【倫理注意】うさぎとかめの葬列:亀より早いと死ぬ心臓 ――2回目の生存競争 ※この物語は童話の思い出を修復不可能なまでに破壊する恐れがあります。純粋に原典を愛する方にはお勧めできません。
兎たちの心臓には、見えない「鉛の針」が突き刺さっている。
あの日――『競争』で、英雄だったはずのウサギがカメに敗北した瞬間、世界は書き換えられた。
勝者となったカメは、敗北した種族に永遠の『呪い』をかけたのだ。
「ウサギ。ぼくより速く動くことを禁止する。
もしその鼓動が、カメの歩みを超える速さで刻まれたなら――その瞬間に心臓を内側から貫く」
以来、世界から「速さ」が消えた。
草原を駆ける白銀の残像も、風を切る喜びも、すべては御伽話の彼方。
今や兎たちは、カメという絶対強者に仕えるための「生きた置物」に過ぎない。
カメの城の中、かつての俊足たちは、その誇りだった後ろ脚を鎖で繋がれ、「屈辱的な鈍さ」で酒を運ぶ。
「遅いよ。早く持ってきてよ」
飛んでくるグラスを避けず、体で受け止める。
少しでも慌てれば、呪いの針が心臓を貫き、口から血を吐いて絶命する。
そんな光景は、カメたちにとって極上の余興に過ぎなかった。
「もう一度……もう一度だけ、チャンスをください」
若かった英雄のウサギは、今や見る影もなく痩せこけ、カメの玉座の前で泥に塗れていた。
カメの王は、傍らに侍らせた若い雌兎たちの耳を弄びながら、脂ぎった顔を歪めた。
その雌兎たちの一人――妹は、虚ろな瞳でただ虚空を見つめている。
「私が勝ったら、兎たちから『呪い』を解いて下さい」
「へえ。じゃあ、ぼくが勝ったら?」
「……もっと好きにしていいです。兎たちには、もう何をしてもいい。……全て捧げます」
カメは一口、高級な葡萄酒を啜り、下卑た笑いを浮かべた。
小刻みに揺れながら歪む表情が、この先に待ち受ける兎の運命を告げていた。
「……それならいいよ。地球を一周して、ぼくより先にここに戻れたら、呪いを解いてあげよう」
『競争』は始まった。
ウサギは、一歩を踏み出す。カメの歩幅に合わせた、あまりにも遅い一歩。
心臓が「速すぎる」と警告を鳴らす。
彼は己の筋肉を殺し、神経を麻痺させ、這いずるような速度でスタート地点を離れた。
後ろを振り返れば、カメたちは未だに狂乱の宴を続けていた。
兎たちは最後の希望を心に秘め、黙々とカメたちに尽くしている。
泥酔したカメの王は、兎たちに荷物を用意させている間に、あろうことか深い眠りに落ちていた。
ウサギは耳を伏せ、ただ前だけを見た。
陸路はまだ、慈悲があった。
だが、地球一周には海がある。最も深く呪われた彼は兎としての性質が変化していた。
ウサギの皮膚は変質し、肺は水圧に耐えうる強靭さを持ち、塩水の中でも呼吸ができた。
それは、時間をかければ海を渡れるという、冷酷な現実だった。
太平洋のど真ん中。ウサギは海底を歩いていた。
周囲には、光など届かない。ただ重苦しい水圧が全身を押し潰し、内臓がせり上がってくる。
一歩。一歩。
時折、巨大な深海魚が彼を餌と見なして近づいてくるが、ウサギは戦うことすら許されない。
激しく動けば、呪いが彼を殺すからだ。
彼はただ、深海魚に自らの肉を齧らせながら、無抵抗のまま歩き続けた。
(まだだ……まだ、届くはずだ……)
三年が過ぎた。
ウサギの自慢だった毛並みはすべて抜け落ち、肌はフジツボと海藻に覆われ、もはや化け物のような姿に変わり果てていた。
だが、彼の頭脳だけは冴え渡っていた。
(……休まなくていい。昔みたいに追い抜かれなければ、素早く走れなくても、私が勝つ……)
その希望だけが、海底を這いずる異形を突き動かしていた。
それからどれほどの年月が流れたか。
ウサギは地球の裏側、名もなき荒野に辿り着いた。
陸に上がった瞬間、重力が牙を剥く。
海底の浮力に慣れた体には、自分の体重さえも断頭台の重りのように感じられた。
心臓の音しか許されなかった鼓膜にとって、風のささやきさえもが咆哮のように響く。
彼は見た。
かつての故郷とは似ても似つかぬ、変わり果てた大陸の姿を。
だが、彼の胸を去来したのは恐怖ではない。確信だった。
兎が海を渡るとは夢にも思わないだろう。
「……勝てる」
ウサギは、自らの痩せ細った脚を叱咤した。
関節は悲鳴を上げ、一歩ごとに骨が擦れる音が響く。
呪いの針は、今や彼の心臓の鼓動を、一分間に数回という「死の静寂」にまで抑え込んでいた。
彼は、生物としての機能を捨て、ただの「前進する機械」となった。
何回目かの季節が廻った。
ウサギは、最後の海を越えた。
視力は既に失われ、音すら聞こえない。
だが、地面から伝わる振動と、潮の香りが、彼に「終着点」が近いことを教えていた。
もう、後ろ脚は動かない。
前脚の爪を土に立て、体を引きずるようにして進む。
その姿は、かつて草原を風のように駆け抜けた「ウサギ」ではなかった。
もはや生物としての形を保っていなかった。
泥にまみれ、腐臭を放ち、それでも止まらない「執念の塊」だった。
十五年が過ぎていた。
ウサギは、ついにあの懐かしい「宴の会場」の匂いを嗅ぎつけた。
懐かしい、安っぽい酒の匂い。カメたちの、下品な笑い声。
ウサギの胸に、十五年間忘れていた熱い感情が込み上げる。
あの妹を。虐げられた同胞を。すべてを、この一歩で救い出せる。
ゴールラインまで、あと数メートル。
ウサギは、すべての力を振り絞り、頭をもたげた。
そこには――十五年前と、何も変わらない光景があった。
肥え太ったカメの王。その足元で、若い孫娘を王に宛がう老婆――妹。
ウサギは、最後の一歩を前に、崩れ落ちた。
心臓が、最後の鼓動を打とうとして――止まった。
呪いのせいではない。寿命だ。
あまりに長く、あまりに過酷な旅路が、彼の命の芯までを使い果たしてしまったのだ。
濁った視界の中で、ウサギは見た。
カメの王が、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくるのを。
全く外見の変わらない王は、動かなくなったウサギの残骸を、興味深そうに見下ろした。
王は、十五年前と同じ、瑞々しく脂の乗った手で酒瓶を手に取った。
この日のために寝かせていた、特別な一本だ。
軽やかな音を立てて栓を抜いた。
「おや、お帰り。ちょうど、君の妹が新しい孫娘を連れてきてくれたところだよ」
カメは、一歩も、スタート地点から動いていなかった。
その足元にあるゴールラインは、十五年前から一度も踏まれていない。
「十五年もよく頑張ったね。おかげで兎たちは、君を待ち続け、実に大人しく、実に熱心に、ぼくのために働いてくれたよ」
ウサギの目が、絶望に大きく見開かれる。
光を失った瞳の奥で、十五年という膨大な月日が、音を立てて崩れ去った。
「……約束通り、兎でいっぱい楽しもうか」
王の言葉に、愉悦の表情を歪ませながら、カメたちがゆっくりと振り返った。
怯える兎たちは、何をされるのか、すぐに理解した。
「……ああ、そうだ。言い忘れていたけれど」
カメは死にゆくウサギの耳元に顔を寄せ、内緒話でもするように、優しく、残酷に囁いた。
「実は一年しか持たないんだよ、あの呪い。……もうとっくに解けてるよ」
ウサギの、光を失いかけていた瞳が、最後の一瞬だけ激しく見開かれた。
喉の奥から、言葉にならない、ヒュッという掠れた音が漏れた。
物言わぬウサギの亡骸を見下ろし、にっこり笑いながら言いました。
「お先に失礼。」
――こうして、ウサギはまたカメに負けたのです。
一週目のカメは努力で勝ちました。
二週目のカメはどうするのか、その戦略が知りたくて執筆しました。
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