猫にも苦手なものがある
幽霊の正体がベアトリクスと分かり、二人は宿直室に戻ろうとした矢先、ヴィクトリアが先に言っていろと言う。
今度こそは花摘みと察したラインハルトだったが、またも余計な一言を言ってしまう。
「そう言えば、女子トイレの正体はベアトリクスさんじゃ無かったね」
その言葉にヴィクトリアの足に急制動が掛かった。
「言っただろ! それは教官に叱られた候補生だって」
「そうだったね。じゃ謎は全部解いたから、僕は先に行っても大丈夫だね」
「あ、当たり前だ! 私を子供扱いするな!」
何故か振り向かずに言うと、そのまま小走りでトイレに向かった。
ラインハルトは素直じゃ無いなと思いつつ宿直室に向かった矢先、手元の無線機から声が聞こえた。
宿直当番に当たる候補生は小型無線機を持たされているから、声の主はヴィクトリアしかいない。
『ラインハルト。その……まだ近くに居るか?』
「うん、居るけど?」
ラインハルトが応答すると暫く無線機は黙っていた。
『その……言いにくいのだが……』
ヴィクトリアが何を言いたいのかをラインハルトが察すると返信した。
「言わなくても大丈夫だよ。ちゃんと待っててあげるから」
『……感謝する』
何だかんだ言ってても幽霊が怖いんだと思うと、ベアトリクスが言う通り可愛らしい仔猫ちゃんのままだと思ってしまった。
「ヴィッキー?」
『なんだ?』
「ごゆっくり」
『バカ』
その言葉を最後に無線機が切れる音が鳴り、ラインハルトも無線機を切った。
幽霊騒動から数日が経ち、季節は暑さを増してきた。
入学から三ヶ月経ち、下級生達も士官学校生活に慣れてきた頃、遂にアレがやって来た。
いつもの様に第七班は四人で朝食を食べているとレベッカが二人に言ってきた。
「そうそう二人共。再来週から下級生はプールを使った水中訓練が始まるからね」
ラインハルトはいつもの調子で返事をしていたが、一人だけ手に持ったナイフを床に落とし、フォークに刺した目玉焼きを白い頬に衝突させてしまう。
「ヴィッキー?」
「え!? だ、大丈夫だ! 水中訓練だな……。痛っ!?」
落としたナイフを拾ったら、今度はテーブルに頭をぶつけてしまう。
流石に様子がおかしいと思いモニカが声を掛けた。
「おい大丈夫か、アルムルーヴェ候補生?」
「じゃ、じゃいどぶでじゅ」
もはや何を言ってるのか分からないその返答にモニカとレベッカが顔を見合わして、ある事を察する。
そしてラインハルトに確めてみた。
「そう言えばラインハルト君は泳げるよね?」
「一応。四季国は海に面していますから、小さい時から泳げる様に授業に組み込まれてます。それがどうかしました?」
その言葉を聞いて模範生徒の二人は胸を撫で下ろした。
「あ、大丈夫大丈夫。もし泳げないんだったら、お姉さんが水着を着て手取り足取り教えてあげようかなってね。あはは」
「そうですねぇ。レベッカさんの水着姿は見てみたいと思いますが……泳げるんで遠慮します」
ラインハルトの笑顔の返しに思わずレベッカは項垂れて沈没したかと思ったが、ラインハルトの手を握りながら緊急浮上した。
「ラインハルト君! だったら私に手取り足取り教えてくれない!? 報酬は私の体を触り放――痛い!?」
すかさず横に居るモニカから鉄拳制裁がレベッカの頭を襲った。
「話が脱線するからやめんか! だいたいお前は私より泳げるだろうが!」
「いや~何事も復習が大事だからね。下級生と真夜中のプールで二人きり……なんか興奮するわよね!?」
「しないわ! 私をお前と一緒にするな!」
珈琲を飲み終わり、これ以上はレベッカの性癖に付き合ってられないと思ったのか、モニカがプレートを持って立ち上がる。
「あ、ヤキモチ? モニカったら可愛いな~。言ってくれれば二人で泳ごうか?」
「いらん。私はお前と違い、そっちの趣味は無いからな」
それだけ言うとモニカは行ってしまった。
ラインハルトはモニカとレベッカの二人が水着姿をちょっとだけ想像した。
二人とも美人だからさぞかし綺麗だろうなと考えていた矢先、横から放たれる殺気を感じ取ると急いで想像した姿をかき消した。
モニカが居なくなるとレベッカも溜息を出しながら立ち上がる。
「ありゃりゃ、ちょっとからかい過ぎたかな。じゃラインハルト君、もし泳ぎの復習がしたくなったら、アレクシア教官に言えばプールの鍵は貸してもらえるからね」
「あの……僕泳げますよ?」
ラインハルトの言葉に再びレベッカは溜息をついた。
そして、手招きをして呼び寄せる。
「ラインハルト君。私、バカに見える?」
「いえ、僕の知る限りは優秀な模範生徒です。おまけに美人ですから」
美人ですからという言葉に思わずレベッカの頬が緩む。
「あ、ありがとう。気がかりなのは、君の寝台戦友の方よ」
「ヴィッキーですか? 彼女は運動神経が僕より遥かに良いから泳げると思いますよ……」
「君も鈍いわね。あの返事からして確実よ」
「まさか……」
二人がヴィクトリアの方を見ると、ヴィクトリアは俯いて小刻みに震えている。
「あ~。確かに確実ですね」
「でしょ? きっとアルムルーヴェは誇り高い一族だから言い出せないのよ。上手い事やってあげなよ。模範生徒として命令します」
笑いながら人さし指をラインハルトに向ける。
模範生徒の命令は上官の命令と同義の為に断れないが、ラインハルト自身は命令が無くてもやる気だった。
「分かりました。噛み殺されないように善処します」
「よろしい。もしもの場合は君の骨はちゃんと拾うから安心しなさい」
そう告げるとレベッカはプレートを持って、教官達のテーブルに向かった。
アレクシア教官と何やら話し込んでいるみたいで、暫くするとアレクシア教官は笑顔で頷いている。どいやら話を通してくれたらしい。
後はどうやってヴィクトリアの自尊心を傷つけずに、事を上手く運ぶかだ。
うっかり間違うと噛み殺されるから、慎重に話をする。
「いや~僕も泳ぐなんて久しぶりだから上手く泳げるかな~。泳ぎの練習しないとダメだろうな」
もはやわざとらしさを通り過ぎて白々しい言い方をしてしまい、ラインハルトの脳裏に走馬燈が浮かぶ。
だが、その走馬燈は直ぐに上映中止になった。
「ラインハルト。その……恥を承知で頼みたい事があるんだ」
「え?」
「人に言うのは恥ずかしいが、私は泳げないんだ。だから……」
言い難そうに口ごもるヴィクトリアにラインハルトは言った。
「大丈夫だよ。泳げるまで僕がちゃんと教えるから」
その言葉に不安で一杯な表情をしていたヴィクトリアは安心した表情に変わった。
「泳げない事は別に恥ずかしい事じゃないよ。誰だって得意不得意はあるからね」
「ラインハルト……」
ラインハルトの言葉に思わず胸が打たれる。
たが次の言葉にその思いは宇宙の彼方に消え去る。
「それに未来の皇帝陛下に泳ぎを教えたのは僕だって、僕の子孫に自慢出来るからね」
「バカ。せっかくの気分がお前の一言で台無しだ」
「酷いなヴィッキー。僕なりに気を利かしたつもりだったんだけどな」
締まりの無い顔で紅茶を飲むラインハルトにヴィクトリアがダメ出しをする。
「黙れバカ。だがまぁ、未来の皇帝陛下は当たってるぞ。お前の子孫に自慢出来るのは確実だ」
「その日を楽しみに待ってるよ。未来の皇帝陛下」
ラインハルトは紅茶を飲み終わると、いつもの様にヴィクトリアがオラージェを飲み終わるのを待っていた。
そして二人はその後すぐにアレクシア教官に言って、プールの鍵を借りる事に。
プールは夜間なら使用してもいいと言われ、二人は二つ返事で快諾した。