蕎麦つゆをどっぷり漬けたかった爺さんの話
その爺さんは、生来の意地っ張りだった。
たとえば彼は、生まれてから御年八十八歳になる今日この日まで、ずっとフンドシを愛用している。
パンツと言うものを身につけたことは一度もない。
はるか遠い昔、十七のときに友人と銭湯に行って、からかわれたことがある。
「いまどきフンドシとは随分と古臭えなあ。うちの明治生まれの爺さんですら最近はブリーフだぜ? お前もそろそろ西洋のモノを取り入れたらどうだ」
その当時であっても既に、フンドシは先時代的なものとなりつつあった。
しかし彼は、
「ほざけ、日本男児はフンドシと相場が決まっとる」
そう切り捨てる。
たったそれだけの短い会話だった。
実際のところを言えば、彼がフンドシを締めているのは、単に幼い頃からの惰性だった。
こだわりとか一切ない。
必要とあらばいつだってパンツに鞍替えすることができる。
なのに、友人にそんなことを言ってしまった手前と、彼はその日を境に生涯フンドシを決め込む。
以降、たとえ高度経済成長の真っ只中にあっても、スーツの下はさながら江戸っ子だった。
ぴたぴたのスーツを着て日がな一日歩き回ると、フンドシがズレてきてしょうがない。
にも関わらず爺さんは、十七歳以来の己の意地を曲げなかった。
誰も気が付かないような、つまらないところに意地を張る男なのだ。
それも、驚異的なほど長年にわたって。
そんな爺さんは、無類の蕎麦好きでもあった。
日にいっぺんは蕎麦をずるりとすすらねば気分が乗らない。
特に夏場は、冷やっこい蕎麦をつるりと喉に通すのが彼の日課だ。
もちろん、その日課の蕎麦にも、こだわりという名の意地が存在する。
蕎麦に一家言ある人間はよく言う。
「蕎麦は、蕎麦の先にほんの一寸か二寸だけ、チョンとつゆをつけるのが粋ってもんだ」
彼もその信奉者だった。
蕎麦をつゆの中でかき混ぜるなぞ言語道断。
蕎麦の風味が台無しである、と。
もっとも、彼も子供の時分には甘辛い蕎麦つゆを、どっぷりと漬けて食べていた。
それ以外の蕎麦の食べ方を知らなかった。
しかし二十歳になる手前のある年、たまたま蕎麦屋で隣の席になった男から、
「おい、そこの兄ちゃん。いい年した男が蕎麦をぐじゅぐじゅとつゆに浸すなんてみっともねえぞ。蕎麦の風味も何もあったもんじゃねえ。蕎麦はこうやって食うもんだ。蕎麦の先に一寸だけ、だ。これが粋ってもんよぉ。分かったかっ」
と言われてしまう。
「そんなもん、あんたに言われんでも分かっとるわ。いまのは少し手が滑っただけじゃっ」
と、若かりし頃の爺さん。
好物の蕎麦について自分の食い方を否定され、甚だ気分を害された。
それからというもの、「蕎麦の先に一寸」を半世紀以上も、半ば意地で守り続けている。
蕎麦の風味を楽しむためという理由もあるにはあるが、それ以上に、あの日あの男に侮辱されたことをいまだに根に持っているのである。
つくづく妙な意地を張る爺さんだった。
しかし、そんな「蕎麦の先に一寸」も今年で六十周年を迎えたある日のこと。
八十八歳の夏、爺さんは余命二ヶ月を宣告された。
末期の腎臓がんだった。
爺さんはその事実を、本人も驚くくらいにあっさりと受け止めた。
「まあ、八十八まで生きたんだ。いつお迎えが来ても可笑しくあるめえ」
「……あんた、よくここまで頑張ったよ」
と奥さんが言う。
「ああ、残りの時間はせいぜい楽しむさ」
「そうしましょ」
爺さんは、痛みを緩和する最低限の治療だけを受けて、最期は自宅で迎えることを選んだ。
治療の合間を縫っては、余生を満喫するべく、爺さんは夫人と共に方々に出かけた。
美術館巡りをしたり、ごく近しい間柄のところへ挨拶しに回ったり。
また、いつ容態が悪化して動き回れなくなるか分からないため、贔屓にしていた蕎麦屋を巡ったりもした。
むしろ、もっぱら蕎麦屋巡りが主で、美術館や知人訪問はその箸休めだった。
「あなた、一体いくつのお店で常連さんやってるの? 行くところ行くところ皆顔見知りじゃない」
「そうさな、十軒くらいだ」
「まあ! 今日のお店もそうなのかい?」
「そうだ。さ、入るぞ」
蕎麦屋の暖簾をくぐる。
「お、Sさん、いらっしゃい!」
「どうも。せいろ二枚、お願い」
「あいよ」
夫妻は座敷席に通された。
ほどなく、蕎麦が運ばれてくる。
「美味しそうだけど、あんた、いい加減飽きないのかい?」
「飽きるもんか。毎日でも構わん」
「呆れるわ。この人、死ぬその日まで蕎麦すすってるんじゃなかろうね」
「ふん、何とでも言いやがれ。食うぞ」
爺さんは慣れた手つきで割り箸を綺麗に真っ二つに割ると、これまた慣れた手つきで左手を猪口の方へと持っていき、蕎麦をひとすじ箸で掴み、蕎麦つゆをチョンとつけ、華麗にすすった。
「見上げたものね。さすが蕎麦好き」
「何を言う。そんなことよりも、ほら、麺が伸びるぞ。せっかくの歯触りが台無しになる」
「はいはい」
「昨日も言ったが、どっぷりつゆに漬けるんじゃねえぞ。蕎麦の先に一寸、だ。蕎麦本来の風味を楽しむんだ。これが粋ってぇもんよ」
「はいはい」
こんな調子で夫妻は、十五軒の蕎麦屋を一ヶ月近くかけて回った。
当然、その間もがんは体中を蝕み続ける。
少しずつ顔色は悪くなり、肌の色つやはなくなっていく。
そしてとうとう、爺さんは歩くのもままならぬほどに病魔に侵された。
顔はくすんだ紫色、腹は腹水で大きく膨らんだ。
見るからに状態は芳しくなかった。
「お、お、俺、明後日くらいに、し、死ぬと思うから覚悟しとけよ!」
「何言ってるんだい、そんなオドオドした声で。覚悟するのはあんただよ。言っとくけどね、あたしはとうに覚悟できてますよ。あんたが天に召された後、どんな一人暮らしをするか楽しみにしてるくらいなんだから」
「ふん。可愛くねえなあ。少しは悲しんでくれたっていいじゃねえか」
「葬式の時にゃ涙くらいくれてやりますよ」
爺さんの直感は当たっていた。
彼は明後日に死ぬ。
この会話は、夫妻の実質最後の時間だった。
翌日、爺さんの容態は急変する。
チチキトク。スグカエレ
知らせを聞いた爺さんの子供たちが、配偶者や孫も連れて帰ってきた。
爺さんは、座敷の布団に寝ていた。
夜、寝たまま危篤状態に陥ったのである。
「お父さん……」
「おじいちゃん、だいじょうぶなの?」
家族が爺さんの布団を取り囲む。
医者が言う。
「今夜がヤマです。ご家族の皆さんは心の準備を」
爺さんの息は、既に相当細くなっていた。
しかし意外なことに、爺さんはこの日の夜、何とか持ちこたえた。
そして臨終当日。
爺さんはもはや、再び目を覚ます気配を見せなかった。
このまま消え入るように死んでいくのだろう。
医者も家族も皆、そう感じた。
ところがどっこい、爺さんの中にはまだ、明々と意識が働いている。
おお、子供たちに孫まで来てくれたのか。ありがとうな。
お前たちくらいのもんだ、俺の死を悲しんでくれるのは。
それに比べてあの女房ときたら――
――しかし、いよいよ俺は死んじまうんだなあ。
いいんだか悪いんだか分からん人生だった。
まあ、そこんところは閻魔様に判断してもらうとして――
――でも、このまま死んじまっていいのだろうか。
何かやり残したことはなかったか。
いや、先月あんだけ蕎麦食ったんだから特にねえはずだ。
――だけども、何だ、この気持ちは。
小骨が喉に引っかかったような……
何か心残りがあるはずだ。
これを解消せんことには死ぬに死に切れん。
さて、一体なんだ。
爺さんは最後の魂の力をふり絞って、現世の未練を探した。
そして刹那、爺さんは閃いた。
そうだ、それだ。あれをしなければ。
こうしちゃおれん。いますぐ女房に言うんだ。
いまにも息絶えそうな爺さんの身体が、突然、がばりと起き上がった。
「わっ! お父さん!」
子供たちの驚きと涙をよそに、爺さんは夫人に言いつけた。
「おい、いますぐ蕎麦を持ってこい。ざるだ。冷いのを頼む。いますぐにだ」
爺さんの目には鬼気迫るものがあった。
夫人はその勢いに気圧されて、台所へすっ飛んだ。
娘のひとりが後を追いかけた。
それからものの三分も経たぬうちに、蕎麦が運ばれてきた。
「早い、上出来だ!」
「あんた、まさか食べるのかい」
「そうだ。文句あるか」
「ないけどさ」
「そうか、なら、すまんがちょっと部屋を出てってくれ。お医者さまもだ」
「へ?」
「いいから早く。蕎麦が伸びる」
爺さんに言われるがまま、人々は部屋を出、襖を閉めた。
爺さんのただ一つの心残り。
それは、最後に一度、蕎麦つゆをどっぷり漬けて食いたかったのである。
しかれど、その姿を人に見られるのは恥ずかしい。
なにせ、あれだけ「蕎麦の先に一寸」と皆に講釈を垂れてきたのだ。
そんな男の現世最後の願いが、事もあろうか「たっぷり漬けたい」である。
これがもし露見したら、末代までの恥だ。
だから家族と医者は部屋から追いやった。
そして、いよいよその時がやって来た。
爺さんは弱りきった己の身体をどうにか動かして、猪口を持ち上げた。
それから震える箸で蕎麦を掴む。
蕎麦を猪口の上まで持ってくる。
おもむろに箸の先をつゆの液面付近まで下げる。
そしてついに、爺さんは、蕎麦をつゆにどっぷりと漬けてやった。
ふっ、してやったり。
それだけで爺さんは悦に入ってしまいそうだった。
だが、これはまだ通過儀礼。
爺さんはこれでもかと言うほどに蕎麦をつゆの中でかき混ぜ、つゆを麺にまとわせた。
そして、絡めたつゆが落っこちないようにと、猪口に口をつける。
一瞬だけつゆの香りを楽しんだのち、ずるりと、一気にすする。
甘辛いつゆが、爺さんの口の中へと流れ込んだ。
な、なんだこれは!
それは、実に六十年ぶりの味だった。
子供の頃の懐かしい味。
あの男に侮辱されて以来やめた味。
なぜ俺はいままで、こんな美味い食い方を封印してきたんだ!
誰だ、蕎麦本来の風味なんて言った奴は。
蕎麦の本質は蕎麦じゃねえ、つゆだ。
この醤油のひきたった旨味、砂糖のやさしい甘さ、鰹節の香ばしくまろやかな風味。
これぞマリアージュってもんよ。
ああ、俺はなんて馬鹿なことをしちまったんだ。
つまらねえ意地を張っちまったばかりに、こんな美味いものを六十年も食い損ねた。
だが、もういい。
満足だ。
気が付いたら爺さんは、猪口に入ったつゆを全て飲み干していた。
我が人生、悔いなし!
脳天を貫くような蕎麦つゆの美味に、爺さんはもんどり打って倒れた。
どさりという物音と共に、爺さんは果てた。
家族と医者が部屋に飛び込んできたときには、時すでに遅し。
「ご臨終です」
医者が短く言った。
結局、誰にも看取られることなく、爺さんは逝ってしまった。
蕎麦に看取られた男。
その場にいた者たちは、悲しむのを通り越して笑ってしまった。
「まったく、お父さんらしいわ」
「ほんと」
「さ、お葬式の準備をしましょ」
娘が言うと、皆それぞれに動き始めた。
一抹の寂しさはあったものの、それをはるかに上回る清々しさが座敷には漂った。
実に爺さんらしい死に様である。
そんな中、夫人だけはそれを見逃さなかった。
布団の上に転がった猪口と、一滴の染みもない真っ白な布。
「あんた、馬鹿だねえ」