チョコレート
見積もりいつ作るんや、こいつら。
しばらく、気乗りしない中で勉強を続けたが、藍が切り替えて勉強している姿を見て、僕もなんだかんだ気持ちを切り替えて勉強するようになったそんな頃だった。
母に藍が今日来ることを言い忘れたばかりに、朝ごはんを食べ損ねたことが起因した、所謂発作だった。人体と言うものは、人の理性関係なくアラームを自由気ままに発する。まあ、理性ではわからない危険状態を察知するため、そのアラームは生きるため必要不可欠であるのだが、であればそもそも理性で危険状態を察知出来るように構造自体見直すべきだと僕は思う。
話が逸れた。
むしろ、敢えて逸らした、と言っても過言ではない。なんとなく、他でもない藍の前で、格好悪い姿を見せたことを、僕は大層恥ずかしく思ったのだ。
腹の虫が、ご機嫌斜めだった。
朝ごはんのパン一枚を食べないだけで、いつもより少し早い時間に鳴るのだから、この体も現金な奴だと思うばかりである。
「ふふっ」
藍に笑われ、ようやく集中しかけていたのに、やる気が削がれた。
なんだか、今日は一日空回りしている気がしてならない。
一旦切れた気持ちを入れ直すのは容易ではなく、僕は背筋を伸ばして机から離れた。
「集中力、切れた?」
「うん。駄目駄目だ。今日は」
「……今日? 今だけじゃなくて?」
「あ、いや……」
鋭いな、今日の藍は。いつもよりフレンドリーな分、なんだか細かいことを指摘されている気がする。
しどろもどろに、僕は言い訳を考えたが、妙案は浮かんでこなかった。
最終的に、僕はこれ以上の詮索をされたくなくて、黙りこくった。
藍は、僕の気持ちを汲んだのかそれ以上の詰問はしない気らしかった。
「朝ごはん、ちゃんと食べたの?」
「……いいや、食べてない」
「駄目じゃない」
さっきまでの和やかな空気そのままに、藍は言葉とは裏腹に微笑み交じりに苦言を呈した。いつもなら眉間に皺を寄せて、同じことを繰り返すな、と言いたげな怒り具合を見せるのだが、本当に、今日の藍は調子が狂う。
「ご飯は体の資本だよ……こんなこと、前も言った気がする」
前も言った、か。
確かに、僕も藍にそう言われるのは、一度は二度の話ではないくらい、聞き覚えがあった。
「そうだっけ?」
ただそう言われるのが一度や二度ではないくらい覚えている、と言うことは、それだけ僕が何度もご飯を抜いてきたと言うことを意味している。だから素直に認めるのは癪で、僕はお茶を濁すように首を傾げた。
「言った本人は覚えているもんなのよ」
「そうですか」
「そうなの」
藍は、満足げに微笑んで、鞄の中を漁った。取り出したのは、チョコレート。
「はい」
「……何が?」
「お腹、減っているんでしょう?」
「そうだけど……」
だけど、どうして自己の所有物を僕に譲ろうとしているのか。それが僕にはわからなかった。
「……大丈夫。買ったばかりだから、溶けてることはないと思う」
「そうなの?」
藍は黙って、頷いた。
だとしたら、例えばウチの最寄り駅に辿り着くまでの間に立ち寄ったコンビニで買ったとか、そんなところだろうか。
いや、一番の疑問は結局、解消されてはいない。
道中のどこかでチョコレートを買った。ただ自分で買ったものだ。自分で食べるつもりで買ったんじゃないのか?
どうしてわざわざ、僕に?
「……言わないと、わからない?」
「ごめん」
「……別に」
先日僕が言ったこと、藍は未だ覚えているようだった。
勘の悪い男で、本当にごめんね。
「あんたのために買って来たのよ」
「……なんで?」
余計。
一層。
わからなくなった。
藍は、首を傾げる僕から目線を逸らした。頬は、恥ずかしそうに染まっていた。
「本当は、お昼食べた後、夕飯までにお腹空くだろうと思ったから。間食に食べてもらおう、と思って、買って来たの」
藍の声は、ドンドン尻すぼみして言った。言葉少なく会話を成立……されていなかったが、とにかく会話してきて、自己を他者に見せてこなかった彼女にとって、こうしてなんでも事情を説明させられるのは、恥ずかしいことなのかもしれない。
……本当、勘が悪くて、ごめんなさい。
ただ一先ず、ようやく藍の意図は理解した。
つまり彼女は、十五歳の少年の食べ盛り具合を念頭に置いた上で、わざわざお土産をこさえてきてくれたのか。
何て良い人なんだ。
「……いるの? いらないの?」
感激のあまり言葉を失っていたら、藍が少し苛立ったようにそう言った。
「あ、ごめんごめん。もらうよ」
藍のご厚意を、無駄にするわけにもいくまい。僕は有難く、チョコレートを頂戴することにした。
「……今、食べたら? お腹空いてるんでしょ?」
「あ、うん」
板チョコの包装を開けて、銀紙を剥いて、僕は一ブロック分チョコレートを折った。
「あ……坂本さんも食べる?」
そして思った。ここまでしてくれた藍が、このまま報われないのは可笑しいと。もう一ブロック分、僕はチョコレートを折った。
そして、藍に手渡そうと手を差し出した。
「……駄目」
しかし藍は、僕の手の上のチョコレートを中々受け取らなかった。
「どうして? 元々は君が買ってきたものじゃないか。君だって食べなよ」
「……手、汚れるから」
言われて、人肌に温められた板チョコレート一ブロックの隅が溶けて、角が丸まりつつあることに気が付いた。
確かにこれだと、手が汚れてしまうだろう。そうなれば、多少だけど勉強に支障をきたす。
「……だ、だから」
藍は、さっきよりも頬を真っ赤にさせて、続けた。
「た、食べさせてくれるなら……食べないこともないけど」
……それはつまり。
「つまり、口まで持って行けば良いの?」
動揺から、口に出して尋ねていた。
藍は、顔を真っ赤にして何も言わなくなった。
これ、あれだ。
沈黙は何とやら。
……えぇ。
藍とはかつて、夫婦だった過去がある。心の底から愛した人でもある。でも未だかつて、そんなバカップルみたいな真似、一度だって僕達はしたことはなかった。
したことは、なかったのだ。
……でも、藍に恥を掻かせて良いものか。
そうはいかない、と思ったのは、微かにある僕の男としてのプライドだった。
真っ赤な藍の顔を見て、その羞恥は僕にまで伝染していた。でもここで、逃げるわけにはいかないのだ。
ゆっくりと。
手のひらの上で溶け始めたチョコレートを、藍の口元目掛けて、進めた。
驚愕。
羞恥。動揺。
そして、最後にはなし崩し。
藍は可愛らしい口を、小さく開けた。そして、目を瞑った。
「お二人さん、お昼ご飯出来た……わよ」
でも結局、チョコレートが藍の口内に運ばれることはなかった。
溶けかけのチョコレート。
顔を真っ赤にした藍。
居た堪れない、母。
僕は、チョコレートをゆっくり、自分の口内に運んだ。
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