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夏のホラー2020

銀の匣

 頬のこけた眼鏡の男は、青白い手首につけた時計をしきりに確認している。その仕種は寧ろ、時間を知りたいからではなく、何やら迫りくる恐怖から逃れようともがき苦しむ様子で、端から見れば彼はエサを探す鶏よろしく滑稽であった。

 しばらく優先席のそばの扉から入ってきたまま立ち呆けていた彼は、発車とともに窓際の席に座る。

 日曜日の昼間にスーツ姿で鉄道を利用するのはいかなる職業か、サトミが眼鏡の男を意識し始めたのは、誰もが抱きそうな疑念が生じたからだった。

 そして彼に対する興味は、誰もが辿る運命と同じく、数分と経たぬ内に褪せてゆき、彼方に失われるはずだった。

「はい、もしもし」

 折り畳み式の、古そうな電話を耳に当てた眼鏡の男の顔が曇る。悲惨な結末を迎える大予言を施されたのであろうか、猫の額に汗を浮かべている。

「ええ大丈夫です。問題ありません、はい。分かっています」

 耳と肩との間に電話を挟み、眼鏡の男は空いた両の手で、銀色のジュラルミンケースを隈無くチェックしていた。

 彼が矯めつ歪めつ眺めていると、スーパーに陳列される大きめのお弁当箱ほどのジュラルミンケースは、車窓に降注ぐ太陽の光を乱反射させていた。

 やがて眼鏡の男はジュラルミンケースを網棚の上へ置いた。

 以降もう彼は一度たりとも時計を確認しようとはしなかった。

 列車は間もなく次の駅へ到着する。軽快な音楽とともに、アナウンスが流れた。

 立ち上がった眼鏡の男は、扉の前に佇んでいる。

 彼の姿が見えなくなり、新たな乗客たちが喧騒を引き連れてきた。

 次々と埋まっていく座席。網棚のジュラルミンケース。扉が閉まる空気弁の音。

 電車は再び動き出し、ホームに取り残されたサトミの右手にはジュラルミンケースが握られていた。

 まだ遠くはないはずだと、サトミは階段を駆け降りる。

 大切な打ち合わせに用意した商材だろうか、重くはない。キログラムに満たない中身は書類か、それとも小型電子機器か。

 構内を探し回っていると、慌てた様子の駅員たちの波が現れた。数名の一般客も混じっている。

 男子トイレから戻ってきた駅員を捕まえて、

「あのう、忘れ物がありまして」

 ジュラルミンケースを差し出そうとしたサトミを駅員は制止した。

「今、それどころじゃないんだ。申し訳ないけれど相談窓口へお願いしてくれ」

 走り去っていく駅員の背中と、トイレから追い出される男性らを交互に見比べる。

 これから地震でも起きるのだろうか、券売機の近くで盲導犬が吠えている。


「それでどうして持ってきちゃったのよ」

 ベルガモットを啜るサトミは答えに窮し、

「分からない。とても慌ただしかったから」

「どこかに置いてくればよかったじゃない。今からでも遅くないわ、捨てなさい」

 切り揃えられた前髪がハルカの瞳の印象を強める。その眼差しがサトミを穿つ。

 頬杖をつきながら、もう片方の手でジュラルミンケースを撫でる。曇り一つない美しさが灰色に輝く。

「財布、とかバッグならまだしも、絶対怪しいよそんなの」

 隣のテーブルの家族連れが、揃ってパンケーキを注文する。賑やかな店内をウェイターが忙しない様子で行き交う。

「ハルカの言う通り、明日のゴミ収集で」

「それがいいよ」

 ケーキを口に運びながらハルカは微笑んだ。

 外は雨が降ってきた。

 アパートへ戻ったサトミは洗濯物を取り込み、夕飯の仕度にかかっていた。

 イカの腸を抜いていると、夫から電話がかかってきた。仕事の間に連絡を取ることは滅多にないので驚いたサトミはすぐさま、

「どうしたの?何かあったかしら」

 沈黙の中に、夫の荒い息が断続的に響いている。しばらく夫は黙っていた。常ならぬ様子にサトミも口を閉ざした。

「サトミ、本当にサトミなのかい」

 ふいに夫が呟いた。

「当たり前じゃない。急にどうしたのよ」

「それならいいんだ」

 安堵のため息を漏らす夫が続けて、

「何も知らないようだね。テレビを点けてごらんよ」

 促されるままにサトミはリモコンを手に取る。

 途端にサトミは夕方の情報番組から目が離せなくなった。

 速報の帯が踊り、黒い煙を纏った車体が線路から外れてフェンスをなぎ倒している。

「これって、まさか」

 夫との連絡を切った後も、列車の脱線事故に釘付けになったサトミは、鍋が吹きこぼれるまで、火をかけていたことをすっかり失念していた。

 サトミの乗っていた電車は無惨にも折れ曲がり、乗員乗客の生死は明らかなほど、原型を留めてはいなかった。

 眼鏡の男を追って、手前の駅で降車したサトミは、そのままロータリーのバスを拾ってハルカの待つ喫茶店へと向かったのだった。

 背筋を流れる冷や汗に、さらに拍車をかける映像が飛び込んでくる。

「えー、こちらも速報です。都内に住む男性(34)無職が、駅構内の男子トイレで死亡しているのが確認され、現在警察が原因を調べており」

 頬のこけた青白い肌の男は、眼鏡をかけてこそいないものの、紛れもないあの男だった。

 リビングのテーブルに置かれたままのジュラルミンケースが、冷たい光を放っている。


 ビニール袋に包んだジュラルミンケースをゴミ捨て場に持っていった後で、夫と朝食を摂る。

 いつも通り、夫は食後にコーヒーを淹れて、砂糖をスプーンで二匙だけ混ぜる。それを二人でゆっくりと飲み、サトミは仕事へ向かう夫を見送った。

 食器を洗おうとリビングへと向かうとき、

「おい、サトミ」

 今しがた出ていったはずの夫に呼び止められた。

 振り向いたサトミは驚いて言葉を失った。

「玄関の足元にこれが置いてあったんだが、心当たりはあるかい」

 ジュラルミンケースを掲げる夫が怪訝そうに訊ねると、

「ハルカに昨日貰ったの」

 サトミは笑顔で受け取った。

 窓から夫の背中が街角を曲がるのを見届けて、サトミはジュラルミンケースを机に置いた。

「一体誰が置いたのかしら」

 ゴミ収集の作業員が、運べない代物と判断したとしても、どうしてサトミが捨てたことが分かり、玄関まで届けたのだろう。

 掃除、洗濯、午前中の家事を済ませたサトミがソファで一休みしていると、玄関のチャイムが鳴った。

 扉を開けると誰もいない。

 廊下にも人影はなく、どうやら押し間違えか悪戯だろう。

 サトミが扉を閉めると、何かがつっかえて最後までいかない。それは古い機種の携帯電話だった。

 触れようと手を伸ばしてみたところ、携帯電話が鳴った。リビングに起きっぱなしのサトミの携帯電話からだった。

「はい、ああ、いつもお世話になっております」

 夫の会社からだった。

「奥さんのサトミさんですね、落ち着いて聞いてください。カズシさんは現場で作業中に裁断機に巻き込まれ、病院へ運ばれました。今からそちらにタクシーを送りますので、どうか」

 洗い晒しの夫の作業着が、ズタズタに引き裂かれて、赤黒く変色していく様子を想像する。工場の裁断機なんて、サトミは一度も目にしたことはないけれど、高速で走行する電車の下敷きになるようなものではないか。

 病院のベッドに横たわる夫だった肉の塊と、混じりけのない白衣を看に身に纏った医師と看護師の狭間で、サトミが佇む。

 絶望の情景を背負ったまま、サトミはタクシーへと乗り込んだ。


 仏壇に備えられたコーヒーには砂糖を二杯入れる。にこやかに微笑む写真は、夫の不在があたかも巧妙に偽装された嘘であるかのように錯覚してしまう。

 散らかった床には衣服がそこかしこに投げ出され、足の踏み場はない。ソースのこびりついた食器には、ゴキブリが舐め回した跡がついていた。

 ベッドから漂うカビの臭いにもすっかり慣れてしまったサトミは、数日うつ伏せたままだった。

 カーテンの隙間から注ぐ光でさえ鬱陶しい。鳴りっぱなしだった携帯にも応じず、玄関を鳴らすチャイムも無視し続けた。

 ところが少し前から、リビングから漂ってくる短調だけは、サトミの心に語りかけてくるものがある。

 真っ暗な寝室を出ると、テーブルに置かれたままの携帯電話から、悲しくも、どこか高揚とさせるメロディが発せられていた。

 それは夫の亡くなった当日に玄関に残されていた携帯電話だった。サトミは恐る恐る手にとって、

「もしもし」

 通話口からは微かに、テレビの砂嵐のような、或いは浜辺に打ち寄せるさざ波にも似た響きが伝わる。

 やがて声がして、

「サトミね、私よ」

 ハルカだった。

「ああハルカ久しぶりね。どうしたの」

「届けてほしいものがあるの。あのジュラルミンケースよ」

 机にはジュラルミンケースが変わらず鈍い光を放っていた。

「ハルカの家へ届けようか。いつにする?」

 少しの沈黙の後で、

「その前にケースの中身を確認して欲しいの、開ける方法は」

 ハルカの指示通りにして、ジュラルミンケースの蓋を上げる。

「開けたわ、これは一体」

「それと同じものを用意して。出来る限り早くね」

「でも、こんなものどうやって手に入れればいいか分からないわ」

 困惑するサトミに、ハルカは落ち着いた様子で、ある場所を示した。

「そこに向かえば、サングラスの男がいるから」


 少しだけ重くなったジュラルミンケースを携えて、サトミは電車に乗った。時計を確認すると、約束の時間に遅れるかどうか微妙な時間になっていた。

 するとハルカから電話がかかってきた。

「もしもし」

「どう?」

「ええ、問題ないわ。さっきサングラスの男にも会ってきた」

「密封されているわね」

 サトミはジュラルミンケースを子細に眺める。どこにも隙間はない。

「大丈夫よ」

「良かった。じゃあそれを網棚の上へ置いておいて、次の駅で私が回収するから」

「分かったわ」

「それから、サトミが持っている携帯電話は、降りたホームの一番近いゴミ箱へ捨てて頂戴」

 サトミは網棚にジュラルミンケースをそっと置くと、

「あんた、凄い汗だよ」

 向かいの席に座っていた老婆が心配そうに声をかけてきた。

 そのときトンネルにさしかかり、暗くなった車窓に映るサトミは、自分の頬が酷く痩けていることに気がついた。

 列車を降りてすぐに携帯電話をゴミ箱へ放り投げる。するとどこからか、悲しげな短調が響いてくる。

 サトミの少し前を歩く女のイヤホンから漏れるメロディに、頭の中が蕩けていくような心地好さを覚える。

 階段を上がり、トイレへと向かう女の背中を追う。


 騒がしくなった駅構内を歩く老婆は、ジュラルミンケースの取手に刻印が彫られていることに気がついた。忘れ物をした持ち主の名前かも分からない。

「小さくて読めないね、おいっ、そこのあんた」

 呼び止められたハルカは、刻印を読み上げる。

「ピー、エー、エヌ、何これ、パンドーラ?」

「ふうん、あの女の人、外人さんだったんかねえ」

 相談窓口へと向かう老婆に抱えられたジュラルミンケースをハルカはどこかで見たような気がした。

「そう言えばサトミ元気かな」

 階段を降りてホームへと向かう。

 電車を待っていると、アナウンスが流れ、

「お知らせいたします、ただ今、下り線で起きた事故のため、列車は運行を見合わせています。繰り返します、ただ今」

 どよめく場内。

「また脱線事故だとよ」

 ハルカは待っていた他の客たちとともに改札へ戻ることにした。黙々と作業をする清掃員とすれ違ったとき、

「お前も選ばれた」

 嗄れ声に驚いたハルカは振り返ったが、清掃員はおろか、ホームには誰一人として残されてはいなかった。これからやってくる嵐の兆しだろうか、どんよりと黒い雲が、街の上空を覆っている。(了)



次の遺失物は何でしょうか、当ててみて



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