キャンプの準備
服を着替えて、一旦一階の洗面所にある洗濯機の中に寝間着を突っ込んで、リビングに戻ると、藍は母と談笑をしていた。
談笑、と言っても、藍は我が家に来るといつも少し戸惑い気味だ。委縮しているようにも見える。それは確か、かつてもそうだった。
あの時は、不安がるあまり『あんたのご両親に嫌われたらどうしよう』と大層心配そうに言っていた。つまり、嫁姑問題よろしく、藍は母との関係を壊したくないあまり、まるで骨董品の壺を割らないようにする時のように慎重に慎重を期して言葉を選んで状況を鑑みて話していたわけなのだ。
故に、当時の不安そうな委縮気味な態度で、藍は母と接していた。
ただ、今とかつてでは僕と藍の関係性も違えば、藍と母の関係性だって違う。
果たして、藍はどうして母相手に委縮しているのかと疑問は尽きない。ただそれは一旦置いておこうと思った。
「ごめん。待たせた」
「遅い。まったく、女の子を待たせるだなんて何考えてんだ」
ぴーひゃら喧しいのは、母だった。
そう言われてもアポなしで来られて、いつも通り対応しろと言うのは中々酷い話だ。
「あのお義母さん、あたしがキチンと連絡しないで来てしまったので。あまり責めないであげてください」
藍に庇われるのは、新鮮だった。
「……まあ、藍ちゃんが言うなら良いけど」
僕の言葉なら納得なんてしない癖に。相手を選ぶ人である。
「そう言えば、今日は何しに来たの?」
リビングの扉の前で突っ立っていて、ふと思い出した。そう言えば、さっきのアポなしで来られた話も合わせて、今日、藍は何しに我が家にやって来たのだろう。
「あんた、藍ちゃんをキャンプに誘っていたじゃない?」
口を開いたのは、事前に藍から事情を聞いていたらしい母だった。
「ああ、そうだね」
「一先ず、藍ちゃん無事、キャンプの許可は親からもらえたそうよ」
「ああ、それは良かった」
そう言えば、現状の打破を目論むあまり忘れていたが、それも事前に片づけないといけない重要事項の一つだった。
「……親には、女友達と行くことにして許可を取った」
……それは。
「ごめん。ありがとう」
「あんた、変なことしちゃ駄目よ」
「わかってる」
今ここで藍がわざわざそんなことを言った意味だって、事前にくぎを刺すつもりだったに違いない。それを読み取れない僕ではない。
……そう言うリスクヘッジの話であれば、敏感に読み取れるのだ。
「それで、許可はもらえたんだけど……一つキチンと確認しておきなさいって言われていることがあって。それのために今日は来た」
「……確認しておくこと?」
「キャンプの道具の状態だってさ」
母の言葉に、藍はこくりと頷いた。
……キャンプの道具の状態、か。
まあ道具が古かったりしたら、それだけで楽しい気持ちが半減することにもなりかねないし、気にするのも当然か。
それにしても、藍のご両親……お義父さんとお義母さん。そんなことを気にするだなんて、やはり娘がキャンプを楽しむこと自体は賛成なのだろうな。
いつかお会いした時に思った通りの、優しい人だったらしい。
「わかった。母さんや、道具は裏の倉庫の中だったっけ?」
「そうね。外もこの調子だし、蒸してすっごい暑いわよー、きっと」
……そうやって、気持ちを萎えさせる言葉を吐いてくれるなよ。
「さか……藍はここで待っててよ」
「お?」
意外そうに目を丸めていたのは、母だった。
「ちょっと、出してくるよ」
「おおー」
殊勝な心構えの僕に感嘆の声をあげたのも、母。本当に喧しい人だ。
「いい。あたしも行く」
ただ僕の想いとは裏腹に、藍は座っていたリビングのソファからスッと立ち上がった。
「いいよ、さっきまであの炎天下の中歩いてきて、疲れているだろ。僕だけで行く」
「大丈夫。疲れてない」
そんなバカな話があるもんか。
「大丈夫だよ。たった数分の話だし」
「でも、お庭に広げたら結局出ないといけないんでしょ?」
「それまでは休んでいなよ」
「大丈夫」
「大丈夫でも、休んでいてくれよ」
頑なな藍に、ムッとした。
たった数分の話だし、庭に広げた後に来れば良いだけの話ではないか。何故そこまで頑とした態度を崩さないのだ。
「あんた一人だけに辛い思いさせるわけにはいかないでしょ」
「君にも辛い思いをさせるわけにはいかないだろ」
食い気味に噛みつくと、我が家にいるにも関わらず藍に睨まれた。しかし、言った通り僕としては意思を貫く気でいた。藍の意思もわかったが、それは僕の意思を曲げる理由には不十分だった。
「大丈夫だって言ってるでしょ」
藍も少しヒートアップしているようだった。語気が強まっていた。
「だから、良いってば」
僕達は、いがみ合った。
「あんた達、しょうもない事で何喧嘩してるの?」
そんな僕達を宥めたのは、母だった。何故だか少し居た堪れない様子の母は、苦笑気味に僕達にそう言った。
「……ご、ごめんなさい」
藍は委縮して、母に謝罪した。
「良いの。その、面白いものは見れた」
母は、藍を落ち着かせるように微笑んだ。
それにしても、面白いものを見れたとは心外だ。こっちは真面目に話していたのに。
「武、行ってきなさい」
「……うん」
僕は、リビングに背を向けた。
「……あ」
その僕の背中に、藍の寂しそうな声が刺さった。