予定外の訪問
夏休み中盤、夏休み中の目的であった天文部の活動の方もひと段落付き、残りは各員自由な時間と相成ったものの、僕は生活習慣を変えるのも良くないといつも通りの時間に目を覚ました。
「おはよう」
自室から一階のリビングへ行くと、母に挨拶された。
「おはよ」
「朝ごはんどうする」
「あり合わせでいいよ」
「わかった」
母は僕の願いを聞き入れて、さっさと調理を済ませて戻ってきた。手には、焼かれたパンを一枚持っていた。
「ありがとう」
手短にお礼を告げて、僕は視線をテレビに戻して、パンをひと齧りした。十年前のニュース、こんなことがあったのかとなんだか懐かしいものを見る時のノスタルジックな思いを抱えていた。
「で、どうなのよ」
「ん?」
寝起きでうだつの上がらない僕を問い質したのは、勿論母だった。
「何が」
「藍ちゃんとのことよ」
「……ああ」
藍の名前を出され、ドキリとした。しかしなるべく平静に見えるように務めて、一度小さく息を吐いた。
藍とどうなのか。
そう言われて、何も変わらないよ、と答えるのが一番面白みのない答えで、無難である。
しかし、母はそう言って納得するような人ではないし、何より事実がそうでないのだから、僕が誤魔化せるはずもない。
……ただ、言える内容ではない。
この母に向かい、過去の藍との失敗も加味して色々困っているところです、だなんて宣って、どんな結論が待ち受けようか。
最悪精神科医への受診、だな。
それは困る。藍とはキチンと、キャンプに行きたい。
つまり、負け戦でも誤魔化す以外の選択肢しかなかった。
「ぼちぼちだよ」
「ぼちぼち? 全然進んでないってこと? そんなことないでしょう。あんた達に限って」
「……何だ、そりゃあ」
どんな風に見られていたんだ、僕と藍は。
「だって、あんたは藍ちゃんのこと悪く思ってないことは明白だし、藍ちゃんだってそうなのも明白じゃない」
「一概にそうとも言えまい」
「何よ、あんたは藍ちゃんのこと、嫌いなの……?」
「……それは」
思わず口ごもった。口ごもった時点で、答えは明白。
ニンマリとする母が、ウザかった。しかし母は、すぐに気を取り直した。
「藍ちゃんだって、あんたのこと嫌いではないでしょ」
「なんでそう言い切れる」
「だって、出会って数か月の男子の家に、ノコノコ一人で上がらないでしょ」
……確かに。
「そんなの、ほとんど答えだ」
「……でも、直接言われたわけじゃないし」
「はあ?」
冷たい視線だった。
そこは察しろよと語っているようにも見えた。
……だけど、悟った気になった結果が、かつての失敗なのだ。
「……あんたは、もっと直情的だと思ってた」
「やかましい」
「大人になったのね、知らない内に」
褒められているのか、貶されているのか。
「まあ、慎重に動くことを駄目とは言わないけど、相手を傷つけるようなことはしちゃ駄目よ」
「わかってらい」
「どうだか」
母がうんざりしながら肩を竦めた。呆れられる謂れはないと、少しだけ不服に思いながら、残り小さくなったパンを口内に運んだ。
家のチャイムが鳴ったのは、丁度そんなタイミングだった。
「藍ちゃんね」
「違うと思う」
「なんで」
「……昨日で、天文部の作業は終わったし」
藍がこの家に訪問する理由も、もうない。
「……ふうん」
母は僕に目を細めて、リビングを出て玄関の方へと向かった。
内心、僕の考えは間違っているはずがないと思っていた。だって、本当に。天文部という大義名分がないと、藍がわざわざ我が家に来る必要なんてないではないか。
正直に言って、その事実は……少し悲しくもあるが、安堵することでもあった。
……が、どうやら僕の宛は外れたらしかった。
「藍ちゃん、おはよう」
わざとリビングの僕にも聞こえるように、母は大きめの声で藍に挨拶をしたのだった。
飲みかけのコーヒーが、喉に詰まって、咳をした。
「ちょっと待ってて。あの子連れてくるから」
……どうして?
来る必要なんて。
理由なんて、一切ないのに。
どうして藍は、今日も我が家にやってきたのだろうか。
リビングの扉が開いた。
「たけ……し。さっさと着替えてきなさい」
「……あ」
言われて、自分の格好に気付いた。
そう言えば、今日は学校に行く予定もないからとまだ寝間着のままだったのだ。
「藍ちゃん、うちの子まだ着替えてないから、少し上がっていて」
「……はい。あの、お邪魔します」
扉が開いていたおかげで、いつもの我が家に来た時の、委縮気味の藍の声が聞こえてきた。
パンの乗っていた皿とコーヒーの入っていたマグカップをシンクに置いて、僕は自室に戻ろうとリビングを闊歩した。
「あ」
そして、リビングに入ろうとしていた藍とかち合った。
「……おはよ」
「……うん。おはよう」
どうして来たのか、とか、聞きたいことは山積みだったが……一先ず、藍の隣を横切って、僕は自室へと足を運ぶのだった。
……整理のつかない頭で、ふと気付いた。
「坂も……藍さ、今日私服なんだね」
「……ん」
「似合ってる。凄く」
「…………ん」
それだけ言い残して、僕は二階の自室へ向かった。




