8 唐沢 小夜
「やあ」
正人と中沢が食堂の片隅でコーヒーを飲んでいるところに、山口がコーヒーを手にやってきた。
「すごい試合でしたね。ドキドキしました」
「やられたよ。秋津君は、勝負となると別人のようにずる賢くなる。まさか、竹刀で棒をへし折られるとは思ってもいなかった。はははは」
「恐縮です」
「今夜、夕食会があります。お二人とも、招待されてますよ。そのことをお伝えにきました」
「うん」
中沢は思案顔になった。正人も困ったような顔をしている。
「あははは」
山口は、そんな二人を見て笑い出した。そして、急に二人に顔を近づけてきた。
「ますます脱出する機会が、遠くなると考えているのでしょう」
図星を指されてドキッとした。この人は何を考えているのか、油断できない人だと正人は警戒する目になった。
「私に一つ提案があるんですが、聞いてもらえますか」
「聞こう」
中沢は即座に答えた。正人も頷いた。
山口の案は夕食会の酒に睡眠薬を入れ、時機を見て抜け出す。そして、予め用意した馬で警備の要所要所を強行突破する。その後は、三人バラバラに逃げるというものだった。
「その案に異存はありませんが、山口さんはなぜ俺たちに親切なのですか。なぜ、こんな事をするのですか。俺たちには、願ってもないことですが、山口さん自身の立場が危うくならないのですか」
「私はね、以前から矢板市、いや唐沢一家から抜け出そうと考えていたのですよ。私は、唐沢善道を三年も見てきました。それ故の考えです。私は、どうにも唐沢善道という男を好きになれない。奴らと共に、生きる事が出来そうもない。善道は、我々を犬っころと同列に見ています。善道の見る目は、優秀な犬、ダメな犬、かわいげのある犬、従順な犬という感じです。私は、ここを抜け出そう、抜け出そうと思い続けながら、今の今までずるずると来てしまいました。お二人のおかげですよ。お二人には、固い信念がある。お二人を見て、やっと私は決心がつきました。どうか、一緒に脱出しましょう。リスクはもとより覚悟のうえです」
「そういう事なら」
二人は納得した。
「ところで、佐藤というのはあんたの上司かい。何か得体の知れない男だ」
「唐沢善道の姉の息子ということで、唐沢一族の者なのですが、本当のところ良く分からないのです。その本心がです」
「奴は、クーデターでも狙っているんじゃないのか」
「そうかも知れません。しかし、そんな風には見えないのですよ。何か、諦観というか達観してるとか、そんな感じなのですが。欲が少ないのかも知れません。世俗の欲が」
「ふ~ん」
「ところで、唐沢善道の後ろにいたワカメのような髪をした女は、何者なんだね」
中沢には、あの異様な眼差しがいまだに残像として残っていた。
「ああ、あの女ですか。あの女はね、小夜といって善道が下女を手込めにして生ませた女です。ちなみに、善道の子供は今のところ三人ですが、三人とも母親が違います。善雄は正妻、善行は妾、小夜が下女です。
その小夜が十六の時、男が出来ました。ハシにもボウにも掛からない優男だったのですが、小夜は夢中になった。善道は分かれるよう説得したのですが、小夜は聞く耳を持たない。業を煮やした善道は、強行手段に出た。優男は首を切られました。会社をクビにされたんじゃなく、文字通り首を切られて殺されたのです。小夜は半狂乱となって、あちこち男を探し求めた。そしてどういう方法でか知らないが男の死体を見つけた。小夜は、首だけ抱いて戻ったといいます。小夜は、部屋に籠って泣き続けた。そのうち首が腐って、凄い臭いがしてきた。それでも小夜は、ガンとして首を捨てようとしなかった。捨てるように言うと、泣きじゃくりながら薙刀を振り回し、手が付けられなかったそうです。家の者は、ほとほと困りはてた。もの凄い臭いで、一日中気持ちが悪い。吐き気がする。食事が出来ない。善道は、いち早く妾のところへ逃げ出してしまった。善雄や善行も外泊して帰って来ない。残された者たちは、仕方なく活性炭入りのカーテンで小夜の部屋ごと覆い、業務用扇風機を回し続けたといわれています。
小夜が十八の時、今度は善道が選んだ男を娶せました。第二警備隊隊長を任された男だったのです。ところが新婚当夜からトラブル続きで、険悪な雰囲気だった。夜ごと小夜の部屋から、悲鳴やら呻き声やら叫ぶ声などが聞こえてきました。そして四日後の朝、窓下に男の首なし死体が転がっていたそうです。なぜか又、首だけは放そうとしません。又も、もの凄い臭いです。活性炭入りのカーテンと業務用扇風機の出番ですよ。
小夜が二十一の時、善道は最初の優男に似たおとなしい男を娶せた。男には、第二警備隊隊長のポストも用意しました。しかし男は、小夜と一夜を過ごしただけで逃げ出してしまった。逃亡は死罪です。銃殺刑です。男はすぐ捕まり、処刑場に引き立てられた。刑場にに立ちあった小夜は、泣き叫び許しを請う男を平然と見下していたそうです。男が死ぬと『この男は私の夫だ。この男の首は、妻である私のものだ』と言って、まだ生温かい男の首をノコギリで切り始めた。しかし、首がグラグラして思うように切れない。小夜は『ひいひい』言いながら、白い服を真っ赤に血で染めながら難渋している。誰も気味悪がって、手をかそうとしない。見かねた佐藤隊長が『切ってあげましょう』と刀を抜いた。首は一発でスッパっと切れ、ゴロンと転がったそうです。小夜は『ありがとう』と言って首を抱いてそそくさと立ち去ったといいます」
山口は話を終えると、すっかり冷めてしまったコーヒーを啜った。
「どおりで、気味の悪い女だと思った」
「そうですね。気味の悪い話しだ」
「ところが、どうやら小夜は、秋津さんに気があるようなのですよ」
「うえ~」
正人はおぞ気だった。
「あっははは、えらい女に見込まれたもんだな」
「笑いごとじゃありませんよ」
「いや悪い。うふっ」
中沢は、懸命に笑いを耐えていた。