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那北の春  作者: 森三治郎
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1 出立

秋津正人は、極めて難しい任務を帯びて旅立ちます。

 四畳半の部屋の真ん中に囲炉裏(いろり)があり、シュンシュンと鉄瓶(てつびん)が鳴っている。床の間には、達筆なのかそれとも物凄く下手くそなのか判然としない字体で『敬天(けいてん)愛人(あいじん)』と書かれた額があった。開き戸式の障子が全部開けられ、ガラス戸越しに見える庭には春の陽が射していた。

茶室としては、ずいぶんと開放的だ。

その床の間を背に、初老のイカツイ体躯の佐々木鉄馬が正座していた。その体躯に似ない所作で、手前がなされている。

「恐縮です」

佐々木議長の手前など、滅多にない。正人(まさと)は、緊張気味に茶碗を手に取った。この後、茶碗を半回転ほど回すのだ。

「イナゴが出たらしい」

「えっ!」

回転途中だった茶碗が、ピクリと反応した。それだけだった。以前の正人だったら、茶碗を取り落としても不思議ではない程の衝撃的なニュースだ。

議長はそんな正人を見て、目を細めアゴをなでている。

「いくらかは、成長したんだな。いい男になった。そして若い。お前は人より優れた頭脳、抜きんでた体力、健全な意志がある。そして、皆から慕われている。しかし・・・何か足りない」

「俺に足りないものとは、何でしょう」

「それは・・・、人間としての覇気(はき)みたいなものとでもいうのかな。そのようなものだ。まあ、経験だな。一度、修羅場(しゅらば)をくぐれば一皮ムケる。そうして本物の(おとこ)となるのだ」

「はい。心得ておきます」

正人は、なお緊張していた。ここ、那北自治圏を代表する男、統括責任者、評議会議長でかつ剣道の師、かつ美弥、亜弥の父親なのだ。正人は議長の前では、いつも緊張を強いられていた。

「しかし、イナゴの発生が事実だとしたら、ことは重大ですね」

「ああ、情報は確かだ。埼玉南部に集結しているという。それが、北の方に移動しつつあるらしい」

議長は、常々情報の重要性を説いていた。詳細は明らかにされてはいないが、その情報網には多額の経費が充てられているらしい。

「イナゴがまともに押し寄せてきたら、ひとたまりもない。人畜は根絶やしにされ、草木一本残らないといわれている。手の施しようがないのだ。そこでだ、そのイナゴの方向を群馬か茨木の方に逸らせられないかと考えているのだが・・・」

「方向を変える。そんなことが可能なのですか」

「ふむ、イナゴの集団の中に、()(のう)組というのがあるらしい。戸能(つな)(よし)という人物を中心に、寄り集まった団体らしい。イナゴに対して、どれ程影響力を持つかは不明だ。そこでだ」

議長は、真っ直ぐ正人を見つめた。強い意志を持った、鋭い眼差しだ。

「その戸能組を、見極めてきて欲しい。これは、極めて危険な仕事だ。生命の保証は出来ん。なにしろ、イナゴの真っただ中に入るわけだからな。奴らが一旦移動を始めてしまったら、誰が何をしようとしても押しとどめることは出来ない。凶暴で餓鬼のような人津波、大地を真っ黒に染めて怒涛(どとう)のように押し寄せてくる。奴らは人の命などへとも思っていない集団だ。自分の命だって省みない。いや、こんな世の中だ、奴らは自分の命を捨てたがっているのかもしれない。はっきりと自覚しているわけじゃないかもしれないが、安寧(あんねい)というユートピアは『死』以外の何ものでもないと本能的に解っているんじゃないかな。酷いものだな。人類も、絶滅へとまっしぐらに突っ走っているのかもしれん。

とにかく、奴らは難民などという生易しいものじゃない。奴らは常時飢餓感に(さいな)まされている。一度、何事か起これば飢餓と憎悪が渦まき、狂暴で凶悪な人津波となって、何もかも破壊しながら荒れ狂う。そうなったら、何ものにも止められん。後は、荒野と化すだけだ。奴らがイナゴと恐れられるゆえんだ」

議長は嘆息した。

「今までの常識、ここでの常識は通用しないと思え。それから、剣には固執するな。身を守る為なら、どんな手段を使ってもかまわない。それから、正人、これを持って行け」

議長は背後にあったカバンから、黒い袋を取り出した。ゴトッと置かれた物は、ホルスターに入った黒光りする拳銃だった。

「ほう、珍しいですね。これが、噂に聞く拳銃ですか。これを俺に・・・」

「ああ、やる。いざという時、使え」

「ありがとうございます」

「死ぬ気で働いてこい。だが、命を粗末にするな。解るな」

「はい」


 正人は離れの議長の茶室を辞し、元小学校で現在も教育の現場(小中高)で自治の主要機構(自治体本部、守備隊本部)も入っている長い廊下を歩いていた。音楽室に近づくにつれ、バイオリンの音が流れてくる。この非常時に優雅なことだと思う反面、美弥たちには思う存分好きなことをしていてもらいたいと願う気持ちもあった。二重ガラス戸越しに弓を手にした美弥が、厳しい表情で指導しているのが見えた。そんなに厳しくしなくともと思っていたら、亜弥が気付いた。亜弥は、すぐ出てきた。

「出かけるの」

誰にも告げず出立するつもりだったが、すでに亜弥は何事か察している。

ここ那北の最高責任者である美弥、亜弥の父、鉄馬に呼ばれた。そして、物々しい装備で出かけようとしている。もはや、誰もが思いあたるものがあるのだ。こんにちの治安の悪さは、日を追うごとに悪化の一途をたどっている。那北の境界線の要所々々に、物々しい警備体制が敷かれており、周辺部にも常時守備隊が巡回している。那北を一歩でも出たら、命は保証されないといわれているのだ。

正人は、出かけようとしている。ひょっとしたら、これが正人との今生(こんじょう)の別れになるかもしれないのだ。正人がハヤトの背に荷物を(くく)り付けていると、いつの間にか音楽部全員が背後にいた。美弥の悲壮な顔があった。亜弥の顔には、ムリヤリ作った笑顔が張り付いていた。

全員が女子の部員、その多くが涙ぐんでいた。

「元気で・・・」

「任務なんてどうでもいいから、早く帰って来て」

亜弥は、相変わらず無責任なことを言う。

「行ってくる」

馬上の人ととなり、カツカツと(ひづめ)の音を立てて正人は行く。

「必ず帰って来る。心配するな」

そう言って、正人は馬腹を蹴った。

「今度の任務が終わったら、必ず・・・」

正人は校門の道を左に折れ、見えなくなった。

「今度の任務が終わったら、必ず・・・?」

「美弥さんにプロポーズする」

「それじゃありきたりね」

「今度の任務が終わったら、必ず・・・一皮ムケて来る」

「キャーすけべー」

若い娘たちはえげつない。

「ナミ何赤くなってんの」

「いい加減ににしなさい!」

美弥が怖い顔で(にら)んでいた。



これは、私の近、中、遠未来三部作(人の行方、那北の春、雅史が行く)の一つです。

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