過去との乖離
授業が始まった。
高校一年の数学。久しぶりの授業は、かつては億劫以外の何物でもなかったのにかなり楽しかった。責任が伴う仕事を経験し、すること成すことどんなことでも責任が伴うようになっていたからか、責任なんてありもしない傍受の時間は気楽以外の何物でもなかった。
そんな授業を経て、昼休み。
親しかった平良君と、久しぶりに一緒に弁当を食べた。最近では、職場で一人で昼ご飯を食べることが増えていた。休日は勿論、藍と一緒に食べていたが……こうして藍以外の誰かと食べることはとても新鮮だった。
昼ご飯の後、満腹だからか眠気に襲われている周囲に苦笑しつつ、授業に集中し……そうして、放課後目前のロングホームルームの時間はやってきた。
「はい。皆さん静かに」
喧騒とする教室で、須藤先生は言った。
須藤先生は、一年時の僕達のクラス担任を務めた人だった。お調子者の性格で話しやすいが、締めるところはしっかり締める。公私混同しない先生だ。卒業して十年近く経っていたが、先生、元気だっただろうか。
そんな先生の注意を聞かないのは、このクラスの生徒達。
十五とかの年頃だと、他人の話聞かないよね。僕もそうだったから、良くわかる。
ただこの場は、先生の話を聞くべきだ。
遠きに行くは必ず近きよりす。
物事を起こすことは必ず順序通りするべきだ、という格言だ。騒ぎたい気持ちは良くわかる。でもこの場でそれをすることは得策ではない。先生の話を黙って聞いて、少ししたら放課後なんだからそれを待つべきなのだ。いくら、今この瞬間におしゃべりがしたくても。
「お前ら、騒ぐのは良いけど、時間になったら終わりになんてならないからな」
えぇ、とクラスメイトから不満げな声が上がった。
「仕方ないだろう。今日中に決めなきゃいけないことがあるんだから。決まらなかったのなら放課後にやるしかないだろう」
須藤先生の言うことは、あまりに正しい。
仕事には納期がある。それを守らないことは基本はあってはならない。これも同じ話だ。今日中に決めなきゃいけない話があるなら、今日決めるしかないのだ。それがこのクラスメイトに課された仕事なのだから。
「なんでよ。明日じゃ駄目なの?」
クラスメイトの女子……確か、倉賀野さんが言った。高圧的な人だ。十年経った今彼女のことはあまり覚えてないが、恐らく僕が苦手なタイプ。故に覚えていないのだろう。
「駄目。明日には委員会活動があるんだから。だから今日決めないといけない」
「だったらもっと早く決めれば良かったじゃない」
「悪い。忘れてた」
エヘヘ、と須藤先生は頭を掻いた。おどけて誤魔化すつもりなのだろう。
ただ、頭を掻いて納得するならそれで良いのだろうが……この連中、とてもそうは思えない。
「何よそれ! 職務怠慢じゃない」
倉賀野さんが怒った。同調するように、クラスメイト達も怒った。職権乱用だと良くわからない文句を野次っていた。
いや本当、職権乱用なのかはわからない。
そもそもこの場は授業の一部なのだから、静かにするのが当たり前なのだから。それを可笑しいと憤怒し、不満を呈するのはどういう了見なのだろう。
かつてはまったく気付かなかったが……結構このクラス、碌な奴がいないな。将来がとても不安だ。まあ、かつての僕なら能天気に同調していただろうが。
とにかく、だ。この調子では建設的な話にはならないだろう。
助け船の一つ、出すべきだと思った。
「うっさいなあ」
先生に助け舟を出そうと思い立った僕より先に、クラスメイトに文句を付ける人がいた。藍だ。
「何よ、坂本さん。文句あるの?」
「先生の話を受け取るなら、ただ委員会を決めましょうって話じゃない。さっさと決めればまたあんた達の好きな無駄話が出来るじゃない。たった数分我慢するなんて、小さい子供でも出来る」
藍の奴、まるでオブラートに包まずに言い放った。そんな敵を作るような言い方するだなんて、まったく彼女は変わらない。
「良い事言うじゃん、坂本。そうだぞ、たった数分。さっさと委員会決めたら、そっからは好きに話して良い」
「先生も、そんな甘いこと言ってないでちゃんと指導しないと駄目でしょ」
「……はい」
立つ瀬のなくなった須藤先生は、露骨に落ち込んでいた。
しばらくして、わざとらしい咳払いをして、須藤先生は話し始めた。
「今日決める話は、坂本の言う通りに委員会だ。各人、一つの委員会に入ってもらうからな」
はあい、と気だるげな声がクラスから響いた。
一先ず滞っていた話が進みそうで、ホッとした。
ホッとしたのも束の間、委員会決めか、と思った。
……高校一年時にした委員会って、なんだったっけ。
ああ、そうだ。保健委員だ。一目惚れした藍と長い時間を送るため、敢えて彼女が入った委員会と同じ委員会に入ったのだった。
……保健委員は、辞めるか。
藍との関係をどうしたいのか、まるでまとまらない今、とりあえずせめて藍を避けようと、そう思った。
であれば、何に入ろうか。
「じゃあ、まずはクラス委員長」
須藤先生の掛け声に、反応するクラスメイトはいなかった。
クラス委員長。
雑務含めて、色々と手間工数が多い役職だ。そりゃあ、青春を望む思春期の子供が気軽にやりたがる役職でもあるまい。かつての僕もそうだったように。
……ふむ。
「はい」
僕は挙手した。一応、この場での精神年齢は年長者だし、嫌がる仕事も請け負ってやるべきだろうと、そう思った。
「おお、青山か」
「はい。是非」
「大丈夫か?」
「どういう意味ですか?」
「……いや、何でもないぞぅ!」
須藤先生が露骨に顔を逸らした。
……そう言えば、高校時代の僕はかなりの能天気家だった。だからこそ、中学時代の友人がいなかったこの学校でも友達が出来たところがあるのだが……どうやらそのお気楽性を、入学してたった数か月の現時点で、既に先生に見抜かれていたらしい。
かつては大概、先生もちゃらんぽらんだと思っていたが、どうやらキチンとクラスメイトの事は見ていたようだ。
「大丈夫。タイタニックに乗ったつもりでいてください」
「せめて大船に乗らせてくれ。沈むから、それ」
アハハ、とクラスが沸いた。
「……まあ、わかった。生徒の自主性を重んじる。それも大事なことだからな」
ぶつくさと言って、須藤先生はようやくクラス委員長の隣に僕の名前を書いた。
それから、一先ず須藤先生主導でクラス委員の選定は進められた。
「よし、とりあえずクラス委員は決まったな」
須藤先生は満足げにため息を吐いた。
「じゃあ、こっからはクラス委員の人に任せるよ。教壇へ」
少しだけ緊張しながら、僕は教壇へ向かった。
別に、皆の前で話すことになったから緊張しているわけではなかった。社会人になって五年超。たかだか十代の子達の前に出されるくらい、なんてことはない。
僕が緊張していた理由は、僕が意図しないことが起きたから。
その一点。
たった、その一点に尽きた。
「クラス副委員長になりました、坂本藍です。よろしく」
ぶっきらぼうに言って、藍は頭を下げた。
僕の隣で。
僕を補佐する副委員長の立場で。
頭を下げた。
君、保健委員じゃないんかい。