ただの後回し
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「……紫悠?」
「………」
その声は痛いくらいに辺りに広がった。そう問い掛けた先からの返答はない。
何故男である筈の紫悠に胸の膨らみがあるのか、どうしてそこまで女性的な体つきをしているのか…俺にはわからない。
けれど、今ここでそれを問い掛けるのは不味い気がした。何か取り返しのつかない様な…そんなこれまで培った経験からの憶測が脳に浮かんだ。
「お前も衣装を脱ぎに来たのか? 実は俺もそう言われてよ。眼鏡女子から場所は言われたんだけどあんま自信なくってな…お前がいて助かったわ」
「え?」
何も知らないふりして中に入る。こういう時、俺は自分の動揺を取り繕うのが得意なのだと錯覚する。
「しかしさみぃなぁ…お? いつまでも固まってねぇでさっさと着替えろよ。もうすぐ十二月だぜ? いつまでも薄着だと風邪ひくぞ?」
動揺を隠せ、自分の本心を全て覆い隠せ…俺は何も知らない。何も見ていない。何も気にしない…そうだ、俺はそうやって見ないふりをするのは得意だろ? だったら今それを実行しろ。
「え、…う、うん。そうだよ…ね」
俺は今衣装を脱いでいる。わざとゆっくり、中々脱げない演技をして時間を稼ぐ。
「んごごご…ちぃ、全然脱げねぇ…紫悠手伝ってくれ」
「え、ちょ、ちょっと待ってね!」
紫悠は俺の助けに急いで答えようとしてくれているらしい。服が擦れる音を鳴らしながら遂に服が着終わった様で…。
「大丈夫? 名取君…」
「大丈ばねぇ、…こう、服が千切れないように引っ張ってくれ」
そうやって頼み込むと、紫悠は服の襟部分を掴んでくれて引っ張ってくれる。
「んぐぐぐ…!」
「ぬぉぉぉお」
そうやって少しだけ服を脱ぐことに格闘して…頃合いを待って服を脱ぐ。
「あ! 抜けたね…」
「ふぃ〜助かったわぁ。ちょっと小さい服って脱ぐ時面倒なんだよなぁ。体がデカいと尚更そう思うわ」
なんとか誤魔化せているだろうか…いや、何も疑うな。俺は何も知らない…それでいいんだ。
「紫悠は今から帰りか?」
「ううん…クラスの人達に誘われてご飯を食べに行こうって話になってるけど…」
「ふーん…それならいいんだ」
何でもない様に取り留めもない雑談を紫悠とする。普段と変わらない様に…そう聞こえる様に。
「それなら…って、僕に何か用事とかあったの?」
「いんや? 何もねぇよ。ただもう夜遅くなるからな、お前はまだヒョロイから危なっかしいし、帰るんだったら家まで送ってやろうかって思っただけだ」
「あははっ、名取君らしいね」
普段から割と紫悠のことを家に送ったりしているのでこの言葉に違和感は持たれていない。…大丈夫な筈だ。
「…んじゃ、衣装も返したし、眼鏡女子やお前に声掛けも終わったし…俺ぁ帰るわ」
「え、名取君…打ち上げに来ないの?」
ふぁーあとわざと欠伸をして眠気を装う。本当は先程の衝撃で眠気なんて吹っ飛んでいるが…これが普段の俺らしい行動だからな。
「あーほ、撮影やら何やらを手伝ったが俺は本来別クラスだぜ? 打ち上げなんかに参加してみろ? 針の筵でズタズタになるわ」
「えぇー、みんな喜ぶと思うよ?」
「やだよ。挨拶という義理は果たした…俺は疲れたんだ、もう帰る」
鞄を肩に掛け、入って来たドアを再びくぐる…。
…その前に…最後の声を掛けをする。
「あ、そうだ。…もし具合が悪くなったら俺に連絡しろよ。…友人として助けに行ってやる」
「ふふ…ありがと、もし具合が悪くなったらちゃんと言うね」
そうして俺は無事に紫悠から距離を離すことが出来た。
誰もいない廊下、静かな廊下…人の気配も何もしない場所でようやく俺はそれまでしていた普段通りの俺をやめて。
「……どういう、ことだ?」
先程の記憶を思い返す。…あれは、どう見ても女の体だった。
「体脂肪率が高ければ男の胸を女の胸と見間違うことはある。…だがあんな胸部にだけ集中して肉が付くなんてことあり得るのか…?」
紫悠のトレーニングコーチらしきことをしているからわかるが、あいつの体脂肪は本当に低い。まるで骨と皮しかない…そんな状態であんな胸になるわけがない。
「…それか、そもそもあいつの言っていたことが嘘だったのか…」
現状その可能性が一番高い。…もし、アイツが本当は女だとするのなら問題は簡単に解決出来る。だがこれはそんな簡単な問題じゃない。
「…や、あいつの学生証書かれていた性別は嘘偽りなく男だった。…クソ、情報がごちゃ混ぜで何を信じたらいいかわからねぇ…!」
あの写真もそうだ。…あの紫悠らしき子供の性別は確かに男に見えた。
子供時代だから性別の判断は正確にはわからない。…だから、あの写真が紫悠を男と断定する決定的な証拠にはなり得ないが…それでも俺の目にはあの子供が女の子には見えなかった。
何もかもがチグハグだ。
いろんな人間を見て来た自負はあるが、紫悠という存在を測ろうとした時その経験が全て役に立たない。…正真正銘未知の存在だった。
「…どうするか、だな」
胸のモヤモヤが晴れない。…疑問が多過ぎて気持ちが悪い。…もういっそのこと全部聞いてしまったらいいのではないかと考える自分がいる。
ごちゃごちゃ悩むくらいならさっさと真実を確かめる。それで俺の前から消えるのならそれでいい…筈なんだ。普段の俺ならそうしている筈だ。
デリカシーとか、躊躇とか…そういうのは俺にはない…筈なのに。
どうしてだろう。…何故か躊躇する自分がいる。
先程からある感覚…もし、真実を暴けば何か恐ろしいことを知ってしまうのではないか…そんな得体の知れない感情を抱いてしまっていた。
「……まだ、まだ何もするな。…まだ、その時じゃない」
結局俺が選んだのは保留の道だ。…俺が何も知らなければ、何も起こらない。
しかしそれはただの後回しに過ぎない…いずれ、何かが徹底的に崩壊することを朧げながらも俺は予期するのだった。
─
「…先生、少し聞いてもいいですか?」
学園祭が終わったというのに気分は晴れない。
これまで苦労したことが解決や終結した時は多少なりとも達成感や満足感があった筈…。
今回の学園祭は無事に終わった…その筈なのに胸にしこりは残り続けている。…どうもすっきりしない。
だからだろうか、俺は無意識に隣で飯を食っている先生にそんなことを言ってしまっていた。
「なぁに? なんでも聞いて」
「あっ…」
本当は何一つとして聞くつもりはなかった。色々苦労、心労が重なり無意識に口が開いていた。…ここで『いえ、何でもありません』とは言えないよな。
「…ちょっとした疑問で、…学生証の内容の一部を改竄…例えば年齢とか性別とかを詐称するって出来るんですか?」
口に出してしまった以上聞くしかない。曖昧な言葉で対象を絞らせない様に疑問を先生に聞いてみた。
「うーん…何とも言えないかなぁ」
聞いてはみたが…やはり正確な答えは返ってこない。
「最近はジェンダーレスとかで性別を決めつけるのはよくないって風潮になってるから性別に関しては上手く言えないけど…それでも誤魔化すのは難しいんじゃないかな。年齢も難しいと思う…生まれた年は誤魔化せないからね」
「やはりそうですよね」
先生の立場から見ても誤魔化すのは難しいという見解の様だ。…わかっちゃいたが謎は深まるばかりだ。
「ごめんねぇ…あまり力になれなくて…」
「あぁいえ、そんな気にしないで下さい。…ただのちょっとした疑問ですから」
あまり先生の気を煩わせるのもよくないので平常心を装う。無駄な心労を掛けたくない。
「……そっか、じゃあ気にしないね」
先生はそう言うと後には何も言わなかった。
「…よいしょ、ご飯も食べ終わったし、アニメの続きを見るとしようかな」
先生は飯を食っていた机を片付け、そこにタブレットを立てる。無論俺も飯は食い終わっている。
「さーて、今週は…わぁ、この子かぁ…」
何だかいつもと反応が違う。…悩みは一旦頭の中に置いておいて、普段と違う先生の様子を観察してみる。
「んー……」
先生が見るその先…どうやらまみぃちゃんとは違うアニメを見ているらしい。…これも魔法少女ものか。
「………」
普段の先生なら魔法少女と聞けば凄く興奮する筈なのに、何故か今はとても微妙そうな顔をしている。
そのことを印象に持ちながらも、先生を見るのをやめる。今はそれどころじゃないからな。
結局、すぐには考えはまとまらなかった。