彼女はあーあ、なんて他人事のような呟きをして、残りのアイスを全て口の中に入れてしまう。
犬歯を見せるような口の開け方をする彼女は、初めて見たかもしれない。
「うっ、冷た……って、おぉ?」
水色に濡れた俺の手と握り締めたままだった彼女の手を持ち上げれば、冷たさに顔を歪めていた彼女が真っ黒な瞳を大きく見開く。
今にも零れ落ちそうな瞳を見ながら、水色を舌ですくい取れば、引き笑いのような声が聞こえる。
「んはっ、ははっ。そういうタイプだっけ?崎代くんって。意外だなぁ、予想外だなぁ。ははっ」
細い指先が緊張で固まっているのが、舌から伝わってくる。
ケタケタと笑い声を上げる彼女は、床を踏み鳴らしていた足を止めて、パタパタと上下に振った。
脛の辺りを蹴られそうになった瞬間に、予備動作もなく美術室の扉が開かれて、眼鏡に白衣の先生が俺達を見て溜息を吐き出す。
タイミングぅ、と笑ったのは彼女で、思ったのは俺。
そうしてもう一度溜息を吐いた先生は、職員室の印刷機器が使えるから来い、と吐き出す。
端正な顔を歪めているのを見て、彼女は楽しそうだ。
なかなかにいい性格をしている。
掴んでいた手をゆるりと離されて、光の反射する手の甲を俺の唇に押し付けて、唇だけで笑う。
長い前髪が揺れるのが挑発的で、やっぱり汗の一粒も浮かばない彼女は涼しげだ。
アイス食べる必要なんかないんじゃないかってくらいに、涼しげだ。
「暑さで崎代くんも駄目になるのかな。ってことで、これあげるねぇ」
するりと腕を下ろした彼女が代わりに押し付けてきたのは、食べ終えたアイスの棒で、俺に握らせて満足したように頷くと、職員室に向かうために美術室を後にする。
残されたアイスの棒には『当たり』と印字されていて、何だかなぁ、と笑ってしまった。