幽霊騒ぎ
真っ暗闇の中、懐中電灯の明りだけを頼りに廊下を進むラインハルトとヴィクトリア。
まずは二階の宿直室から階段を降りて、湯浴みの間に向かった。
暗い廊下を歩き、談話室の暖炉の火が消えているのを遠目で確認する。
暖炉の消し忘れは火事の元になるからだ。
誰も居ない廊下というやつは何とも言えない雰囲気が漂い、本当に幽霊が出そうな雰囲気。
「今のところ談話室から音楽は聞こえてこないね」
「当たり前だ! お前も十六なんだから、いい加減に幽霊なんていう子供じみたものから卒業しろ!」
「あの……信じる信じないは個人の自由だと思うんだけどな」
妙に強めに絡んでくるヴィクトリア。
どうやら宿直室でからかったのを根に持っているかも知れないと思ったラインハルトは、出来るだけ見回りを早く終わらせようと早歩きで進むが、後ろから若獅子の苦情が入る。
「バカ! あ、あまり早く歩くな。男のお前と違い、私は女なんだぞ。その……歩幅が違うから早く歩かれると困る」
「ごめんごめん。君の歩きに合わせるよ」
「う、うん。助かる」
何とか若獅子のご機嫌を取らないと、か弱い草食動物は簡単に噛み殺されてしまう。
ラインハルトは、まるで強引な彼女に振り回される哀れな彼氏の気分みたいと思った。
だが、口に出すと若獅子に噛み殺されてしまうから、心の内に留めておくことにしといたみたいだ。
湯浴みの間にさしかかる瞬間、背後の談話室からパキッと物音と微かな悲鳴が聞こえる。
そして物音がした瞬間ラインハルトは自分の袖口が震えているのを感じ、一瞬自分の体が震えているのかと思ったが直ぐに違うと分かった。
明らかに袖口が誰かに引っ張られている感触がするのだ。
ゆっくりと自分の袖口を見ると、小刻みに震えているヴィクトリア。
どうやら驚いて思わず袖口を掴んでしまったらしい。
その姿にラインハルトは何だか愛しく思ってしまう。傲慢にして、強欲のアルムルーヴェと言っても案外可愛らしい所があるんだなと。
しかし痛みと共に、その気持ちは宇宙の彼方に消え去る。
「端的に一つだけ聞くぞ。何か聞いたり見たか?」
痛みの根源はラインハルトの手の平をヴィクトリアがつねっているからだ。
「何も見てないよ! 可愛い女の子の悲鳴や、僕の袖口を震えた手で掴んでいる所なんて――痛たたっ!?」
つねる力が倍になり、ラインハルトは悶絶してしまう。
「すまない、よく聞こえなかった。何か聞いたり見たか?」
「何も! 締まりの無い僕の幻覚と幻聴です!」
「うん。許してやる」
やっと解放されたラインハルト。つねられた手を見ると、赤くなり思わず息を吹き掛けながら優しく摩ってしまった。
締まりの無いという、何とも情けない言い訳を言った自分が怨めしくなる。
「暖炉の薪の音だな。きっと熱による伸縮で音が鳴ったに違いないな、うん」
自分に言い聞かせる様に喋るヴィクトリア。
うっかり幽霊の仕業かもよって言いたくなったが、今度は手を噛みつかれるだけでは済まなさそうなのでラインハルトは口を閉じてることにした。
「じゃ湯浴みの間に行こうか」
ラインハルトの言葉に無言で頷き、二人は湯浴みの間に向かう。
湯浴みの間は男女別に別れている為に、手分けして見回りをしようとラインハルトが提案したが、ヴィクトリアが頑なに首を横に振った。
「二人一緒に見回りをした方が早く済むだろ。湯浴みの間は広いんだからな」
そう言うヴィクトリア。
ラインハルトはもっともらしい理由を言っているが、本当は怖いんじゃないかと言いたくなった。だがここは大人しく従う事にした。
男性用の湯浴みの間に入ろうとしたが、何故かヴィクトリアが入口前で立っている。
「あの……ヴィッキー?」
「私はここでお前の帰りを待っている」
ラインハルトの握る懐中電灯の明りが床を照らし、反射した光のお陰で彼女の表情を少しだけ読み取れた。
「あの……一応理由を聞いていいかな?」
その質問には答え難そうにしていたが、僅かばかりか顔を赤らめて口を開いた。
「バカ! 私は女なんだぞ。その……未婚の女性が殿方の湯浴みの間に入るのはダメだと聞かされた。そういう事は……愛の証が欲しいと言われてからでないと……父上が言っていたのだ」
「え、愛の証?」
一応ラインハルトは帝国については学んできたつもりだか、その言葉は何処の辞書にも書いて無かったはず。
理由は分からないが、取り合えず女性が男の湯浴みの間に入るのはダメなのは理解した。
「えっと、じゃ僕だけで行っくるよ」
「うん。気をつけてな」
誰も居ない湯浴みの間で何に気をつければいいのか分からないが、どこかの夫婦みたいな会話だ。
そんな事を思いながらラインハルトは懐中電灯を握り締めて湯浴みの間に入る。
真っ暗の湯浴みの間。シャワーヘッドからは水滴が落ちる音が誰も居ない空間に響く。
天窓や換気用の窓の戸締りと、お湯が出しっぱなしじゃないかを確認する。
一通り確認して異常が無いと分かるとラインハルトはヴィクトリアの元に戻った。
「いや~怪奇現象のかの字も出なかったよ」
「当たり前だ。そんなものは迷信と分かっただろ」
腕を組ながら若獅子は豪語する。
さっきまで怖がっていたのは、どこの誰だよ言いたくなったが、ラインハルトは口を詰むんで堪え忍ぶ。
うっかり口に出すとご機嫌を損ねてしまい、任務がやりにくくなるし、朝までご機嫌斜めだと流石に疲れるからだ。
そして女子用の湯浴みの間に向かう。
ラインハルトが先頭で入るが、女子用の湯浴みの間に入るのは初めての為に二の足を踏んでしまう。
だがそんな事はお構い無しに、またもや後ろから苦情が入る。
「ラインハルト、早く入れ。ぐずぐずしていると夜が明ける」
「あの……一応、僕も未婚の男性なんだけど……」
「あれは女性だけだ。男性には適用されないからな」
「随分と理不尽だな……」
ヴィクトリアと同じ理由を言って逃れようとしたが、どうやら適用外らしい。
潔く諦めて人生で初めて女性用の湯浴みの間に入る。
中の作りは当たり前だが男性用と大差ないと思った。男性用と作りは左右逆なのは分かる。
中に入って違和感を感じたのは浴室に入った瞬間の熱気だ。湯船からは湯気が昇っており、床は濡れている。
「あれ、おかしいな。最終時間からだいぶ経ってるけど、なんで湯気が……」
ラインハルトが湯船に手を入れると、まだ温かい。
「大方、最後の候補生が湯の栓を閉め忘れたのだろ」
ヴィクトリアが湯の栓を確認すると栓は確かに締まっている。
その光景を見て、ラインハルトが手を叩く。
「あ、分かった! 幽霊の――!?」
ラインハルトが幽霊の仕業と言おうとしたら、脇腹に何か堅い物が当てられる。
「その先を言ったら無傷では済まないからな。模擬弾でも至近距離からならかなり痛いぞ」
ラインハルトの脇腹に当てられていたのはヴィクトリアの拳銃だ。
「無条件降伏するよ、ヴィッキー」
両手をゆっくりと挙げて降参ポーズをとるラインハルト。
ヴィクトリアは模擬銃を人さし指でクルクル回すと、そのままホルスターに納めた。
「うん。無条件降伏を受諾するぞ」
「良かったよ。出来れば捕虜収容所は大人しい捕虜がいる所でお願いするよ。僕みたいなか弱い人間は他の捕虜達に一番に襲われるからね」
「バカ」
いつもの調子で冗談を言うラインハルトに呆れ返ってしまうが、この少年と居ると何故だか緊張感が和らいでいく。
恐らく締まりの無い顔の性で、こっちまで調子が狂わされてしまうのだろうと、ヴィクトリアは思うことにした。
そして二人は無意識に互いの冗談に笑ってしまう。
「取り合えず窓の戸締りや、蛇口の栓は大丈夫だね。次は屋上の戸締り確認だね」
「そうだな。結局、怪奇現象なんて噂話だったんだな」
「まぁそんなものだよ。学校の幽霊話なん……て!?」
湯浴みの間から出て、談話室の前に差し掛かった時に事件は起きた。
談話室の方から明りが揺らめき、何処からともなくヴァイオリンの音が鳴り響く。
その現象を目の当たりした瞬間にヴィクトリアは手に持っていた懐中電灯を落としてしまう。
「あの~ヴィッキー? どうして僕の背中に隠れるのかな。しかも背中を推さないで欲しいんだけど?」
懐中電灯を落とした瞬間、ヴィクトリアはさっとラインハルトの影に隠れてしまう。しかも背中を押して、談話室を確かめてこいと暗に言っている様だ。
「う、うるさいバカ! お前の確認ミスかも知れないだろ? だったらお前がもう一度確認して、任務を果たせ」
「理不尽な。談話室は二人で確認したはずだよ?」
ラインハルトが口答えすると背中を押す力が倍になる。
「お前、男の癖に往生際が悪いな。男なら困難な任務を進んで果たせ」
「ずるいよ、こんな時だけ男女を持ち出すなんて。軍では男も女も関係ないだろ」
背中を押す力に対抗して、ラインハルトも踏ん張る。
互いに進んでは引いての攻防戦。
このままでは埒があかない為に、ラインハルトは一緒に見ようと妥協案を提示した。
この妥協案には渋々だが、何とか受入れてもらった。
「分かった。お前がどうしてもって言うなら、私も一緒に見に行ってやる」
いかにもアルムルーヴェらしい上から目線の言い方。
そんな言い方にラインハルトの返答は、わざとらしく頭を下げて感謝した。
「一緒に来て頂けて光栄の極みでございます、殿下」
貴族の様に畏まった言い方が気に入らなかったのか、まるで哀れな人間を見る様なジト目で言い放つ。
「ナール」
光栄?にも帝国の王女殿下に罵られた所でラインハルトは、咳払いし仕切り直す。
落とした懐中電灯を拾い上げ、ヴィクトリアも談話室に向かうが、相変わらずラインハルトが先頭だ。
忍び足で歩くが、木製の廊下に足を乗せる度に軋み音がする。
ラインハルトが一際大きい軋み音を立てると、後ろのヴィクトリアから懐中電灯で脇腹を小突かれ、謝っても今度は「バカ、声が大きい」と理不尽に罵られてしまう。
そんな理不尽な行いをされたら普通の人間なら怒る所だが、不思議と怒る気にはならなかった。
ラインハルトは自分が生来のマゾヒズムの人間か、ヴィクトリアの上から目線や理不尽さに慣れたかのどちらかだと思ったが、出来れば後者と思いたかった。
何故だか二人は談話室の入口に辿り着くと壁際に密着して息を殺した。
ふとヴィクトリアの方を見るとホルスターから拳銃を抜いている。
「あの~幽霊には模擬弾は効かないと思うんだけどな……」
親切心から世間知らずの若獅子に、幽霊には物理的攻撃が効かない事を言ったのが気にくわなかったのか、ヴィクトリアはジト目でラインハルトを見る。
「いささかお前は常識に囚われ過ぎている点があるな。そんなものやってみないと分からないし、そんな常識は私が覆す」
真顔で言うヴィクトリア。その言葉と表情の違いにラインハルトは笑ってしまう。
だが若獅子は馬鹿にされたと思い噛みついてきた。
「な、何がそんなに可笑しい!」
「別に可笑しくなんてないよ。もし戦場で君が隣に居たら、さぞかし心強いと思ったんだよ」
「ウソだ。締まりの無い顔が物語っているぞ」
「心外だな、ヴィッキー。僕が言いたい事は戦場で絶体絶命のピンチと思っても、君が隣に居たら絶体絶命という常識を覆してくれると思ったんだよ。そしたら生きて帰れるからね」
ラインハルトは馬鹿にした訳では無く、ヴィクトリアの常に前向きな姿勢なら、絶体絶命という常識を壊して生きて帰れると言ったのだ。
若獅子は誉められたと分かると上機嫌になったみたいで一生の戦友に約束する。
「なら安心しろ。私は出来ない約束はしない主義だ。お前と一緒の戦場を駆け抜けて、そのふざけた絶体絶命とやらが訪れても、私が覆してお前を生きて連れて帰る。必ずな」
「頼もしいね。君がいれば、取り合えず戦場で死ぬ可能性は限りなく低くなったね。もし任官を承けても安心だ」
いつもヴィクトリアが言う、締まりの無い顔で言うラインハルト。
そんなラインハルトを見ながらヴィクトリアが一言。
「バカ」
そして互いにふざけるのは終わりにしようと目配せする。
壁際の淵から談話室を覗き込もうとした瞬間、横にいたヴィクトリアが「お前は相変わらず焦れったいな」などと言い、拳銃を構えて談話室に突入した。
「誰か居るのか!? いるなら出て来い! 今出て来れば逮捕はしないでおいてやる!!」
ラインハルトは幽霊か人間か知らないが、そんな上から目線の言い方だど、仮にどちらかが本当にいても出て来ないだろと思ったが、ここは若獅子に乗っかって一緒に突入する。
「動くな! 動いたら……撃つ……ぞ?」
ラインハルトが突入した頃にはヴィクトリアは拳銃をホルスターに収めていた。
そしてラインハルトが言った言葉にヴィクトリアは笑いながら両手を上げて言う。
「フフ、私は動くからな。間違っても私を撃つなよ」
完全に出遅れたラインハルト。
無性に恥ずかしくなり思わず視線を逸らした。
そんなラインハルトにヴィクトリアは肩を叩いて感想を言ってあげた。
「ま、お前にしてはかっこ良かったよ。特に銃を構えながら動くなと言った所がな。まぁ後半はいつも通り、締まりの無い顔だったがな」
「あはは……。君の期待に応えられて嬉しいよ」
ラインハルトも照れ隠しをする様にホルスターに収め、当たりを確認する。
談話室から漏れていたのは暖炉の薪が燃やされていたからだ。おまけに床は少しばかりか濡れている。
「やはり誰も居なかったな。お前のいう幽霊とやらも居ないぞ」
「きっと幽霊も君に怖がって出て来ないんだよ。うっかり出ると恐い獅子に退治されちゃうからね」
「ほぅ。お前、私の事をそんな風に思っていたのか。詳しく聞かせて欲しいな」
いくら鈍いラインハルトでも感じ取れる、背後からの殺気。
恐る恐る背後を見るラインハルト。
するとそこには笑顔で模擬銃をラインハルトに向けているヴィクトリアの姿。
「あ、二度目の無条件降伏を申請――」
「申請は却下する。大人しく諦めろ」
「あはは……。参ったな~」
頭を掻きながら愛想笑いしたが呆気なく突破されてしまう。
「笑って誤魔化してもダメだからな」
どうやら万事休すみたいだ。か弱い草食動物は逃げるのに失敗し、獰猛な肉食動物の若獅子に捕らえられてしまう。
このままか弱い草食動物は若獅子に食べられてしまうのかと思った矢先、二人の耳に何処からともなくヴァイオリンの音色が聞こえてきた。
その音色を聴くなり、二人は顔を合わせる。
「ヴィッキー、これって!?」
「あぁ。いよいよ幽霊とご対面が出来そうだ」