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繰り返さないように。

 心臓が、ギューッと掴まれたような気がした。冷や汗が溜まる背中を気にしないように、僕は見つめた藍の次の言葉を待った。


 しかし、藍は中々次の句を発そうとしなかった。


「どうして?」


 仕方なく、僕は尋ねた。


「……別に」


 不貞腐れたように、藍は唇をすぼめて俯いていた。


「別に、わかったわけじゃない」


 要領を得ない言葉。

 であれば、どうしてそう言ったのか。尋ねたかったが、より機嫌を損ねる気がして、それを言うには勇気がいた。

 その勇気を集める間に、


「言ってくれないと、わからないもの」


 藍に、そう言われた。

 いつか僕が藍に言ったあの台詞を。


 人は結局、どれだけ人を愛しても。どれだけ人となりを知っても。

 相手の気持ちを正確に知ることは、決して出来ない。


 だから人は、自分の気持ちを示すべく言葉を付けた。識字能力を身に付けた。


 だから僕は、藍に言葉を求めた。

 だから今、藍は僕に言葉を求めた。


 ……わかっていた。


 藍に指摘した時にもわかっていた。

 その後、告白する直前でさえわからされていた。


 藍と同じように。


 僕もまた、藍に対して言葉が足りなかったのだ。


 だから僕達は失敗した。

 だから僕達は喧嘩をした。


 だから僕達は……僕は、後悔をした。


 また、繰り返そうとしている。


 失敗を。

 後悔を。


 繰り返そうとしている。


「うん。している」


 観念した僕は、粛々とそう言って、頷いた。


「どうして?」


「……失敗したくないから」


「何を?」


 僕は口をつぐんだ。

 それは、言えなかった。


 今真隣にいる藍との将来を憂いているなど、言えるはずもなかった。


 藍は、詮索しても無駄だとわかったのか、詰問することはなかった。


 キャンプ地に、少し生温い風が吹き抜けた。




「……どうして?」


 しばらくして、藍が口を開いた。どうしても、聞きだしたいらしいが、とても言える話ではなかった。

 

「それは……」


「どうして、失敗したくないの?」


 しかし、どうやら勘違いだったらしい。

 藍の聞き出したいそれは、もっと単純な話だった。


 どうして、失敗したくないのか。


 藍との将来を、僕は……僕達は一度失敗した。激しい後悔を覚えたから、僕はこうしてタイムスリップまでしてしまった。

 そんな失敗した過去を、どうして再び引き起こしたくないのか。


「……怒られるから?」


 藍は言った。


「……許されないから?」


 僕の。僕なんかの気持ちを知るべく。


「……後悔するから?」


 藍は、言った。


「……うん。後悔するんだ」


 負の感情が、渦巻いていた。

 自棄になりそうで、悔しくて、悲しくて。


 僕は、力一杯手を握っていた。


「後悔、したくないんだ」


 かつての僕達は、失敗した。

 かつてはあれほど燃え上がった彼女への気持ちが、消え去りそうになるくらい。


 それくらいの、大失敗だったのだ。


 同じことにならない保証はどこにもない。

 同じようになる確信は微かにある。


 同じようになったとして、藍を……悲しませない自信が、僕にはない。


 藍を悲しませたくなかった。

 好きだから。


 だから……。


「後悔は、したくないね」


 藍は、呟いた。


「でも、無理だよ」


 そして、僕を突き放した。

 ライオンが子供を谷底に落とすように、気持ちを押し殺すように、きっぱりと。


 藍は、事実を僕に突き付けたのだ。


「生きている内に、大なり小なり人は後悔をするもの。そんなの当然だもの。後悔したくないなんて、無理。不可能だよ」


 聞いているのが辛かった。

 事実を突きつけられたから。そうだと、僕も思っていたから。思っていたのに、決断出来なかった。

 それもつまり、言ってくれないとわからないからだ。


 いつか僕は、森下さんのクラスメイト達の作業態度を見て思った。

 人は楽な方向に流れる生き物だと。


 僕は今まさしく、その姿を体現したのだ。


 後悔なんてするに決まっていることがわかっているのに、悩む振りをして時間を先送りにしていた。

 そんな自分の……人間の悪癖を体現してしまったのだ。


「……ごめん」


 謝罪の言葉は、果たして何に向けたものだったのか。

 藍を言い訳に無駄な時間を送ったことに対してか。

 森下さんの口車に乗せられ、藍をないがしろにしたからか。

 藍との将来を、恐れていたことに対してか。


 はたまた、その全てにか。


 何も、考えたくなかった。


 ……ここで何も考えないことが、いけないこととわかっていても。


 僕はなんと弱いのだと、せめてそう自罰的になるしか、僕には……。






 頬が、痛かった。






 抓られていた。

 細い指に。

 藍の細い指に、抓られていた。


「後悔しないなんて、無理だよ」


 優しい声色で、藍は再び言った。




「……でも、後悔を減らすことは出来るのかもね」




 優しく……まるで赤子をあやすように、藍は言った。






 後悔を減らすこと。




 生きる中で、人は必ず後悔をする。

 辛い状況に陥った時。

 悲しい気持ちになった時。




 タイムスリップを願うくらいの、大失敗をした時。




 人は、後悔をする。

 どうしてあの時、ああ出来なかったのか。

 どうしてあの時、こうする能力が自分になかったのか。


 ない物ねだりをし、過ぎたことを悔やみ。


 人は、後悔をする。


 どんな人であれ、後悔をするのだ。大なり小なり、必ず、後悔をするのだ。


 後悔をしたくないとどれだけ願っても……。




 でも、減らすことは出来る。




 後悔しないようにと。

 ない物ねだりをし、過ぎたことを悔やみ。

 そんな無駄なことに労力をかけず……どうすれば二度と同じような失敗をしないのかと考えれば、行動を起こせば、相談すれば……!


 人は、後悔を多少なり減らすことは出来るはずなのだ。




『じゃあ、もう同じ失敗はしないじゃん』




 わかっていたはずなのに。

 教えてもらっていたはずなのに。


 僕はまた、同じことを繰り返してしまっていた。


 楽な方向に逃げる生き物。それが人間。


 良くもまあ、連中に向けてそんな文句を抱えられたものだ。

 僕の方じゃないか。


 同じ失敗を繰り返しているのは、僕の方じゃないか。


「……ごめん」


 自罰的になっていた。何度意識しても同じ過ちを繰り返す愚かな自分が憎くて、謝罪することしか出来なかった。


「謝罪の言葉なんて要らない。余計なこと、考える必要もない」


 そう言う藍は、慰めている風ではなかった。

 いつも通り、淡々と冷ややかに、そう言った。




「……最初は皆、あたしに近寄ってくるの」




 静かに、藍は語りだした。




「新学期のクラス替え後とか。入学式の後とか。皆、あたしと仲良くなるべく近寄って来て、そうして不愛想で口下手なあたしを見て、離れていく。そんな奴ばかりだったから、あたしも人に対して冷たくなったんだと思う。ううん。それはきっと言い訳。口下手で不愛想な自分の欠点を棚に上げて、改善しようともしないで、人のせいにして……たくさんの後悔をしてきたの」




 いつの間にか、涙声になっていた。




「でも、あたしは自分を変えなかった。どうしてかわかる?」




 僕の頬から手を離した藍の声が、微かに跳ねた。楽しそうに。




「あなたがいたから」




 抱き着いてきた藍の温もりは、あの十年の間、何度も伝ってきた温もりと同じだった。




「あなたが、あたしを欲してくれたから。こんな不愛想で口下手なあたしと……一緒にいてくれたから」




 藍は、僕のTシャツに顔を押し付けて続けた。




「でも、それでまた同じ失敗をした。あなたに言われて、ようやく気付いた。言ってくれないとわからないって。そう言われてようやく自分を変えないと、と思った。




 でもあたしは、そう思ったのにまた同じ過ちを繰り返している。楽をしようとしていたの」




 自罰的な藍の言葉に、返事をすることは躊躇われた。


 しかししばらくして、藍は乾いた笑みを浮かべて……。






 僕の方を見た。






「……今、あんたが何を考えているか、当ててあげるよ」




 泣きじゃくり微笑む藍に……僕は言葉を奪われた。


 言葉だけではない。

 四肢の自由。

 五臓六腑。


 視線。


 僕の全てを、藍に奪われていた。




 言ってくれないとわからない。

 でも、僕達は確かに……あの十年を共有し合った。


 だから、人よりも少しは分かり合えていた。


 だから、


「また、同じ後悔を繰り返してしまった」


 藍は僕の気持ちを言い当てた。


 嬉しかった。

 自分の気持ちを少しでもわかってくれる人がいて……嬉しかった。


 ……でも。


「でも、僕はきっとどれだけそう思っても、また同じ過ちを繰り返す」


 どれだけ後悔しても。

 どれだけ後悔したくないと思っても。

 どれだけ後悔を減らせる方法がわかっていても。


 結局人は、愚直に後悔をする。

 愚かに、失敗する。


 何度も何度も。


「そうだね」


 藍は、ゆっくりと僕から離れた。




「一人では」




 人は楽な方向に流れる生き物だ。

 森下さんのクラスメイトのように。

 藍のように。

 ……僕のように。


 結局、人は何度も繰り返すのだ。


「僕は、僕一人では同じ過ちを繰り返す」


「あたしも、そう」


「……でも」


「でも、あなたと一緒なら……!」


 間違いを正してもらえる。

 間違いを認めあえる。


 同じ後悔を繰り返さないように、生きられる。


 




 ……だから、人は言葉を求めた。


 言わないと分かり合えない。

 言わないと、伝わらない。


 だから人は、一人では生きていけない。


 一人で生きないように。

 失敗しないように。




「……武」




 人は、愛を求める。






「……好き」






 愛の言葉を伝えあう。

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