媚びを売る
夜空を見に行こう、と藍に相談したのは、一学期の終業式のある日の前日だった。一学期の授業最終日、既に気分は夏休みの浮かれるクラスメイト達に聞かれないようにと、昼休み、非常階段で藍にこっそりと伝えた。
夜空。つまり、夜一緒にどこかに行こうという誘い。事前に決めていた通り、僕は昨日予約しておいた山梨のキャンプ地に藍を誘った。幸い、元々レジャー好きだった父のおかげで、我が家には一式キャンプ道具が揃っていた。加えて、事情を説明した母は二つ返事で送り迎えを受け入れてくれた。二人きりで一夜を過ごす準備は万端だった。
「……あたしは良いよ」
あたしは、と藍は言った。言外から、あたしの両親は何を言うかわからない、と藍は告げていた。
「大丈夫?」
「そこまで事前準備されたら、駄目なんて言えないじゃん」
「そうだね」
アハハ、と僕は苦笑した。恨み節でそんな感じのこと言われるだろう、とは、事前準備の段階で思っていた。
「でも、どうしても坂本さ……」
「藍」
「藍と、夜空を見たいからさ。なんとか、お願い」
藍は、わかりやすいため息を一つ吐いた。
「何とかする」
「ありがとう」
「別に」
そっぽを向いた藍に、少しばかり意地悪をしたくなった。でもしたら後が怖いから、僕は苦笑するに留めることにした。
……なんだかんだ、どうにかなるだろう。
僕は、藍のご両親との交渉を楽観的に受け止めていた。藍のご両親とは、当然何度も顔を合わせたことがあった。
これが意外なことに、藍の両親は藍と違い、良い性格をしていた。藍と違いは余計だ、と藍には言われそうだが、本当に似ても似つかないのだ。
まず、藍のご両親から別に、だとか、あっそ、とか、そういう言動を聞いたことがない。藍の家に立ち寄る度、借りてきた猫状態になる僕に、彼女のご両親はいつも通りにしてと優しく言ってくれる。
特にお義父さんは、悪酔いしやすいことを除けば、子供の意思を尊重する素晴らしい男であった。僕も彼のようになりたいと、お世辞でなくそう思ったことだってある。
そんなご両親相手だし、多分なんとかなるだろう。
「でも、予約までして良かったの」
個人的には、キャンプへ向けて憂い事は一切ないと思っていた。しかし、それに否定的なのは藍だった。
「なんで?」
「部活と重なったりしない?」
「……ああ」
考えてもいなかった。
……まあ。
「大丈夫じゃない? やること、大抵決まっているし」
「……それなら良いんだけど」
それから休み時間は終わり、午後の授業が始まって……終わって、放課後。
夏休み直前の部活動。今やることは、最近ずっと同じだがプラネタリウム製作に向けての資料作りに終始していた。
ペース的に、やはり夏休みも活動は続ける必要があることは藍の懸念通り、明確。しかし、それでも着実に確実に、僕達の事前準備は進んでいた。
このペースなら、二日キャンプするくらい、なんてこともないだろう。
そう思いながら、今日も持参したノートパソコンに向かい、プラネタリウムの組立作業書作りに没頭していた。
「ねえ、宮本君?」
皆で意見を出し合っている中、優子さんが今日はこっちに参加している宮本君に声をかけていた。
「何?」
「江頭先輩は?」
「ああ、夏美……江頭先輩は」
何故か、宮本君は江頭先輩の名前を言い直していた。どうやらあの二人、仲睦まじく過ごしているらしい。こっちもそれならホッとするよね。
「あの人のクラスも文化祭で出し物をするそうで、それの打ち合わせで少し遅れるんだと」
「へえ、それでその話はともかく、夏美って? いつの間に下の名前で呼び合う仲になったの?」
「うぐ……」
宮本君はわかりやすく狼狽えていた。こういうのは、狼狽えた方が相手の気分を良くするから駄目なんだ。いつだって冷静沈着に慎ましく生きねば。
「別にどうでも良いんだけどさ」
助け船のつもりか、珍しく藍は声を発した。
「夏休み前から文化祭の出し物の打ち合わせって、気が早くない? ウチはどっかの誰かの言葉で先に先に、で動いているけど」
そのどっかの誰か、とは誰のことだろうか?
ああ、僕か。
「え……ああ、まあ」
宮本君は、乱された気持ちを取り戻すように咳ばらいをして続けた。
「なんでも、一人いるんだと。青山みたいな奴が」
僕を名指し。藍が名前をぼかした意味ないじゃないか。
「その人から、今の内から打ち合わせに参加出来る人はって声をかけられたから、あの人、応じたそうだ」
「え、なんで」
そう声をあげたのは、優子さん。
まあ言いたい気持ちはわかる。今の内から、と言う事は、打ち合わせへの参加をクラスメイト全員が強制づけられたわけではない。江頭先輩がこっちの作業をないがしろにしてまで、クラスの出し物を優先するだなんて、少し意外だった。
「……その火付け役がさ、生徒会会計なんだよ」
「……つまり?」
「文化祭の支給額の精査は、文化祭執行委員だけでなく生徒会も介入するだろ?」
「それで?」
「つまり、媚びを売っとこうって魂胆だそうだ」
えぇ、と驚いたのは藍と優子さん。まあ、まさかそんな裏技に江頭先輩が興じるだなんて、思っていなかったのだろう。
「どっかの青山の言う通り、どうやらあの人も後悔したくないそうだ」
なるほどね、と納得げなのは、藍と優子さん。
「それに、こっちは青山君がいるから何とかなるでしょ、とのことだったよ」
やれやれ、と肩を竦めたのは宮本君だった。
僕に視線を寄越したのは、藍と優子さん。
「……まあ」
僕は、少し居た堪れない気持ちになりながら、言葉を選びながら続けた。
「そこまで言ってくれるなら……頑張らないわけにはいかない、よね」
途端、藍と優子さんは小さく苦笑。さっきから君ら、仲良くない? 藍なんて、優子さんにしょっちゅう舌打ちしているじゃないか。なんだか不思議な光景を目の当たりにした。
「まあ、とにかく作業を進めよう。江頭先輩が来た時、目を丸くするぐらい進めておこうぜ」
気を取り直して、僕は皆にそう提案した。
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