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ねこねこ

作者: 永青紅葉

昨晩から降り続いている雨は、夜になっても一向に止む気配がない。

隣の町では、洪水警報も出ているほどだ。

叩きつけるように降る雨の中で、俺は軽快に自転車をこいでいるのだった。


俺は明日のパーティーの準備で大慌てだった。

俺がここまで慌てなければいけないのは、俺、北野鉄平という人物が物事を何でも後回しにしてしまうという性格であることに起因するのだが。

明日のパーティーは、小さいころからかわいがってくれていた元近所のかける兄ちゃんの誕生パーティーなのだ。元、というのは、今は東京の何とかという会社に就職していってしまったからだ。明日、かける兄ちゃんが誕生日に久しぶりに家に来てくれると聞いて当時の仲間を集めてパーティーをしようということになった。まあ、パーティーとは言っても5人程度のこぢんまりとしたお家パーティーだが。

みんなが集まるのも久しぶりだな、なんて思いながらケーキを作ろうとしていた。買ってきたスポンジを取り出して、イチゴ、グラニュー糖などと材料を取り出していると、気づいた。

「生クリーム忘れた」


そんなわけで今合羽を着て土砂降りの中自転車を走らせている。

多分一般的に当てはまることだろうが、日本では田舎に行けばいくほど自転車が必須アイテムになるのではないだろうか。俺の住んでいる田舎も田舎では、自転車がないと何もできない。何もできない、とは言い過ぎかもしれないが、一番近くのスーパーマーケットまででも自転車で2、30分かかる。山の上だから帰りはもう少しかかるかもしれない。もちろん電車はおろか、バスさえも通っていない。

街灯の頼りない明りにときどき照らされながら、俺は自転車をとばす。この辺りは夜になると特に車の通りなど皆無だったのでその点は安心して、しかしスリップしやすくなっている道に注意しながら順調に走っていき、難なく店につく。目当ての生クリームと、ついでに100均で鼻眼鏡を買って、帰途についた。

山を下りたところは一応住宅街になっていて、街灯もしっかりしている。その分車の通りも多いため、気を付けて走る。走っていると次第に明かりの間隔は広くなっていき、車の通りも減っていく。

きつい坂道を登り切り、あとは家まで一本道のはずだった。

不意に前方の横道から自動車のライトと思われる明かりが明々と前の道を照らしだした。完全に油断しきっていた俺は、慌ててブレーキを思いっきり引き、ハンドルを横に倒した。

無論、そんなことをしたので俺はバランスを崩し倒れてしまった。足に鈍い痛みを感じた刹那、前方を大きなトラックが通り過ぎて行った。

暗くて見えないがきっと足をすりむいて血くらいは出ているだろう、が大したことはないはずだ。自転車でこけることには慣れている。見えなくてもそのくらいの判断はつく。


しかしそれにしても久しぶりにこけたな、と思いながら立ち上がり、自転車を持ち上げたとき一瞬ついたライトで何かが照らされた。なんだろうと思い、近づいてみると段ボール箱が雨でぐちょぐちょになっていた。なんだ段ボールか、と思い自転車にまたがろうとしたとき、にゃー、と中から声がする。恐る恐る段ボールを覗き込んでみると、いた。目だけがわずかな明かりを反射した猫がそこに。

こんな雨の中こんなところにいると風邪をひいてしまう、と思わずその猫を拾い上げ、かごに乗せた。どうせびちょびちょだし、家まではそんなに遠くない。俺は自転車を押して家に帰った。


家に帰って自転車を止め、自分の体をふくのもほどほどに、その猫の体をふいてやった。特に嫌がる様子も見せず、されるがままに体をふかれた後は全身を震わせはしたが玄関でおとなしくしていた。どうやら人間に慣れているようだ。

真っ黒だった。首も、体も、足も、尻尾も頭も真っ黒な毛におおわれていた。目だけが金色だった。

今まで見たどんな猫よりも、綺麗、だった。


そのあとは一緒にシャワーを浴びた。

シャワーを浴びてる間も終わって拭かれている間も、猫はおとなしくしていた。そうだ、名前を付けてあげないと。

散々悩み倒した挙句、結局シンプルに『クロ』となった。


しばらく見ていたが、クロはおとなしく目を離しても大丈夫なようだったので、俺は安心してケーキ作りに専念した。

生クリームを塗り、イチゴを乗せ、意外と見事なショートケーキが完成した。冷蔵庫にしまい、明日使う小道具類をまとめた後居間に戻ると、クロはじっとテレビを見ていた。


遅くなったけど軽く晩御飯にするか、と立ち上がり冷蔵庫に向かうと、クロがついてきた。なんだろうと思っていると、わかった。クロは多分何も食べていないのではないか。

鳥のささみをゆがいてあげると、クロはむさぼるように食べだした。すぐにお皿は空っぽになった。俺も冷凍していたカレーを温め、晩御飯とした。

使っていない布団を取り出し、床にひいてやった。夏なので風邪をひく心配はないだろうが念のためかけてやった。

そして俺たちは眠りに落ちて行った。


「……鉄平」

誰かが俺を呼ぶ声がする。

目を開けると、クロが俺の上に足を置き、みゃーみゃー鳴いていた。


てなわけで次の日、パーティーの当日となった。天気は昨日とうってかわって晴天であった。

パーティーの開始は午前10時からだが、準備のためにかける兄ちゃん以外は早く集合することになっている。8時を過ぎたあたりから、一人、二人と家にやってきた。最初に来たのは翔子お姉ちゃんだった。翔ねぇはクロを見るや、「かわいい」と目を輝かせながら抱きかかえていた。次にやってきたのは同い年のめぐみだった。めぐみも翔ねぇが抱きかかえているクロを見て一目散にかけよっていった。

それから30分くらいしてから、みのるがやってきた。こいつは俺やめぐみより2つ年下で高校生であり現在も付き合いは多少ある。ちなみに、おれもめぐみも現在絶賛大学生である。

「鉄にぃなんか珍しいの持ってるじゃん。俺にも触らせてよ」

そう言うとみのるもクロの輪に交じる。なんだか微笑ましい光景だ、まるで昔に戻ったみたいで。最近はみな忙しく遊ぶことはおろか集まることすらなかなかできなかったのだから。いや、もしかしたら集まることを恐れていたのかもしれない。俺たちの絆が美化された過去の思い出でしかないかもしれない、と心のどこかで恐れていた部分があったように思えた。正直、今日だって集まって初めにどう接すればいいのか図りあぐねていたのだから。その点、クロには感謝しなければいけないだろう。

「ほら、クロにかまってばかりでかける兄ちゃんが来たとき準備が終わってなかったじゃシャレにならないだろ。手を動かす」

俺の一言で、みな作業にかかっていったのであった。


「それにしても、鉄平、変わったね。昔は物怖じした感じで何も言えなかったのに……今じゃ立派なリーダーじゃないか」

9時40分。準備もほとんど終わりあとはかける兄ちゃんを待つだけである。

「いつまでもかける兄ちゃんがそばにいてくれるわけでもないしな。人間、適応するものなんだって。翔ねぇだって以前より感情を表に出せるようになったじゃんか」

「私だっていつまでも過去にとらわれてるわけじゃないんですよー。ねー、クロ?」

クロはなんだかわからないという顔をして首をかしげるだけだった。


翔ねぇは、俗っぽい言い方をすれば親に捨てられた子供なのだ。

翔ねぇが小学生のころである。いつものように家に帰ると、そこに帰る家はすでになかった。正確に言うと、家ごと丸ごと差し押さえられていたのだ。両親は幼い一人娘を一人残し夜逃げしたのだった。

幸いというべきか翔ねぇは近くに住む親戚の家に住まわせてもらうことになった。親戚はとてもいい人たちで翔ねぇのことをいじめたりなどするはずもなく、むしろ実の子のように育て、周りの悪い噂にも徹底して戦ってくれた。そのためか今ではそのことを話題に上げようとする人なぞいなくなった。しかし、その一方で翔ねぇが受けたショックは計り知れず、何年間もふさぎ込んだままであった。中学校にあがるころには大分持ち直してきてはいたが、以前のような笑顔は見せてくれなくなっていた。


「もう、しんみりしないの。今私は元気だし、『大切なのは今』だよ」

「そうだな。それ、かける兄ちゃんの口癖だったな」

そういうと俺たちは立ち上がった。



結局、かける兄ちゃんが来たのは、10時を5分ほど回ったころだった。

それは、10時前から今か今かと待っていた俺たちが油断した瞬間だった。時間になる前から、クラッカーを準備して待機していたのだが、誰かが言い出した『いつものように遅刻して来る説』にみんな同意し、気を抜いた瞬間であったのだ。

「よ、どうしたみんなそんな驚いたような顔して」

「かける兄ちゃんが…5分しか遅刻しないなんて…」

はっとしたように翔ねぇが一番に立ち上がり、クラッカーを鳴らした。

つられたように次々と空砲を轟かすクラッカーたち、ぐだぐだもいいところだ。

でも、きっとこれが俺たちなんだろう。どこからともなく笑いが起き、そして

「誕生日おめでとう、かける兄ちゃん!!」

和やかなムードに包まれた。ただ一人、いや、ただ一匹、クロを除いて。


かける兄ちゃんはなんだか以前より痩せたように感じた。もともと痩せていたのに、やせすぎじゃないかと少し心配する。仕事はやはり大変なのだろうか。

「クロもこっち来いよ」

「あれ、鉄平、猫なんて飼ってたのかよ」

「え、ああ。昨日拾ったんだ」

「きれいな猫だな…クロっていうのか。よし、おいで、クロ」

クロはなぜか一瞬戸惑ったような表情を見せ、そして、何かを覚悟したかのように目を閉じ頭を下げて震わせてからかける兄ちゃんにゆっくりと近づいて行った。

俺は、一瞬、他の人にはまっすぐに向かっていったのにおかしいなと思ったが、次の瞬間には忘れてしまった。

クロが今までで一番幸せそうな顔をしたからだ。

「あれ、なんかかける兄ちゃんにとてもなついてるみたいだね。兄ちゃんが飼ったらいいんじゃない?とかね」

めぐみは冗談めかして言った。

「いやいや、俺のマンションペット禁止なんだよ」

かける兄ちゃんはやんわりと断った。そこでも笑いが起こった。

俺はなんだかクロがとても悲しそうな表情をしているように見えて少し切なかった。


パーティーはつつがなく進行し、そして終了した。

パーティーの最中、クロは空気を察したのかずっとかける兄ちゃんの膝の上にいた。

今は一年で一番日の入りが遅い時期であると言われているだけあってもう夜の7時過ぎであるのにやっと日が傾いてきたころである。俺たちはそのまま近くのファミレスに夜ご飯を食べに行った。近くと言っても自転車で2、30分くらいはかかるが。

「星がきれーい」

風を颯爽と切りながらめぐみは言った。走ってるうちにあたりは真っ暗になっていた。

「あれがわし座のアルタイル、こと座のベガ、……」

「んであれが白鳥座のデネブ、こっちがさそり座のアンタレス、でしょ?」

みのるは昔から星座に詳しく、おかげで俺たちは主要な星の位置は覚えてしまっていた。


「あー腹いっぱい」

「かける兄ちゃん、食いすぎでしょ。でもごちそうさま」

「ごちそうさまでしたー」

『今日はパーティーのお礼だ、学生は金ないだろ』と言ってかける兄ちゃんがご飯をおごってくれたのだった。気づけば10時過ぎ、自転車を押して坂道を上っているところである。

「かける兄ちゃんは今日は俺ん家に泊まるんだよね」

「おう、お世話になるぜ」

「あたしも泊まりに行こうかな」

「あー、翔ねぇずるいー、私も私もー」

「それなら俺も泊まりたいな」

「おいおい、俺ん家は旅館じゃないぞって」

一人暮らしにあこがれる時期はいつでもあると思う。俺は大学に行くときに一人暮らしをすることを決意した。ただし、俺の場合は少々事情が違って両親が祖父母を介護するために家で預かることになったのだが、その時にちょうど空き家になった祖父母の家に一人暮らしをしているのである。昔は珍しかった共働きの両親のため、元気だった祖父母の家によく預けられていた。その時の友達がこいつらである。翔ねぇもめぐみも一人暮らしで遠くに行ってしまったので、会う機会も少なくなってしまっているが。

ともかく、そういうわけで俺の家は一般的な大学生の一人暮らしよりもずいぶん広い家に住んでいるのである。もちろん、デメリットもある。掃除が大変、とか。


「なんか久しぶりだな、みんなで泊まるのって」

「小学生のころ以来かな、部屋も思ったより狭くなったね」

「めぐねぇ、俺らが大きくなったんだよ」

「わかってるわよ」

今日は全員で雑魚寝状態である。俺はベッドより布団派である。

「あ、かける兄ちゃんの誕生日あと10分だ」

楽しい時間はすぐに過ぎ去ってしまう。

あの後、みんなで酒を交えてトランプしたり、ちるのいしたり、某大乱闘ゲームしたりした。もちろん、負けたやつが飲む。

夜遅くに多少騒いでも大丈夫なのが一軒家の強みだ。

クロはすでに眠ってしまっていて、帰ってきたときにちらりとこっちを見た後睡魔に負けたかのように寝入ってしまった。

「クロ見てたらなんだか眠くなってきた」

翔ねぇはいつも割と早く寝る人なのであるらしい。

「じゃぁ眠い人から順次寝るってことで。かける兄ちゃんはどうする?」

「明日は日曜だし、できるだけ付き合うぞ。おまえらは大丈夫なのか?」

「大学生は刹那を生きる人種だからー!」

「高校生も!」

こうして、俺たちのどんちゃん騒ぎは夜が白み始めるまで続いたのであった。


――「……だめだ!」

  「……どうして!?……私たちの……」

  「いいから……」

  なんだか喧嘩をしている声が聞こえる。これは夢か。


「うわぁぁぁぁぁぁあ」

叫び声で目が覚めた。かける兄ちゃんの悲鳴らしい。

まだほかのみんなは夢の中だった。いや、いつの間にかみんなの真ん中で寝ていたクロも耳を立ててこちらを向いていた。

「どうした?」

「いや、ちょっと悪夢を……起こして悪かったな」

なんだか恥ずかしそうに頭をかくかける兄ちゃん。その額には冷や汗をかいていた。

今日はかける兄ちゃんが東京に帰る日である。


「うわ……頭痛い……」

めぐみは二日酔いのようだ。一番負けてたからだろうか。かける兄ちゃんなんてあれだけ飲んだのにぴんぴんしてるし、翔ねぇは早く寝たせいかなんともないようだ。

かくいう俺は昨日勝ちまくったおかげかすっきりしている。

もう時間は昼の12時だ。昼ご飯を食べに行こうということになった。


毎回2、30分の道を自転車で行くのはだるいが、しょうがない。

田舎は店が少ないのだ。昨日と同じファミレスについた。今度は支払いは各自であった。


それから家まで帰り、話をした。

たくさん、話をした。

かける兄ちゃんが帰る時間になった。


「じゃ、タクシーで飛行場まで行くから。今回はありがとな、また会いにくるよ」

俺たちはかける兄ちゃんと家の前でさよならした。そして、なんとなくそのまま解散となった。

「2人だけになっちまったな、クロ」

「にゃー」

みんなのいなくなった家は、なんとなく以前よりもっと寂しくなった気がした。



夢を見た。

わかるだろうか、『ああ、これは夢なんだな』と、夢の中なのにわかる夢。

ここ数日はそんな夢ばかり見ている気がするが。


――「約束通り……だから……」

  「わかった。……は……だからな」

  「……、ねぇ、……」

  その言葉の後ドアを閉める音がした。


「……鉄平」

また誰かに名前を呼ぶ声がした気がした。

いや、気がしただけじゃなかった。俺の枕元には17,8歳くらいの少女が立っていた。


「だ、誰ですか!?」

俺は飛び起き、あたりを確認した。そこは正しく自分の部屋であった。

少女と正面から対峙する。よく見ると、その少女は綺麗だった。真っ黒のショートヘアに真っ黒のジャージ。

しかし、今まで見たどんな人よりも、綺麗、だった。

「……クロ?」

言ってからはっとした。頭に浮かんだまま言ってしまったが、猫と間違えるというのはあまりに失礼ではないだろうか、と。

予想通り少女は首をかしげている。

「あ、いや、その……ごめんなさい?」

「どうして謝るの」

一息おいて、彼女は言った。

「そう、私はクロ。よくわかったわね」


俺はクロと名乗った少女と座って話を始めた。混乱しすぎて一周回って冷静だったのだ。

拾われた経緯、昨日のパーティーのこと、すべて正しく話してくれた。それ以前のことについては口を閉ざしていたが。

「足の怪我、大丈夫?」

「ん、ああ。大したことないって。ありがとうな」

なんとなく、直感だが、こいつはクロだ。と思った。

同時に、今日大学を自主休校することを決めた。


彼女は静かに座っていた。

「そういえば、本当の名前はなんていうんだ?」

「本当の名前?」

「ああ、俺に拾われる前につけられてた名前かな」

「……なかった」

何か話さなくては、という鉄平の心づかいのつもりだったのだが、どうやら地雷を踏んでしまったようだ。過去のことはこれ以上詮索しないほうがいい、と一つ学んだ。

し、ん

と、水を打ったようにまた静かになった。

とりあえず昨日のかたづけをしようかと思ったのだが、さすがはかける兄ちゃん。きれいに片づけて出て行く器用さと礼儀正しさが今は憎々しい。

また沈黙になるのも嫌だったため、掃除機でもかけようとしたところ、

「それ、やらせて」

彼女が手伝いを申し出てきた。

「やったことあるのか?」

「……ない」

俺は掃除機の使い方を簡単に教え、やらせてみた。

するとどうだろうか。彼女は器用に掃除機をかけ始めた。もう俺よりうまいんじゃないかってくらいに。掃除機をかけるのに上手いも糞もあるかと思うかもしれないが、初めてでちょっとぎこちないところを除けば、角まで塵を残さず丁寧に仕上げてくれた。


時刻は午前10時になろうかというところである。今日は時計の調子が悪いのか時がなかなか進まない。

「そういや朝飯食ってなかったな。どうする?」

「鉄平の好きなようにすればいい」

俺は、二人分の目玉焼きと、冷凍のご飯を温め、みそ汁を作った。

俺、実は自炊男子なんだぜ。


「いただきます」

「いただきます?」

「ご飯を食べる前に、こう、あいさつだ。神様に感謝するんだ。今日もおいしいご飯をありがとう、ってな」

「神様に感謝……。感謝する。ありがとう」

「大げさだなぁ、まぁ、いいことだし、たまにはしっかり感謝しなくちゃな。ありがとうございます、っと」

彼女に箸の使い方を教えると、すぐに使えるようになった。この分だと自転車にもすぐに乗れるようになるんじゃないか、と思いついた。

「ごちそうさまでした」

「それも感謝のあいさつ?」

「そうだ」

「へぇ……ごちそうさまでした」

「よろしい。っと、さて、これから時間あるか?」

「用事は特にない。どうして?」

「自転車に乗る練習をしてみないか、と思ってな」

「自転車?」

「まぁ、いいから外に行くぞ」

「うん」


俺の家には自転車が2台ある。中学生のころ自転車を持っていなかった俺は、どうしても自転車がほしく、誕生日プレゼントに自転車をリクエストし続けた。

するとどうだろうか、両親と祖父母の両方がそれぞれ自転車を買ってくれたのだ。長く使えるようにと大きめのやつを。

俺は自転車を長持ちさせ、今でも2台とも乗れる状態にあるのだ。

その自転車を押しながら、俺たちは近くの公園に向かった。俺の住む田舎には土地が余っているせいか無駄に大きい公園があるのである。

彼女はもちろん、自転車などのったことはなかったため、一からの出発である。

最初は後ろを支えてやり、一緒にゆっくり走った。ちなみに自転車と言えばかける兄ちゃんは一日で自転車に乗れるようになったという伝説を残している。

何度も転びそうになりながら、そして実際に何度か転びながら昼過ぎまで練習した。なかなか筋がいいのか何度か一瞬バランスをとれるようになったが、やはりなかなかうまくはいかない。

「昼飯にするかー?」

「いえ、もう少しやらせて」

なかなか負けず嫌いなところがあるようだ。

「いいけど、帰ってから昼ごはん作らなきゃいけないんだからな」

結局、昼の3時になっていったん戻ろうと説得するまで、彼女は練習を続けたのだった。


家に戻り、かなり遅めの昼ご飯を作る。

「テレビ付けるぞ」

テレビをつけると、彼女はごろごろしながらたまに見ていた。

「案外驚かないんだな」

普通、アニメや漫画ではこういう時、『箱の中に人が入ってる、どうなってるんだ!?』と驚き食い入るように見たり裏を覗き込んだりするのだが……

「それは猫のときに経験済みだから。テレビって言うんだ、人類はすごいや」

なるほど確かにそうである。人類はすごいも含めて。


昼ご飯は炒飯だ。ちなみに『ちゃーはん』と入力するとちゃんと『炒飯』と変換される。人類はすごいや。

彼女はおなかがすいていたのか美味しそうにぱくぱくと食べる。箸で。

あんまりかわいそうだったのでスプーンを出してやり目の前で使ってみると真似して使い始めた。やっぱり賢い。

「そういえば昨日おとといみんなでどこかへ出かけていたみたいだけどどこ行っていたの?」

「ん、ああ。ファミレスっていう食事するところだよ。自転車乗れるようになったら連れて行ってやるよ」

「本当に!?」

「あぁ」


気が付けば5時過ぎ、そろそろ夕飯の準備を始めなくてはならない時間になった。

「晩御飯の用意?」

「そうだ。今日はカレーだぞ」

「かれー?」

「んー、覚えてないかな?俺がお前を拾ってきた夜に食べてたやつだよ」

「あの変なにおいのするやつ」

「おいしそうな匂いだろ」

「うん」

「一緒に作るか?」

「うん」


火も包丁も危なそうだったが、思い切って彼女には包丁を握らせてみた。思った通りすぐにコツをつかみ、俺が肉を炒めている間にニンジン、ジャガイモと難なく切っていく。この時俺は完全に油断していた。この後に待ち構えていた強敵の存在から。

そう、玉ねぎである。

「目が痛い……」

彼女は包丁を置き目を押さえた。彼女の目からは涙がこぼれ落ちる。

「大丈夫か?」

「うん、もう平気。それよりなにあれ」

「料理初心者の敵、玉ねぎだ」

負けず嫌いの彼女は、果敢にも玉ねぎにリベンジマッチを挑むのであった。

俺はその間に彼女の切ってくれた野菜を投入していく。

「勝った」

玉ねぎも投入して、あとはしばらく煮込む間に米を洗うのだが、

「研いでみるか?」

「うん。でも……」

「どうした?」

「玉ねぎみたいにならない?」

俺が少し笑うと、彼女は目をはらしたまま頬を膨らませた。

「ごめんって、ならないよ、大丈夫」

彼女は拗ねたように米びつを奪い取ると、

「で、どうするの?」

と尋ねてきた。

米の洗い方を教えながら1、2回研いでみると、彼女は「わかった」と言い研ぎ始める。

なかなかいい研ぎっぷり……と思ったら水を切るときお米を盛大にこぼし始めた。

「あう……」

「あうじゃねぇよ、……まったく、次から気をつけろよ」

「うん、ごめんなさい」

そんなこんなでカレーは完成したのだった。


出来上がったころにはあたりは暗くなり始めていた。

「カレーは箸を使うのか?スプーンを使うのか?」

「普通はスプーンだな」

「いただきます!」

「うむ、いただきます」

2人で作って食べるカレーはいつも一人で食べるそれとは一味違うように感じて。

「ごちそうさまでした!」

「よろしゅうおあがり」

そして夜も更け彼女は来客用の布団で眠りについた。


今日も夢を見た。

――「ねぇ、どうしても……だめ?」

  「いまさら何を言ってるんだ、……」

  「だって、……がかわいそうで」

  

そこで目を覚ましてしまった。

だんだん声がはっきりと聞こえるようになってきている気がする。

いったいなんなんだろう、この夢は。フロイド先生に一度見てほしいレベルである。


朝ごはんを作っていると、彼女が起きてきた。

彼女のジャージはところどころ砂がついていた。寝る前には真っ黒だったはずである。よく見ると顔にかすり傷程度だが怪我もしている。

「その傷、どうしたんだ?」

「え、まぁちょっと……、それより、朝ごはん終わったらどこか行こ。ファミレスとかも行きたい」

「自転車乗れるようになったらな」

「いいからいいから」

よくわからないが、話をそらされたときはあまり突っ込まないほうがいいことは昨日学んだ。昨日と同じメニューの朝ごはんを食べ、それから外へ向かう。

そういえばこの子替えの服とか持ってないよな……、早めに買いに連れて行ってやりたいんだけどな。

「ほら、行くよ」

「おい、急に一人で危ないぞ……って乗れてる!?」

「ふっふっふーどうだ!」

彼女は笑っていた。そういえば笑顔を見るのは初めてだった。年相応に、いや、それ以上にとてもかわいらしかった。

「じゃあ今日は買い物に行くか。買い物の仕方はわかるか?」

彼女は首を横に振った。人猫共通かどうかはわからないがきっとNOのサインだろう。

「計算はできるか?」

彼女の答えを聞いた俺たちは、いったん家に入って算数の勉強から始めることにした。

わかってはいたが、今日も俺は大学を自主休校だ。


彼女が賢かったためか、簡単な四則演算は昼過ぎにはできるようになった。

「おなかすいたー」

「よし、服を買ってファミレス行くか」

一応年頃の女の子である。あまりジャージでウロウロするのも嫌だろう、という配慮だったのだが、

「ファミレス!?行く行く!今すぐ行こう!!」

「服はいいのか?」

「後でいいよ」


田舎のファミレスだからなのかわからないが、よく見るとジャージっぽい格好の女子も他にいるようだった。細かいことを言うとあれはジャージではないのだが……彼にはどちらも同じに見えた。だいたいの男性がそうではないだろうか。

彼女はというと、

「499円と、399円で……えっと……888円!!」

まったく、かわいいやつだ。

「ちなみに898円な」


俺はハンバーグ、彼女はカレーを食べた。

「昨日カレー食っただろ」

「おいしかったんだもん」

「そうか、どっちがおいしい?」

「鉄平の」

それを聞くと俺は満足しハンバーグをほおばる。

「じー」

「どうした?」

彼女はじっとこちらを見ている。

「それ、はんばーぐ?おいしいの?」

「……ちょっと食うか?」

「食べる!!」

彼女は嬉しそうに俺の残りのハンバーグを口に含むと、口をいっぱいにしながら、

「おいしい! 鉄平、今度作れ!」

「はいはい、それから、口の中いっぱいにしながらしゃべるな。行儀悪いぞ」

「はーい」

彼女の2度目の笑顔だった。


それから俺たちは服屋に行った。

3着で25000円…なんて出費だ、近頃の女子高生を見る目が変わりそうだ。

「……ありがとう」

「ん?ああいいよ、気にすんなって。どうせろくなことに使われない金だったんだしさ」

気付けば夕方。俺たちは帰途についた。



今日は水曜日、さすがに大学が心配になってきた俺は、今日あたりからそろそろ出席することにする。

「今日は留守番だからな、わかった?」

「ん、わかった。おるすばん」

「家の中にいるんだぞ?」

「うん、わかった」


俺は自転車と電車を乗り継ぎ片道1時間以上かけて大学へ向かった。これといって何の変哲もなく授業は進み、サークルにも部活にも所属していない俺は、そのまま家に直帰するのだった。

「ただいまー」

返事は、なかった。


家中探し回っても彼女は見つからない。かといって自転車もちゃんと2台あった。

「クロ、どこだ。返事しろー」

しばらく家を探したが、俺はいてもたってもいられず外へ飛び出した。ファミレスに行き、服屋にも行ったがいなかった。服屋なんて当然閉まっていた。数少ない開いている店に片っ端から入っていき、彼女を探した。

時刻はすでに12時を回っている。俺はいったん家に帰るも、収穫は一つもなかった。

あとは運頼みだ。だめもとで家の周りを歩き回った。

「いったいどこにいるんだ」

そう口にしたとき、俺の脳裏にある場所がひらめいた。

俺は走った。俺とあいつが訪れたもう一つの場所へ。


公園についた。

街灯がぽつりぽつりとしか灯っておらず、ぼんやりと暗かったが、目は慣れていった。

いた。猫に囲まれながら穏やかに笑っている彼女が。

「なにしてんだ」

俺が声をかけると、彼女はおびえたようにビクッとし、それから一言

「怒って、ない?」

「怒ってる。まったく、今何時だと思ってるんだ、心配かけやがって」

「ごめんなさい。お留守番は嫌、だった。なんとなくもう帰ってこないかもしれないと思った」

「嫌でも我慢しなきゃダメだろ。……その猫たちは?」

「前、仲良くなったの。ね?」

言うと、にゃー、にゃー、と応じるかのような大合唱が起こった。

「本当に仲いいんだな」

「うん」

「……星、きれいだな」

話が途切れた俺は、星に話を逸らしたのだった。

「あそこの特に輝いてる3つの星が夏の大三角って言ってな、ベガ、アルタイル、デネブっていうんだ、まぁ友達の受け売りだけどな」

「きれい」

彼女はぽつりと言うと、少し笑った。

「……家に帰るぞ。毎日ちゃんと帰ってきてやるから、明日からちょっとだけ我慢してろよ。」

彼女は小さくうなづくと、俺の差し出した手を取り、歩き始めた。

クロの手は、確かに、暖かかった。



今日は木曜日。昨日の今日で学校に行きづらかったが、休めばそれだけ後につけが回ってくる教科が増えるのである。それに、いつまでもお留守番ができないわけにもいかないだろう。

「公園に行っていいけど、暗くなる前に帰ってこいよ」

なんて、お母さんみたいなことを言いながら、今日も学校へ行く。


帰りに公園に寄ると、クロはいつものベンチで猫に囲まれていた。

「今日もここにいたのか」

「うん」

クロはうなづくと、立ち上がり、猫たちにばいばいした。


「今度の土曜くらい、どっか遊びに行くか」

今日のクロの勉強を終えて、布団にくるまりながら、俺は思いついたように言った。

「ほんとに?」

クロは嬉しそうに起きあがった。

「あぁ、どこがいい? カラオケとかボーリングとか……そうだな、遊園地にでも行くか」

クロは首をかしげながら聞いていた。

「遊園地?」

「ああ。ジェットコースターって言って、楽しい乗り物とか、観覧車って言うおっきな回る乗り物とかがある、まぁ要は楽しいところだ」

「じぇっとこーすたー、かんらんしゃ……行ってみたい」

「よし、決まりだな。楽しみにしてろよ」

「やったー」

クロは嬉しそうにしていたが、なぜか一瞬見せた悲しげな表情を俺は見逃さなかった。



今日もクロは公園にいた。迎えに行くと笑顔で迎えてくれ一緒に帰った。

もはやいつも通りの日常だった。

俺はこんな日常がずっと続くといつからか錯覚していたのだ。



そんなこんなで土曜日が来た。

ここのところずっと続く快晴である。

俺たちは朝から自転車で駅に行き、電車で隣町まで向かっている。

入場料とフリーパス代に苦笑いしながら門をくぐる。

「……すごい、おおきい」

高くそびえるジェットコースターや観覧車を見てクロはつぶやく。

「まずはどこ行く?」

「ん」

クロは指差す。ジェットコースターだ。しかもこの遊園地で一番すごいやつ。ダイナマイトサンダーなんとかって言ったっけ。ゴロが悪くて忘れた。

「いきなりアレか……よし、行くぞ」

「そこのお二人さん」

歩いていると、声をかけられた。

「カップルさんですか?記念にお写真でもどうでしょう」

カップルに見えるんだろうか、どうやら遊園地の職員のようである。

「いえいえ、そんなんじゃあないですよ。どうする?記念に撮っとくか?」

クロに尋ねると、

「好きにすればいい」

なんとなくそっけなかった。記念だし撮っておこう。

「じゃぁお願いします」


「しばらくしたらできますんでいつでもこちらへお立ち寄りください」

「わかりました」

そして俺たちは遊園地に繰り出したのだった。


クロはジェットコースター耐性が強かったようである。ダイナマイトサンダーなんとかも、びゅーんぐるぐるぐるってなるのを俺は何とか悲鳴を上げずに頑張っているのにきゃっきゃ言って楽しんでやがった。

しかしなんだ、ダイナマイトサンダーなんとかにいったん乗ってしまうとほかのが少し物足らなく感じる。

お昼はレストランで食べたが、その価格に目が飛び出そうになった。今度からはお弁当、持っていこう。

「遊園地、たのしーな」

「そうだな。いつ以来だろ、ここに来たの」

「鉄平もたのしーか?」

「ああ。遊園地ってこんな楽しかったんだな。また行こうな」

「……うん、また、きっと」


昼からも一通り回って、残すは観覧車だけとなった。

「鉄平、かんらんしゃっての乗りたいぞ」

「そだなー、もうちょっと待とうぜ」

「うん? わかった」

俺たちは喋った。何の他愛もない会話ではあったが、とてもとても、楽しかった。

「そう言えば写真、取りに行こうぜ」

フレーム加工すると500円、ストラップで300円だった。ここでも金とんのかよ、とは突っ込まず、縁に入れて立つようにしてもらった。

二人並んで、ピースしているだけの写真だがよく撮れていた。

「そろそろかな。行こうぜ、観覧車」

「うん」


「すごい、きれい……」

「だろ。昔かける兄ちゃんに教えてもらったんだ」

観覧車から見えたのは、夕日に照らされた隣町の景色だった。道々はオレンジ色に染まり、地平線は遠くにそびえている。

「また、来ようね。絶対」

「ん? ああ、まぁな」

俺がこの時、クロの覚悟に気づいていたら少しは違う結果になったのかもしれない、とあとあと思うのであった。


「そろそろ閉館の時間だな。出ようか」

「うん……」

クロは名残惜しそうにしていた。

「帰りどうする? ファミレスで食ってくか?」

「うん!」

俺たちはいつものファミレスに行った。

クロはハンバーグが気に入ったらしい。二人ともハンバーグを頼んだ。

そういえばハンバーグ作る約束してたななんてことを思い出した。

明日はハンバーグだ。



――「どうして、どうして」

女の人が泣いていた。


目を覚ました。今日の夢はそれが夢とわからないタイプの夢であった。

頬を伝う感触。拭えばどうやら涙が出ていたようだ。


今日は日曜日。本人たっての希望で一日家にいることになった。

二人でトランプしたり、ゲームしたりした。最初は俺のぼろ勝ちだったが、クロはメキメキ上達していき、ついには俺を打ち負かすほどになった。

「へっへー、鉄平に勝ったぁ」

子供のように無邪気に笑っていた。負けたはずなのになんだかこっちまで笑みがこぼれ出した。いつ以来だろう、こんなにあたたかい気持ちになれたのは。

それからしばらくはクロに勝てなかったが、次第に差を詰めることができるようになってきた。そして、とうとう互角のいい勝負になった。

熱中しすぎて、気づけば日が暮れていた。


それから、玉ねぎのみじん切りという苦行にも負けず、一緒にハンバーグを作った。

レシピを見ながら初めて作ったにしては、なかなかいい出来だった。自分を、クロをほめていいだろうと思う。

クロも、

「おいしい」

と言ってくれた。笑ってくれた。



月曜日が来た。今日から学校だ。

いつも通り朝ごはんを作り、大宇に行き、帰ってくる途中で公園に寄ってクロを迎えに行く。

もはやルーチンワークとなっている。


公園に、クロはいなかった。

家かな? と思い、そのまま家に帰る。

「ただいまー、クロ、帰ってるかー?」


返事は、なかった。

もちろん探し回ったが、ついにその日、クロの姿を見ることはなかった。



あれから1か月が過ぎた。

クロはいつまで待っても帰ってこない。棚の上に置かれた写真の『クロ』だけが幸せそうに笑っている。

何度ももうクロはいないんだ、と最近では自分に言い聞かせるようになった。

クロと一緒に行ったファミレス、公園、なんとなく避け続けてきた。クロのことを思い出してしまうからだ。しかし、いつまでもそうしてはいられない。1か月が経ったのだ。俺は、公園に向かった。


クロがいつも座っていたベンチの前に来た。いつも猫に囲まれて笑っているクロの姿を思い出し、寂しくなった。なぜこんなに寂しくなるのだろう。ほんとはわかっていた。


ベンチに座る。目を閉じ空を見上げる。まぶたを透かして太陽の光が目に伝わってくる。

何かがこみ上げてくるのがわかった。

にゃー

見ると、猫が集まってきていた。そのうち一匹が正面に近づいてくる。白黒の、まだら模様の猫だった。よく見ると何か咥えている。白い、紙のようだ。

まだらの猫はその紙を俺の足元に置くと、にゃー、と一言発し離れて行った。

残念ながら俺には猫語はわからないが、拾ってみた。


きたないひらがなで、こう書いてあった、『てっぺいへ』。手紙のようだ。あて名は『くろ』。

「クロ!?」

俺は慌てて紙を開く。


『てっぺいへ

 このてがみをよんでいるときわたしはきっとてっぺいのそばにはいないとおもう。

 てっぺいにおしえてもらったひらがなしかつかえないけど、ならっててよかった。

 わたしはねこ。そのまえはひとだったの。ひと、になるはずだった。

 てっぺいのいうかけるにいちゃんがわたしのおやになるはずだった。

 でもかれらは、わたしをうまないことにきめたの。

 かのじょはないてた。あなたにゆめでわたしのきおくをみせていたの、きづいてたかな?

 それで、ねこになったあとだけど、1ねんくらいしてからかな、わたしがまえのきおくをもったままだったことにかみさまがきづいたの。それで、きおくをすべてけすかわりにさきにわたしのねがいを1つかなえてくれることになったの。

 てっぺいにおねがいがある。これをよんだらできるだけはやくかれにあってあげて。はなしをきいてあげて。

 はなしはかわるけど、てっぺいにであえてまいにちたのしかった。ありがとう。

 それから、かれをあまりせめないであげてね』


俺は急に立ち上がった。そのせいか猫たちは散り散りに逃げて行った。

自転車で駅へ行き、飛行場へ向かった。東京へ行くのだ。

俺には許せなかった。翔ねぇの捨てられた悲しみを、苦しみを誰よりも分かっているはずなのに。

俺は最後の一行が心に残っていた。

『かれをあまりせめないであげて』

こんなことをした親に対して『責めないで』なんて、いったいどういうことなんだろう。

夢を見た感じだと悪いのはかける兄ちゃんだった。

東京行きの飛行機の中でそんなことを考えていると、いつの間にか眠りについてしまった。

そして、久しぶりに夢を見る。


――「ごめんな、ごめんな……」

  鼻をすすり、嗚咽を漏らしながら一人むせび泣くかける兄ちゃんだった。


俺はどうすればいいのかわからなくなった。



東京につくと、とにかくかける兄ちゃんの住所を頼りに家を目指した。

ふつふつと、怒りは沸いてきていた。

マンションのインターフォンを押すも、返事はない。

鍵は、開いていた。


「かける兄ちゃん」

「鉄……平……か?……」

輝きを失った眼をし、ひと月前よりさらに痩せたんじゃないかというようなかける兄ちゃんが、そこに立っていた。家の中はぐちゃぐちゃ、辛うじて睡眠をとるスペースがあるだけだった。

「かけるにぃ、ちょっと外出ようぜ」


かける兄ちゃんは素直に応じ、途中見かけた近くの公園に出てきた。皮肉なことにか、赤ちゃんを連れたお母さん連中が集まって談笑していた。

日は随分と傾いていた。俺たちは少し離れたベンチに座った。いざ本人を目にしてみるとどう接すればいいのかわからなかった。

「かけるにぃ、仕事、最近どうなんだ」

何気ない話題を振ったつもりだったが、意外な答えが返ってきた。

「仕事は、辞めた。もう半年以上前にな」

俺が言葉を発せずにいると、かける兄ちゃんは続けた。

「お前が何でここに来たのかくらいわかってるさ。あらかた、俺を責めに来たんだろう。信じてもらえないかもしれないけど、夢に出たんだ。立派に成長したあいつが。『鉄平と話をするんだよ』って」

俺は黙って聞く。

「言い訳にならないかもしれないけど、俺だって迷ったんだ。苦しんだんだ。けど、どうしようもなかったんだ」

それはわかっていた。かける兄ちゃんはもう十分苦しんだんだろう。それでも、

「じゃあ、どうして、どうして……」

「……」

かける兄ちゃんは黙ったままだ。俺はふいに立ち上がった。そしてかける兄ちゃんの正面に回ると、

顔をおもいっきり殴った。

「……いてぇな」

かける兄ちゃんの目は死んだままだったが、確かにこちらをにらんでいた。

「場所を変えるぞ、来いよ」

周りで談笑していた奥様方が、こちらを奇異の目で見つめている。俺はかける兄ちゃんに言われるままについて行った。

ついたのは人気のなく薄暗い、河川の自然堤防を下りたところだった。

俺たちは自然と距離を取り、対峙する形になった。

「答えられないのかよ。どんな理由でそんなひどいことをしたんだよ!!」

俺は走った。こぶしを振りかぶりながら。

かける兄ちゃんはそれでも黙ったままだ。黙ってこちらに向かってくる。

伸ばしたこぶしは空振りし、かける兄ちゃんのノーモーションの一撃が決まる。

俺は距離を取る

「こいよ、お前が俺に喧嘩で勝ったことなんて一度もなかったろ」


それから俺たちはこぶしの応酬を何度も続けた。とは言っても、こちらは何回かに一回当たるかどうかだったが。

「いい加減に……しろよっ! 何とか答えろよ」

「……病気だったんだよ。彼女には伝えていなかったが、子供を産むなんて到底無理な体だったんだ」

急にかける兄ちゃんの動きが止まった。こちらの攻撃が当たる。しかし、俺も動きを止めた。

ぽつり、ぽつり。雨が降り始めすぐに土砂降りの大雨になった。

それでも俺たちは動かない。

「どうして、どうして相談してくれなかったんだ。何もできなかったかもしれないけど、だけど、……」

「相談なんか、できるわけねえだろ」

ぽつりと言った言葉だったが、この大雨の中俺の耳にはなぜかはっきりと聞こえた。

「どんな事情があれ、やってることは翔子の親のやってることと同じ、いや、もっとひどいことなんだからよ」

俺は何も答えられず、かける兄ちゃんはそれ以上何も言わず、ただただ雨の音だけが響き続けていた。

雨のおかげで、お互い涙を見つけられることはなかった。


「彼女は、どうなったんだ」

「……死んだよ。あの後すぐにな」

雨の中だろうが、かける兄ちゃんが泣いてるのがわかった。


「……こいよ、喧嘩はまだ終わってないぜ。今日こそは兄ちゃんに勝つ」

俺はそういうとかける兄ちゃんに不意打ちを食らわせた。

「いっってぇんだよぉ!」

そうほえると、かける兄ちゃんもこぶしを繰り出してきた。そこから再び激しい打ち合いになった。


目を覚ますと、見知らぬ天井だった。

「起きたか。まったく、気絶してんじゃねえよ」

起きあがると、そこはかける兄ちゃんの家だった。その日は、かける兄ちゃんの家にお世話になった。



あれから半年がたった。

俺たちは今それぞれの道を進んでいる。

かける兄ちゃんは地元に帰ってきて、現在通院しながら社会復帰をめざし何とか生活している。

言わなくてもいいと俺は思ったが、本人たっての希望で翔ねぇにこの話を打ち明け、一発ビンタを食らった後和解していた。

クロとの一件から教える楽しさを学んだ俺は小学校の教員免許を取ろうと必死に勉強している。

そうそう、そのクロは毎日探しているがまだ見つけることができない。一言言わなきゃ気が済まないというのに。一方的にお礼なんて言われてもちっとも嬉しくないってもんだ。伝えなきゃいけないことは山のようにある。

でも、いつかまたどこかで会えるんじゃないかって思っている。

写真の中の二人はどこまでも幸せそうに笑っているからだ。

クロも俺のことを思い出してくれたり、なんて、ありえないことまで考える始末である。

あれ以来、俺たちはたびたび会って、話して、笑い合って、楽しく過ごしている。

これもクロのおかげかもしれないな、なんて思う。


さて、今日は月曜日。今日から一週間学校が始まる。

いつも通り自転車をこいでいると、急に何かが横から飛び出してきた。

俺は慌ててブレーキを思いっきり引き、ハンドルを横に倒した。今度はこけなかった。

見ると一匹の猫が止まってこちらを見ていた。

真っ黒だった。首も、体も、足も、尻尾も頭も真っ黒な毛におおわれていた。目だけが金色だった。

今まで見たどんな猫よりも、綺麗、だった。



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