タイムスリップした理由
仮説が当たっていたことに、僕はもう一度驚いた。
しかし驚いてしばらくすると、目から涙が零れていた。
ここ最近ずっと、立ち直れないと思っていたことが、そのことで解消されたから。
だから、安堵。歓喜。……僅かな恐怖で、涙が止まらなかった。
「そっか」
「……泣かないでよ」
藍が、僕の背中に手を回していた。優しく背中を擦ってくれる彼女に、僕は久しぶりに心が満たされた気がしたのだ。
それからの僕達は、僕が泣き止んだ後も互いに何も語りだすことはなかった。
気持ちにまだ整理が付かなかったことも大きい。
だけどそれよりも、こういう時何て言って良いのか、僕には見当が付かなかったからだ。
「……何も言わないの?」
そう呟いたのは、藍だった。
藍がそう言うのであれば、つまりは僕に何かを言え、のサインなのだ。
……それは、かつて養った藍フィルター。別名ツンデレフィルター的に導きだした回答。
ただそれは、思えば僕が一度疑心暗鬼になり壊れたのではないかと思ったフィルターであった。
「あの、その……それはつまり、僕に何か言えって言っているってことで合ってる?」
だから僕は、情けなくもそう言った。
言わないとわからない。まさしくその通りの対応だった。
「……別に」
口をすぼめて、藍が言った。
僕はホッとした。
俯いた藍に、どうやらそのフィルターが壊れていなかったことをようやく思い知った。
……であれば、藍の本性はずっと僕が思っていた通りだったわけである。そのことで再び、心が満たされていくのがわかった。
「い、良いから何か言いなさいよっ」
ただ今は、怒りそうな藍に向けて、何かを言わないといけないらしい。
「あの……じゃあ、いつから?」
「何が」
「いつから……藍は、タイムスリップしてたの?」
「……あんたが、日直サボった日」
それじゃあ、僕と同じ日にタイムスリップしたわけか。
「あんたが怒ってふて寝して、言い過ぎたなと思って、気まずいからソファであんたが寝るの待ってたの。そしたら気付いたらソファで寝ちゃってて。起きたらこの姿になってた」
「……それじゃあ、戻った日も同じなんだ」
「そうなの?」
僕は、ゆっくりと頷いた。
……そうか。言い過ぎたと思っていただなんて、可愛いところもあるものだ。
それにしても、なるほど。
『素直になれないところ』
先ほど藍は、後悔していることに対してそんなことを言っていた。
恐らくそれが、藍がタイムスリップした理由。素直になれず僕に自分の胸中を打ち明けられなかったことが、彼女がタイムスリップした理由なのだろう。
「それにしても……今更、だなんて、まるで僕がタイムスリップしていたこと、気付いていたみたいだね」
「みたいじゃなくて、気付いてた」
藍は不機嫌そうにそう言った。どうやら確信めいたものがあったようだ。それを話して欲しくてジッと見つめていると、藍は頬を染めてそっぽを向けて、続けた。
「あんたが日直サボったから……」
「え、それだけ?」
しかもそれ、だいぶ序盤……。
「あんた、物ぐさだけどサボることはないもの。それで、若いあんたに目が眩んで丁度良い理由付けもあるからって話しかけたら、何言われているかわからないみたいな反応だったから……ピンと来たの」
「アハハ。そう……」
なんと言うか、なんと言って良いかわからなかった。
それほど見抜かれていたなんて。
それほど愛されていたなんて。
嬉しかった。
藍に、愛されていたことが。
満たされていく心が、許容を超えて溢れだしそうになっていることに僕は気が付いた。
溢れた想いはやがて、僕に負の感情を与えた。
「……でも、ごめん」
「何がよ」
不満そうに藍は返事をした。
「君が戻ってきていることも見抜けず。僕は随分と……道に迷った」
「良いわよ」
藍の口調からは、本当に良いと思っていることが伝わってきた。
「あいつに唆されたんでしょ」
「あいつ……? ああ、森下さんか」
こくりと藍は頷いた。
「あいつも戻ってきてるでしょ」
「え、よくわかったね」
そちらも見抜いていたのか。僕は驚きの声を漏らした。
「……意地悪い態度が、前とそっくりだったから」
「あ、そう……」
「……で、良かったの?」
「何が?」
「あいつの気持ちを無下にして」
……それもバレていたとは。
言わないとわからないと思っていたのに、彼女は随分と、言わずともわかっていたらしい。それだけ、気付かないところで見られていたか。僕がわかりやすかったのか。
多分、どちらもなのだろう。
「うん。大丈夫」
「……でも、癪だけど。あいつはあたしなんかよりよっぽど素直だよ?」
それはまあ、確かに……。って、そうじゃない。
「僕が君が良いって言うんだから、問題ないじゃないか」
「……でも、また同じ失敗、繰り返すかも」
弱気な藍は、珍しかった。
いつもはそれを見せないようにしていたのだろう。こうして傷心してタイムスリップした僕達なのだから、その弱さはわかった。
ただ、同じ失敗か。
「ねえ、藍。藍はさ、どうして自分がタイムスリップしたと思う?」
藍は、唇をすぼめながら僕を睨んでいた。
どうして自分がタイムスリップしたのか。
あの日以来。
森下さんに、辛い事実を告げられて以来。
僕は、ずっとその理由を考えるようになった。
そして、あの話を否定しようとして、それが出来ずにいる。
「やり直すため、じゃないの?」
「……でも、僕達の運命は結局何も変わってない」
それは前の人生が良い人生だったから。
前の人生が良い人生だったのに、生意気にも思い上がってやり直したいなどと思ったから、神様は僕達に罰を与えた。
藍がこの世界に戻っていたことで、先日思った後悔はなくなった。
でも代わりに、僕はあの時の藍に自分が一度、彼女に愛想を尽かしたことがいずれバレるのだろう。彼女を裏切ろうとした事実が、バレるのだろう。
それはもしかしたら、この前思った罰よりも、辛い罰なのかもしれない。
「運命が何も変わってないかなんて、わからないじゃない」
藍は首を傾げて言った。
「……え?」
僕の思考は、停止した。
「あたし達、別にあの時死んだわけじゃなかった。あの先どんな運命が待ち受けていたかなんて、知りようはなかったじゃない」
そして藍の正論に、余計に僕の思考は迷路に迷った。
……でも、その通りだ。
あの時、タイムスリップする直前までの僕達の人生は、時折問題もあったが確かに幸せだった。
でも、その先の運命は幸せだったと言い切れる保証はどこにあったのだろうか。
いつ、僕達に不幸が襲うかなんて、わかったもんじゃない。
突然、僕達が病気に伏す日がやってきていたかもしれない。
突然、通勤路で車に轢かれてしまう日がやってきたかもしれない。
僕達の人生に幸せが続くだなんて保証はない。
そしてやり直しだって効かない。
だからこそ僕達は、後悔をしたくないと思うんじゃないか。
……でも、だったら。
「どうして、僕達はタイムスリップしたんだ」
「だから、やり直すためでしょ?」
呆れる藍に、複雑に絡み合った糸がほどけていくような気がした。でも、寸でで糸がほどけない。
「で、でも、僕達は不幸になった側面だって確かにあるよ」
「例えば?」
「例えば……森下さんは想い人に振られるし。僕は……君を、一度は裏切ろうとしたことが明るみになるだろ。どうせバレるかバレているかだろうし、言ってしまうけど。
君だってそうじゃないのか。このタイムスリップのせいで辛い思いをしたんじゃないのか。……例えば、そう。僕をかつて、苦しめてしまったとか」
思い出していた言葉は、いつか藍に転職話を勧められた時の彼女の辛辣な言葉だった。
こっちにタイムスリップして早々に藍が僕のタイムスリップに気付いていたと言うのなら、その後の仕事ぶりを見て、驚いたような口ぶりをしていたことを鑑みれば。
彼女が、かつての発言を悔いていても何ら不思議はないと思っていた。
「……したよ。凄くね。どうしてあんたの意思を尊重出来なかったんだろうって。あたし達夫婦だったのに、どうしてって」
ただ、落ち込まれるくらい悔やまれていたのは想定外だった。
僕は少し慌てた。どう慰めるべきか。
「でも」
でも、どうやらその必要はないらしかった。
「それは本当に、不幸なことだったの?」
……僕は、理解した。
「十年間燻っていた気持ちに区切りを付けられたんでしょう?」
藍と言う人を、見誤っていたことに。
「あんたの件は、互いに至らない部分があったんだからしょうがない。それがわかっただけで前進じゃない」
『あなたのこと、もっと頼りがいがなくて子供っぽいと思っていたから』
あの日の彼女のように、僕は彼女のことを見誤っていた。
彼女のこと、僕はどう思っていただろう。
美人でクールで。
ツンデレで憎まれ口を良く叩いて。
でも、こんなに一本通った芯が通っていることを知っていただろうか。
こんなにも……強かな人だって、僕は知っていただろうか。
「あたしだって後悔はした。でも、それは不幸だったからじゃない。それはして当然だったこと、だよ。
人は失敗しないとわからない生き物なの。ううん。多分人だけじゃない。この世に生きる動物は、失敗して学んでいくの。
タイムスリップしようがしていまいが。
あたし達がしたことは、その延長線。
同じ失敗を繰り返さないように、一度辛い目に遭うってことと何ら変わりはないじゃない」
十年間好意を燻らせた森下さんは……失敗も成功も選べなかった森下さんは、今度は次成功するための失敗をした。
僕に素直になれなかった藍は……失敗した藍は、ようやく失敗をしないように取り組もうとしている。
……僕は。
僕は、ようやく気付けたのだ。
どうして、タイムスリップをしたいと思うまでの後悔を抱えたのか。
どうして、失敗したのか。
僕の失敗は……。
藍のことを、キチンと見ていなかったことなのだろう。
独りよがりになり、大切な藍のこと、大切だと宣っていた藍のことを、ないがしろにしていたことなのだろう。
……そうだ。
僕が後悔していることは。
いつだって、藍のことだった。
いつだって、藍に酷いことをしてから、それを悔やんでばかりだった……!
このタイムスリップは……そのことを知るために用意されたものだったのだろう。
もう一度、藍と自分の全てを見直すために、用意されたものだったのだろう。
……ようやく、複雑に絡まった糸がほどけた気がした。
その時、僕は自然と微笑んでいた。
どうして微笑んでいたのか。
ずっと自分の気持ちはわからなかったのに、今回ばかりはわかった。ようやく、わかることが出来たのだ。
藍には、敵わないなあ。
苦笑とも呆れ顔ともとれる笑みで、僕は藍に向けて微笑んでいた。
「……気が済んだ?」
藍に、囁かれた。
「……後一つ、良い?」
「何?」
「……藍は、ずっと前から気付いてたんだよね。僕がタイムスリップしていたこと」
「うん」
「どうして、言ってくれなかったの?」
自分もタイムスリップしているよ、と。
そうすれば、こんなに迷うこともなかった気がする。
もっと早く、自分の問題点に気付いて、藍に寄り添えた気がするのだ。
だから、どうしてなのか。
……まもなく、休憩も終わる。
この時間の終わりを意識したのか、藍は喧騒とする校庭を眺めた。
藍は、しばらくして俯いた。
「……武にあたしがタイムスリップしているって、気付いてほしかったから」
そして、頬を染めて呟いた。
「……アハハ」
僕は微笑んだ。
やはり、僕は藍に敵いそうにはないらしい。
主人公の感情の乱高下