第2章 聖堂での幸せな日々
その日はちょうど聖夜祭当日で、大聖堂周辺の通りには露店がずらっと軒を並べていた。そして周辺には様々な食べ物の匂いが漂っていた。
私は突然うっと吐き気に襲われて蹲った。
こんな人混みの中で吐くわけにはいかない。大切な聖夜祭の日に大聖堂前を汚してはいけない。
私は必死に吐き気を抑えてその場を離れようとしたが、足がふらついて上手く歩けなかった。
焦りと気持ち悪さで冷や汗が出てきて、もうどうしようもなくなっていた時、私に声をかけてくれた女性がいた。
悪阻で気持ちが悪くなったとどうにか伝えると、その女性は持っていた巾着袋から中身を取り出して、それらを隣の女性に手渡してから、その袋の口を広げたまま私の目の前に差し出した。
「ここに吐いて下さい。遠慮しないで、早く!」
私もとてもじゃないが遠慮などしている余裕がなかったので、巾着袋を両手でしっかり掴むと、勢いよくそこへ吐瀉した。私の淑女としての羞恥心は、その時、何処か見知らぬ所へ吹き飛んでいたと思う。
その時私を窮地から救って下さったのは、大聖堂の聖夜祭の手伝いをするために、地方の聖堂からいらしていたシスターのトベラ様だった。
あの時は忙しさの真っ只中であっただろうに、私は大聖堂の中の奥深くにある静かな一室に迎え入れられた。
私は学園に入学した十代半ばの頃から、ずっとその大聖堂で奉仕活動をしていた。結婚してからは自分の手当の中から僅かばかりの寄付をしたり、バザーの商品なども手作りしてきた。
そのために、大聖堂のシスターの皆様とは顔なじみだったので、私の様子が変だと思われたのだろう。
たとえ妊娠中で悪阻が酷そうだとはいえ、普段と違ってあまりにも私が窶れていたので。
シスターの皆さんは、困っていることがあるのなら相談に乗りますよ、と言って下さった。
今までの私なら、一人でどうにかしようとして、他人には弱音など吐かなかったかも知れない。
しかし情けないけれど、今の私では自分の力だけではお腹の子を守り切れない。
私はシスターの皆様にこれまでの経緯を全て、包み隠さずに話した。
すると、トベラ様がこう言って下さった。
「ソフィーネ様、これまでよく一人で頑張ってこられましたね。偉かったですね。
でもこれからはみんなで頑張っていきましょう。赤ちゃんは天からの授かりもので、一人だけで育てるものではないのですからね」
そして私はその言葉をありがたく受け取って、聖堂やシスターの皆様のお世話になることにした。
ただし王都の大聖堂では会いたくない人達と遭遇する可能性が大きい。
そこで私は、トベラ様がお務めになっている、地方のとある聖堂でご厄介になることになった。
広大な小麦畑が広がる村の中央にある、小高い丘の上。そこにひっそりと建つ、野薔薇に覆われた伝統ある古い聖堂。
そこが私の新しい居場所となった。私はそこで自分のできる精一杯のことをした。
清掃や洗濯や調理、附属の孤児院や敬老院の手伝い、子供達の勉強の指導、そして帳簿などの整理。
私は嫁いでからというもの、伯爵家の商会の手伝いをさせられてきたので、経理や事務仕事は割と得意だった。だからこの仕事が一番皆様の役に立っていたかもしれない。
もちろん、トベラ様の助言通りに無理しない程度に励んだ。でもこれが一番難しかった。これまでの人生は、無理を強いられてばかりだったのだから。
私を意図的に休ませるためだったのか、シスターの皆様はこまめに休憩時間を作って、色々な話をして下さった。
そしていつしかそれが、私にとってもっとも楽しい時間となった。
皆様の年齢や出自は本当に千差万別で、これまでの経緯も本当に多種多様だった。
性別以外で彼女達に共通しているものがあるとすれば、それは全員が波瀾万丈の人生を送ってこられたという事実だった。そう。お一人お一人の生き様が全て一つの小説になってしまうほどの。
その中でも私の一番の恩人であるトベラ様は、とても数奇な人生を歩んでこられたことを私は知った。
彼女は私より三歳年上の元侯爵令嬢だった。生まれた時のお名前はフレイア様だったと聞いて、私は喫驚した。
フレイア様と言えば、元王太子殿下の婚約者だったからだ。
私が入学した当時、侯爵令嬢だったフレイア様と王太子殿下の婚約破棄の騒動の余波はまだ続いていて、学園内はその噂話で持ちきりだったのだ。
今は廃嫡されて家臣に下った当時の王太子殿下は、学園内での身分の平等化を高らかに宣言し、それを実践していたらしい。
そして側近達と共に、平民出身者達との親交を深めていたという。
ところが彼らのお題目は確かに立派なものだったが、実際にやったことは学問を最適に学べる既存システムを壊し、秩序を乱し、貴族と平民の溝をさらに深めただけであった。
それに加えて彼らは、親交という名の浮気をして、婚約者達を苦しめ、実家の名誉を傷付けていたのだった。
身の程知らずに欲望を膨らませた平民の女生徒達は、王太子達を誑かした挙げ句に、彼らの婚約者達に虐められ嫌がらせをされていると嘘をついて、泣いて彼らに縋った。
それに腹を立てた王太子や側近達は、学園の卒業パーティーで、婚約者のご令嬢達を断罪し、さらに婚約破棄を突きつけた。
しかし当然ながら彼らの行為は国王の逆鱗に触れ、王太子殿下とその側近達は廃嫡され、それぞれ処分された。
そしてそれらに関与した平民の女子生徒達は全員退学処分になって、王都から追放された。
おそらく自分の家どころか、故郷へ戻ることもできずに野垂れ死んだろうと皆が言っていた。なにせ危険思想の持ち主だと世間から認定されてしまったのだから。
国王陛下は婚約破棄されたご令嬢方に、責任を持って次のお相手を紹介すると言って下さったそうだ。
しかし、フレイア様だけはそれをご辞退して、こちらの聖堂に身を寄せると決断されたそうだ。家も名前も全て捨てて、ただのシスター・トベラとして。
トベラ様には何の落ち度もなかったのに何故ですかと、私は思わず尋ねてしまった。
するとトベラ様は、王太子を律することは自分の役目だったのに、その務めを果たせなかったからだとおっしゃった。
「いいえ、違うわ。自分一人では到底無理だとわかっていながら、他の方に助けを借りようとしなかった罪ね。
私が無駄なプライドを捨てて両陛下や学園長、大臣閣下、そして自分の両親に相談をしていたら、友人のご令嬢方をあんな目に遭わせずに済んだかもしれないのだから」
あの時それができたのは王太子の婚約者で、一番身分の高い侯爵令嬢である自分だったのだからと。
そして何故かトベラ様は、私の顔をとても申し訳なさそうに見ながらこう言った。
「王太子殿下とその側近の方々は皆廃嫡されたのですが、実際のところ、彼らの影響を受けたエセ平等主義の学生は、他にもたくさんいたようです。
でも、その時点ではまだ表立った問題を起こしていなかったので見逃されていただけで。
ところがその人達がここ数年、色々な問題を引き起こしているのだそうです。
卒業してすでに五、六年は経っているので、歪んだ思想を未だに改められなかった者達まで、爵位を継ぐようになったからだと思います」
彼らはこれまでのしきたりやマナーを旧態依然の悪癖だと決めつけていた。
だから、これらの慣習は全て切り捨てなければいけないと主張して、貴族のみならず平民まで引き連れて勝手に社交場に入り込み、自由奔放な振る舞いをする者もいるのだという。
確かに停滞した社会に未来はない。ある程度は変化や改革も必要なのかもしれない。
しかしそのためには、古いものに取って代わる新しい秩序が伴っていなければ、それはただの破壊行為にほかならない。
彼らはただ、新しい波に乗って浮かれている愚か者にすぎない。
「彼らは身分制度を否定していても家の後継者にはなりたいようで、そのほとんどが親の言いなりになって政略結婚をしているらしいわ。
そのくせ貴族令嬢をただの飾り物の正妻にして、別宅に愛人を囲い、中には愛人に産ませた子を正妻の子だとして届けを出している者もいるそうよ。
もしくは屋敷の管理や領地経営を妻に丸投げして、自分は愛人と一緒に高尚な社会活動とかいうものに心血を注いでいる者もいるみたいね。
それって先進的なことなのかしら?
彼らの憧れているという先進国では一夫一婦制が基本で、愛人を持つ人は軽蔑されているというのに」
それってもしや……と私があることに思い至った時、トベラ様は頷いてこう言った。
「今まで話さなかったけれど、私はスターレン卿とは学園時代に同じクラスだったの。
彼は王太子殿下の信奉者の一人だったから、私はわりとあの人のことは知っているのよ。やはり他の仲間達と同様に、平民出身の女生徒と付き合っていたわ。
だけど、彼の婚約者、つまりソフィーネ様のことね。貴女はまだ入学前だったから、彼は王太子殿下達のように卒業パーティーで婚約破棄宣言をしなかったの。
それで彼は廃嫡されなかったというわけだけど、却ってそれが貴女の場合は不幸だったのよね。婚約が継続されてしまったのだから。
あの流行り物好きの軽薄男のことだから、結婚初夜におそらく貴女にこんな感じのことを言ったのではないしら?
『私には下らない身分などを超越して、真実の愛で結ばれている女性がいる。それ故にお前を愛することはない』と」
その通りです。よくおわかりになりましたね、トベラ様。私は喫驚した。
そんな私の表情を見て、トベラ様は一層顔を曇らせてこう呟くように言った。
「あんな愚か者をもっと早く学園や親や国が矯正できていたら、ソフィーネ様が不幸な結婚生活を送らなくてもすんだのにね」
まるでご自分まで加害者であるかのように頭を下げるトベラ様に、私は慌ててこう言った。
「トベラ様は本当に何も悪くなんてありません。そしてそれは私もです。
ここでお世話になる前の私は、全て自分が悪いのだと自分を責めていました。みんなの要望に完璧に応えられない自分が悪いのだと。
けれど人は皆弱い存在だし、完璧な人なんているはずがない。間違いを犯さない人なんていない、とようやく考えられるようになりました。
義両親や実家の親や兄達は、私に完璧をずっと求めてきました。伯爵夫人として、もしくは伯爵令嬢として。
しかし冷静に考えれば、貴族の前に人として不完全なあの人達に何故完璧を求められなければならなかったのでしょうか。
そして元夫はもっと酷かったですね。貴族としてではなく人としての、崇高ではっきりしない、何か抽象的な彼の理想を私に求め、それに応えられないからと私を見下し、侮蔑してきたのですから。
無茶苦茶もいいところです。こちらに来て、皆様にお会いできて、私はようやく彼らの理不尽さに気付くことができたのです。
そしてそれと同時に、あの絶望的な環境の中でも得難い絆ができていたことにも感謝できるようになったのです。
屋敷や商会で働く皆さん、そして大聖堂の皆様。
だから、全てが無駄だったわけでもなかったと今は思えるのです。
今現在こうしてトベラ様や聖堂のシスターの皆様と出逢うことができたのも、その延長線上ですから。
人々との繋がりは、今後私が生きていくための大きな糧になりました。
そして少し図々しいかもしれませんが、今目の前にいる皆様のことを、私は本当の家族のように思っているのです。
だから大好きなこの家族の中で、新たな家族を産み育てられる私は、なんて幸せなのだろうと思うのです。
ですから、トベラ様が私のことで気に病むことなど何一つないのです」
私は大きくなったお腹を優しく撫でながらそういうと、ニョロニョロとお腹が動いた。
ちょっと前までは元気に蹴ってきたのに、近頃はお腹の中が狭くなってきたのか、胎動の感じが少し違ってきている。
トベラ様も一緒に私のお腹に手を当てながら、
「本当にそうね。私ももう前だけを向いて生きていきましょう」
とおっしゃったのだった。
そしてそれからひと月後、私は愛する家族に見守られながら無事に出産し、愛する息子のケビンに会うことができたのだった。
読んで下さってありがとうございます!