02 ファイアエンチャント(他力本願)
――本当に、誰でもいいんだな?
その時。
声がした。
大人の男の声。
鼓膜ではなく、脳味噌に直接響くような声。
『ギャ? ギ、ギギャギャッッ!?!?』
「……なに……してるの……?」
ゴブリンの親玉の様子がおかしい。
剣を持っている筋肉で覆われた太い手が、プルプルと痙攣している。
そしてゆっくりと、自分の首に刃を当てる。
さっきまでの、ご馳走を前にした獣のような、下品な笑みはなくなっており、戸惑いで顔にシワを寄せている。
腕は未だプルプルしたままだ。
まるで自分の意思とは関係なく動く腕に、抗っているように見えた。
そして――
『ゴアアアアアアアアアッッ!?!?』
――ザシュッ!
ゴブリンは自分で自分の首を切り落とすと、断末魔を上げて……くずおれた。
ズシン――と音を鳴らしながら、倒れるゴブリンの親玉。
零れ落ちる黒い剣が、私の目の前の地面に突き刺さる。
「どういう、こと……?」
急にゴブリンが自殺した。
家来の小さいゴブリンも、いきなりボスが死んだことに戸惑っている。
『人間を見るのは220年振りだな。おい童、契約をしようぜ。生き延びたければ、俺サマに血を寄越せ』
また、脳内に声が響く。
「だ、誰……?」
『誰って……テメェの目の前にいるだろうが。俺サマが見えねぇのか? ちゃんと目ぇかっぽじって見ろ』
――カタカタカタカタッ。
足元に突き刺さっている黒い剣が、小刻みに振動している。
もしかして……この剣が喋ってるの?
『そうだ。俺サマがお前を助けてやる。その代わり、血を寄越しな。俺サマは人間の血が大好物なんだ。だが黒貪森にはもうず~っと、人間が近寄らねェもんで、喉が渇いて仕方ねェんだ。陽で焼けてない肌、柔らかい手。艶のある髪。やんごとなき身分と見た。高貴な育ちのガキの血は、さぞかしうまいだろうなァ』
「これ絶対あんたも悪者側じゃん……!」
手を貸したら、肉体を乗っ取られるか、血を一滴残らす吸いつくされるタイプの敵じゃん!
『たりめェよ。誰が善意で人助けなんかするもんか。もう1度言うぜ? これは契約だクソガキ。牙鬼から助けて欲しけりゃ、血を寄越しな。牙鬼大王が死んだとはいえ、テメェの細い腕で、20匹を超す牙鬼の群れと戦えるっていうなら、ムリにとは言わねェがよォ』
「で、でも……」
『俺サマを信じられねェってんなら好きにしな。だがよォ、よーく周りを見てみな』
黒い剣に促され、私は顔をあげる。
親玉――ゴブリンキングが死んで動揺していたゴブリン達も、だんだんと正気を取り戻し、むしろ仇討ちだと言わんばかりの、怒りの表情で『ギャオギャオ』と叫んでいる。
今この瞬間にも、飛びかかってきそうな勢いだ。
『ゴブリンはオスしか生まれねェ呪いがかけられた哀れな種族だが、その反面、どの種族とも子を成せる豪性を持つ。奴らはメス個体を捕まえると巣に持ち帰り、犯してガキを孕ませる。こうして母体が使い物にならなくなるまで産まされたら、最後は貪り喰われ、死体の毛皮は剥がされて奴らの寝床に使われる。性欲と食欲と睡眠欲を満たすために限界まで苦しめられてから殺されるって訳だ。まぁ、テメェには毛皮にできる程の毛はないようだけどな』
想像する。
アニメで見たことがある。
新米冒険者が、ゴブリンに敗北して、凌辱されるという衝撃的な内容の異世界アニメだ。
私も同じ目に遭う……想像しただけで吐き気がする。
『俺サマを詭術師と疑うのもムリはねェし、否定もしねェ。だがもう1度考えな。もう時間は残ってねェぜ? 俺サマと契約するか、ゴブリンに殺されるか、2つに1つだ』
ゴブリンは皆、ぼろ布を腰に巻いているが、おそらく序列があるのであろう。
身分の低いゴブリンは、より粗末な布を巻いているし、中には裸のゴブリンもいる。
そしてそのゴブリンの股間からは……緑色の棍棒がそそり立っていた。
全身の毛穴から鳥肌が立つ。
「血……ってどうすればいいの……? どうしたら助けてくれるの……!?」
『俺サマの刀身を握り、血を染み込ませろ』
言われた通り、黒い刀身に手を添える。
強く握りしめれば、手の平は裂け、コイツが求める血が、私の手から大量に溢れるだろう。
カッターで指先を切るより、ずっと痛いだろう。
しかし、それで私の命と処女が助かるのであれば、軽い代償だ。
頭では理解している。
でも……私は生まれてこのかた、自分の意思で自分の身体を傷つけたことはない。
かつて自分の腕を噛むことで巨人になるアニメに影響されて、真似をしてみたが、あくまでごっこ。
実際に血が出るまで噛んだことはない。
『おいおいおい! まさか怖いのか?』
「そりゃ怖いよ! 痛いの嫌いだもん!」
『ギギャッ!!』
その時。
ついにゴブリンが動き出した。
ボスの仇を取るべく。
ボスの持っていた武器を奪い取り、自分が次のボスになるべく。
木の棒に取り付けた石の槍の先端が迫る。
「ひっ!」
私は咄嗟に、喋る剣を握った。
刃の部分にではなく――柄の部分に。
こんな状況になってまで、私は臆病者だ。
ズキンと、手の平に痛みが広がる。
さっき転んだ時にできた擦り傷を、押し付けてしまったからだ。
血が――黒刀に染み込む。
『随分少ねェが、数百年振りの人間の血だ。これで良しとするか』
黒い剣が――妖しく光る。
石の槍が――迫る。
しかし――鋭く削られた先端が突き刺さる直前――ゴブリンの首が宙を舞った。
黒い剣で切り落とされたのだ。
そして、その剣を振ったのは――私だった。
『今回限りの出血大サービスだ。これで契約成立ってことにしてやるよ』
「出血してるのは私の方なんですけど……」
『やまかしいわ』
宙を舞うゴブリンの首が、地面に叩きつけられる。
これが開戦の合図だった。
次々とゴブリンが、『ギギャアアアア!』と金切り声をあげながら襲ってくる。
『しゃあァ! おらァ!』
「ひぃ! ひぇ!」
『ギャアッ!?!?』
――ブンッ! ゴオッ!!
私の手に収まっている黒い剣が、空気を切り裂く音を鳴らしながら、飛び掛かるゴブリンを返り討ちにする。
剣が勝手に動いている?
もしくは私の身体が勝手に動いている?
ゴブリンキングが、自分の首を切り落としたように?
『ギギャアッッ!』
「きゃっ!」
飛び掛かるゴブリンを切り捨てると同時に、隣から石斧を持ったゴブリンが襲いかかってくる。
もう目前まで迫るゴブリンに、私は反射的に目を閉じた。
『おいガキ! 目を閉じるんじゃねェ! 俺サマはテメェの視界を通して物を見てるんだ。目を閉じられちゃあ、前が見えねえだろうがよ!』
「そんなこと言ったって!」
『全く世話の焼けるガキだ――刻炎!」
――炎ッ!!
顔に熱風がかかる。
恐る恐る目を開けると、黒い剣の刃の部分が、メラメラと、黒い炎を纏っており、それがゴブリンを焼き殺していた。
「ファイアエンチャントってやつ!?」
なるほど。
刃に火をまとわせ、攻撃範囲を広げることで、目が見えない状況でゴブリンに攻撃を当てた訳か。
『たった数滴の血で仙術まで使ってやったんだ。感謝しろよ!』
その後も黒い剣は、乱暴な言葉遣いで、次々とゴブリンを焼き刻んでいく。
剣はブンブンと、私の都合などお構いなしに、縦横無尽に動く。
まるで水中に沈めたビート版に振り回されるような感覚で、私は剣がすっぽ抜けないよう、必死にしがみつく。
『もうちょっと腰に重点を据えろ! 俺サマはテメェの身体をテメェの代わりに動かしてやってんだよ。そんなへっぴり腰じゃ、斬れるもんも斬れねェ!』
「腰に重点ってどうやるの!?」
「鍬や鈀を土に入れるような感覚だ!」
「クワなんて使ったことないんだけど!」
マグワ? に関しては名前すら聞いたことない。
農業体験でも、素手でジャガイモを収穫した程度。
しかも、農家の人が予め芋を掘り起こしたあと、学生の為に土を被せてくれたZ世代仕様だった。
『だったらしっかりと握ってろ! 絶対離すんじゃねェぞ! 俺サマは以気馭体の術で持ち主の肉体を操ることは出来ても、自分の身体を動かすことはできねェんだ。手を離したらゴブリンの餌食だと思え!』
「ひいぃぃ!!」
目の前で次々とゴブリンが切り刻まれていく。
私は必死に剣を握る。
黒い剣が、勝手に私の体を動かしてくれるとはいえ、普段動かさない筋肉が酷使されて、肩が今にも外れそうだ。
『ギ……ギギギ……ッ!』
しかし――忍耐も実を結び、私を包囲していた数十匹のゴブリンは、ついに後3匹となった。
『ギャア……ッ!!』
ゴブリンは負けを悟ると、武器を投げ捨て逃げ出す。
『逃がすかよ――《猴炎嘯》!」
――炎ッ!
黒い剣の刀身に、黒い炎が宿った。
そのままブン――と空気を斬る。
すると、黒い炎が刀身から離れ、ぽーんと、ゴブリンの頭上を通り越し、地面に落下する。
そしたら、地面の草が燃え広がって、ゴブリンの行く手を阻むように、炎の壁が出現した。
『ギギャッ!?』
ゴブリンは勇気を振り絞って、炎の壁にダイブ。
しかし――
『ギャア!? ギャア!? ギギャアアアア!?!?』
黒い炎は一瞬でゴブリンを火達磨にして、地面の上にのたうち回った末、燃え死んでしまった。
『キャアッ! キャアッ!』
残る2匹のゴブリンは、その様を見て全てを諦めたのか、武器を捨て、許しを請うように平伏する。
まるで土下座をしているみたいだった。
『ったく、人間の所作を真似るのだけは上手な畜生だぜ』
しかし私の肉体は止まらない。
丁度いい場所に首を差し出してくれてありがとうと言わんばかりに、地面に額を擦りつけるゴブリンの後頭部を、ザシュンと一振り。
返す刀で最後の一匹にも一振り。
「終わった…………の?」
周囲を見渡す。
ゴブリンが放つ獣の匂い。
贓物の匂い。
肉と草が焦げる嫌な臭い。
大自然が放つ青臭い木と土の匂い。
それらが混ざって、これまで想像すらしたことないような強烈な匂いが、私の鼻腔を刺激する。
これは――死の匂いだ。
そして――生の匂いだ。
状況を飲み込めず、混乱する私。
ただ1つ分かること。
それは――私はまだ、生きているということ。
この惨劇を繰り広げた黒い剣は――私の手の中でカタカタと振動しながら、私の脳内に直接声を送る。
『さて、次の契約だクソガキ。テメェをこの魔物蔓延る森から出してやんよ。その代わりに、俺サマの願いを叶えろ』
これが私――白石鈴蘭と、
哭鳴刀と呼ばれる刀に封じられた魔物――クロとの出会いだった。