寝ている人
母に絞られたせいで、いつもより二本くらい遅い電車での通学となった。それでも到着時刻は始業よりも全然前な時間であるだろうが、いつも通りの一日にならないことへの不満は少しだけ感じていた。
最寄り駅に到着して、駅のホームに降り立って、早朝にも関わらず茹だるように暑い外に少しだけ嫌気を感じていた。
さっさと学校に向かってしまおう。
そう思って、一人通学路を歩いていたら、なんだか違和感を覚えた。そう言えば今日は、藍と一緒に登校していないのだ。
最近では、朝何故か同じ電車に乗っていることが多いし、夜だって定期券の範囲内だからと彼女の最寄り駅で一度電車を降りているから、なんだか久しい新鮮な朝だった。
とは言え、これだけ暑い中を一人で歩くくらいなら、話相手が隣にいた方が良かった気もしてくる。
ただ……昨日の件もあるし、結局はどっこいどっこいか。
今日は母のせいで、いつもより少し遅い時間での登校となった。だから今、隣に藍はいない。
……藍は、もう学校にいるのだろうか?
しっかり者の彼女のことを思えば、多分もう学校にいるだろう。むしろ、丁度今頃辿り着いた頃なのではないだろうか。
……どんな顔をして話すべきか。
一先ず朝の挨拶をすることは確定、として。
それから先。
挨拶をして、世間話に興じるべきか。
それとも、藍と朝から話す機会は、あまりないことからも、いつも通り挨拶だけして素知らぬ顔で自席に佇むべきか。
ただ昨日の件もあるのに、そんな他人事みたいな態度で接して良いのだろうか。
グイグイ行くのは、少し怖い。でも世間話ぐらいなら、軽い調子でするべきなのではないだろうか。藍に疑心暗鬼になられたら、なんだか不幸な未来しか待っていない気もする。
うぅむ。
悩みによる気苦労。
単純な寝不足。
道中、僕は大あくびを掻いた。
あくびを掻きながら、そう言えばつい先日、寝不足であることを怒られ、寝ていろと言われたことがあった。
あの時は自分から寝不足であることを告げたわけではない。一目見ただけで、目の下の隈を見抜かれ、そこからは有無さえ言わせてもらえなかった。
……なんだか、あの日と同じ結果になる気がする。
それならそれで、話題には事欠かないし、気まずい空気にもならないし、藍と少しは話せるし。
あれ結構、塩梅な気がするな。
良し。これで行こう。こうなるよう、教室に入るや否や眠気アピールをしてみよう。
などとくだらないことを考えていると、早速学校に到着し、僕は大きく息を吸って、決意を固めるように吐いた。
丁度、校舎からは吹奏楽部の音色が流れ始めた頃だった。いつもより少し遅い時間の登校だから、どうやら朝練の時間とかち合ったらしい。とは言え、合奏練習の大きく豪勢で迫力ある音色ではない。まだ登校している部員もまばらなのだろう。
朝練に来た生徒数人と一緒に校門を抜けながら、僕は彼らと異なり一人教室へと向かった。
教室に近寄るにつれて、心臓が痛いくらいに高鳴っていた。
どうやら良い大人の癖に、僕は緊張しているようだった。
本当、何がその辺の高校生よりも達観している、だ。何度も言うが、情けない限りだ。
そうしていたら、教室の前まで辿り着いていた。
自罰的な気持ちも、ここまで。
ここからは、円滑に自分の思惑通りことを運ぶのみ。
僕は再び意を決するようにため息を吐いた。
「おはよう」
教室へと繋がる扉を開けて、僕は言った。
教室には……。
藍が、いた。
しかし、返事が返ってくることはなく、僕は少し面食らった。
冷房が効き始めるまで、と窓が開いていて、そこから風が吹き込み、ベージュ色のカーテンを揺らしていた。
揺れるカーテンの真下。
藍は、自分の机に伏していた。
僕は自分の鞄を机に置いて、藍の様子を抜き足差し足で見て、察した。
「……寝てる」
あの藍が。
あのしっかり者の藍が。
まさか、教室で寝息を立てているだなんて。
昨晩、何か寝不足になる出来事でもあったのだろうか。僕はあったが……。
……まさかね。
興味もない僕からの告白ぐらいで、藍が取り乱したりするものか。
アハハ、と乾いた笑みを浮かべて、僕はぼうっと藍の席の前で立ちぼうけしていた。
長い黒髪。
長いまつ毛。
可愛らしい寝息。
愛した少女のそんな姿に、少しだけ変な気持ちになっていたのだ。
かつてはいつも一緒のベッドで寝ていたのに、思えば藍が寝ている姿は数えるほどしか見たことがなかった。
これほど落ち着いて見ていられることも、なかった気がする。
それだけ藍は、僕の面倒をしっかり見ていてくれた、と言うものか。
『恥ずかしいから、電気消して』
いや、そう言えば藍は、いつかそんなことも言っていた気もするな。
まあ、とにかく珍しいものを見れた。
……変な気持ち、と言っても、勿論破廉恥なことではない。
自称紳士である僕が、そんな真似に興じるはずもない。
ただ、目に焼き付けたいと思った。
藍の無警戒な可愛らしい姿を。
この目に、焼き付けたいと思ったのだ。
それだけのはずだったのに、気付けば僕は勝手に、藍の頬を優しく撫でていた。
僕の手をむず痒そうにしている藍に、僕は微笑んだ。
その藍の様子に、僕の頬まで綻んだことは、言うまでもない。
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