魅力
天文部の作業もひと段落したので、今日のところは解散を言い渡されて、僕は凝り固まった体を解すように背筋を伸ばした。
十年後にはこの動作をする際、中々体が解れずに随分と長い時間背筋を伸ばし背筋を痛めかけた思い出があったが、若返った末には体が悲鳴を上げる様子は微塵もなかった。
爽快感を感じながら、そうやって、一先ず本日の作業終了を喜んだ。
天文部部員が予期せぬ形ではあったとはいえ、一人増員となった。その効果がこうも早く現れるだなんて、驚きだった。
さっき僕は、この調子ならキャンプ前くらいには作業は全て終わりそうだと思ったが……更に早く、来週いっぱいには作業が終わるのではないだろうか。
なんだかんだタイムスリップしてきただけのことはある、森下さんは。
本当、大助かりだ。
しょうもない茶々入れさえなければ、もっと効率的に仕事が進むのに。
どうも森下さんは、藍をいじりたがるきらいがある。かつては、藍が僕と結婚したことへの腹いせのつもりでそれをしていたらしいが、今もまだそれをしている、というならさすがに質が悪い。
ただまあ、藍も藍でそこまで本心から嫌がって見えないようなのが不思議だった。
彼女はあれで……あれで、なんて言う必要もないか。彼女はあの通り、とても顔に出やすい。言ってくれないとわからないこともあるが、あ、嫌なんだな、くらいの感覚は顔を見ていればそれなりにわかる。
加えて、何故か森下さん相手には一層その特徴が顕著になる。だから、端から見ていて僕でもわかるのだ。
だからまあ、飛び火を避ける意味でも深入りは禁物なのだろう。
暴行交じりの大喧嘩にでも発展しない限り、は。
一番の懸念は、まもなく森下さん、江頭先輩が映画撮影するクラスの活動の方に奪われてしまうことだろう。本格的な撮影はまだとはいえ、何かと準備することが多いそうだ。
江頭先輩は、そのことに関して申し訳なさそうにしていたが、森下さんはそれじゃあクラスの作業が本格化する前に作業を終わらせましょうと息巻いていた。あれは本心なのか、否なのか。
まあ、多分出来ないこともないと思う。最悪少しくらい残っても、それくらいなら僕達一年生でカバーは可能だろう。
そんなわけで、天文部の作業状況、かつ人間関係に一喜一憂しながら、僕は夕立が降りそうだからとさっさと帰って行った部員達を横目に、図書館に足を運んでいた。
高校一年の夏休みの宿題。
数多くあるその宿題の一つ、読書感想文。
僕はすっかりとその宿題のことを失念していたのだ。
走れメロスは、小学生時代に読むと、それこそ昨今の漫画のような王道展開で胸が熱くなる思いに駆られるが、この年になって読むと主人公の計画性の無さと王の寛大さに笑いそうになる一作だ。
なんでも、作者がこの作品を執筆したのは自分の体験談がきっかけだそうで、その話も調べてみると中々面白いものだった。
そう言えば、それを教えてくれたのはかつて高校一年生だった藍だった。
あの頃の僕はとにかく藍と多くの時間を共にするように心掛けていた。藍は、夏休みの宿題は夏休み初日、どころか夏休み前に始めるような人だった。
幸い、藍は図書館で宿題に勤しんでいることが多く、僕も雑談交じりに興味を惹くためにもと同席したのだ。
その時の藍は、ツンケンしている割に面倒見よく僕の宿題に付き合ってくれて……当時は嫌われないかと冷や汗ものだったが、今になると十年間変わらなかった姿が当時からあって、僕はその場で微笑んでしまったのだった。
「何、笑ってるの」
「どっひゃああ」
背後からした、藍の声。
僕は驚いて、本棚の上の方にある走れメロスを取るために昇っていた脚立から転がり落ちた。
背中を強く打ち、痛みに悶絶してしまった。
「だ、大丈夫?」
慌てる藍の様子に笑いそうになった。実に珍しい。
でも笑っている場合ではない程度に、腰が痛かった。
「えぇと、どうしよう……。保健室行く? 湿布か何かか。救急車?」
「大丈夫、大丈夫だから」
おろおろする藍は可愛かったが、救急車は突飛過ぎて、僕は藍を制した。
「本当?」
「うん」
藍は、何も言わなかった。
僕はと言えば、無言の間も腰の痛みに悶絶していた。
「……少し、時間をくれれば」
「……何よ、それ」
クスリ、と藍が微笑んだ。良かった。どうやら落ち着いてくれたらしい。
「で、藍はどうしたの?」
「え?」
「いや、こんな日に図書館に何の用かなって」
ようやく痛みが止んできて、僕は立ち上がった。
「……あんたが、忘れてるから」
「何を?」
何かあったっけか。
「さっき、約束したでしょ」
「さっき?」
「……後で付き合ってって」
「……ああ」
言われて、思い出した。
そうだ。そうだった。
藍の願い出なのに、すっかりと忘れていた。
そういうところがいけないのだろう、僕は。
だから、藍に怒られてしまうのだ。
……と思ったが、藍は中々怒る気配を見せなかった。
俯き、前で組んだ手をもじもじといじっていた。
「……あたし、そんなに魅力ない?」
「君は何を馬鹿なこと言っているだ」
いじけてそんなことを言う藍に、僕は続けた。
「君は魅力の塊だろう。何言っているだ。疑問に思うことすらおかしいよ。可愛くて、しっかり者で、気立ても良くて。……ちょっと言葉足らずなところはたまに傷だけど、それはお互い様だし、とにかく、よくもまあ自分に魅力がないなどと宣えたものだ」
久しぶりに熱く語った。藍にこんな無遠慮に言ったことも、まったく記憶になかった。熱くなって言った後に、そんなことに気が付いた。
「……むぐ」
藍は、頬を染めていた。夕暮れのせいだろうか? でもそろそろ夕立が降りそうで、外は思いっきり曇天模様なんだがな。
「だったら、なんでよ」
「何が」
「なんであたし相手には鼻の下を伸ばさないのに、アイツには鼻の下伸ばすのよっ」
藍の声は、怒気交じりだった。
「だから、鼻の下は伸ばしていない」
「伸ばしてた」
「伸ばしてない」
「伸ばしてた! 伸ばしてたのっ!」
藍は、ムキになっていた。
……ここまでムキになるのなら、まあそうなのかもしれない。自覚はないが。
「……自覚はないからなんとも言えないってのが、本音だけど。君相手だから、良い格好したいんじゃないかな。だから、情けない顔を見せたくなんてないんだ」
……なんて、かつての僕はいつだって藍に情けない姿を見せていた気がするが。
藍は、納得していない風だった。
俯いて、一歩一歩僕に近づき、僕の胸に顔をうずめた。
「……情けないのが、あんたじゃない」
「え」
そんな認識でした? ちょっと悲しい。
藍は僕の気も知らず、ぽんっと力弱く僕の胸を叩いた。
「頼ってよ」
ぽん。
「もっと……頼ってよ。あたしだけを見てよ」
ぽん。
……何と返事をして良いか、わからなかった。
胸の中にあるものは、悲しませたことへの罪悪感。そして、嬉しい言葉をもらった幸福感。
それらが入り混じり、僕は……返事どころか息することさえままならない錯覚に襲われていた。
全然感想に返信できておらずごめんなさい。
お盆休みになったら本気出す。