壁ドン
森下さんにされている行いは、所謂壁ドン。かつて藍と結婚してしばらく経った頃、世間で流行り出した恋仲関係の男性に女性がされることでキュンキュンされるらしいそんな行為。
この頃であれば、壁ドンと言えば別の意味で通じたことであろうが、まあそれはともかく。
ともかく、本来であれば僕がするべき行為であるそれを今、僕は彼女にされていた。僕がしたら大層似合わなかったそれも森下さんがするとどこか違った味がある気がするが、それもまたどうでも良い話。
とにかく僕は、気圧されていた。
隠し事はするな、と言い壁ドンをする森下さんに、反論の言葉が中々出てこなかった。
ミーンミーンとセミが外で鳴いていた。教室内は蒸し暑いのに、額からは冷たい汗が流れた。
森下さんの大きな瞳に、思わず吸い込まれそうな錯覚を覚えてしばらくして。
「なんで隠し事しちゃ駄目なんて話になるんですか」
呆れたように僕は言った。
そもそも、だ。
森下さんが仮に僕に嘘を付かないとして、嘘を付かないからと僕に嘘を付くなと迫ったとして、従わないといけない謂れがどこにある。
「……別に、嘘を付いても構わないよ?」
森下さんは僕に迫ったまま、目を細めて含みある言い方をした。
「でも、嘘を付き続けて何になるの? やっぱり藍とどこかへ行くわけじゃない。そう思ったらあたし、いつも通り強引に事を運ぶけど?」
今までは強引に事を運んでいた認識があったのか。
まあ、あるよな。自分の立場を乱用して自分の映画撮影に僕を協力させることを強要して、強引に僕が入っている天文部に入ってきて、挙句再び、僕に映画撮影を協力するように迫っているのだから。
「それは勘弁して欲しい……」
まあ、再び強引に事を運ばれるのは勘弁して欲しい、というのが本音だ。中間管理職みたいに、板挟みにされてしまうから。
「……ふふっ」
正直な内心を語ると、途端に森下さんが笑い出した。
「青山君さ、脅迫めいたことされたからって全てに従う必要はないんじゃない?」
そして森下さんは、自分の立場を忘れているのか、そんなことを言った。
「断りたければ断っても良いんじゃない? あたしも本当に言った通りにするとも限らないんだし」
「しないんですか?」
「それは保証出来ない」
ふざけたことを言いますね、あなた。
「でも、なにくそって思えばあたしに反撃する術なんてたくさんあるでしょうに」
「……まあ」
確かにそうだ。
パッとは浮かばないが、強硬手段に出る森下さんに反撃する術はたくさんあると思われた。
「どうして、そうしないの?」
で、あれば。
森下さんにそう言われるのは、至極当然。
……どうしてそうしないのか。
森下さんに反撃をしないのか。
「……青山君ってさ」
僕でもその理由に心当たりはなかったのに、どうやら森下さんにはあるようだ。
「しょっちゅうあたしに対して嫌そうな顔をする割に、意外とこの時間、悪いと思ってないんじゃないの?」
「いや、多分それはない」
即否定の言葉が出た。
本心から……と明言は出来なかった。むしろ、時間が経つにつれてそれが本心ではなかったと僕の内心は囁いていた。
「青山君って、藍みたいね」
僕は閉口した。
藍みたい、か。
……それはつまり、あまのじゃく。ツンデレってことなのだろうか。
否定出来なかった。
「悪い事じゃないと思うよ。自分と同じ空気を感じたから君達は惹かれあったのかもしれない。そして、だからあたしは君達をイジメてしまいたくなるの」
「……そうですか」
「そこは噛みつかないと。別に、って」
別に。
思えば僕達は。
僕と藍は、お互いにその短い言葉で会話を何度か終わらせてきた。
その言葉を使えば僕達は、相手への詮索を取りやめざるをしなくなり、そして少しのわだかまりを胸に抱えてしまう。
そんな毒にしかならない言葉を、僕達は何度も何度も使ってきた。
……だから、失敗した。
「迷っているね、青山君」
筒抜けだった。
僕は俯いた。
「そんなんで藍と海に行って本当に大丈夫?」
「海になんて行かない。行くのはキャンプです」
……あ。
言葉巧みに誘導され、僕は顔をあげた。
森下さんは、大層嬉しそうに微笑んでいた。
「そうか。キャンプに行くのか」
「……図ったな」
「図ったよ? 悪い?」
開き直りやがった。
「……そんな強引な事ばっかりで、僕に嫌われるかもしれないのによくやりますね」
「するよ」
こんな強引な真似、もうするなと言外に孕んで言ったのに、森下さんに清々しい顔で言われてしまった。
「だってさ。前は十年間、ただ君を想い続けていただけなんだよ?」
森下さんは、壁から手を離した。
「君はもう、藍に告白もしているんだよ?」
そして、後ろ手に手を組んだ。
「前と同じじゃ、変わらないじゃない。無理やりにでも君を奪うには、たくさんの人から嫌われたって仕方ないじゃない」
儚げに微笑む森下さんは、十年間酸いも甘いも味わってきた僕とは違い、虚無だった時間を憂いているように見えた。そして、同じ過ちを繰り返したくないと、そう言っているように見えた。
十年間。
百年にも満たない人生の、約十分の一。人によればそれよりも大きな割合を占める時間。
それだけの時間、誰かをひたすらに想い、そうして何も起きない人生というのは。時間というのは。
どれほど辛いものだったのだろう。
夫婦関係が冷え切り、悲惨な時間を少し送った僕が思うのもなんだか、少しだけ森下さんのかつての十年が不憫に思えた。
「あたしは、君さえ手に入ればいいんだよ」
……ただ同時に、疑問もある。
果たして僕は、森下さんにここまで固執されるような、価値ある男なのだろうか。
疑問は、尽きない。
 




