借りてきたツンデレ
「はあ、暑かった」
手をうちわ代わりにしながら、風を煽った。
たった数十分ながら、すっかり汗を掻いて不快なTシャツをさっさと脱いでしまいたい気持ちに駆られながら、僕は藍を家に招き入れた。
「さ、どうぞ」
「お邪魔します」
躊躇なく、藍は我が家に入ってきた。
「こんにちはあ」
そんな僕達の前に、待ち人一人。母だ。
いつにもまして外向けの甲高い声で、畏まってお辞儀なんかしたりして、この状況を一番楽しんでいるだろうことは明白だった。
「あら可愛い」
藍を見た母は、口を塞いで歓喜していた。そりゃあ学校でも屈指の美人ですから。夫だった過去がある僕としては、鼻が高いことこの上ない。
……そう言えば、かつて初めて藍を紹介した時にも、母は同じようなことを言っていた気がする。
「武の母です。……えぇと」
「坂本藍です。よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくね。そうか、藍ちゃんか。うん、よろしくね」
丁寧な母のお辞儀に、僕は苦笑した。いつもならもっとおざなりな性格をしている癖に。
浮かれた母を見ているのは、身内としてはがっつきすぎだろ、と思わざるを得なかった。さっきまで尊敬していると言ったが、前言撤回。
「ありがとうね。ウチの子に勉強教えてくれようだなんて。テストも違うのに」
……なるほど。母は、僕が勉強を教わる側だと思っているのか。
「いえ、その……あたしが武君に勉強、教えてもらうんです」
「え」
この子にそんな上等な真似出来るの、と母の顔に書かれていた。
「失礼な」
「まだこの子にそんな上等な真似が出来るの、とは言ってないじゃない」
今言ったね。……失礼な!
藍は、少しだけ困ったように苦笑していた。いつもならこんな顔をしないのに。かつても、母と僕の漫才を見せる度、藍は少し困ったように苦笑していた。
母は人前で歯を見せて笑わない藍を、淑女らしい素晴らしい人、と評していたが、夫となった後、僕もそんな姿見たことないんだから、多分、少し笑うのが苦手な人なんだと僕は思っていた。
でも多分、そんなことを考える失礼な僕よりは、藍も、母も出来た人で間違いないのだろう。
「あらあら、上品な子ねえ。武には勿体ない」
当時と同じ褒め方してるよ。
まあそりゃあ、藍が藍のままなのだから、当然な話か。
「いや、えっと……あたし達別に付き合っているわけでは…………ない、んです……」
いつにもまして、藍の歯切れが悪かった。どうしたのだろうか。
「じゃあ、今からでも付き合えば良いじゃない。あ、勿論藍ちゃんが良ければ、だけど。ウチの子は全然オッケーよ。全然、気にする必要ない。何なら顎に使って構わない。だからどうかしら。あたしも全力でサポートするんだけど」
「食い気味に言い過ぎだぞ」
このままでは、今日はずっと玄関先から動けなくなりそうだ。
僕は面倒になり、藍の手を掴んだ。
「まあ」
「ひゃあっ」
……浮かれる母と。滅多に聞けない藍の悲鳴。
「僕達、部屋で勉強するから」
なんだか余計地雷を踏んだ気がする。ただまあ、ここまで来たら引けない。
そう言って、足早に藍を引いて階段へ向かった。
「あ、藍ちゃん。お昼何食べたい?」
「あ、えっと……お義母さんの手料理なら、なんでも」
「そう? じゃああたし、頑張っちゃうから」
お母さんと呼ばれたことが大層嬉しかったのか、母は浮かれたままリビングに戻った。
母に呼び止められて階段途中で止まっていたが、僕は再び藍を引いて階段を昇り始めた。
少しして、階段を昇り終えて、それから二階の一番奥の部屋に入った。そこが僕の部屋になっていた。
「……ふう」
部屋の中は、一切の冷気がなくジメっとした暑さが漂っていた。ただ僕がため息を吐いたのは、一先ず一難去ったことを自覚したから。これで、母はお昼ご飯までは静かになるだろう。
「……ねえ」
「ん?」
藍に呼ばれ、気付いた。ずっと藍の手を握ったままだった。
「あ、ごめん」
嫌がる彼女に悪く、僕は落ち着いてそう言って、手を離した。
どうしてか、藍は名残惜しそうにさっきまで僕が握っていた左手を注視していた。
「暑いよね。クーラー入れるから」
机の上に置いていたリモコンを操作し、クーラーを稼働した。室内が冷えるまで、少しだけ設定温度を低くしようと思って、そう言えば藍は寒がりだったことを思い出した。
「寒かったら、言ってね」
「……うん」
そう言いながら、一先ず押入れに寄って、タオルケットを一枚取り出した。母が整理したベッドの上に、乱雑にそれを置いた。
藍は、物珍しい男子の部屋を落ち着かない様子で見て回っていた。
「そんなに、色々見て楽しい?」
「別に」
藍はそう言ったが、見るのを止めるつもりもないらしい。
「……なんだか、綺麗」
しばらくして、藍は言った。
「何が?」
「……室内」
「もっと汚れていると思ったの?」
藍は何も言わなかった。
……まあ、僕が片づけが苦手なのは事実だった。かつて、何度部屋を汚しっぱなしにして、藍に怒られたかわからない。
「まあ、掃除したのは僕じゃない。今一階で浮かれている、母さんだよ。勝手にしてくれたみたいだ」
と言いつつ、実は昨日自分で掃除をしていたりする。あの様子なら過干渉気味になり部屋の掃除くらい勝手にしても不思議じゃないし、ここは母を利用させてもらった。
「……ふふっ」
藍が小さく笑ったから、僕は面食らった。
「何?」
「……なんでも」
まさか、藍が笑うだなんて、とは言えまい。
そっぽを向いて誤魔化すと、藍は何かを悟った。
「失礼なこと考えてたでしょ」
そして、藍は僕の頬を抓った。
「……べ、べちゅに」
頬を引っ張られているせいで、上手く発声出来なかった。情けない声に、もう一度藍が微笑んだ。
「変な顔」
誰のせいだ。
いつもと違い、藍はどこか楽しそうに見えた。上に下に右に左に、楽しそうに僕の頬を引っ張った。せめて僕への攻撃以外のことで楽しんでくれているのであれば、これほど可愛げのあることはないと思うのだが、彼女の加虐性を知り、少し悲しいよ、僕は!
でもやっぱり可愛い。
「そろそろいいんじゃない?」
「……ダメ?」
可愛らしく、藍は小首を傾げた。
……君って奴は、いつもはそんな顔しない癖に。こういう時ばっかり。
「駄目、ではない……」
でも、許しちゃうんですよね。なんだかんだ、惚れた過去のある彼女に僕は弱い。
「痛い?」
「別に」
少しだけ不機嫌そうに僕は言った。藍に良いようにされるのは、少し癪だった。
「勉強、しに来たんじゃないの?」
「……ん」
納得したようだが、手は一向に僕の頬から離れなかった。
「……もう、ちょっとだけ」
……致し方なし。そんな捨てられた子犬みたいな目で懇願されたら、そう思うしかないじゃないか。
やはり僕は、彼女に弱い。
満足げに、藍は僕の頬を抓り続けていた。
そして、ようやく満足しかけたそんな時だった。
「お二人さん、おジュースをお持ちしました」
僕と藍の痴態……とまでは行かないが、仲睦まじいところを、母に目撃されたのは。
無言のまま、藍と母は見つめ合っていた。
どうしてか、この状況に陥っても藍は僕の頬から手を離そうとしなかった。いや、突然のことでそんなことさえ忘れてしまっているのかもしれない。
ただ、藍の手から頬に伝わる肌の温度が、少しずつ上昇しているように感じた。
今頃の藍の顔、多分茹蛸みたいになっていることだろう。
「あらあらぁ」
「その……あの……」
藍は、かつてから母に弱かった。僕相手には度々容赦なくなるが、母相手だと借りてきた猫状態だ。
そして今回も、それは一緒らしい。
「良いのよ。あたしも娘が出来たみたいでとても嬉しいから」
「……あぅぅ」
母は、藍のことを酷く気に入っていた。
それは多分、いじり甲斐があるから。
多分、かつて同様、藍はこれから、母に気に入られていくのだろうなあ。
ぼんやりと、のんびりと、そう思った。
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