希望を打ち砕いて、絶望に染め上げて
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「お母さんが死んでしまって、お父さんは変わった…ううん、あれは変わったって言うのかな? …あれは、お父さんが自分を守る為にそうしたことなんじゃないかなって僕は思うんだ」
俺は何も言わない、話の全貌を知るまでは何も口を出さない。
「事故なんだって、お母さんが仕事に行く為に電車に乗ろうとした時、誰かがふとくていたすうの人達が事故で偶然わるぎがなくて押しちゃったんだって、その日は駅が混んでいて誰がやったかわからないんだって、だからケーサツの人達も犯人を決められないんだって」
紫悠の口調が少しだけおかしくなる、まるで自分に言い聞かせているみたいだった。
「お父さんは僕達を愛していた、愛し過ぎていた。お母さんとは色々なことを乗り越えてようやく結婚出来たらしくて…お父さんは本当に僕達を愛していた。…きっと、誰よりも、世界中の誰よりも…例え神様なんて存在がいたとしても、それよりも大きな愛を僕達に向けてくれていた」
紫悠がその愛を疑うことはない、俺もその愛が偽物だなんて全く思っていない。
紫悠の言葉の全てがそれを真実と認めていた、例え世界が否定しても紫悠だけはその事実を認めている…それ程に揺らぐことのない言葉だ。
「けれど、けれど…あぁ、違うな…。…だからこそ、お父さんは壊れてしまったんだろうね」
しかし、大きな愛というもの程失われた際の反動は大きい。
「…お母さんが死んじゃって、一週間が経った頃かな…あれ程元気がなくて、今にも死んでしまいそうなお父さんが突然元気を取り戻したんだ。…僕を重って…お母さんの名前で呼んで」
自らの認識を変えてしまうまでに…その愛は大きかったのだろう。
「その時から、僕はこの世にいないんだ…」
微笑みは崩れない、けれど声は震えていた。…きっと、この微笑みこそがこいつにとっての防御策なのだろう。
「お母さんが死んでしまってお父さんは僕をお母さんと呼ぶ様になった、紫悠遥稀という存在はこの家の中では存在しなくなった…」
辛いことを耐える為に、苦しんでいる人をこれ以上苦しませない為に…微笑みという仮面を被り、ずっと嘘を付いている。
「お父さんの記憶からは僕は消えた。…最初はそれでもいいと思った、僕がお母さんになることでお父さんが元気でいてくれるのなら…お父さんがこのまま生きてくれるのなら…いつまでだってこの間違いを間違いじゃなくした。…けれどね? どうしたって無理が来るんだ」
寿命がある生物なら必ず老化という事象が身を襲う、どうしたって時間という絶対的なものからは逃げられやしない…それは紫悠も例外ではなく…。
「小学校を卒業する少し前、僕の身長はお母さんのものと一緒になった。喉仏も少しだけ目立つ様になって…このまま成長すればいずれお父さんが真実を知るのも時間の問題だったんだ」
だからね、と…紫悠は付け足す。
「…とある人が僕にこんな提案をしたんだ。…まだ、なんとかする術はあるって、…お父さんを安心させる方法はあるって…」
「……そして、お前は"そう"なったのか」
俺の問い掛けに紫悠はゆっくりと…何かを悔いる様にこくんと頭を頷かせた。
「自業自得だって言われても仕方ない、結果的にこんな体になると知らなかったとしても…この結末を選んだのは過去の僕だ、僕…なんだ」
自分に言い聞かせる様に紫悠は言う、そうしなければ自分を守れないのだと俺は思った。
紫悠の父が忘却という形で自分を守ったのだとすれば、紫悠は盲目という形で自分を守っている。
現状を見なければ、知らなければなんともない。強引に納得して、全てのことに目を瞑って…ありとあらゆるものを誤魔化し続けている。
きっと、今の紫悠はそれが解けてしまっている、自分を正確に把握してしまっている。
自らの異常に気付いてしまっている。
「…お父さんの為ならどんなことだって我慢出来る。お父さんの為なら僕はいつまでもこの生活を続けてみせる。…でも、でもさ? …どうしたって、辛いことには変わらないんだ」
微笑みながらも紫悠の目には涙が浮かんでいる。
人形の様に感情がないその目から、唯一流れ出た物…それこそがこの場における紫悠遥稀の本音なのだろう。
「恩があるからと言って、知らない人に体を貸すのは嫌なんだ。注射をされると頭がぼんやりとして何も考えられなくなって…自分が自分じゃなくなるってわかるのが怖いんだ…。…夜に、一緒に寝るのが辛いんだ」
……思わず少しだけ目を瞑る。
…どれだけ、どれだけ…尊厳を破壊されれば済むんだ。
「…僕はどうすればよかったのかなぁ、…僕はただ、お父さんに生きて欲しかっただけなのに…僕は、お父さんと一緒に生きたかっただけなのに…僕、もうこんな体になっちゃって、元の状態には一生戻れなくって…このままこの生き方をし続けて…」
泣きながら微笑んでいる、微笑みながら泣いている。
その顔は女とも男ともとれない…完璧な中性、男と女の特徴を完全に調和したある種の美しさがそこにはある。
俺は、それが気持ち悪くて仕方がない。
「…僕はずっと、ずっと…このままなのかな? どうすれば…こんな日々が終わるのかな…? …教えてよ、名取君。…僕は、どうすればいいんだと思う?」
そしてようやく、その言葉が紫悠から出てきた。
虚な瞳、絶望している微笑み…この顔を俺は知っている。
もう何もかもを投げ出して終わりたいと願っている物な顔、どんなことも無駄だと思っていて投げやりになっている者の顔…諦念が染み付いている者の顔。
きっと紫悠は助けを求めている、けれども助けられるわけがないとも思っている。
誰がどう見たってこの状況は詰んでいる。
体はボロボロ、父親は精神が崩壊。当の本人に至ってももう元には戻れない、この先の人生に希望はない。
それがわかっているからこそ紫悠は問うている。
お前は救われないんだって、俺には何も力になることが出来ないのだと…お前はずっとその状態でいるしかないと…そんな言葉を待っている。
そしてようやく自分の希望を打ち捨てられるのだ、下手に望みを持つことはなく、行き止まりの中で一生微笑み続ける覚悟をしようとしている。
「最終的に、どうするかはお前に掛かっている」
馬鹿が、俺を諦めの道具にしてんじゃねぇよ。
「………………え」
お前は酷い人生を送っている、俺なんかよりもよっぽど…いや、俺なんかと比べてはならない程の辛い現実を生きている。今まで心の中にあった傲慢さが木っ端微塵に消し飛ぶ程の衝撃だった。
「俺は神なんかじゃない、魔法の様にお前を過去に戻したりは出来ないし、奇跡の様に過ぎてしまった事象を元に戻すことは出来ない…本質的にお前を救うことは俺には出来ない」
この世にいるわけないと思っていた、俺以上に劣悪な人生を送っている者なんかいないと、俺以上の最悪を生きている者なんていないと思っていた。…けど、違ったんだな…鼻っぷしが砕かれた気分だ。
「…だが、ほんの少しだけでもいいのなら、お前の人生を少しだけ取り戻すだけでいいのなら…少しはやり様がある」
…でも、それはこいつを救えないという理由にはならない。
「俺がお膳立てをする、俺が絶対にお前を助ける、俺が…お前のその気持ち悪ぃ微笑みをぶっ壊してやる」
曖昧な言葉なんか使ってはやらない、傲慢が砕けても俺は傲慢に言ってやる。
お前を、助けてやるって。
「今から作戦会議だ。…俺が、お前の家族を取り戻してやる…絶対にな」
「…そんなこと、出来るわけがない」
ドス黒い程の敵意が俺を襲う。
「そんな簡単に言わないでよ、僕が…どれだけ苦しんだかわかってないくせに…! この状況がどれだけ終わっているかわかってないくせに…!!」
その言葉は最もだ、誰も否定出来ない。
言葉を荒げているからか顔を俯かせてしまっている。
紫悠の辛さ、苦しさを知るのはその当人だけだし、俺がその苦しみを知ることは一生ない。所詮は他人、その感覚を共有するなんてことは人間には出来ない。
「ふざけないでよ、適当なことを言わないでよ…ッ! そんなありもしない幻想を口に出して、僕を苦しめないでよ…ッ!!」
語気が強くなる、その苛立ちは真っ当なものだ。
けれども…それはほんの一瞬のことで…。
「………そんな幻想あるわけないのに、…君の言う言葉は全部嘘っぱちに決まっているのに…どうしてだろうね…?」
紫悠は顔を上げた、その顔は憎しみに染まっている。
「…なんで、僕は君の言葉を…信じようとしているんだろうね」
涙を浮かべ、俺を睨んでいる。
余計なことをしやがってと、なんで自分の欲しい言葉を出さないんだと俺を責めている。
「……言ったろ? 舐めんなって。…知らなかったのか? お前のダチは誰よりも頼りになる存在なんだぜ?」
「そんなこと知ってるよ。知っているからこそ憎々しい…本当にカッコ良過ぎて困っちゃうよ。僕が女だったら惚れていたかもね」
「馬鹿言え、男にンなこと言われても気持ち悪いだけだよ」
だから俺は思いっきり笑ってやった。睨みつけている顔がキョトンとしてしまっている。
わかっているさ、その顔にまだ絶望があるってことも…内心では俺のことをまだ信じていないのも…。
けれど、それでも俺だけは大丈夫だと告げてみせる。
「…はぁぁ、…僕、君のことを信じるよ? いいの?」
最終宣告、今だけは降りてもいいと紫悠は告げる。
「勿論、…ほんの少しの救いだけだが…それをお前に与えてみせるよ」
その優しい勧告を俺は無視した、もう逃げられやしない。
「はぁぁぁ、…僕の負けだね」
深い溜息をしながら紫悠は再び微笑みを浮かべる。
「…お願いします、僕を…助けて下さい」
出来るか? 内心では紫悠はそう言っている、そんな顔をしている。
紫悠は何度だって俺を試して来た、今度だってそうだ…だから、俺も変わらない態度で紫悠と接し続ける。
「へっ、…任せろ!」
その全てに俺はキッチリ応える、紫悠の顔にはやはり諦めが浮かんでいた。
「…じゃあ、お願いね? …名取…いや、ここまで来たなら他人行儀なのはやめよう。君も、僕も…もう後戻り出来なくなっているんだからね。でしょ? …名取、愛人君…?」
「だな、…紫悠、遥稀よぉ」
「…なんでそんな喧嘩口調なんだよ…w」
笑いながら紫悠は俺のことを笑う。
それは、今まで見た仮面の様な微笑みなんかではなく…少年の様な自然な笑みだった。