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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。

なんでもない話

作者: kaji
掲載日:2026/04/20

 エレベーターを降り、吹き抜けから雪風が吹き込んでくる通路を肩をすくめて歩いて行くと、俺の部屋のひとつ手前のドアに大柄な男が寄りかかっていた。

 最近引っ越してきたお隣さんだ。

 軽く会釈して通り過ぎようとしたが、途方にくれたような雰囲気が気になり、声をかけた。

「どうかしたんですか」

「鍵、なくしちゃったみたいで」

「二十四時間営業の鍵屋呼べばいいじゃないですか」

「スマホ、部屋の中に置いたまま出社しちゃんたんで」

 どんだけ鈍臭いんだこのひと。

「……じゃあ俺が呼びますよ」

「すみません」

「……はい、◯◯市の◯◯マンション七〇五号室です。はい、よろしくお願いします。……呼びました。三十分後に来るそうです」

「ありがとうございます」

 白い息を吐きながら申し訳なさそうにペコペコ頭をさげられ、「いえ、」と言って部屋に入ろうとしたが、コートの襟を立てて肩をすくませ手をすり合わせる男を見て、ドアノブにかけた手を止めた。

 ここで三十分待つのは辛いだろう。

 他人に関わりたくはないが、大きな背中を丸めて小刻みに震えている男があまりに哀れで、仕方なく提案した。

「よかったら、うちで待ちます?」

「え……いいんですか?」

「別にいいですよ。ここ、隣のインターフォンの音けっこう聞こえるから、うちにいても鍵屋さん来たらわかると思いますし」

「ありがとうございます。じゃあ、お言葉に甘えて」

 真っ赤になった鼻をすんっと鳴らして「おじゃまします」と入ってきた男は、俺の部屋の大部分を占めるアルミラックに並んだ映画のディスクを見て、「うわぁ、すごい!」と目を輝かせた。

「これ見たかったんですよ。あ、これも。前作すごいおもしろかったんで」

「ああ、あのどんでん返しは痛快でしたね」

「そうなんですよ! まさかあんな展開になるとは……うわ、やばい、思い出したらめっちゃ見たくなってきた」

「……よかったら、貸しますけど」

「いいんですか^!?^」

「別にいいですよ」

「やったぁ」

 くしゃっと笑ったその顔は、昔飼ってた雑種のコロに似ていた。


 映画の趣味が合って、話が盛り上がって、そのうち一緒に鑑賞会をするようになって、興奮したり大笑いしたり大号泣したりとせわしない表情の変化がおもしろくて、映画よりもそちらのほうばかり見ていたら、ある日突然キスされた。

 わけがわからず目を白黒させる俺に、男は「すみません!」と土下座して、長々と自分の気持ちを吐露した。そのシャツの背中がじっとりと汗ばんでいた。透けて見えた肌を色っぽいと思ったとき、俺は「つ、付き合ってくださいっ!」に応える気になった。

 俺が首を縦に振ると、男はふるふると小刻みに震え、

「や、やったぁぁ!」

 大げさにガッツポーズをした。

 この近所迷惑はなはだしい男と、十年も付き合うことになるとは、そのときは思いもしなかった。


 一年目はそれはそれは初々しく、何をするにも一喜一憂して、離れているわずかな時間も惜しいと思い、同棲に至った。

 二年目になると少し落ち着きが出て、三年目になると心拍数がゆったりとしたリズムをとるようになり、四年目にはほぼ平熱になった。

 五年目には夜の営みの回数が減り始め、六年目には月に一度になり、七年目には寝室を別にした。

 八年目には別れ話を切り出して家を出たが別れてもらえず、九年目を経て、十年目の今も、毎日のように通われる日々が続いている。


「最近接待が多くてだいぶ脂肪がたまった気がする。ダイエットしないとなぁ」

 中年になって少し丸みを帯びてきた腹をさすりつつ、彼はコンビニで買ってきたアンパンとコロッケパンを完食した。

 プシュッとコーラの缶を開け、俺をちらっと見て、いいことを思いついたという顔で、

「それではこれより、第一回コーラ一気飲み大会を行います! 参加者は、日本代表、俺!」

 そう言って勢いよくコーラを喉に流し込み、案の定むせた。茶色い液体を派手にスプラッシュして、涙目でゲホゲホ咳き込んでいる。

 こいつは一体何をやってるんだろう。

「ご、ごめん、日本代表は降りるわ」

 いや、最初からおまえに日本代表の実力はない。地方大会ですら優勝できない。

 彼は自分がまき散らした飛沫をティッシュで拭き取ると、あごに手をやり、ぼそりとつぶやいた。

「牛乳ならいけるかなぁ」

 やめろって。

 俺は精一杯呆れた雰囲気を出したが、あっさり無視された。

「よし!」と部屋を出て行った彼は、数分後、飲みきりサイズの牛乳パックを手に戻ってきた。

「コーラ一気飲み後に牛乳一気飲みする男としてギネスに載ろう!」

 そんなもん誰でもできるわ。しかもコーラは失敗してるじゃないか。

 グビグビグビーー

「はいっ、一気できましたぁっ! ……ゲプッ!」

 盛大なげっぷに、十年の恋も冷めていく。

 俺の冷たい視線を感じ取ったのか、彼は口元を手の甲で拭い、へへへと笑った。

 それからは最近見た映画の話を、俺が寝落ちするまで延々としていた。

 どうして二時間の尺の内容を、四時間も語れるのか。


 そして次の日は、大量の旅行パンフレットを持ってきた。

「なぁ、今度旅行いこうぜ。どこがいい? ハリウッド行っちゃう?」

 俺が飛行機乗れないの知ってんだろ。

「はいはい、わかってますよ。ならUSJで我慢するか。またゲート前のホテルに連泊して朝から晩まで遊ぼうぜ」

 五年前、彼は俺のテンションを無視してはしゃぎまわり、絶叫系を乗り倒したあげく、三半規管を狂わせて倒れた。

 思い出してげんなりする俺に構わず、嬉々として新作アトラクションの話をしている。

 まったく子供みたいだ。

 いい歳したおっさんのくせに。

 まぁ、俺もおっさんだけど。


 歳をとることは、できることが増えていくことだと思っていた。

 でも実際は枷が増えて、どんどん身動きがとれなくなっていく。

 まともであろうとすればするほど世間体やしがらみでがんじがらめになって、息苦しさが増していく。

 俺も彼も両親にカミングアウトしていない。

 彼は俺の両親と会うとき、友達を装っている。

 両親が帰ったあと、彼は少し寂しそうにコーヒーを飲む。

 いつもはミルクと砂糖をどばどば入れるくせに、そのときだけ濃厚な黒を、苦行のように飲み干す。

 その黒い香りが、俺の肺にも入り込み、臓腑にどんよりと溜まっていく。

 そうしていつしか俺は、この窓の外の闇よりも深く沈み込んでしまった。

 だけど彼は、そんな俺を、天に浮かぶ月のように身を削って照らそうとする。

 新作の映画の話を、話題のドラマの話を、読んでみて面白かった漫画の話を、ネットで見つけた爆笑ネタを、毎日毎日探してきては、明るく俺に振りかける。

 だけど俺は反応を返さない。

 リアクションなんて求めないでほしい。

 日常は、映画とは違うんだ。

 どんでん返しも、オチもいらない。

 真昼の日差しみたいな賑やかさより、夜風のささやきのようなしっとりとした落ち着きがほしい。

 他愛もない、どうでもいい話でいい。

 間違っても愛の言葉なんて口に出さないでほしい。

 心がざわついて眠れなくなる。

 腹が立って殴りたくなる。



「うわ~、外、すごい雨! もうびちゃびちゃ!」

 彼が慌ただしく部屋に飛び込んできた。窓からストロボのような光が弾け、その濡れそぼった顔を照らした。

 わざと傘をささなかったんだと、わかった。

「夕立は勘弁してほしいけど、一雨ごとに暑さが和らぐのはありがたいかな」

 髪からぽたぽたと雫をしたたらせて、よっこらせと隣の椅子に座る。

 張り付いたシャツから透ける肌に、いまだに色っぽさを感じてしまう。

 抱かないでくれと言い出したのは俺なのに。

 彼を拒んだ俺なのに。

 ふわりと漂ってくる蒸れた肌の匂い。

 毎晩嗅いでいた匂い。

 吸い込むと、それだけで熱い記憶がよみがえる。

 男同士なんて初めてで、怖くて、一線を越えられなかった俺を、彼は急かすことなく待っていてくれた。ただ優しく抱きしめて、眠ってくれた。

 その温かさに恐怖心が溶けて、受け入れることができた。

 誰かと繋がれたことを泣くほど嬉しいと思ったのは、あれが初めてだった。

 ヤキモチやきのおまえが毎晩つけるマーキングを、叱りつつも内心喜んでいたなんて、おまえは知らないだろうな。

「肌、まっしろ」

 営業周りでこんがり焼けた手で、俺の首筋をなでてくる。

 いまだにうっすらと欲情を漂わせて、触れてくる。

 俺がかすかに目線を逸らすと、やがて指は離れ、またいつもの賑やかな話が始まる。

 俺のテンションを上げようと、収穫したばかりのネタをこれでもかと披露していたが、ネタが尽きたのか童話を語り出した。

 おっさんが「むかしむかし~」なんて、失笑ものだ。

 意地でも俺を眠らせないつもりなのだろう。

「キスをしたら目が覚めるって、いいラストだよな」

 そう言って、湿ったキスをしてくる。

「ごめん、濡れちゃったな」

 枕元のティッシュで俺の頬を拭きながら、またぽとぽとと俺の頬を濡らす。

 俺はいいから、自分を拭けよ。

 びしょ濡れでも誤魔化せないその目元を拭けよ。

 そしてなんでもない話をしてくれ。

 俺がリアクションしなくていい話をしてくれ。

 おまえが吐き出したコーラより汚いものを、俺は何度おまえに見せただろう。

 げっぷするよりみっともない姿を、何度見せてしまっただろう。

 それでも側に居続けてくれるおまえに、何も返せない自分が悔しいんだ。


 うまく反応が返せないことに気づかれたくなくて、おまえを避けたのに。

 ひとつ自由が減っていくたびに、距離を置こうとしたのに。

 おまえはどうして、くしゃくしゃの笑顔で追いかけてくるんだ。

「愛してるよ」

 腕よ、動け。

 こいつを殴らせろ。

 俺を嫌いにさせてやる。

 強烈なショックで、俺のことを忘れさせてやる。

 動けよ……!

 この十年を、なんでもない話にしてやらないといけないんだ。

「……おばさんたち、おれたちのこと、知ってた。おまえの側にいてやってくれって、二人きりにしてくれた……」

 頼むから。

「……なにを話そうかって、いろいろ考えたけど、結局いつもと同じような話しちゃったな。……本当は、もっと話したいことあったんだ。話さなきゃいけないことも、いっぱいあるんだ。……だからさ、頼むから、もっと時間をくれないか。

……やり直したいんだ。おまえの身体の状態に気づいてやれなかったことも。全身の筋肉が動かなくなる病気があるなんて知らなくて、話しかけても返事してくれないから不機嫌になってしまったことも。一緒に寝ることを拒まれたときにカッとして、ひどい言葉をぶつけたことも。……おまえが俺のことを考えて離れようとしたときに、嫌だ嫌だって泣いてすがりついたことも。

……まぁ、やり直したところで俺はおまえから離れられないんだけどさ。どうしたって側に居続けておまえを苦しめるんだけどさ。……それでも今度は、おまえがどんな想いでいるかくらいは、わかってやれるから。

……むしろ、なんでおまえのサインに気づいてやれなかったんだって話だよな。俺、ほんと抜けてるよな。どんくさいって、おまえによく怒られてたけど、十年経っても変わんなかったや。……変わってないんだ、何も、変わってないんだ、俺はずっとおまえが、おまえを……!」

 寒くもないのに震えてるこいつを、抱きしめさせてくれ。

 せめて、「おれも」と言わせてくれ。

 その三音だけでいいから、どうか。

 なんで、感覚はあるのに、意識ははっきりしてるに身体は動かないんだろう。

 想いは変わっていないのに、なんで、終わらないといけないんだろう。

 こいつの真っ赤になった目を、もっと見ていたいのに、どうしてまぶたは勝手に降りていくんだろう。

 チューブを抜き取られた唇に、湿った感触を感じるのに、どうして目を覚ますことができないんだろう。

 圧着してくる胸から、鼓動が伝わる。

 俺の心臓を震わせようと語りかけてくる。

 十年分の想いを込めて。


 おまえのぬくもり。おまえの匂い。

 愛しいその全部を失っても、俺は泣けない。

 リアクションなんて返せない。

 何も返してやれない。

 ……だからさ、早く、新しい相手を見つけろよな。

 そして俺のことを、なんでもない話にしてくれ。

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