ブラックホール
キャンプの日は、今の僕の気持ちとは裏腹に雲一つない晴天だった。
母の運転する車が、藍の家の最寄り駅まで行き、そこから彼女を拾って、車は首都高速、中央道を走ってキャンプ地へと向かった。
キャンプ地に到着するまでの所要時間は、おおよそ二時間。その間の車内の会話は、大してなかった。
舗装された道路を走る車の振動のみが車内に響く中、運転手を買って出てくれている母は度々僕にあんたが誘ったんだから場を盛り上げなさいよ、と指摘してきたのだが、気乗りしない僕の言葉では車内の空気は盛り上がらなかった。
ただ、藍は元々寡黙な人だから、この沈黙もさして問題なさそうなことがせめてもの救いだった。
森下さんの了承を得られたため、僕達は予定通りこうしてキャンプを敢行することが出来ていたのだが、結局森下さん達のクラスは大方の予想通り映画撮影に遅延を生じさせる結果になっていたのだった。
昨日、遂に森下さんがかの宿敵二人に向けて予定より状況が遅れている、どうしてくれるんだ、とそんな話を切り出していた。
その際森下さんは、天文部のヘルプも今日までなんだぞと強い口調で文句を言っていた。勿論、そんな予定は当初から僕達天文部に知らされていたはずはなかったが……後になって思うとあれは、多分僕と藍のキャンプ敢行を後ろ指刺されなくさせるための取り計らいだったのだろうと気付いた。
そんなわけで順調にかのクラスの作業が遅れている状況で、こうして僕達ばかり自由気ままな時間を送っていいのか、と思う後ろめたい気持ち。
最近の悩み。
それらが、今の僕がどうにも気乗り出来ない理由であった。
ただ思うと……かのクラスの件は、僕は完全に巻き込まれた身。部外者なのだ。そんなに気にする必要は、多分ないのだろう。
ただ、だからとさっさと気持ちを切り替えられる程、僕は割り切りの良い人間でも面倒臭くない人間でもなかった。
そんな自分に辟易とすると、一層気持ちが滅入りそうになるのだから、本当に救えない。
そんなこんなで辿り着いたキャンプ地。
近くに日本一の霊峰を拝めるそこは、キャンプ地と呼ぶだけあって広い原っぱに見渡す限りの緑が溢れる自然豊かな場所だった。
が、時期もあってか俗世に……つまりは、人で溢れていた。
どこにでも人はいるもんだ、と再び気を滅入らせながら、とにかく車からキャンプグッズを出して、運んだ。
「じゃあ、お二人さん。明日のお昼ごろに迎えに来るから。それまで楽しんでね」
母は、僕達のキャンプの手伝いを少しして、これ以上は若い二人に任せるとでも言いたげにそそくさと帰ろうとしていた。
「藍ちゃん、このバカが変なことしたら、後で教えてね」
「はい」
「……しないっちゅうの」
不服に思いつつ、僕達はここまで送り迎えをしてくれた母に感謝と労いの言葉をかけて、見送った。
「……さて、と」
母が去ったことを契機に、いつまでも気を滅入らせていてもしょうがない、と僕はようやく気持ちを入れ替えるのだった。
そもそも、折角の二人きりのキャンプなのに、他所事で気持ちを乱され続けて楽しめないなど、なんと勿体ないことか。
「藍。……あれ?」
ここは男らしく、率先してキャンプ準備に取り掛かろう。
そう思って、背後に立っていたはずの藍に声をかけたら……藍は既にそこにはいなかった。少し遠くのキャンプグッズの方へ、彼女は歩いていた。
「待ってよ」
小走りで、藍に近寄った。
藍は僕の言葉を無視して、一足先にキャンプグッズの前に辿り着いていた。
「ね、武?」
「ん?」
「キャンプって、あたしあんまりしたことないんだけど……まず何を準備すればいいの?」
「え?」
……言われてみれば、僕もあまり経験ないから、よく知らない。
僕は、その場で固まってしまっていた。
「……火の準備とか?」
「あー」
藍は、僕の言葉に一瞬納得しかけたが、うーんと唸っていた。
「でも、まだ明るいし大丈夫じゃない?」
ただいまの時刻、朝の九時。確かに、お昼を食べるにもまだ早いか。
「と言うか、火いるかな。夜用のランプもあるし、調理用のガスバーナーコンロもある」
「……ふむ」
確かに、要らないかもしれない。
なんとなく、キャンプをするにはほとんどの時間作業をしているようなイメージがあったが……もしかして、実はそんなことないのだろうか。
「じゃあ、テントでも立てようか」
「ん」
納得したように、藍は大きめのテントが収納された付録を手に取っていた。
「あ、僕がやるよ」
「あんただけでやらせるとなんか不安」
まあ、テント立てたこともないし、その疑問はその通り。
「でも、力仕事は任せられない。そう言うのは僕の仕事だ」
「……ふうん」
僕はテントの袋をひったくり、内容物を出しながら一緒に出てきた説明書を藍に手渡した。
「ん」
「……何?」
怪訝な顔で、藍は僕の手渡す説明書を見ていた。
「作り方わからないから、指示してくれ」
そう言うと、藍は一瞬呆気に取られた後、微笑した。
「格好がつかない」
「いつも通りだろ?」
「確かに」
それから僕達は、藍に説明書を読んでもらいながら、時には藍の持つ説明書を覗きながら、テント作成に没頭した。
三十分程格闘して、ようやくテントが完成すると、
「出来たー」
僕は少しだけ疲れた体を労うように、そう宣言した。
「結構大きいのね」
「元々は、家族三人が入ったサイズだったんだからね」
僕と、父と母の三人で、過去これに寝泊まりしたのだから、まあ大きくて当然だろう。
僕達は地べたに野ざらしになっていた荷物を、テントの片隅に移した。
「昼ご飯の準備しちゃおうか」
ようやく一息ついた時、藍はそんな提案を僕にしてきた。
「え、早くない?」
時刻はまだ十時前だ。
「準備にどれくらい時間がかかるかわからないし、お腹が空いてからじゃ遅いじゃない」
「……確かに」
妙に納得させられたので、僕は藍に従い昼ご飯の準備を始めるのだった。
藍の言う通り、昼ご飯の準備はそこそこ時間がかかった。飯ごうでご飯を炊くのなんて初めてだったし、調理場も少しだけ人で混んでいて、それも調理に時間を要した要因の一つだった。
ともあれ、十一時少し回った頃には昼食の準備も終わり、慣れない作業に長時間を身を投じたせいでいつもより早めに好き始めた胃袋のことも鑑みて、僕達は昼ご飯を食べ始めた。
「ナイスタイミングだったね」
ほぼほぼ藍に作ってもらったカレーを食べつつ、僕は藍にそう言った。
「ん」
「なんだか君に僕の胃袋を把握されているみたいで、少し驚いた」
「ん」
「美味しいよ。このカレー」
「良かった」
「うん。ありがとう」
いつも通りの簡素な会話をし、昼食も食べ終わった頃、ようやくキャンプに来た意義を見出そうと、僕達は何かこのキャンプ場で遊ぼうと話し合っていた。
しかし、生憎と二人してそんなにアクティブに遊ぶような活気は持ち合わせておらず、山の麓で地元に比べて幾分か涼しいとはいえ、それでも炎天下の中であることも影響してか、僕達は結局食器を洗い終えてすぐに二人でテントの中に篭ることにするのだった。
さっきまで作業をしていて気にならなかった暑さが、少しだけ気になりだした時のことだった。
「……暑い」
そう呟いた僕は、途端間抜けな声をあげることになる。
首筋に冷たい何かが触れたのだ。
何だなんだと振り返ると、そこには藍の腕がこちらに伸びており、そして手には保冷剤が握られていたのだった。
「……暑いんでしょ?」
「うん」
「じゃあ、冷やさないと」
そう言う藍の声が、いつもより楽しそうなことに僕は気が付いた。いたずらごころが働いたのか、はたまた僕への嫌がらせを好む習性でもあるのか。
どちらにせよ酷い人である。
「ありがとう」
僕は、藍に保冷剤を渡すように手を出した。
「や」
楽しそうな藍が、保冷剤を抱えて僕から隠そうとしていた。
「なんで隠すのさ。お礼をしようとしているだけだ」
「どんなお礼?」
「冷たくて気持ち良いから、君にも同じ思いをしてもらうだけ」
「や」
さっきまで気が滅入っている、と言っていたのに、気付けば僕もこの非日常感をすっかりと楽しんでいたらしかった。
「良いから貸すんだ」
僕は藍から保冷剤をひったくるべく、彼女の手に向けて襲い掛かった。
「いやっ」
襲い掛かった藍から、楽しそうな声色で悲鳴が漏れた。
「貸すんだー」
そんなことを言いながら、僕達はまるでカップルにでもなったかのようにじゃれ付き合っていた。
ただ、全然保冷剤を寄越してくれない藍のせいで、僕はうっかり彼女を押し倒しながら倒れこんでしまうのだった。
保冷剤が藍の手元から離れ、テントの奥へと転がっていった。
ただ、もう僕の興味は保冷剤にはなかった。
ブラックホールは、恒星がとてつもない引力で引っ張られた故に出来る星だそうだ。だからこそ、周辺の星を引き寄せて吸収していく。
藍の黒々とした瞳は、まるでブラックホールのようだった。
惹きつけて、離さない。
吸い込もうと、更に引き寄せる。
吸い込まれていく僕が自我を取り戻せたのは、いつの間にか藍が拾っていた保冷剤が、熱を帯び汗ばむ僕の額を冷やしたからだった。
「冷たい?」
「……冷たい」
「そ」
額だけでなく、熱に浮かされていた気持ちまで、保冷剤によってクールダウンさせられた。
僕は、藍から離れた。
「……ありがとう」
「ん」
藍は、優しく微笑んでいた。
モデルナ二回目、とても辛かった。皆も気をつけるんやで