微笑みの仮面
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チャイムを押す。ピンポーンと機械音が目の前で鳴り響いた。
「…凄いね、流石は名取君だ」
少しの時間を置いた後、ガチャリと目の前の扉が開く。
中にいるのは紫悠遥稀だった。
「その顔をしているってことはもうわかったんだ。まだ一日も経っていないのによくわかったね」
俺は今どんな顔をしているのだろう。
今日はまだ鏡を見ていないので全くわからない。もし鏡を見たとしても、今の俺がどんな表情をしているのか、どんな感情を表に出しているのか…それを表現するにはどうすればいいか…俺にはわからなかった。
「こんな場所でする話でもないし、中に入って? …そこで君の答えを聞かせてもらうよ」
「……これで間違ってたらお笑い草だな」
自嘲を吐き捨てながらそう言う。
「ううん、きっと合っているとも。…絶対にね」
しかし、それでも紫悠は俺の答えが是であると肯定した。
……俺としては、間違ってくれている方がいいのだがな。
─
あの夜聞いた話。
「私が割といい所の家の出ってことは前に言ったっけ?」
「確か聞いた覚えがあります。うろ覚えですけど…」
「そうだっけ? …でも念のためにもう一度言っておくけど、私って所謂富豪層の娘で、特に関西の方で力を持っている家の娘だったのよ」
先生の経歴を聞くのは初めてではない。ある日ひょんなことで、酒によってつい口が滑って…そんなふうに突発的に聞かされることがあった。今回に関しては俺から聞いたけどな。
「あの時は結構窮屈でねぇ…今みたいにアニメなんか見れないし、毎日毎日お稽古事や親の会食の付き合いとか…まぁ大変な日々を過ごして…成人迎えるまでは碌な自由もなかったなぁ」
先生の貞操観念の固さはおそらくそこから来ているのだろう。それに加えて元々の男運の無さが累乗して残念なことになってしまっている。…いや、今はそれはいいか。
「まぁ本当は政略結婚しろーって言われたんだけど、無視して教師になったんだけどね。…って、その話は今関係ないか…話の本題は私が男の娘苦手な理由だよね」
「えぇ、その話はまた今度聞くんで…今はそれをお願いします」
先生も色々苦労しているんだなと思いつつ、その本題の話に耳を傾ける。
「そんな感じで割といいとこ出だった私は色々な人と関わる機会があったわけなんだけど…富裕層多くの人は普通なんだけど、一部の人は言っちゃ悪いけど異常者だったりするのよ」
多くの金を持っているからこそ他とは違う物を求めたりする。もしくは元々異常だからこそそれを求める為に金を集める…その果てに生まれるものは普通の思考から乖離したものが出来上がるのだろう。
「そんな異常者の中にはさっき言った男の娘を心の底から愛する人達がいたりしてね? 普通の女は飽きたとかなんとか言って…男の人を女の子っぽく改造してそれを犯すのも犯されるところを見るのも堪らないとかなんとか…そんなことをペラペラと私に喋るわけなのよ。信じられないでしょ」
辟易とした声で先生はそんなことを言う。
「方法としてはニューハーフになる人がやるみたいに体に直接女性ホルモンを注射したり、後は睾丸を切除したり…まぁ後者は付いてる方が良いとか言ってあまりやらないとか言ってたけど…後は徹底的に女性になる様に指導したり、クスリを使って思考力を低下させたり…まぁ本当にエゲツい話を聞かされてね…その人が父のお得意先だから何も言えずにただ作り笑いを浮かべるしか出来なかった」
先生は少しだけ苦笑を浮かべる。そして手に持ったグラスを一息に呷る。苦々しい思い出を酒で流す様に。
「そんな話を聞くとね…男の娘という単語を聞くとどうしてもその記憶思い出しちゃうのよ。今思えばあれって私に対してのセクハラだったのよね…嬉々としてハメ撮り映像を私に見せて来たし、私の反応を楽しんでいたのよね」
そう言い切ると先生は深くため息を吐く。
「だからね…例えフィクションだとわかっていたとしても…私は男の娘が苦手かなぁ」
俺は、その言葉になんとも返せなかった。
─
ゆっくりと案内された椅子に座る。そして机の上に肘を立てながら重い口を開く、単刀直入にな。
「方法としては単純、お前は何らかの反応で女性ホルモンを体に入れた」
「………」
先生からの情報を元に俺の方でも話を整理した。
「時期はいつ頃かはわからない…が、おそらくは長期間。少なくともあの写真の情報から小学五年以降から入れ始めたと推測する」
「………」
紫悠は何も言わない、ただ微笑み続けている。
俺は気にせず自分の中の結論を伝えた。
「お前の体が弱かったり飯が喉を通らないのもそれが原因なんだろ? 体育祭の前に自分で言ってたよな…自分は骨が弱いから運動が出来ないって…それって体に女性ホルモンをぶち込んだからじゃないのか?」
まだ推測の域は出ていない…まだ確信には至っていない。未だに心の中では間違ってくれという願望が残っている。
…でも、それでも言葉を続ける。
「昨日見たお前の体…女みたいな体だった、その癖男性機器は存在している。…まるでアンバランスな体だ、けれど、元々ない存在をあることには出来ない。…お前には確かに男性機器はあった、それはお前の本当の性別が男である証拠の筈だ」
それに加えて写真の存在がこいつを男だと証明する。…もしその逆だったとしてもやられたことの本質は変わらない。
「お前は自然に出来た存在じゃない、…人為的に狂わされた人間だ。…違うか?」
「ううん…違わないよ。…ほんのちょびっと以外はね」
紫悠は俺の仮説をあっさりと肯定し、そして少しだけ否定する。
「方法自体は君の言った通りだけど…人為的に狂わされたという部分は少し違う。…僕は、少なくとも最初は…この生き方をすると容認したんだ」
「最初って?」
「…少し長い話になるかもだけど…いい?」
俺の疑問に紫悠は答える。それが紫悠なりの合格の合図だなんてことはすぐにわかった。
「勿論…教えてくれ、お前の事情を」
そして、ようやく俺は紫悠の事情に踏み入る。
もう手遅れになっていて、全てが終わっている話。もうどうにもならなくて、ほんの少ししか未来が見えない話。
「…ありがとう。…少し緊張するな、自分の話なんて金輪際するつもりなんてなかったから…本当に緊張する」
そうして紫悠は傍に携えていた一つの手帳を俺の前に差し出す。
「君はこれを知っているよね? 中身は見たんでしょ?」
「…あぁ、つっても手帳の中身自体は見ていないけどな、…偶然、ばらけた写真だけは見た」
「そうなの? …だから写真についてしか言及してなかったのか」
紫悠はなるほどと言った様子で少し頷く。その間も紫悠はずっと微笑み続けていた。
「これはね、僕の日々を綴った日記の様なものなんだ…と言っても大したことは書いていなくて、その時思った一番大きな感情を写しただけの雑記…時々、記憶が曖昧になる時があるんだ、だから記録している」
気持ち悪いくらいに表情が変わらない。
思えば、こいつはいつもこんな微笑みを浮かべていた気がする。
一瞬表情を変えたとしてもいつかはこの微笑みに戻ってくる…俺はそれが奇妙で仕方がなかった。
「別に、そんな僕の感情なんてものはどうでもいい、一番大切なのは君が見たこの写真なのだから…そうだね、この写真こそが僕の幸せの最後だ」
そう言って改めて紫悠は三枚の写真を机の上に広げた、写真の中の家族は変わらず幸せそうに笑顔を浮かべている。
「僕の十一歳の誕生日にお父さんとお母さんが遊園地に連れて行ってくれたんだ。前からずっと行きたいと伝えていて、お父さんとお母さんは仕事があるのにも関わらず僕の為にお休みを取って遊園地に連れて行ってくれた」
笑顔の質がほんの少し変わる。
薄っぺらい鉄面皮の様な微笑みから一気に人間の様に色が宿る。その顔は慈愛で埋め尽くされていた。
けれど、それはほんの一瞬で…。
「本当に楽しかったなぁ…。…でも、その三日後にお母さんが死んじゃったんだ」
すぐにまたその微笑みに戻る。
「……あのまま、お母さんが死ななかったのなら…今でも僕達は幸せに暮らせたのかな? …お父さんは変わらなかったのかな? …僕は、こんなふうにならなかったのかな」
悲しそうでもなく、苦しそうでもなく、何処までも、いつまでも目の前の存在は微笑み続けている。その所作はどう見ても男のそれではなかった。
一瞬、とある存在を幻視してしまうまでにその所作は完成させられていた。
「その日からだ、その日から…紫悠遥稀という存在は消え去ったんだ」
だから言っただろう? これは既に終わっている話なのだと。