スタートラインに立つことすら難しい
クラスメイト達の支持を得て迎えた最初の放課後。僕は、藍と一緒に教室にいた。ただ別に、していることは大層なことは一切ない。やましいことだって、一切ない。
再来週に控えた全校集会。そこで僕達は、壇上に立ち発表をすることになる。横断歩道の設置へ向けて、意思表示だったり決意表明だったり、そういうことだ。
全校集会までの期間が二週間しかないことは、多少の憂いを感じる要素だった。
学生相手にスピーチをした経験なんてないし、だからこそ早すぎるくらいのペースで準備を進めましょうと僕達は考えるに至ったのだった。
「半径三キロの地図はなるべく大きくしよう」
僕達が今していたのは、全校集会で配る腹積もりのアンケート用紙の草案だった。ノートの最終頁に、シャープペンシルでさらさらっと藍は草案を書き込んでいった。
彼女は、十年後には高校の教師となっていた。
初めて藍の将来の夢を聞いた時は耳を疑ったが、意外と職場で上手くいっている姿を鑑みて、自分の先見性のなさを申し訳なく思ったことだってあった。
ただだからこそ、彼女は僕よりも断然絵心と言うか、イラストを描くことに長けた何かを持っている人だった。
さらさら書いているのに、思わず感嘆の声をあげそうになるくらい、藍の草案用紙は見やすかった。どうやらこの頃から、あの藍の才は突出していたようだった。
「下半分以上は、地図になるけどいいの?」
「いいよ。何なら、文字は一切ない用紙に出きれば最高だ」
「へえ、なんで?」
「活字を追うのと絵を、イラストを追うの。どっちが楽かって話だよ」
活字の方が楽なら、商業的な面で小説が漫画に押される現状にはならなかっただろう。つまり、活字よりもイラストの方が視覚的にわかりやすいのは確定的に明らかなのだ。
手軽なアンケートであるが、より一層学生達のやる気を損なわないようにするなら、イラストを増やす配慮だってするべきだ。
「とはいえ、主題くらいは書いておこうか」
「ん」
ノートの一番上を、僕はとんとんと指で叩いた。まもなく藍は、そこに『横断歩道の設置場所のアンケート』と記載した。
「あとは両面印刷にして、裏面にはイラスト付きの手順書を付けよう。まあ、難しいアンケートでもないからとにかく簡単にね」
「ん」
「あとあと、地図にはこの辺で学生が見覚えのある位置を拡大して書いておこう」
「なんで?」
「地図見ただけじゃわからない、とか言われるかもしれない」
「今時の学生は、地図もまともに見れないのか」
「アハハ。坂本さんも今時の学生だろ?」
苦笑すると、藍は一瞬ハッとして目を丸くして、まもなく鬱陶しそうに僕を睨み、頬を抓った。
「い、いたい……」
何も抓ることはないではないか。
抗議しようと思ったが、まもなく藍が頬から手を離したので、一先ずその話は置いておいた。
「……青山」
「うん?」
「……あなた、本当に色々考えているのね」
「そうかな」
まあ、何が必要かを見定める能力は社会人経験のおかげである程度備わっている自覚はある。
藍は、なんだか物憂げな顔をして俯いていた。
「坂本さん、どうかした?」
「……正直、意外だったの」
何が、と問う間もなく、藍は続けた。
「あなたのこと、もっと頼りがいがなくて子供っぽいと思っていたから」
「アハハ。そっか」
「あと楽天的で能天気だと思っていたから」
そ、そこまで思っていたのか。
まあ、そう思われても不思議はないくらいのこと、藍の前では見せている気はする。
「……成功させよ」
「え、あ。うん」
殊勝な藍の言葉は、彼女には似合わなくて僕は虚を突かれた。
「何? その驚きを隠そうともしない目は」
藍は、不服そうに言った。
「……だって」
「何よ」
……君のそんな言葉、滅多に聞いたことがなかったから。
夫婦だったのに、滅多に聞いたことがなかったから。
言えない。
そんなこと、今僕の目の前にいる藍には、言えなかった。
「まあ、その……うん。絶対成功させよう」
「何よ。言いたいことあるなら、言いなさいよ」
「ないよ。君は可愛いなって、そう思っただけ」
「えっ」
藍の頬が、赤く染まった。
「……あ、いやその」
「見るな」
「え?」
「こっち、見るな」
突然、藍の手が僕の眼前に迫り寄ってきた。
そのまま藍の手に押され、僕は顔を塞がれた。息すら苦しく思いながら、無様に必死に抵抗を続けていた。
「……ふふ」
微かに聞こえたのは、藍の笑い声だった。
その声を聞いたら、なんだかこの苦しさも全てがどうでも良くなるような、そんな気がしてしまった。
しかしそんな都合の悪い時に限って、外敵はやってくるものだった。
ガラガラとやかましく開かれた扉から教室に入ってきたのは、落ち込んだ須藤先生だった。
慌てて、僕達は距離を取った。
「はあ」
わかりやすいため息を吐いた須藤先生は、僕達に気付いている様子もなかった。そのまま担任の席に、腰を下ろした。
「須藤先生」
仕方なく、僕は声をかけた。
「うわあ」
「うわあって……」
「……何だ、お前らか」
まるで幽霊でも見つけたように飛び上がった須藤先生は、拍子抜けしたように肩を落とした。
「何やってんだよ、こんな時間まで」
「それより何かあったんですか?」
僕は須藤先生の注意も無視して、尋ねた。
一瞬ムッとした須藤先生だったが、まもなく気を取り直して凹みだした。
「……ロングホームルームの件だよ」
事前準備に勤しむ僕達には、タイムリーな話題だった。
「それが?」
「ほら、学年主任の矢沢先生。まずはあの人に、こんなことをしたいんですって会議の前に話したんだよ」
「お、ありがとうございます」
須藤先生、早速行動に起こしてくれたのか。もっと面倒臭がり屋だと思っていたのに、やるじゃないか。
ただお礼を言いながら、であればなんで凹む必要があるんだ、と思った。
「大体わかったか? そんなの駄目だーって言われてきたよ。たった今」
「はあ?」
藍の冷たい声が、教室に響いた。
「どうしてです?」
「……知らん。ただとにかく、頑なだったよ」
「何よ、それ」
「でもそれ、困っちゃいますね」
あまり困っていない風に、僕は言った。
「そうなんだよ。まさかそっから拒まれるだなんて思ってなかったんだよー」
須藤先生は、頭を抱えた。
「……まあ、今日は腹の虫の居所が悪かっただけかもしれないし、また明日聞いてみるけどさ」
「お、意外」
……声に出てた。
でも実際、拒まれた上で再度ぶち当たろうだなんて、中々肝が据わっている人ではないか。
「意外は余計だ」
「すみません」
「……俺もさ、たまには学生達の願いを叶えてやりたいなって思ったんだよ。一生懸命策を練るお前達を見てたらさ」
「……先生」
先生は、ため息を吐いて立ち上がった。
「まあ、とにかく少し様子を見てまた挑んでくる。もう少し待っててくれ」
「はい、お願いします」
頼れる先生を持ったものだ。
まるで模範的な教師ではないか。そんな人のためにも、彼の頑張りに報えるような成果を創出しなければならない。
ただまずそのためには、彼に頑張ってもらわなければならない。
そうしなければ、まずスタートラインに立つことすら出来ないのだから。
神に祈るような気持ちで、翌日の先生の報告を待った。
「ごめん!」
しかし翌々朝、あの頼りがいは何だったのか。須藤先生は僕達に謝罪の言葉を口にした。
脇の甘い両者。なぜ未だに気づかないのか。多分、普通タイムスリップなんてするわけないから、と言う固定観念があるからだろう。自分の現状も鑑みず。
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