飛べ、幸吉!
天明五年(1758)岡山城の南に架かる京橋から自作した翼で空を飛びました。 ドイツのオットー・リリエンタールがグライダーで空を飛んだ1891年より100年以上も前の事です。 備後国(福山)儒者の管茶山「筆のすさび」に記述があります。
天明の世となってから天候不順が続いている。餓死者も出て全国各地で一揆や打毀しも起きていた。天明四年(一七八四)も冷夏で蝉の声を聞くことも無いまま秋となり、皆が心配していた通り稲は不熟で農家はたちまち困窮した。
「知っておるか、鵺を見たという噂を」
「そうそう、何でも御政道を正すために城下に現れたらしい」
鵺とは、鳥に似た得体の知れない妖怪の事である。米櫃の底を心配する日々は、先行きの不安からその矛先が政治への不満に向けられる。
備前岡山藩は、この年米一万俵に銀四百貫を領民に給すなどして餓死者こそ出すことは無かったが、銀札(藩札)の相場が下がり、それが物価の高騰となって領民を苦しめ、子供は口減らしの為に奉公に出された。
城下の北、赤坂郡福田村の小百姓の娘十一歳になったばかりの千代もその一人で、冬が来る前に奉公に出された。三人兄弟の長女で、四つ下の妹、更にその一つ下に弟が居て里に残っている。奉公先は仲之町にある備前屋である。備前屋は岡山城の西の方角、西国往来が南北に走る城下で最も賑やかな大通りに面していて表が紙屋、裏は表具職人の仕事場となっている。主人の万兵衛は五十過ぎの男で女房と去年死に別れて子供は居ない。千代はここで職人の飯炊きや洗濯、表具師の使う糊を煮る手伝いなどをしている。農家から奉公に出てくる子供が増えていて、万兵衛も知り合いの口入屋に頼まれ千代を住み込ませた。千代のような娘の奉公先は子守りなどが多く給金は無いのだが食事は店持ちなので里にとっては口減らしになるのである。
千代の顔は日に焼けてはいるが切れ長の目に宿す黒い瞳は愛らしく、懸命に働く姿に皆からはお千代、お千代と呼ばれてすっかり馴染み万兵衛もそういった千代を可愛がった。
鵺の噂に興味を持った千代は、主人の万兵衛にそれを訊ねた事があるが、なぜか万兵衛は「わたしは何も知らないよ」とピシャリその噂を断ち切るように話すのが意外であった。好奇心の強い千代は諦めきれずに番頭や手代にも噂話を訊ねたが、ここ備前屋では口に出すのも憚られる様子なのである。使いに行った先でその噂話を仕入れた時には、西国往来のしかもこの近くの界隈で見かけたと云うのがその出所であるらしいのだが。
師走が近づくと、奉公人には金一封が出る事が慣習となっている。奉公を始めたばかりの千代には無いものと思っていたのだが、万兵衛は密かに千代を呼び出して少しばかりの心付けをそっと握らせてくれた。千代は素直に喜び、仕事を片付けてから里への土産物を物色に出掛けて帰りが遅くなってしまった。
裏口から入ろうと往来から内堀沿いの通りに差し掛かった時「ぎゃー」と云う叫び声が聞こえた。恐る恐る曲がり角から声のした方に顔を出して様子を伺うと、暗がりの中から婆さまが這い出てきた。意外にも素早くて千代にはそれが大きな油虫のように見えたのだが、その先に目を凝らすとそこに婆さまのものか提灯が燃えて鵺が照らされていた。
「お米婆さまでは無いか」と顔見知りであろう年配の男が駆け寄って来た。
「こ、腰が……」とお米と呼ばれた婆さまはやっとの思いで声を出したが、這って来た方角を右手で示すだけで後が続かない。
婆さまが男に介抱されているのを尻目に千代の好奇心が足を鵺にそっと歩ませた。
「痛ってえー、足を挫いたかな?」
「わしの肩に捉まれ」
近寄ると声に聞き覚えがあった。鵺は二人組の男で、一人は蝉のような恰好をしている。
「幸吉さん? それに彌作さんも」
声をかけられ二人の男は驚いて千代を見る。
「お千代では無いか、どうした今頃」
「里への土産を買おうとして遅くなった」
「兄さん話は後だ。お千代、それを運んでおくれ」
彌作に言われて、足許を見ると壊れた羽のような仕掛けの残骸が転がっていた。千代はそれを拾い上げ三人は逃げるようにして備前屋の裏口から入った。
「彌作、灯」と二階にある二人の部屋に上がり込むなり幸吉は床に倒れ込んで言った。
「その辺りに、羽は置いておいておくれ」と彌作が千代に言いながら燧石を叩く。
明るくなった部屋を見回し千代は驚いた。
「何なのここは?」
天井には大きな鳥の羽を真似た仕掛けが吊してある。壁にはその形を墨に落とした紙が貼ってあって、床は仕掛けを作るのであろうか道具や材料のような物が重ねて置いてある。千代はそれを不思議そうに眺める。
「また失敗じゃ! 飛び出した時にはやったと思ったのだが、すぐに羽が折れた」
幸吉は羽の残骸を眺めながら溜息をついた。
「鵺の噂は、幸吉さんだったの?」
千代に言われて、幸吉と彌作は頭を掻く。
「お千代、内緒にしておいておくれ」
そう言いながら彌作は外の様子を眺め、開けっぱなしにしてあった格子窓を閉める。どうも鵺の格好をして、そこから出て行った様子でもある。
「どうして、鵺の格好なんかして人を驚かすの?」
「いや、驚かすつもりなど……。見かけた奴が勝手に勘違いして言いふらしただけじゃ。しかも御政道を正すなどと。わしは鵺では無い」と幸吉は言い訳するように話す。
「でも、婆さまはたいそう驚いておったぞ」
「彌作、よく見ておけと言うたでは無いか」
「いや、兄さんが飛びたつ間際だったからつい上ばかり気にしておった。足は大丈夫か」
「ああ、もう治まった。うまく風を捕まえたと思った瞬間に真っ逆さまじゃ。まあ婆さまには悪いことをした」
話を聞いていても千代には訳が分からない。
「誰かに頼まれたの? これも表具師の仕事なの?」
千代に言われて二人は顔を見合わせる。
あはははは。
あはははは。
二人の笑い声につられて千代も笑う。
あはははは。
「誰にも頼まれてはおらぬわい」と幸吉は胸を張る。
「お千代、兄さんはただ鳥のように飛びたいだけじゃ」
「鳥のように? 飛べるの?」
「ああ、飛べるさ」と幸吉はまた胸を張る。
その夜、二人の話に千代は気持ちが昂ぶり明け方まで寝付けなかった。翌日作業場で眠い目を擦りながら糊を煮ていても、自然と二人を目で追いかけている。他の職人に混じって幸吉は襖のふちを合わせ、彌作は屏風の修理をしている。千代は糊をかき混ぜながら昨夜の話を思い出す。
子供の頃から幸吉は鳥のように飛べないものかと夢見ていたらしい。生まれは城下の南にある児島湾の八浜という港町で櫻屋という裕福な船宿の倅であったのだが、幸吉七歳の時に父親が亡くなり一家は離散した。備前屋万兵衛は遠縁にあたり、まず五歳の彌作が、幸吉は十四歳になってから万兵衛に引き取られ今年で十四年になる。備前屋で表具師として修行に励み腕を上げるにつれ、鳥のように飛びたいという想いが募って来た。それはそうである、商売ものの紙や竹が溢れるほどあり、定規や物差しも揃っていて、羽を作る材料には事欠かない。また表具師は襖や壁紙の修理に算術が必要で、幸吉も和算術を身に着けている。そして鳥の翼面積を人の体重にかけ合わせた仕掛けを作れば飛べるのでは無いかと思いつき彌作を巻き込んだ。
「最初は鳥を捕まえる事から手伝わされた」
何でも、鳩を捕まえて来て重さや羽の面積を測り、幸吉の身の重さとかけ比べたりして最初の仕掛けを工夫した。
「で、飛べたの?」と千代は話の先を促す。
「駄目だった」と幸吉は苦々しく説明をした。
備前屋で羽の仕掛けを作り、お盆の墓参りに少し長い休暇を貰って船に積み込んで八浜に帰省し、仕掛けを両腕に紐で縛り付けて羽ばたいたのだが飛べる筈も無く、諦め切れずに近くの神社の石段から駆け下りた時には転んでしまい「大怪我をした」と幸吉は今も残る額の傷を指差した。
「どうしてわざわざ八浜で?」と千代は疑問に思って聞く。
「城下では凧揚げが御法度だ。これも凧と同じだからなあ」と彌作が答える。
江戸の御公儀に倣って備前岡山藩も城下での凧揚げを御法度(禁止)としている。
「でも、さっきはこの先で飛んだでは無いか、御法度が無くなったの?」と千代は聞く。
「殿さまが治政さまの世となって、お目こぼしが多くなった。何しろご禁制の遊郭や芝居を児島瑜伽山蓮台寺の門前に開放なさってのう、しかも歌舞伎座という芝居小屋を作らせて上方の役者を招いて殿さま自ら観に行かれておるそうじゃ」
「じゃあ、凧揚げもお目こぼしに?」
「いや、殿さまが興味の無い凧揚げはお目こぼしにはならぬ。宮内遊郭にはわしらもちょくちょく行けるほど監視の目は緩くなっておるのだが……」と幸吉は目尻を下げる。
宮内とは、隣国備中にある吉備津神社の社領域の事で、公儀から花街、芝居の公許を受けていた。しかし遊郭に通っている話に千代が眉をひそめたので、幸吉は口を滑らせたと気付き話を戻す。
「ま、まあ殿さまは寛大なお方と聞いておるから夜であればと思ったのだ」
「だから夜中に……」
「仕掛けも大浜に持ってゆけぬほど大きくなってしもうたし、早く試したいのが人情だ」
「煙突に落ちた雀は煙突から飛んで出られなくなるのを知っておるか?」と彌作が聞く。
「そのような事はなかろう。こう羽を動かしていつも飛んでおるでは無いか」と千代は両手を羽ばたいて見せる。
「雀はのう、あの煙突の狭い中ではいくら羽ばたいても外には出られぬ、真上には飛べないのだ」
「そうなのか?」
「ああ、どうも鳥は前に勢いをつけなければ飛べないのだ。そこで前に走れば飛べるのでは無いかと考えて、人の居らぬ裏通りを、羽を背負って走り回ったのだ。それに鵺の噂がついて回った」
「ぷっ!」と千代は思わず吹き出す。大の大人が夜な夜な羽の仕掛けを背負って真剣な表情で走り回っている姿を想像すると、それが目の前の幸吉の顔と重なって可笑しかった。それを幸吉は見咎めるように睨んで言う。
「人が空を飛ぶには勢いが必要なのだ。早く走るだけではとても駄目で、もっと勢いをつけねばと屋根から飛ぶ事を試したのだ」
成程そうなのかと夜の騒ぎに千代は納得した。どうやら備前屋の人々は薄々それに気付いてはいるが、御法度でもあり奉行所を憚って知らぬふりをしているらしい。しかし千代は思わず叫んだ、
「幸吉さんが飛ぶところを見たい!」
糊をかき回していると「お千代ちょっとおいで」と万兵衛に呼ばれた。
「実はな、同心の大山鉄五郎さまがお見えでね。昨晩、近所のお米婆さまが鵺に驚いて腰を抜かした騒ぎがあってな、婆さまを介抱した男が娘を見かけたと、それも備前屋で奉公している娘では無いかと聞きつけて、表で待っておいでなのだ」
「同心って、あの奉行所のお役人さま?」と千代は驚き泣きそうな顔になって「旦那さま、千代はどうすればよいのじゃ」と訴える。
「お千代、お前もしかして鵺を」と万兵衛が訊ねると、千代は肯きその場にしゃがみ込んでしまった。
「お前そうか鵺を、いや幸吉さん達を見たのだね。」万兵衛もしゃがんで千代の頭に手を当てて言った。
「まあ、見てしまったものはしょうが無い。正直に見ましたと話すしかないね。ただ、それが幸吉さん達だったというのは内緒にしておこう、何かと面倒な事になるからね。見たけど怖くなって店に戻った事にしよう」
千代は万兵衛に連れられ表に出た。暖簾の外には黄八丈の着流しに巻羽織、二本差しの同心が目の前に現れた。
「備前屋さん悪いねえ」とその大山鉄五郎と名乗る同心は千代を見つめた。
「大山さま、先ほどお千代に聞きましたが、昨夜の騒ぎの時に通りかかったようです」
「そうか、それは話が早い。ではお千代さんに聞くが、その鵺が何処に行ったか教えてくれるかい」と鉄五郎の顔が千代に迫る。
「それが、先ほど問い正しましたところ、鵺はそのまま何処かに消えてしまったようで。お千代も怖くなって直ぐに店に戻ったとの事でございます」と万兵衛が千代に代わって答える。
鉄五郎は万兵衛に向き直り胡散臭そうな顔をする。
「備前屋さんよう、何か隠しておるのでは無いか? お千代さん、鵺はこの備前屋の裏口に逃げ込んだのでは無いのか? お前さんと一緒に」
鉄五郎に図星をさされて動揺するが千代はここが踏ん張りどころと腹を据え小刻みに顔を横に振って「本当に消えたんです!」と思わず大声になった。
千代の張り上げた声に一瞬たじろぐが、腹の中を見せるように言う。
「まあ消えてしまう事もあろうがのう本当の鵺であれば。わしは誰かの仕業と睨んでおる、それがこの界隈に居るのでは無いかと思うのだがのう」とわざとらしく店の中を覗く。
「さようで。しかしこの備前屋にはそのような大それた事をしでかす輩は居りませぬよ、ご安心ください」
万兵衛が答えた時、鉄五郎の手下である伝七が走り寄って鉄五郎の耳元で何事か囁く。
「何、京橋で上がった土座衛門に刺された痕だと」
「へい」と伝七は頷き、急ぎ京橋へ向かうよう目で促した。
京橋は備前屋のある往来を南に行って西大寺町を東に折れ、その先旭川に架かっている長さ五十九間(約百七メートル)の板橋で西国往来、城下東の玄関口に当たる。船着き場があり、大坂や堺などからも廻船商人が来て出船・入船で賑わい、中橋との間の西中島町は宿場街となって繁盛している。当然人の行き来も多く、そこで水死体が上がったのでは野次馬も集まり騒ぎも大きくなっているはずである。
「備前屋さんよ、鵺騒ぎどころでは無くなった。今日はこれまでだが鵺の恰好をしてご政道を正すなど不届きな野郎を突き止めて見せるからな!」と言い捨て、走り出そうと振り向きざまドンと人にぶつかる。
「ぎえー」とぶつかった女が叫ぶ。中年増だが派手な柄の着物姿である。
「おっと」と声を出したきり鉄五郎はその女を無視して伝七と駆けて行った。
「何だいあの同心、偉そーに」と鉄五郎の背中を追ってから向き直り目の前の千代を見て目を見張った。
「おや可愛いじゃないか。いくつになるんだいお嬢ちゃん」
見知らぬ女に声を掛けられ、千代が戸惑っていると万兵衛が千代を背中に隠すように進み出て「何か御用で?」と女に訊ねる。声には警戒する響きがある。
「あ、いやねえただ通りがかっただけですよ。こんな可愛い娘が備前谷さんに居たなんて」
「いえいえ」と万兵衛は愛想笑いで答えて千代に向き「ささ商売、商売」とそそくさと店の中に戻って行った。
「お客さんでは無かったのですか?」
「あれは宮内遊郭の遣り手婆だ、目を付けられたら女郎に売り飛ばされてしまうよ」
遣り手婆とは、遊郭で遊女を仕切り、客引きをして自分の実入りとしている。時には娘の仲介をするほど女衒とも関係が深い。
諦め切れないのか暖簾を上げて中を伺っている遣り手婆の視線から逃れるようにして万兵衛は千代と作業場へ向かった。
「そうそうお千代。幸吉さんと彌作さんに私の部屋来るように言っておくれ、お前も一緒にだよ」と万兵衛は思い出したように言った。
「やれやれ、噂だけならまだ良かったのだがね、婆さまが腰を抜かしたのは頂けないね。お前さん達鳥の真似事はもうお止め。さっき同心の大山さまがお出でになったのだよ、備前屋に鵺騒動の張本人が居ると睨んでね」
火桶を中に万兵衛と向かい合って幸吉と彌作が正座している。千代が三人に湯呑みを置いて彌作の後ろに畏まった。
「万兵衛さん」幸吉は親戚筋でもある主人に言い訳するように話始める。
「婆さまの腰を抜かせてしまったのは、はァ何とも申し訳ない事です。しかし、もう誰にも見つからないようにします。彌作にももっとしっかり見張るようにさせます。お願いですもう少しで飛べるはずなのです。わしは真面目にそう思っております、決して浮ついた気持ちでは無いです。」
幸吉は、万兵衛に頭を下げる。それを見た万兵衛はお茶を一口含み、いかにも困った表情を見せて諭す。
「凧揚げは御法度だからこれまでも私は見て見ぬふりをして来たがねえ。この店の者も皆そうだよ、こっそりお前さんが何か隠し事をして夜な夜な出かけている事に気付いていても知らぬふりで、奉行所に届けるなんて考えても無のさ。お前さんがお人好しだからなのかねえ、どうにも庇ってしまうのだよ。私も奉行所には顔が利くのだけれども、近頃は飢饉が重なって殿さまへの風当たりも強くなって、鵺がご政道を正すなどと噂が広まって来ると奉行所もいよいよ放ってはおけなくなったのさ。だからお止めと言っているのだよ。お縄になったら困るんだよ、私はね、幸吉さんに備前屋の暖簾を継いで貰いたいとも思っているんだ」
幸吉は腕の良い表具職人である。その技量は銀払いで手間賃を稼ぐ程なのだが、頼まれると断れないのか、借金の証人になった職人仲間が夜逃げをしてその借金を丸ごと背負って年賦で返済している為に貧乏していると云う絵にかいたようなお人好しである。日々の暮らしで不足する費用は遊び金も含めて弟の彌作が面倒をみている始末である。しかし、そういった事を恨む訳でもなく、夜は兄弟揃って部屋に閉じこもり出てこないので周りでは変人と思われてもいるが、表具師としての技量とそれに釣り合わない釘の抜け具合が人の心を吸い寄せてしまうのであろうか、何をやるにしても憎めず、また彼の失敗を放っておけない気にさせるものがあった。千代にしても「貧乏していても遊郭には行くんだ」と幸吉の背に向かって呟き、やきもちを焼いている始末である。
「わかったね」と万兵衛が念押しするように言い渡すと幸吉も彌作もうなだれた。
「もう、遊びはお仕舞だよ」と万兵衛がこの話を打ち切ろうとすると、
「旦那さま、幸吉さんは遊びで鳥のように飛ぼうとしているのでは無いです。遊びでは無いのですよ、夕べ幸吉さんと彌作さんの話を聞いてよく分かりました」とここは千代が幸吉の味方に付いて訴えた。
思わぬ援軍に幸吉は千代に振り向き、
「お千代、ありがとうよ。でももう良いのだ、飛ぶことはもう諦めるさ。わしがお縄になるのはまだしも、備前屋の暖簾に傷をつける訳にはゆかないからね」
「でも、夕べはあんなに楽しそうに話を聞かせてくれたでは無いか。うちも幸吉さんが飛ぶところを見てみたい、きっと飛べるよ」
「悪かったお千代、そうだね遊びなんかじゃ無かったね。でも、お前は大山さまのお調を受けたのだよ、分かっておくれで無いかい」と万兵衛が千代を諭す。どこまでも優しい主人ではある。そして続けて、
「さあもうじきお正月だよ、里に帰って気分を変えておくれ」と立ち上がり「でも、もうお止めよ!」と釘を刺して厠へ向かった。
「どうした、元気が無いぞお千代」
年が明け福田村から備前屋に奉公に戻った千代は、糊を練っていても、幸吉が話かけても何事か考え込んでいる様子で上の空なのである。「飛ぶ事で新しい話があるから」と幸吉と彌作が気遣って声をかけて部屋に呼んだのである。
「飛ぶ新しい話って?」と元気なふりをして話題を変えようとするが、声には張りが無い。
「お千代、里で何かあったのか? 心配事があるなら、わしらで出来る事があるなら遠慮なく言ってみろ」と幸吉。
「金で困っているのなら兄さんは無理だが、わしなら何とか出来るかも知れん」と彌作が兄を茶化すように話す。
「お千代、何か心配事があるなら一人で抱え込むな、わしらは鳥仲間では無いか」
「ぷっ、鳥仲間。失敗ばかりのくせに」と千代は少し笑顔を戻す。
「それを言うで無いぞ」と幸吉が頭を掻く。
「幸吉さん、彌作さんありがとね」と努めて明るく振る舞い兄弟に感謝した。「でも、どうしようも無いの」
里に帰ると千代は驚いた。母親が風邪をこじらせ無理が祟ったせいで床から起き上がれなくなってしまっていた。飢饉のせいで借金を抱えていてろくに医者に掛かる事も出来ていない。幼い妹が母親の代わりをして面倒も見て「心配しないで」と健気に送り出されたものの後ろ髪を引かれる想いで戻って来たのである。
「幸吉さん、泣かないでおくれ」
幸吉は涙もろい。「そりゃーお千代」と後の言葉が続かない。
「心配だねえ」と彌作が引き取り「医者にしっかり診てもらって、薬を飲まないとなあ」と腕を組む。
「でも、あたしの顔を見たら安心したのか、少し起き上がれるようにはなったの。そしたらお父は、妹も口減らしに奉公に出そうと言い出したので言い合いになって……」
千代は思い出して少し涙声になって続ける。
「そうすればおっ母は誰が看病するのって。妹もまだ幼いしあんまりだって。奉公があるから戻って来たけど心配で」
「それは心配じゃのう。しかし偉いなあ、お千代もまだ幼いのにしっかりしとる。兄さんに爪の垢でも煎じて飲ませてやりたい位だ」
「わしに借金さえなければ、少しはお千代の力になれるのだがなあ。万兵衛さんには話をしたのか? わしらの遠縁に当たる人だし徳のある旦那だからきっとお千代の力になってくれるぞ。幼い彌作を引き取って一端の表具職人にしてくれたのも万兵衛さんだ」
「ううん、旦那さんには。うちは人の力を借りたく無い、甘え出したらきりが無いもの」
きっぱりと言い切る千代に幸吉は目を見張る。千代が自分よりはるかに大人びて見え、気恥ずかしさを覚えた。
「身内と離れて暮らすのはさびしいものだな。わしが一人備前屋に奉公に来たのは五歳で、十二の時に離れていた兄さんが傘屋から此処に奉公に来た時は嬉しゅうてたまらんかったなあ。お千代の気持ちは良く分かるぞ」
「二人とも仲が良いものね。でもこうして腕の良い表具師になって稼いでいるのは羨ましな、うちも表具師になれるのかな? 女表具師って聞いた事ないから無理なんだろうな」
「そうだ! お千代、表具師になれ。わしは借金で貧乏しておるから信じられぬかもしれぬが、銀払いの表具師になれば金に不自由はせぬ、千代のおっ母にも楽をさせる事が出来るぞ」
「え、女でも表具師で稼ぐ事が出来るの?」
「ああ、お千代は松尾芭蕉という俳諧師を知っておるか」
「松尾芭蕉?」
「百年くらい前の俳諧師で、日の本に多くの弟子が居ってな、その中の一人に美濃の各務支考という俳諧師が居って、その弟子の女が確か表具師であったぞ」
「へえー、そうなの幸吉さん」
「朝顔や つるべとられて もらひ水。良い句であろう」
千代には詠んだ句のいったい何が良いのか全く分からないが、流石に銀払いの表具師なのだと幸吉を見直す思いである。
「何て人なの?」
そう千代に聞かれた幸吉は、「おお」と手を叩く。
「そうじゃ、号は草風、加賀の千代女だ! お千代、お前と同じ名じゃ」
幸吉と話をすると何だか楽しくなる。この部屋は初めて見た時のままで天井に吊るす羽仕掛けや、壁に貼ってある羽仕掛けの絵を見ていると、そこが千代にとって居心地の良い場所となっていた。
「幸吉さん、うちその千代女さんのように表具師になれるのかなあ」
「ああ、なれるとも。銀払いの表具師になってお千代のおっ母さんを元気にしてやれ」
「兄さん、銀払いの表具師って、いったい何年かかると思っておるのだ」と彌作が水を差すように言う。夢の中で生活しているような兄と違って堅実な性格なのである。
「わしが手取り足取り教えてりっぱな表具師にして見せる」
「そんなに上手く行くもんかい。お千代、気をつけるのだぞ、兄さんは器用過ぎるから飛ぶ事にも手を出しておるのだ。器用貧乏と言ってのう、兄さんを見習うでないぞ」
「うるさい! 貧乏なのは器用とは関係無いわい」
兄弟のやり取りを聞くうち、千代は重かった心が軽くなったように感じる。
「ねえ、それより新しい飛ぶ話って」
「!」
幸吉は鳩が豆鉄砲を食らった顔をする。
「ぷっ、何も考えておらんかったの」
「方便じゃ。里から帰って来てからお千代の元気が無かったからのう、わしも兄さんも心配したのだ」と彌作が弁解する。
「でも、羽さえ壊れなければ飛べたの?」と言いながら千代は立ち上がって格子窓に向かって「ここから幸吉さんが羽を背負って出たんだ」と窓を開け、瓦屋根の先に広がる堀を眺めた。
外から冷気が部屋に入り込んだので「おー寒い、お千代閉めろ」と幸吉が叫ぶ。
慌てて戸を閉めてから倒れ込むように二人の前に千代が戻る。
「い、居た。お堀の側の柳の木の処に、あの同心の手下の……」と窓を千代が指差す。
「同心の手下?」と彌作が窓を開けて外を見ると、確かに柳の木の陰に手下を認めた。
「兄さんあれは伝七だ。まーだ見張られとるぞ、ご苦労なこった」
同心大山鉄五郎は、執拗に備前屋を張っている様子である。
「やれやれ」と幸吉はため息交じりに呟く。
「幸吉さん、諦めちゃあ駄目だよ。うちも、表具師の修業をしながら手伝うよ!」
「そうか、お千代が手伝ってくれれば鬼に金棒、彌作より頼りになりそうじゃ」
「千代は表具師になる。きっと幸吉さんのような表具師になっておっ母に楽をさせる」
しかし、時は千代の成長を待ってはくれなかった。
「ふざけるんじゃないよ! 二度とこの備前屋の敷居は跨がせないからね、とっとと失せとくれ」
「何だい、筋を通しにわざわざ来たのにご挨拶だね。こっちは父親と証文を交わしているんだ。来月には渡してもらうからね」
宮内遊郭の遣り手婆と万兵衛が店先で言い争っている。遣り手婆の隣には口入屋が何やら間に挟まっている様子で困った顔で小さくなっている。騒ぎを聞いて店の前には人だかりが出来ている。穏やかな万兵衛しか知らない店の者も何事かと驚いて暖簾の影から見ている。その中には幸吉の姿もあった。
「大体、当の本人が承知しているのかい! 承知などするはずが無いよ」
「へん、本人もちゃーんと承知しているのだよ、聞いてみな!」
「備前屋さん、千代の代わりは手前どもでちゃんと……」と口入屋が話すのを遮って、
「お千代はうちの娘同然なのだよ!」と万兵衛は怒りをぶつける。
「千代……?」
幸吉は、この騒ぎに千代が関わっていると感づき遣り手婆を見た。そう云えば宮内遊郭で見覚えのある顔で、嫌な予感がした。
「どうした、いったい何の騒ぎなのかね」と同心大山鉄五郎が駆け寄って来た。たまたま通りかかったようである。
「大山さま、通源院(藩祖池田光正)さまは遊郭を御法度とお定めになられた筈でございましょう、しかし何故このような宮内遊郭の者や女衒が城下を大手を振って歩いているのでございますか」
「おや、随分な言いようだねえ。知っての通り殿さまはねえ、児島に遊郭を作っておられるんだよ。その為にはあたいらの手助けが必要なのだよ」
遣り手婆の言い草に万兵衛は鉄五郎を見るが、鉄五郎はその視線を逸らして、
「備前屋さん、往来の真ん中で言い争いは頂けないよ、それに宮内遊郭の者に城下を歩くなという法度も無いよ。何があったか知らんが、あんたらしくないよ」と言いながら番頭に目配せをした。
「ささ、旦那様」と騒ぎに立ち止まる人の目を気にしていた番頭が、万兵衛の背中を押すようにして店に入れた。
「万兵衛さん、千代に、お千代に何かあったんで?」と幸吉は尋ねる。
幸吉の声に万兵衛は足を止め、幸吉に向き直って話す。
「お千代の母親はずっと病で伏せたままで、ただでさえ不作続きで借金を抱えて薬代やら払えずにいたところに、千代に目をつけたあの遣り婆がその弱みに付け込んで、父親をたぶらかして千代を女衒に売ったんだ。もう証文を交わして女衒から金を受け取ったらしい。あの口入屋、代わりを用意すれば良いくらいに軽く考えていたようでね、頭に来たのさ。あれは袖の下を受け取ってるね、遣り手婆の言いなりさ」
「で、お千代は今どこに?」と幸吉が尋ねると、
「兄さん、お千代はさっき裏の作業場から外に出て行ったよ、入れ違いに表の騒ぎで何事かと来てみたんだが……、様子が変と思ったらそういう事かい」と彌作が答えると幸吉はすぐに裏口から出て千代の姿を追った。
内堀筋を探してみたが千代の姿は見当たらなかった。そして「よし!」と思い直した様子で駆け出した。
西国往来を南に下った栄町に口入屋はある。暖簾を潜るなり「やい口入屋!」と叫ぶと、先ほど万兵衛の前で小さくなっていた店の主人が奥から出てきた。
「へい、何かご用で」
「備前屋の幸吉だ」
備前屋と聞き、口入屋は「先ほどは、相済まない事で……」と挨拶代わりに詫びた。万兵衛があそこまで怒るとは思ってもみなかった様子で恐縮している。
「一緒に居た遣り手婆は何処だ?」
「へ?」
「遣り手婆に用があるんだ!」
「へえ、お金さんですか。お金さんでしたら今宵は西中島町の定宿に泊まると言ってさっき別れましたよ」
「定宿? 何て宿だ」
「そこまでは聞いておりません」
幸吉は店を飛び出し後を追った。「名前まで金の亡者だな」と腹立たしかった。人の往来をかき分けながら西大寺町を東に折れて京橋に差し掛かった所で遣り手婆に追いついた。
「やい、遣り手婆!」
声を掛けられ遣り手婆は立ち止まって振り向き、幸吉を不審そうな目で睨む。
「何か用かい」
「千代、お千代の証文を返せ!」
「証文を返せ? 誰だいあんたは」
「わしは、備前屋の幸吉だ。千代の……お千代の……」と後が続かない。
「備前屋? ははあ、あんたあの娘に惚れてんのかい証文を返せだなんて。生憎だねえ、惚れたのはこの私さ。あの娘は磨けば化ける玉なんだよ、あたいの目に狂いは無いのさ」
「お千代はなあ、わしの弟子だ。あの子はこれから銀払いの表具師になるんだ。だから証文を返せ」
「何寝言を。言っただろう、あの娘は三年もすりゃあそこいらの女郎が束になっても敵わない、銀払いの稼ぎの十倍、いや百倍は稼ぐ玉なのだよ、誰が離すもんかい」
「お千代は表具師になると言っているのだ、そんな話に首を縦に振る訳がねえ」
「知らないのかい、あの娘は承知したんだよ。あの娘が承知する事で、母親は医者に診て貰えるし一家も飢えずに済む。こっちは人助けをしているのさ」
「人の弱みに付け込みやがって」と幸吉は遣り手婆に掴みかかる。
「ぎゃー助けてくれー」と遣り手婆は大袈裟に叫ぶ。
「おいおい、乱暴はだめだぞ」と、どういう因縁だか同心大山鉄五郎が間に入る。ひょっとしたら後をつけていたのかも知れない。
「ああ、良い処にお出でだ。お役人さま、万兵衛が申しておりましたが遊郭が御法度ならば領内で女衒が娘を買い漁るのも御法度では無いのですか?」と幸吉は鉄五郎に訴える。
「何が御法度だい、宮内の遊郭はご公儀もお認めになっているんだよ」
「お千代は、宮内遊郭に売り飛ばすつもりなのか?」
「ふふ、違うねえ。さっきも言っただろう、あの娘は玉だって。京の島原で大夫になれる玉なんだよ。来月にはここから船で上方さ」と遣り手婆は、京橋の欄干越しにひしめく船を指差した。
「お役人さま、こんな事が許されるのですかい、凧揚げさえ厳しく取り締まりをされているこの城下で……」
今の幸吉に縋れるのはもう鉄五郎しか居なかった。しかし、鉄五郎は遣り手婆に「おまえはもう行け」と幸吉の前から去るように促した。幸吉を睨んで立ち去るその背を見届け、やがて川面に目を移して幸吉に話始めた。
「通源院さまの世であれば、お主の道理も通用したかも知れぬ。あの頃は備前風と江戸中の噂になるほど質素で質実剛健な侍ばかりであったそうだ。天下の備前侍も今では華美に流れ、風儀は緩み昔の面影も無い。何しろ殿さまが法度破りをされておるから、備前屋に言われた事に返す言葉が無い」
力を落として一緒に川面を眺めていた幸吉には意外であった。同心の愚痴を聞こうとは思いも寄らなかった。
「女衒は農家をまわって盛んに娘を買い漁っていると聞く、小百姓はどこも借金まみれなのだ、幼い娘を銀百八十匁で容易く仕入れていると聞くが、島原で大夫になれると見込まれたのであればその五倍は前渡しで手に入れたのでは無いかな。娘の里が食べていくには十分だと思うぞ」
銀百八十匁は小判で云えば三両である。
「そう言えば……千代と申すか、その娘は。お米婆さまが腰を抜かした時に鵺を見たというあの娘であろう」
「……、へい。その千代でございます」
その時、鵺騒ぎの時に千代が言った言葉が幸吉の胸に蘇る、「幸吉さんが飛ぶところを見たい」と。そしてこの京橋は街中と違って風がよく通る事に気付き、ここでなら飛べると感じた。せめて今の千代に幸吉がしてやれることはそれしか思いつかなかった。
「凧揚げにお目こぼしは無いのですかい」
「凧揚げ?」と鉄五郎は幸吉の顔を眺め、思い出したように十手を抜いて見せる。
「銀払いの表具師が、鵺を語って世間を騒がすのは御法度だぜ」とさっきまでの様子とは打って変わり、幸吉を騒ぎの張本人と目星を付けた同心の目となっていた。
それを聞いた幸吉は、鉄五郎を一瞥しただけで踵を返した。歩きながら千代の事を想っていると、正面に見える鐘撞堂から夕四つを告げる音が響いて来た。その音は幸吉の耳から体中に滲みわたり、足取りを重くした。
備前屋に戻ると、彌作が待ちわびていて万兵衛が待っているからと二人揃って部屋に入った。そこには千代も居た。
「お千代……」と幸吉は声を掛けて隣に座った。千代の目は赤く腫れていた。
「おかえり幸吉、何処へ行っていたのだね」と万兵衛が話を切り出すように言う。
「いえ……」と話を濁す。まさか遣り手婆に会っていたとは言えなかった。
「まあ良い。二人に来て貰ったのはお千代の事だよ。二人は特に親しかったからねえ」
「お千代、話は聞いたがお前いつ親と話をしたんだ」と幸吉が訊ねる。
「昨日、お父がこっそり会いに来て……」と千代は気丈に話しを始めた。
千代の話では、口入屋に呼び出されて店に行くと、そこには父親の隣にあの遣り手婆も居て、島原へ年季奉公に行ってくれと、もう証文も取り交わしたと父親から告げられた。
「最初は何の事だか訳が分からなくて……」
里の様子は先ほど万兵衛から聞いた通りで、妹も女衒に売ろうと考えていたらしい。
「それだけは、やめてとお父に言ったの」
幸吉は、遣り手婆が「本人も承知した」と言っていたのはそういう事かと千代が不憫でならなかった。
「お前を銀払いの表具師にしたかったのだがなあ……」と幸吉は涙を流してあとは言葉にならない。
「ううん、うち備前屋で奉公出来てよかったと思うとるんよ、本当。旦那さんはもう親切で思いやりがあって、それに……幸吉さんや彌作さんと一緒に暮らせて楽しかったもん」
十一歳で里を離れて奉公に来て、気苦労も多かったであろうに、持ち前の明るさもあって店に馴染んでいった千代。島原に奉公に行くことが何を意味しているのかは分かっている筈で、すでに気持ちも整理し覚悟を定めている凛々しさが漂っている。まだまだ幼さの残る千代のどこにこのような強さがあるのだろうか、この先に待ち受けるであろう運命を受け入れ、覚悟を決めた表情を見ていると幸吉にはかける言葉が見当たらなかった。すでに千代との間には住む世界の隔たりが生じ始めているのを感じ、宮内遊郭に通う話をした自分が情けなかった。もうお千代は心から笑うという事も無くなってしまうのだろうか……。それでも幸吉は千代の為に何かしてやりたかった。
「何時発つのかい」と幸吉は聞く。
「明日の朝。一度里に戻っておっ母に会う事を許してもらったから」
「急な話だなあ。で、新しい奉公先へ向かうのは何時か決まっておるのか」
「来月、船で上方に向かうらしいの。もう此処へは寄らないから明日でお別れになる」
翌朝六つ、旅支度を整えた千代は福田村に向かった。途中、美作往来の旭川の土手まで幸吉と彌作は見送った。
「もうこの辺で」と千代は言った。
「お千代、上方へ向かう前必ずわしを訪ねておくれ。見せておきたい物があるのだ」と幸吉は話す。
「え、見せたい物、何々?」
「それは、その時までのお楽しみだ。必ず訪ねて来るのだぞ」
そう念を押して千代を送り出した。
「兄さん、良いものって?」
「彌作、わしは飛ぶぞ。手伝え」
「え、同心に見つかればお縄だぞ」
「構うものか。せめてお千代に……」
幸吉は涙を流していた。遠く消えそうな千代の背を共に見ながら彌作は言う。
「分かった兄さん、おれ手伝うよ」
見上げれば旭川の空に鳶が円を描いた。
その日から幸吉と彌作は作業を終えると部屋に閉じこもって仕掛け作りを再び始めた。
「これまで作った仕掛けより大きく頑丈なものを作らなければ飛べない」
幸吉は彌作に言う。
「わしはだいたい十四貫(約五十二キログラム)だから、鳥の羽の面積に割り戻せば一坪半(約五平方メートル)は必要だ。抜けておったのは羽にも重さがあると云う事だ」
「骨組みを頑丈にしようと思うとどうしても重くなるからなあ」と彌作は腕を組む。
「そう、仮に羽の重さが四貫(約十五キログラム)になれば二坪(約六・六平方メートル)の面積はほしいところだ」
「この部屋で作る大きさの限界もあるし、長さを決めぬといかんな」
「長さは四間(約七・二メートル)はほしいな」
「四間……、幅は一間弱といったところか。この屋根から出すのが一苦労だな」
「彌作、この大仕掛けでは二階屋根からではもう無理だ。京橋から飛ぶ、あそこなら風も味方になる」
「え! 人の往来も多いあんな所で」
「夜であれば往来も少なかろう。この度は試してみるのでは無いぞ、飛ばなければ意味が無い、お千代の為に飛んで見せる」
「分かった兄さん。やろうじゃ無いか」
「よし、お千代が上方に出発するまでに完成させるのだ」
その夜は一晩かけて図面を作り、翌日から必要な材料を集め、細竹を鳥の羽の形に曲げたり組んだりして二人は寝る間も惜しんで仕掛けを作った。そして水無月(六月)となり、千代が上方に向かう日がやって来た。
鐘撞堂から夕四つの音が聞こえる頃、幸吉と彌作は使いの者に呼び出され、あの口入屋に出向いたらそこに千代が待っていた。
「お千代、おっ母さんの具合はどうだった、医者には診て貰えたのかい」と幸吉は訊ねた。
「うん、お医者さまに診て貰って薬も飲んでからは起き上がれるようになったの。お灸もやってもらったりしてね、心配してくれてありがとう」
「それはよかったなあ」
千代が身を売って手にした金が報われたようで幸吉は安堵した。
「お千代、少しばかりわしらに付き合ってくれ」
「それがね……」と千代は言い淀む。
「備前屋の方には大変申し訳ないのですが、この娘がどうしてもそちらさまに会いたいからと、お金さんに頼まれて少しの間手前どもで預かっているだけなんです」と口入屋が弁解するように話す。
「お金? あの遣り手婆の事か」
「ごめんなさい、実はお金さんに嫌な顔をされたけどあの人これから寄合で奈良茶に行くからその間だけは会っても良いって言われて。宿もそこだからって」
奈良茶とは、武家も町人も京橋の東、旭川の左岸にある西中島町の河原に、酒や重箱を下げて繰り出して、夕涼みを愉しむ城下の習慣である。
「お金さんなんて言うな、ババアで良いんだ畜生め。西中島町へ行くのなら丁度いいや。お千代、先に京橋に行ってわし達を待ってておくれ、良いものを見せてやる」
千代と別れて、幸吉と彌作は急いで備前屋に戻り、仕掛けを大八車に乗せて京橋に向かった。万兵衛には気付かれずに出てきたが、仕掛けの羽は覆いからはみ出している。
西国往来を南に下り、栄町の町会所の前を通った時、同心大山鉄五郎と目が合った。不審そうに大八車に視線をうつしている。「まずいな」と思いながら幸吉は先を急いだ。
「兄さん、伝七が後をついて来ているよ」と西大寺町の角を東に折れた時に後ろで車を押している彌作が言った。
「仕方ないな」と幸吉は先を急いだ。
「お千代、待たせたな」
千代は京橋の西にある木戸の所で待っていたが、大八車を見て驚いた様子である。
「いったい何なのこれは?」
「話は後だ、ついておいで」
幸吉は千代を伴って彌作と橋の真ん中あたりまで車を引いて覆いを取った。伝七は木戸の陰に隠れるようにしてこちらを見ている。
「あ! これは」と千代は驚く。
「彌作、急いでくれ」と幸吉は着ていた着物と下駄を脱ぎ、下帯一つの姿となる。夕闇が迫り幸いにも人気は少なくなっていた。
「こうすりゃ、軽くなるからな。お千代わしの着物を預かっておくれ」
そして仕掛けを取り出し、幸吉が広げた両手にそれを紐で固定する。その様子を見ていた伝七は町会所の方へ駆け出して行った。
「幸吉さん、飛ぶの? うちの為に飛んで見せてくれるの」
「ああ、そうとも。何もしてやれねえが、わしら兄弟のせめてものはなむけだ。見ろ、今度は鳥の尻尾も作ったのだぞ」
末広がりの形をしたもので、確かにそれを付ければ鳥に見える。通りすがりの者が怪訝そうにして立止る。彌作は懸命に仕掛けを取り付けているが、少し手間取っている。
「風が凪いでいるな」と呟いて幸吉が木戸の方を見ると伝七が鉄五郎と駆けて来るのが見えた。
「よし、兄さん大丈夫だ」
彌作の声に、幸吉は城を背にして欄干に足を掛けた。
幸吉とその後ろで祈るような千代を認めた鉄五郎は咄嗟に「伝七待て!」と呼び止め、そして立ち止まって振り向く伝七に「飛ばせてやれ」と言った。
この地方特有の夕凪で無風状態となっている。しかし邪魔の入らぬうちにと「お千代、よく見ておけ!」と欄干に立った幸吉は声を上げ旭川に向かって飛び込むように真っ逆さまに身を投げ、その姿は千代の視界から消えた。
「あ! しくじったか」と彌作は欄干に身を乗り出す。千代も川面に幸吉が落ちる音を覚悟して彌作に続いた。その時である、下流から川面を伝うようにして一陣の突風が千代を包み込む。瞬間目を瞑って再び目を開けるとそこには上手く風に乗って上昇してゆく幸吉の飛翔が見えた。
「……」千代の胸は感動に包まれ言葉も出ない。しかし、尾羽から覗く幸吉の足の裏を見ると、何故か可笑しくなった。
「あはははは、幸吉さんやったー!」
一方幸吉は必死であった。つま先も伸ばして懸命に鳥になろうとしている。何しろ初めての経験なのである、いったい自分がどこに行くのかも見当がつかない。そのうち風の影響なのか左に傾いて奈良茶に集まる人の上に来たが、その中にあの遣り手婆の姿を見つけたので思わず、「クソババア!」と叫んだ。
天から声が降って来たので、皆驚いて空を見上げる。
「て、天狗さまじゃー!」
「いや、鵺じゃー、みんな逃げろ!」
と、雲の子を散らすようにみな逃げ去った。
やがて幸吉は頭から砂洲に突っ込み、衝撃で羽も壊れたが、手足を仕掛けに縛られているので身動きが取れない。しばらくそのままで居ると、彌作と千代がやって来た。
「幸吉さん、飛んだね! うち嬉しいー」と千代が興奮して抱き着く。彌作は、持っていた刃物で紐を切って幸吉を自由にした。
千代が持ってきた着物を羽織って辺りを見回すと、奈良茶の途中で皆が逃げ去った後には酒や重箱が残されたままである。幸吉は、遣り手婆の居た場所に歩み寄って千代と彌作を呼ぶ。
「こっちに来い、食べようぞ」
見回して、どの重箱よりも豪勢な料理が残っている。さっそく幸吉は箸をつけ「お千代、遠慮はいらんぞ」と言い、残った酒も煽った。
「美味しい! こんな美味しいもの初めてじゃ」と千代は頬張る。
「兄さん、よう飛べたなあ。一瞬駄目かと思ったぞ」と壊れた羽を見る。
「そうだな、わしも土座衛門になるかと思った」と幸吉が言うと、千代も頷く。
あはははは。
あはははは。
千代と彌作が空を見上げて笑う。
あはははは。
幸吉も千代につられて空を見上げて笑った。今この時だけでも千代が心から笑ってくれたのが嬉しく、笑いながら止めどもなく涙がこぼれた。




