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物語る丘 ~ 少女と王子の不運な恋

この作品はパロディ精神で描いております。内容に自分の考えや主張を込めたつもりはありません。宗教に関する描写も、私は大して詳しくないので、違和感があったらごめんなさい。キリスト教などとはまったく別物です。結末はご想像の通りバッドエンドですが、そんなに悪くは無いと思います。

 物語る丘 ~ 少女と王子の不運な恋


(一) 少女


 とある庶民の少女と王子――現代でも有り得る組み合わせですが、これは昔々のお話です。少女はただでさえ貧しい庶民なのですが、可哀想に――その少女には、もう夕食のパンは一つも残されていませんでした。


 私のは……?


 そう、少女は訴えようとしました。しかし、小さな声しか出せず、それでは家族の皆は見向きもしません。


 少女の家は、両親と七人の兄弟姉妹の大家族です。少女はその一番下の妹でした。大きなテーブルには少女の家族が並び、慌ただしく食事をしています。母親はもう食事を終えて立ち上がり、洗い物や後片付けに取りかかっていました。


 今夜の夕食は、キャベツばかりを煮込んだシチューと目の粗いパン。そんな粗末な食事も既にあらかた無くなっています。パン皿には一つのパンも残っていないし、シチュー鍋もほとんど底をついていました。


 少女は帰りが遅くなってしまったのです。母親の言いつけでお使いをしたのですが、夕食の時間に間に合わなくなってしまったのです。

 少女はシチューの鍋におもむいて、鍋底の残り物をかき集めようとしましたが、もう面倒になって止めました。ろくなものが残っていないし、それほど食べたいとも思っていないのでしょう。そんな妹の様子を、大きなお姉さんがジロリと睨みました。


(グズグズしているからよ。誰かがあんたの為に食事をとっておいてくれるなんて、そんなに世の中は甘くないわよ)


 そんな風に言いたげな顔をしましたが、それは一瞬でした。グズな妹に構っているほど、世の中は確かに甘くありません。グズグズしていたら、今度は自分が母親に叱られてしまいます。

 お姉さんは食事の遅い弟や妹たちを追い立てながら、自分も夕食の後片付けのために立ち上がりました。それが終われば、また、母親について仕事場に向かわなければならないのです。


 家族の皆は、誰も少女のことに構ってはいません。帰宅したばかりの少女が、再び玄関からスルリと表に出たことも、誰も気がつきませんでした。


(二) お伽話とぎばなし


 再び外に出た少女は夜空を見上げました。夜空には満月が輝き、王国のお城が美しく照らされているのが見えました。

 少女の家は森のほど近くに建っていました。その森は山へと続き、王国のお城はその山頂にあり、月の光に照らされて白く輝いて見えました。それは実に美しい光景でした。

 少女は思い浮かべました。お城の中はどんな世界なのだろう。お城には、どんな人々が住んでいるのだろう。王様や、そして、王子様はどんな人なのだろう、と。


 少女の足を踏みしめると、サクサクと雑草が音を立てています。耳を澄ませば、リリリ、と虫が鳴いていて、遠くから犬の遠吠えが聞こえてきます。風が吹いて、木々の葉がザワザワと音を立てました。その木々の足下に自分の家が建っています。嵐が来れば吹き飛んでしまいそうな、そんな貧弱で古い家でした。


 少女はみすぼらしい格好をしていました。着る服と云えば、つぎはぎだらけのお下がりばかりです。一番上の兄や姉ですら、新品の服を着たことも、目にしたこともないでしょう。この町の界隈では古着屋ばかりで、新品の服を売る店なんて見かけないからです。


 少女は思いました。話に聞いたお城の生活とは、なんと違う生活なのだろう、と。


 優雅な音楽が流れて、豪華なお料理や、愛らしいお菓子、色鮮やかな花々が香り立ち、美しい衣装を身につけた貴族達が舞い踊る舞踏会――気品に満ちあふれた王子様や貴族達が、ためらうお姫様に手を差し伸べて、楽人達の演奏による優雅なワルツの調べにそって、軽やかな足取りでホールの中央まで導いていく……。


(そんなの、夢物語さ。お伽話とぎばなしにしか出てこないお城だよ)


 そう云ったのは、少女の一番上のお兄さんでした。そのお兄さんは家族の中でもっとも年長の長男です。少女がもっと小さい頃によく遊んでくれたのですが、兵隊に志願して家から出て行ってしまいました。

 兵士になったお陰で、お兄さんはお城のことを幾らか知っていたのです。たまに帰ってきた時、少女にその様子を教えてくれました。


(王様や大臣達はいつも戦争の話ばかりしていてさ。兵隊を養うのにお金がかかるから、王様ですら質素な生活をしているし、家来達にも絶対に贅沢はさせないんだ。おかげでお城の中は薄暗いし、ドレスを着たお姫様なんて一人もいやしない。俺達のような兵士は仕方ないが、お偉い大臣様や貴族達ですら、ろくなものを食べていないし……)


 そうなんだろうか――少女は疑いました。もちろん、少女には疑う理由も、根拠もありません。この世は美しい世界があって欲しい、きらびやかな王国であって欲しいという願いが、そう疑わせたのかもしれません。


 この時代――現代的な話を挟んで申し訳ないのですが――テレビはおろか、カメラで写真を撮る技術なんてありません。絵師が絵画にする他はありませんが、この時代の庶民にとって、絵画などという贅沢なものは、見ることすら滅多にかなわないのです。目にしたところで、そういう絵画は誇張されていることが多いので、本当に絵の通りなのか怪しいものです。つまり、何事も確かめるには、直に目で見る他はないということです。


 ましてや、少女が耳にした話は、お祭りで町にやってくる吟遊詩人が語り、旅役者が演じるお伽話で、それこそ観客を引きつけるために着飾っただけの夢物語――もしかしたら、昔のお城は本当にそうであったのかもしれないけれど、すでに風化した昔話でしかありません。


(ほら、そんな夢ばかり見ていると、また母さんに怒鳴られるぞ)


 お兄さんは度々そう云って、夢見る少女を現実に引き戻しました。


 現実――それは少女にとって灰色の世界でした。人同士が互いに奪い合い、傷付けあい、自分を押しつけ合う殺伐とした世界でした。少女が生きていかなければならない、現実の家庭の姿でした。


(なぜ、世の中は美しくないんだろう。世の中には、美しい世界は本当に無いのだろうか)


 そう思って、再び少女はお城を見上げました。


(お城に住む王様や王子様は偉い人。贅沢な暮らしをしている貴族で、なんでも自由にできる人。だったら、きっと美しい世界で美しい人達が美しい日々を送っているはず)


 少女は自分の希望も交えて、そんな推理を止めないのでした。以前なら、そのくらいでお兄さんが少女をからかいながら現実に引き戻してくれていたのですが、そのお兄さんは滅多に兵隊から帰ってきません。

 少女は少し寂しさを味わいながら、家の外をブラブラと歩いていましたが――いえ、少女には自分を見守る大切な家族がもう一人いました。


「こら、こんな遅くまで何をしているんだ」


 少女を叱る声が聞こえました。それは、仕事から帰ってきた父親でした。


 父親が町の仕事から帰ってきたのです。お兄さんほど優しくはありませんでしたが、母親や姉に比べれば優しい人でした。叱ると云っても穏やかな声でした。


「さあ、夜は危ないからもう家に入りなさい」


 そう云って、いまだ夢心地の少女を家に追いやりました。


(三) 城


 少女の母親は洗濯の仕事をしていました。洗濯物は、主にお城の兵士達のものです。お城にほど近いところに住んでいましたから、そうした仕事にありつくことが出来ました。

 重労働ではありますが、誰にでも出来る仕事ですので、母親は娘達や息子達も連れて行き、少しでも割り増しで給金が貰えるよう働かせました。

 この時代、この国の大抵の子供達は学校などに通わず、大人と一緒に働かされています。いやまず、学校そのものがありません。うらやましいと思う人がいるかもしれませんが、小さい頃から働き通しの生活と、果たしてどちらが良いでしょうか?


 少女もまた、母親と共に洗濯の仕事をしていました。手が荒れるまで洗濯物をすすぎ、山のように衣服を詰め込んだ洗濯籠を抱えて、あっちからこっちに運ぶ、そんな重労働を朝から晩まで続けていました。

 時には母親から、兄弟姉妹から、あるいは、知らない大人達から怒鳴り散らされながら、洗濯場を右に左に走り回らなければなりません。少女にとって、洗濯場は気のすさんだ怖い人達が働く、恐ろしい場所でしかありませんでしたが――そこに、もっと恐ろしい者がやってきたのです。


「お前達、みんな城に上がれ!」


 聞いたこともないような怒鳴り声が洗濯場に響きました。少女はその言葉の意味も理解できないくらい驚かされ、体をビクリと振るわせました。

 そして、洗濯場の入り口に立っていた一人の男――少女には、その男の姿があまりに恐ろしく、まるで地獄の大鬼オーガが現れたのかと思いました。

 それはお城の騎士でした。いかつい鎧を身につけて腰に剣を吊しています。怒鳴り声も、そのいかめしい姿も恐ろしく、少女の目にはまるで魔王の軍隊かのように写ったのです。その恐ろしい騎士が、城に来いと、人々に怒鳴り散らしています。ろくな説明もありません。

 しかし、ぼやぼやしてはいられません。人々は騎士に怒鳴られるがまま、お城に向かって駆け出します。少女はあまりの恐ろしさに震え上がっていましたが、姉達に無理矢理に引っ張られていきました。


「ぼんやりしてるんじゃないわよ! 早く行かなきゃ、酷い目に遭うわよ!」


 そんなふうに叱りつけられましたが、先程の騎士オーガの怒鳴り声の方が遙かに恐ろしく、いまだにジンジンと頭の中に響いています。

 そして、長い長い曲がりくねった坂を駆け上がりました。家族の皆や、洗濯場で働いていた大勢の人達も一緒でした。そして、お城の大きな門をくぐると、焦げ臭いイヤな臭いがし始めたのです。


 お城が火事でした。お城は石造りですが、木製の内装に火が回って多くの負傷者が出てしまったのです。消化のための水を運んだり、火傷を負った人達を避難させて介抱したりと、人手がいくらあっても足りない有り様でした。


 少女にとって、大鬼オーガに見えた恐ろしい騎士は何人もいました。身分の低い兵士達も険しい形相で怒鳴り声を上げながら走り回り、連れてこられた庶民達を追い立てます。


「何をしている! 早く火を消せ!」

「死人が出てるんだ! ぼやぼやするな!」

「邪魔だ! そこを退かないか!」


 そう怒鳴られるのはまだ良い方で、ものも云わずに蹴り飛ばされる庶民も居ます。少女は恐ろしくて震え上がり、お城の庭の隅っこで縮こまってしまいました。


 これが夢に見たお城なのだろうか。これが優雅で気品のある、王様や貴族の暮らす場所なのだろうか。


 昨夜の折り、山の麓から見上げたお城は、月に照らされて美しく輝いて見えました。しかし、いざお城にやってきてみれば、地獄の鬼とも見分けのつかぬ恐ろしい騎士が集う、正しく魔王の城でした。いまだ燃えさかる巨大な炎と、火傷で人々が倒れているその有様は、正に地獄の絵姿のような光景でした。


 ――何事もない普段のお城なら、そういう訳でもなかったのです。大変な事態であるだけに、奔走するのは兵士などの男達ばかりで、人々が戦争さながらに殺気立っているのも無理はありません。

 しかし、少女の目には全てがこうだと写ってしまいました。お兄さんの云っていたことが正しく、少女が見てきた夢は、夢物語でしかなかったのだ、と。


 事態が収拾し、連れてこられた庶民達は食糧や物資、そして幾らかのお金を貰って城から降りていきました。予想していなかった稼ぎを得たので、このときばかりは母親は上機嫌です。直接、得ることのない子供達は、けだるい気分で大人達について帰ります。

 そして少女は、なんだか失望した気分に陥りました。お城の実状を目の当たりにして、なんだか世の中の全てが灰色になってしまったかのような、そんな気分でした。


 そんな少女や庶民達の様子を、お城の高い塔の上から見下ろしている人の姿がありました。それは、この王国の王子でした。


(四) 国王


「火事の原因はなんだったの?」


 王子は家臣達に尋ねました。王子は事故が起こったことを聞きつけ、自分も現場におもむこうとしたのですが、それは家臣達に引き留められました。王子は大切な存在です。とても危険だと云って、現場の対応に向かうことも、近づくことすら許さなかったのです。燃えさかる炎を、高い塔の上から見下ろせただけにすぎませんでした。

 家臣達は口々に王子に報告しました。


「原因は火の不始末でしょう。その辺りにいた召使い達を処罰しなければなりませんな」

「直接はそうですが、何しろこの城は古すぎる。これほど火事に脆い城など、今時ありえませんぞ」

「いや、火事で崩れたのは内装だけだ。古来からの豪壮ごうそうたる石壁が火事などで崩れる訳はない。木製の内装が燃えたのは、いい加減に散らかしていたからだろう」

「そうだ。普段からの整理整頓が問題なのだ」

「そうはいっても、そもそも、召使いの数が足りないといっているだろう。確かに賃金はかかるが――」


 王子に報告する筈が、互いに意見し合う流れになってしまったので、王子はもう聞くのを止めて、その場を離れました。そして改めて、塔の窓から現場の様子を見下ろします。

 もう事態は収集したようで、駆り出された庶民達がトボトボと帰って行く様子が見えました。王子は改めて家臣達に向き直り、尋ねました。


「あの人達にお礼はしたの?」

「それは勿論。流石、国王陛下の采配に卒はございません」

「そうか――え?」


 王子は少し驚いた様子で、問い直します。


「父上が――陛下がおいでになったの?  お体は?」

「はい。私どもはお引き留めしたのですが、只ならぬ事態だとして、御自おんみずから指揮をとられ――」


 王子は最後まで聞かず、少し早足で歩き始めます。その向かった先に、ゆっくりと召使いに付き添われて歩く国王の姿がありました。


「父上」


 王子に声をかけられて、国王は足を止めました。


「父上、お体はよろしいのですか」

「ああ、少し気になったのでな」


 年老いた国王は振り返り、息子に答えました。


 王冠を支える頭髪、そして立派な顎髭あごひげにも白髪が混じり、その顔は深いしわが刻まれています。しかし、鋭い眼光はいまだ健在。その瞳を王子に向け、そして語りました。


「火事が起こったのは仕方ない。火を消して、後始末をするだけのことだ。ただ、その収拾に町の庶民を引っ張り出したと聞いたのでな」

「はい、私もそれが気になりました」

「何かを命じたならば、それに見合う報酬を与えなければならない。そこを渋るようでは、国のあり方に釣り合いが取れなくなる。日頃から、云っているように」

「はい」


 国王は王子の側により、溜息をつきました。


「家臣どもは履き違えていないかと、気になったのだよ。国の釣り合いをとる故に、倹約に努めて贅沢を禁じているが、どうも倹約が全てと思いこんでいるようだ」

「はい」

「まず、人を生かすことだ。生きていくには食べ続けなければならない。食べ尽くしては明日がない。しかし、食べなければ今日が生きられない――判るな?」

「はい、判ります」

「そのさじ加減を学びなさい。学ぶとは、自分自身で見聞きして、行動することだ。本を読んで学べることは、本の読み方だけだ。しかし」

「……?」

「聖典はよく読みなさい。毎日、欠かさずに」


 国王はそう云って、王子の元から立ち去りました。それに何人かの側近や、医師や侍女達が付き添います。「あまり無理をされては困りますぞ。せめて……」などという、医師の愚痴を聞きながら。


 王子はその背に一礼して、見送りました。


(五) 王子


 王子は自分の居間に向かって歩きました。お城の中はいまだに慌ただしく、火事の騒動のために召使い達が慌ただしく走り抜けていきます。王子が側を通っても、お辞儀をする余裕もありません。


 そもそも、王子の姿が目立たないのです。みすぼらしい訳ではありません。良質の生地で王子専用にあつらえた、立派な衣服を身につけていました。

 しかし薄黒く、あるいは深い緑や焦げ茶色の色合いだったので、物陰に隠れれば居るのか居ないのか判らなくなってしまいます。本当に目立たないことを目的にしたような、そんな衣服を身につけていました――それは何故でしょうか。


 それは勿論、美しく豪華なお城で煌びやかな服装を身につけていては、家来に命じている倹約が嘘になってしまうからです。しかし、


(暗い城だ。なにも、そこまでしなくても)


 王子はそう思いました。暗い城、暗い服装、人々の暗い顔――それでは気分も暗くなってしまいます。


 ですが、国王は云いました。


(光はある。神の教えの中に)


 それが国王の言葉でした。信仰に厚く、神の教えに従い、自制を自他ともに求める人でした。王子は、その重い生活に溜息をつきながら、やはり陰鬱いんうつな自分の居室に戻りました。


「ようやく、戻られましたか。では、講義の続きをいたしますぞ」


 そう云ったのは、居間で待ちかねていた家臣の一人、王国の大臣でした。大臣自らが、王子に教育を施しているのです。


「王子、如何でしたか? 火事の現場は」

「近寄らせて貰えなかったよ。危ないと云ってね」

「それはそうでしょう。大事なお体です」

「父上は、本を読むだけでは勉強にならないと仰られた」

「しかし、事前に知識がなければ身動きは出来ませんぞ。戦う前には基礎的な鍛錬による丈夫な体を、政治を語るにはまず言葉を知らなければ会話にもなりますまい」

「ああ、判っているよ」


 王子は観念したように、分厚い書物や巻物が積み上げられた机に向かいました。


(六) 王国


 そして、講義が始まり、王子は家臣から説明を受け、質疑応答を重ねます。今日は政治のお勉強のようです。


「――税額はまったく同じなの? どんなに商いが振るわず、収穫が少なくても?」


 王子のその質問に、しごく当然であるように、大臣は頷きました。


「はい。それは王国を維持するためです。王国を維持するということは、兵備を維持して諸外国から庶民を守ることです。それには、一定額の資金が必ず必要となるからです」

「厳しいんだね」

「兵備が滞っては、近隣の国々から無惨に踏みにじられるだけです。その税金が払えぬほど困窮した者は、国外に追放もやむを得ませんな」

「それは酷いんじゃないか」

「いえ、当たり前のことですぞ。働かざる者、喰うべからず――まあ、実際の所はその事例は少なく、職のない弱者でも可能な限り働いて、税金を支払い、飢えることなく生活が出来るよう配慮がなされています」

「――そうか」

「周辺諸国をご覧なさい。もっと非道な国は幾らでもありますが……まあ、下ばかり見ていても仕方ありますまい」

「そうだね」

「さて、それらを維持するには多くのことを身につけなければなりませんぞ。軍事、経済、農業、工業、ありとある分野の釣り合いを取るには――」


(暗い王家による暗い政治、暗い兵隊に守られた、暗い民衆の暗い生活。それは誰の、なんのためなんだろう)


 王子は溜息をこらえながら、大臣の話を聞いていました。真面目に授業を受けなければ、王子といえど大臣からお叱りを受けるでしょう。


(民衆はこの暗い生活によく耐えているな。それとも、暗い生活しか知らないためか)


 何故、そう思うのだろう――ふと、王子は思いました。今の生活が暗いと思うには、暗くない、明るい生活を知っているということになるからです。しかし王子には、思い当たることがありませんでした。

 そんなふうに想う王子を察したのでしょう。大臣は云いました。


「集中が切れましたな? ――まあ、今日は事故があったことだし、ここまでに致しましょう。時間も遅い」


 こうして王子は、大臣の暗い授業から解放されました。それを待ちかねていたのか、召使い達が食事を運んできます。王子はそれほど空腹でもなさそうでしたが、食卓について召使い達の給仕を受けました。


 今日のメニューは、キャベツばかりを煮込んだシチューと、目の粗いパン。庶民が食べているものと違うのは、せいぜいシチューにベーコンが浮いているぐらいでしょうか。


(七) 信仰


 しかしながら、王子が贅沢な暮らしをしていないわけでは、決してありませんでした。


(大勢の家臣と召使いにかしずかれ、古いとはいえ頑健な城に住み、暮らしが保証されている)


 食事を終えた王子は入浴して体を洗い、寝間着をまとって寝室に向かいます。自分専用の居間に浴室、寝室まで用意されている王子の生活――とても倹約しているとは云えない、贅沢な暮らしです。その自分専用の居間だけでも、庶民なら一家分の広さになるでしょう。


(それでも、神は云われた。人が持ちうるものは何もないと――)


 王子は父親、国王の勧めに従い、聖典を開き、そして詠みました。それは王子の寝る前の習慣でした。


「我が子らよ。そなたがその手に出来るものは何もない。

 ふところの金銭も、倉に積まれた作物も、

 豪壮な住居も、多くの召使いや奴隷達も、

 ぜいをこらした衣服や宝石を身につけたとしても、

 そなたらの心の内にはなく――」


 それを、遠く離れた少女が引き継ぎました。


「そなたらの心の内にはなく、

 時には、全て災禍さいかで失われ、

 時には、全て賊に奪われ、

 時、いたれば、全て朽ち果て、

 時、いたれば、その肉体をも大地に帰される――しかし」


 少女もまた、粗末なベッドの中で両手を組み合わせ、眠りの前の祈りを捧げていました。


「しかし――そなたの心は永久なり。

 そなたの心は失われず、

 そなたの心は奪われず、

 そなたの心は朽ち果てぬ。

 唱えよ――我が心よ、平穏あれ、と。

 我が心よ、安らぎあれ――」


 そこまで唱えた少女は、空腹も忘れて静かな寝息を立て始めました。


(八) 安息日


 今日は週に一度の安息日――。


 王国の信仰は深く、町や村には必ず一つの教会がありました。全ての国民は、安息日という週に一度の休日があり、その日には教会への礼拝に赴き、祈りを捧げました。


 お休みの日でも、のんびり過ごすわけでもなく、少女は母親や兄弟姉妹達に連れられて教会に赴きます。そして、教会の神父が詠み上げる聖典の祈りを唱和するのです。


「天と地にいます、万象の聖霊達よ。日の光、大地の実り、風の薫り、水の潤い、万象の恵みに我らは感謝し――」


 少女や他の子供達は、聖典の言葉が半分も判らずとも、熱心にお祈りをしない者はいませんでした。学校が無いこの時代では、神父が教師であり、聖典が教科書であり、教会が学校でした。


 神父はお祈りを捧げるほかに、様々な教訓や物語を語り、庶民に教えを広めます。こうして、教会は庶民に教育を施し、道徳を教えて秩序を正しているのでした。


 少女は安らいでいました。休日に教会に赴く義務がある、と云われれば、それはもう休日ではないように思えますが、洗濯場での厳しい仕事をせずに済むなら、こんな有り難い日はありません。

 皆、教会では静粛であり、母親や兄弟姉妹達に叱られることも、いじめられることもありません。少女はまっすぐ、神の栄光を仰ぎ見ることが出来ました。

 夢にまで見たお城の有り様を見てしまった少女のことですから、もはや、教会こそ唯一の光となってしまったのかもしれません。


 教会での礼拝が終われば、母親達と共に市場に買い出しに行かなければなりません。親としては休日こそ大忙しなのです。兄弟姉妹達も一週間分のまとめ買いのために、多くの買い物を持ち帰らなければなりませんでした。


 本来なら、父親も一緒に教会や市場に赴く筈なのですが、父親は休日も無く、仕事からなかなか帰ってこようとしませんでした。少女は仕事がどんなものか知らないのですが、過労で倒れやしないかと、なんとなく心配でした。長男がいない現在、家族の中で唯一、少女を叱ったり、いじめたりしない存在でしたから。


 ともかく、買い出しが終われば、しばらくの自由がありました。買い出しが終わる昼過ぎから夕飯までの間です。兄弟姉妹達は互いを相手に、あるいは、他の家の子供達と一緒に遊んだりしていますが、少女はそれに加わる気持ちにはなりませんでした。いじめられるか、あるいは、誰にも相手にされないからです。ですので、少女は一人で過ごすのが決まりでした。


 夕方までの間、町をぶらぶらと歩くこともありました。まれに吟遊詩人がやってきて、歌を歌ったり、物語を人々に聞かせていることがありました。少女は、教会での神様の話も好きでしたが、吟遊詩人の語る物語の方が夢もあり、ドラマティックでワクワクするようなお話もあり、それはそれで大好きでした。


 しかし、この薄暗い町にはなかなかやっては来ません。貧乏な人達が住む町ですので、お金を投げてくれる人が少ないからです。お祭りになれば、吟遊詩人だけでなく小さな劇団もやってくるのですが、うつむいた人々が歩いているだけの町では、なかなか稼ぎにはならないのです。

 今日も、町の通りは寂しいばかりです。少女は家の方に引き返し、近くの森へと向かいました。


(九) 森


 森の中は、少女にとって好きな場所でした。誰かいじめっ子がやってきても、隠れる場所は幾らでもあるし、一人でゆっくり時間を過ごすには絶好の場所です。

 幸い、この辺りには狼のような危険な野獣も、王国の兵隊に良い訓練の相手として狩り尽くされてしまい、子供一人が歩いても危ないことはありませんでした。


 季節によっては綺麗なお花が咲き、色彩の鮮やかな蝶や昆虫を見かけることもあります。秋や冬になると木々は枯れ、可愛い栗鼠や兎なども姿を消してしまうのですが、寂れた森の中にも風情があり、何よりも、誰も居ない森の中を歩いていると、少女はホッとするのです。

 でも、長居は出来ませんでした。暗くなる前に家に戻らなければなりません。好きな場所といっても、少女にとって、家の他に生活する場所は考えられないのです。


 ふと、少女は何かを見つけました。それは入り口でした。


(十) 入り口


 入り口――あるいは、出口だったのかもしれません。木々に囲まれ、一目には判らないほど草木が生い茂っていたのですが、明らかに人工と判る入り口がそこにありました。

 遺跡のように古い石段でしたが、人の手で削り出された四角い石が埋め込まれ、その石段が木々の闇の中へと続いています。石段には緑の苔がうっすらとこびり付き、生い茂る木々に包まれた、正に深緑しんりょくのトンネルとなっていました。


 少女は覗き込み、入ってみようかと考えました。薄気味悪く、少し得体の知れない気もしますが、この深い森の闇に続くこのトンネルを抜ければ、不思議な妖精や魔法使いに出会えそうな、そんな幻想の世界への入り口のようにも感じます。


 しかし、幻想の世界は幻想であり、存在しない幻の世界です。現実には、単なる古い遺跡か何かで、せいぜい、崩れかけの石像などが残っている程度でしょう。


 古い遺跡だけならともかく、盗賊や強盗といった、悪い人達が根城にしていることも考えられます。悪い人達でなくとも、王国の兵隊に出くわすことになっては、お叱りを受けるようなことになるかもしれません。


 でもやっぱり興味を捨てきれず、少女は入り口に入りました。恐る恐る、緑の苔で足を滑らせないよう気を付けながら、ゆっくりと石段を昇りました。


 少女は無心でした。何か幻想的な不思議なことが起こるとは思ってはいません。そうだったら良いな、などと考えるほど、少女は現実を知らない訳ではありません。お城で怖い思いをした少女のことですから、現実とはなにか、少しずつ判ってきているのです。


 それでも――そうと判っていても、少女は入り口に入りました。そして、石段を登りました。


 いつもの家、いつもの家族、いつもの町、仕事場、教会、そして、いつもの森の中。


 少女はそんな「いつもの」ではない、新しい世界に挑みました。自分の世界が更に広がることを望みました。もっと自分の世界が欲しい、もっと自分の居場所が欲しい。実のところ、少女が森を歩くのも、そんな想いがあったからこそでした。


 少女は長い石段を登りました。行きすぎてやしないかと不安に思いながら、少し振り返りながら――家に帰って現実に戻ることを、少女は忘れてはいません。

 用心深く、慎重に。しかし、石段を踏みしめる足は止まりません。どこまでも、どこまでも、どこまでも、少女は石段を登っていきました。


 木々に囲まれたトンネルをくぐりぬけ、苔で覆われた石段を踏みしめて、深緑しんりょくの渦の中へと少女は引き込まれ――そして、不意に少女は、まぶしいくれないの光に包まれました。


 そこは長い石段の途中に設けられた小さな踊り場でした。木々のトンネルが途切れて、山間から下界を見渡せる、いわば、展望台のような場所でした。そこは、まばゆいほどの紅の光に照らされた紅の世界で、少女は思わず目を細めました。


 やがて、そのまぶしさに目が慣れてきた少女は、ふうっ……と息をついて、展望台から景色を見渡しました。それほど高くはありません。山頂まではまだまだ距離があり、少女は山の中腹まで登ってきた程度だったのです。

 くれないの世界に見えたのは、そこから見渡す景色が夕焼けに染められていたからです。少女が暮らしている家々や街並みが、夕日に焼かれて真っ赤に染まって見えるのです。普段、自分が見ている街並みとはまったく違った光景です。

 少女は、この新しい景色に到達できたことをうれしく思いました。新しい自分だけの、お気に入りの居場所が増えたことで、とてもワクワクするような気持ちになれたのです――。


 ――いいえ、自分だけの世界ではありませんでした。少女は、そこにもう一人、誰かがいることに気付きました。それは、意外な人物でした。


 聖霊、ここに降臨する――そこに、王子が立っていたのです。


(十一) 出会い


 それは正しく、少女にとって聖霊と呼ぶに相応しい姿でした。暗い色彩とはいえ、洗練されたデザインの衣服に身を包み、人々の上に立つ者だけが持ちうる、気品に満ちあふれた立ち振る舞い。そして何より、王家の血が育んだ美しい顔立ちと、帝王となることを約束された瞳の輝き。

 如何に倹約の施策を装っていようと、その高貴な光は隠しおおせるものではありませんでした。あまりにも庶民と違う、少女と比べられるものではないその存在は、既に少女にとって人ならざる者――正に聖霊でした。

 毎日、入浴をして体を洗い、厳しくしつけられた召使いによって髪は整えられ、その頭上を略式の王冠が飾り、額には小さくとも希少な宝石が光を放っていました。指にも王家の生まれを示す家紋の指輪がいろどり、首からは天使の守護を願う首飾りがきらめいて――。

 

 ――しかし少女にとって、それほどの美しさは天使とも精霊とも例えるほどに、侵すべからざる神聖であり、破ることの出来ない厳格であり、ひざまずくべき貴賓きひんであり――それら全てが衝撃となって、幼い頃から叱られながら育った少女の心には、厳しい叱責となって響きました。「いやしき者よ、下がれ」と――。


 次の瞬間、少女は身をひるがえして深緑のトンネルに潜り込もうとしました。それは猛獣に出会った兎が、命からがら、巣穴に潜り込もうとするような振る舞いでした。それは恐怖に襲われたとか、危険を避けるとか、そのような意図も入り込まないような、弱者が持つ本能の働きでした。


 しかし、少女に響いた叱責は本物ではありません。背後から真実の声――王子の声が少女を引き留めました。


「待って!」


 それは叱責ではありませんでした。命令でもありません。それは、王子の「哀願」でした。


 ビクリと、少女は体を震わせ、足を止めました。恐る恐る、振り返ります。そしてゆっくりと、顔を上げました。そして、改めて天使のような王子の姿を見いだしました。


 改めて、繰り返します――やはり、王子は実に美しい人でした。暗い色合いの衣装を身につけていましたが、それが尚更、顔立ちの美しさを際だたせていました。先祖代々、まもり育てられた選りすぐりの姫君をめとり、その脈々と受け継がれてきた血筋によって、その顔立ちの美しさは、衆には及びも付かないほど極められていくものです。倹約の施策によって贅沢をせず、勉学に勤しんで遊びを知らず、義務づけられた武芸の鍛錬に加えて、外交儀礼のためにと、舞踏のレッスンも欠かさない王子の体つきもまた、常の男性にはない、しなやかさを誇っていました。

 加えて、父たる国王から受け継いだ天性の力とも云うべき、人を引きつける瞳の輝き――それは厳しさだけではなく、慈愛に満ちた光をもたたえ、少女を優しく引き留めようとしているのです。


「君は……町の子かい?」


 王子は、そっと語りかけます。笑顔にはなれません。王子といえど、初めて向き合う庶民の子を相手に、どのように接すべきか判らないのです。笑顔ではないのですが、優しい眼差しで少女を見つめます。

 少女はそう語りかけられ、おずおずと王子の姿を見上げます。しかし、そのあまりにも美しい王子の姿と、そのうるわしい瞳に戸惑とまどい、思わず目を泳がせます――心の支えが見出せず、想いは宙をただよい、体までもふらついてしまいそうです。


「は……あ……あ……」


 はい、そうです――ただ、そう答えようとしましたが、唇が動かず、声にもなりません。その少女の有様に、むしろ王子が戸惑い、どのように少女の心をほぐせばよいか、思案に暮れているうちに。


「さ、さよな――」


 さよなら。そう云って――そう云ったつもりで、やはり少女は逃げ去りました。兎が巣穴に逃げ込むように、もと来た木々のトンネルへと駆け込んでいきます。動転する心をねじ伏せ、口をつぐみ、呼吸することも忘れ、まるで水に飛び込むように新緑の中をくぐり抜けていきましたが――少女は、ハッと気づいて立ち止まりました。


 少女はしっかりと受け取りました。少女の後を追う、王子の呼びかけを。


 また、会おうね、と――。


(十二) 余韻よいん


 幻想から元の世界に戻ったその後も、衝撃の出会いに心を奪われ、彼はその余韻よいんに浸り続けました――彼? そう、少女の話ではありません。王子の話です。

 自失、とまではいきませんが、王子はしばらくぼんやりとして、ようやく隠し扉が開いたままであることに気付き、パタリと閉じました。そこは王子の自室でした。

 ここは古い城で、こうした仕掛けがあったのです。恐らく、戦乱の中で生き抜いた古城であるだけに、王家の者が断絶の危機を回避するためにしつらえたのでしょう。そして、少女が見出みいだした山を抜ける石段は、脱出のための隠された抜け道であったのです。


 いまだ、王子の脳裏には少女の姿がありました。いまだ、少女の瞳の輝きが、王子の心を捕らえて離しませんでした。


(灰色の城、灰色の兵士達、灰色の国民達が集う、灰色の王国――この灰色の世界に、あのような輝きがあるものだろうか)


 その瞳の輝き――それは少女の瞳に写った自分自身と云えるかも知れません。しかし、王子の瞳にもまた、輝きが宿っていました。初めて踏み込んだ外の世界への探求と、そして予期し得なかった出会いのために。


 勉学に根を詰め、疲れた頭を解すために自室を彷徨さまよいながら見出した、召使い達も家臣も知らぬ隠し扉。いまだ大人になりきらぬ王子の冒険心をくすぐり、誘い込まれた秘密の抜け道。そして初めて見出した、王国の全土を真っ赤に染める夕暮れの世界。


(城に育ち、城にいることが全てで、城から出ようと云う考えすらなかった――外の世界があのように美しいとは、想いもしなかった)


 いや、王家たるもの、城に張り付いているばかりでは居られません。自分自身の目で庶民達の生活を知り、時にいくさともなれば、自ら兵を率いて戦う場面も有り得るでしょう。鍛錬と勉学が城内で収まりきらなくなれば、修行として外回りを命じられるのは、すでに予定されていることなのです。

 しかし、いまだ年若く、ずっと城内で護られていた王子にとって、自ら開いた扉であったのです。それは危険でもあり、鮮烈な体験ともなったのです。そして、あの出会い。


(森の妖精とも見違えそうな――そうだと云われれば、僕は信じただろう)


 王子はそのように、少女の姿を捉えていました。みすぼらしくも精一杯にデザインされた、そんな庶民の衣服に身を包んだその姿は、むしろ野生の小動物にも似た愛くるしさがありました。いまだ幼く、いまだ老いを知らない少女の顔立ちは、日々の生活の苦しさを跳ね返すだけの力が残されていました。そしてあの瞳の輝きがあればこそ、王子の目には、こよなく可憐な姿に映ったのです。


(でも、何故だろう。僕よりも年下のあの子に、冒すべからざる神聖さを感じたのは)


 何故だか意図も掴みかねるまま、思わず聖典を手にする王子の姿がありました。


(十三) つのる想い


「全軍、整列!」


 王子は多忙でした。今日はお城の兵士達と共に行軍の訓練です。行軍とは、兵士達が整列して行進する、ただそれだけの訓練なのですが、慣れない新兵が団体行動をするための大切な訓練であり、ベテランの兵士や馬に乗った騎士達にとっても、欠かせない日課です。

 王子にとって、兵士達と共に行動するのはこれが初めてでした。騎士団を率いる騎士長が紹介をします。


「本日は、王子殿下がご参加くださる。皆、よりいっそう気を引き締め、日頃の忠誠を示せ」


 兵士達の間にどよめきが広まります。しかし、すぐに静粛して、緊張した硬い表情で一斉に敬礼しました。

 年若い、まだ子供でしかない王子といえど、やがては最高権力者となる存在なのです。誰もが強張った面持ちで、暗い瞳で王子の姿を拝しました。


(暗い瞳――皆、暗い表情だ)


 王子は敬礼を返しながら、思いました。


(暗い忠誠、暗い愛国心、暗い情熱――)


 王子は普段から、この国を「灰色の王国」と称していました。ですが、兵士達に至っては「灰色」を通り越して「暗い」と云い表しました――流石に、口には出しませんでしたが。

 ここは「王国」であり、「王家」の存在は絶対です。国王を護るためならば命がけで戦い、国王の命令一つで不届き者は処断に下される生殺与奪の権限――つまり、兵士や国民の生死を決めることすら出来る、神様の次に立つ権力者なのです。そうして、国の在り方を力付くで正し、国を成り立たせているのです。


(それでは、喜びもなく、幸せもない灰色の王国になるのは当然のことだ)


 王子はそう想いながら、やはりあの「少女」のことを想いました。あの瞳の輝きこそ、人にとって、人生において、この世界にもっとも輝かしい光のように想いました。


「全軍、前進!」


 騎士長の号令に従い、兵士達や騎士達は行軍を開始します。王子もまた訓練を受ける側ですので、騎士長の後に従い、規律正しく行軍しました。

 王子は、身分を笠に着て偉そうな態度をとったり、あるいは、怠慢な態度を取るような方ではありませんでした。身分の低い兵士達と変わらぬ生真面目さと緊張をたたえながら、行軍に努めています。

 しかし、その「暗い兵隊」と共に行動する「暗い訓練」に、もはやうんざりし始めました。


(会いたい――)


 もはや、想いつのるのはあの少女のことばかりでした。


 訓練が終わったのは夕暮れでした。解放された王子は、ようやくあの石段の展望台におもむくことが出来る――などと、考える暇もありません。


「王子、ご衣装を改めて頂きたい。会食の予定が入っておりますので」


 大臣が一礼して、王子に告げました。王子が尋ね返します。


「会食? ああ、隣国との会合だったね」

「はい。今回は西国の姫君が参っております。場合によっては、后となられるかもしれませんので、そのおつもりで」

「ああ、判ったよ」


 王子は無知ではありません。王子は知っています。経験はなくとも、人は誰でも異性と惹かれ合い、恋に落ちることを。ただし、王家ともなれば、その自由はないことも理解していました。


(人の結婚を、しかも王家の花嫁を、「后となられる」だと? 軽く云ってくれるじゃないか)


 珍しくも、王子はそのように毒づいて想いました。訓練の後ですので、王子は少し疲れていたのかもしれません。


 ――やがて、会食の時刻となり、王国と隣国である西国の外交官達が、長いテーブルの向かい合わせで着席します。それぞれの背後には、少し距離を置いて両国の騎士団が護衛のために整列しました。もし、何か事が起これば、何時でも戦えるよう備えているのでしょう。会食を交わすと云えど、それほど友好的では無いのかもしれません。

 どちらの騎士団もゴツゴツとした武装を身につけ、強ばった表情でにらみ合います。どちらもあの少女が大鬼オーガと称するに相応しい姿です。


(互いに費用をかけて武装して、ただ、にらみ合っている。互いにその費用を半分に減らせば、どちらの国も楽になるのに)


 王子は小さく溜息をついて想いました。しかし、国同士の争いは、そんなに簡単にはいかないでしょう。こうして会食を交わすだけでも、その努力は認めたいところです。


 そして王子の正面には、西国の姫君らしき女性が座りました。それは美しい女性でした。しかし冷たい表情で、王子に目を合わせることなく、挨拶は会釈のみで一言も口を利きません。その何の関心を持たない、関心を寄せようとも思わない態度に、王子も思わず心をそむけました。


(会いたい――)


 やはり、想うのはあの少女のことばかり――。


 ――会食を終えた後、王子は大臣に尋ねました。


「今日は何か成果はあったの?」

「あえて云うなら――」


 大臣は澄ました表情で答えます。


「――我々は食事を共にした。ご覧になられた通りの成果です。何か条約を交わしたわけでもありません。ですが、何をするにも相手と話し合う必要がありますからな」

「でも、何も話は進まなかったの? せっかく食事をしたのに」

「かつてはいくさを交えた相手なのですぞ? 話を交えることも容易ではありません」

「成る程、それじゃ大変な成果だったんだね」


 王子は少し皮肉を交えて云いましたが、大臣は大まじめな顔で答えます。


「その通りです。国王陛下は、なんとしても西国との友好を結びたいと考えておいでです。我々はその命に従い、苦心を重ねている次第です」

「それは良いことだけど、何か理由があるかな。もともと、仲が良くなかったんでしょ?」


 そのように王子が尋ねると、大臣は後ろに手を組み、教え諭すように語り始めました。


「我が王国の力を5としましょう。西国はおよそ4といったところ。野心の強い東国は3で、それだけなら放っておいても差し支えはありませんが、南方の諸国を支配において、力を増そうと企んでおります。万が一、西国までも敵対されては……」

「挟み撃ちに遭うんだね」

「さよう。陛下が、是が非でも同盟を結びたいと仰るのは自明の理と……ところで王子、西国の姫君は如何です? 噂にたがわぬ、お美しい方でしたが」


 王子は我に返って、答えました。


「え? ああ、そう? 覚えていないよ」


 それは本当のことでした。その答えに呆れる大臣を置いて、王子はその場を去りました。歩きがてら、窓の外を見ると、すっかり夜も更けています。


(今更、あそこに行っても会えないだろうな)


 王子は軽く溜息をついて、自室へと向かいました。


(十四) 逢瀬おうせ


 次の日、王子は夕方の予定を断り、是が非でも、あの展望台に向かおうと心に決めました。午後のお茶の後、自室で召使い達に命じます。


「余程の事がなければ、訪問を控えてくれ。気が散って読書が進まない」


 そして、ドアに鍵までかけて部屋にこもり、身支度をして隠し扉の奥へと向かいました。その「余程の事」が本当に起こってしまうと大変なことになりますが。

 とはいえ、留守にするのは夕暮れの間だけです。本当に呼び出しがあったとしても、適当な言い訳で済むでしょう。何しろ、自分は王国の跡を継ぐ王子なのです。家臣に多少の無理難題を押しつけても、ある程度のままは許される身分の筈ですから。


 いくらか歩き慣れた古い通路を抜けて、山道へと向かいます。その通路はまったく整備されておらず、ジメジメとしていて苔が生え広がり――それはそれで、ある種の美しさがあるのですが――時折、小さな虫けらやネズミらしき小動物が駆け抜けていき、気をつけなければそれらを踏みつぶし、衣服を汚してしまうでしょう。

 王子は考え、汚しても良いコートや靴までも確保して、この抜け道を通るための、いうなれば「装備」を整えていました。汚しても良い、と云っても、庶民から見れば、それはかなりの贅沢品なのですが。

 はやる気持ちを抑えながら装備を調えます。もし、この「山道通い」が誰かに見つかり、控えるように忠告されては元も子もありません。でも、あの展望台に辿り着いた時はまだ日が高く、夕暮れには少し間があるぐらいでした。


 しかし、あの少女は来ませんでした。日が沈むまで待ってみましたが、少女の姿は見えません。王子は失意を抱きながらも、しかし、自制心は保っています。暗くなるまでここに居ては、如何に召使いに命じていたとしても怪しまれるでしょう。その日は諦め、城へと戻りました。


 次の日も。そしてまた、次の日も。


 王子は少女と再会することが出来ませんでした。もしかしたら、少女を怖がらせてしまったんだろうか、実は嫌われているのではないか、などと不安になり始めました。前回、少女は正しく逃げるように去ってしまったので、そう思うのも無理はありません。でも、やはり逢いたいという思いは強く、展望台通いを諦めきれませんでした。


 毎日、という訳にはいきませんでした。王子ともなれば、何かと為すべき事があり、それらを放り出すわけにもいきません。世継ぎを託されている身の上、国を背負う責任は絶大で、父親である国王の命なら無論のこと、大臣や家臣達の申し出も断ることは出来ないのです。自分の秘め事を隠すためにも、聞き返さずに応じる姿勢でなくてはなりません。


 ある日のこと、騎士長が王子に声をかけました。


「やあ、王子。最近、剣の腕を拝見していませんな。これからどうです?」


 その騎士長は古強者らしく頬に傷があり、その口ぶりからして、王子に自らの剣の技を伝授しているのでしょう。でも、これは明らかに思いつきの申し出のようなので、王子はあっさりと断りました。


「済まないが、夕方は読書と決めている。明日の昼前ではどうかな?」

「承りましょう。いやあ、王子もご多忙の中、ご勉強も欠かさないとは流石ですな。あまり、根を詰めませんように」

「ありがとう」


 とはいっても、本当は展望台通いで、本を開くことすらしていないのです。睡眠時間を削ってでも、辻褄合わせをしなくてはいけないな、などと王子が考えていたところ、騎士長はこんなことを云いました。


「ま、貧乏暇無しと云って、庶民ですら退屈の出来る世の中ではありません。王侯貴族といえど、怠慢していたら国が傾いてしまう。お互い精進致しませんとな」

「そうだね」

「では、失敬」


 そうだ――庶民は我々以上に忙しいんだ――。


 王子は少し悟ったような心地でした。幼い少女といえど、貧しい庶民に暇なものなど居ないでしょう。むしろ、毎日のように展望台通いを重ねる自分こそ、よっぽど遊んでいるようにも思えました。


(そうだ。あの子もきっと忙しく働いているのだろう。僕と都合が合わないのも仕方ないことだ)


 あの少女に、少し申し訳ないような面持ちになりました。かといって、展望台通いは止めませんでしたが、たとえ出会えなくても不安に思わず、落ち着いた気持ちでいることが出来ました。

 今日もまた、出会えずに終えようとする展望台での夕暮れの中、あの騎士長との対話が意外な効果を産んでいることに、王子は少し興味深い想いを抱きました。


(聖典の詩句しくだったか。人と会い、人と語らい……)


 そういえば、今日は安息日だったなと、王子は想いました。お城では、安息日だからといってお休みする習慣はありません。それでも、国王が信仰を薦める王国ですから、忙しくとも聖典を開くことを薦められ、王子もそれに習っています。

 王子は少し敬虔な気持ちで夕陽を眺めながら、聖典の詩句を思い起こしました。


(人と会い、人と語らい、人と手を取り合わば、如何なる不安もそれは除かれ、生きる道もまた、開かれん――)


 カサ――。


 いままさに、再会の扉が開かれん――森の中から、葉擦れの音が聞こえました。王子は聞き逃しませんでした。王子は姿勢を正し、まるで王国の騎士が貴賓との謁見に望むような面持ちで、重いコートを脱いで森への抜け道にまっすぐに向き合いました。そして、優雅な物腰で胸に手を当て、王子は云いました。


「やあ、逢いたかったよ」


 少女は言葉が出せず、おずおずと頭を下げるばかりでした。


(十五) 安息


 王子は静かに、少女に語りかけました。


「さあ、もうすぐ日が沈んでしまう。こっちで見ると良いよ」

「……」


 やはり少女は声も出せず、頷くだけで王子の後に従います。この展望台にはベンチのような物――腰をかけるために用意されたのでしょう。四角く切り出された石材が置かれています。王子に共に座るようにうながされると、少女は戸惑いながらも、遠慮がちに一人分の間を空けて腰をかけました。

 ぴったり横に座っても、王子は気を悪くしなかったでしょう。むしろ、そうして親しくなりたいと思っていたに違いありません。

 ですが、少女には判る筈もありません。夕陽を眺める瞳もまた、伏し目がちとなってしまいました。


 緊張しているのか、怯えているのか――まともに面を上げられない少女のその様子は、庶民ならば仕方が無いことだと、王子は理解していました。王子という身分ならば、身分の低い者が恐れ入り、ろくに口もきけない程に舞い上がっている場面など見慣れています。しかし、そんなふうに伏し目がちでは、王子が望んだ輝かしい瞳に陰りを落としてしまうでしょう。


 ふと王子は気が付いて、尋ねました。


「ああ、そうか――今日は安息日だったね」


 少女は黙って頷きました。成る程、普段の庶民は忙しく、休日と云えば安息日のみ。なかなか少女と出会えなかったのも得心が付きました。

 ならばこの日に、安息日に来れば良い、そうすれば出会える――そう王子は納得しました。無論、必ずしもそうとは限りませんが、一つの目安が出来たことで、王子の心は安まりました。


(安息日とは良く云ったものだ)


 などと、王子は想わなくもなかったのですが――それはともかく、王子はもっと少女と話したい、もっと知りたいと思いました。が――。


 毎日、忙しい? ――貧しい庶民ならば、忙しいに決まっています。

 お腹は空いてない? ――貧しい庶民ならば、常に空腹の筈です。

 友達は居るの? ――居るならば、ここには来ないで遊んでいるでしょう。

 両親は? 家族は? ――もし居なければ、辛い話にしかなりません。


 王子は、語るべき話題を掴みかねているところ、少女が立ち上がり、云いました。


「あ、あの……おそく……」


 遅くなるから――ようやく少女が口にしたのが別れの言葉とは、なんとも寂しいことです。しかし、少女にも都合があることだし、王子はすぐに察して、


「そうだね、気を付けて」


 王子も立ち上がり、右手を挙げて別れを示し、


「また、逢おう」


 少女はぺこりと頭を下げて、森の中へと去りました。


(十六) 満たされる思い


 逢えた――また、逢えた――。


 高揚する想いに満たされながら、森の中を駆け抜けていく――それは王子でなく、少女のことでした。いや、王子も同じ想いであったかも知れません。


 少女は元来た道を辿り、家路へと急ぎました。信じられない、あり得たとしても、再び出会えるとは想ってもみない相手と再び出逢えた、その喜びに胸の中は一杯でした。その胸の高まりは、王子が例えた安息では済まされない、熱い高揚感で舞い上がっていました、が――。


「おうい、早く帰らないと、もうすぐ晩飯だぞ」


 そう云って、舞い上がった少女の心を諫めたのは父親でした。安息日ならば当たり前の筈ですが、父親としては珍しくも早い帰宅でした。それも、何やら大切そうな包み紙を抱えていました。


 家に帰ってみれば、狭苦しい食卓にひしめき合う家族の姿がありました。兄弟姉妹達は口げんかも交えながら、賑やかに夕食を待っています。父親を迎えた母親が包み紙を受け取り、目を丸くしていました。


 こんなものをどうしたのか、と問いかける様子でしたが、「たまには力をつけないとな」といって笑う父親は自慢げです。


 そして配られたいつものシチューを見て、家族の一同は目を丸くしました。シチューには、一本のソーセージが浮かんでいました。それがどうしたと想うかも知れませんが、そんな粗末な肉でも、庶民には大変な贅沢だったのです。

 子供達は夢中でソーセージに食いつきましたが、母親だけは「だったら、もっと他のことに金を使えば」と、ブツブツと云っています。父親は苦笑いです。


 しかし、少女はどうでも良さげに、粗末なパンをかじっています。その様子に気がついた兄の一人が(兄といっても、少女と余り歳の変わらない子供ですが)その目をかすめてソーセージを奪い取ってしまいました。少女はそれに気がつきましたが、奪ったばかりのソーセージを隠すように食べている兄の浅ましい様子を見て、呆れたようにさげすんだ目つきでシチューを皿ごと押しやり、パンだけを手にして席を立ちました。

 兄はムッとした様子でしたが、食べることの方が最優先。すぐに自分の皿を平らげた後、押しつけられた二皿目に取りかかりました。


 その様子を心配げに見ていた父親でしたが、いつの間にやら、少女の姿はもうありません。日が暮れて、すっかり暗くなった森の片隅で、少女は座ってパンをかじっていました。


(また逢えた――そして、また逢える――)


 その甘やかな、それが何なのかも判らぬ想いに満たされながら。

 

(十七) 聖典


 王子の想いは更に進みます。


 少女に逢えた、また逢える。ならば、どうすれば良いだろう。


 王子は何かしてあげたい、と考えました。王子の身分に傘を着るのも傲慢ごうまんですが、しかし、出来ることがあるならしてあげたい、と思うのは人の常の心情というもの。王子はあれこれと思案しました。


 何か贈り物をしようかと考えました。小さな指輪はどうだろう? 指輪の贈り物は誓いの証となり、万が一、貧困に追い詰められたときにも役に立つ――しかし、そんな高価な物を送ることは、かえって災いの元となりかねません。心の良くない者に見つかれば、付け狙われるといったことにもなるでしょう。

 例えば小さなお菓子とか、その場で食べられるものならどうか――いやいや、跡に残らずとも、良い影響ばかりとは限りません。

 そもそも、物に頼ろうとする自分に、王子は浅ましさを感じ始めました。ふう、と溜息をついて、自分の考えを改めようと、目に映ったのは聖典の言葉。


 まず、対話ありき――そうだ、あの子とはまだ話をすることもままならないじゃないか――そんな風に王子は、手にした聖典から引用して、ふと思いつきました。ならばと、広げた聖典を閉じてそのまま懐にしまい、隠し扉へと向かいました。


「――え?」


 少女は目を丸くして、王子の手にする物を見つめました。少女にとって、更には庶民にとって、驚愕すべき書物――正しく「聖典」だったのです。


 「聖典」があれば、それだけで教会として成り立ち、守護の結界までも放ち、その場は既に聖地となる――そう云われるほどに、貧しくも敬虔な信徒にとって、それほどの代物であったのです。

 それを手に出来るのは選ばれた聖職者であり、並大抵のことでは、その地位に立つのは許されませんでした。少女が通う教会では、机の大きさほどの聖典が配置され、年老いた神父が姿勢を正し、重々しく祈りを捧げてから開くものなのです。

 当時としては、印刷技術という物が存在せず、書面は全て手書きであり、教会で用いられる聖典となれば、金箔の装飾が各紙面に施された国宝と云うべき代物でした。

 目の前にある物がそれだと告げられ、少女は驚愕するばかりです。教会のある物と比べればかなり略式の物であり、装飾や挿し絵もない簡単なものだったのですが、そこに神の言葉が記されていると思えば、少女は恐れ入るほかはないのです。


「読んで見るかい?」


 王子は優しく――優しくとは云いながらも、無理難題を少女に告げました。少女は首を横に振り、


「あ……字は……」


 字は読めないと、微かな声で答えました。当時の貧しい庶民には、字を学ぶほどの時間もお金もありません。王子はその実状をおぼろげながら悟り、かえって済まないことを云ってしまったと後悔しました。

 少し気まずい空気が出来てしまいましたが、王子は気を取り直して、「それじゃ、僕が読んでみよう」と、聖典を広げました。

 夕暮れの中、すでに薄暗いのですが、聖典の字はしっかりと読むことが出来ました。王子は聖典の適当な箇所を広げ、詩句を読み始めます。


「汝、その愚かさを嘆く者よ、汝、その罪深さを嘆く者……」


 王子が朗読を始めると、早くも少女は心を打たれたように、なかば反射的に手を組み合わせ――そして普段通り、教会で祈りを捧げるように、王子と共に唱和を始めたのです。


「……その汝の罪と愚かさは、いまだ……え?」

「――その汝の罪と愚かさは、いまだ罪業の獄に蠢く、黒き泥炭から生まれ出たる者の必然と知るが良い――」


 ――ようやく、少女が共に唱えているのに気付いて、王子は口をつぐみました。何も見ていないはずなのに詰まることなくなめらかに、少女の口から聖なる言葉がすべり出しました。


 驚く王子が朗読を止めたことに気づかず、詩句を唱える少女の声はとどまりません。天使に憑依されたかのように我知らず、目を閉じ両手を組み合わせ、心に溢れる聖句をみ続けました。


「――いまだ罪深き者共、自らの愚かしさを知る者よ。それらの罪業を知り、そして己の罪深く醜き姿を嘆きうるは、天の御光を受けた者だけが知りうる、神の国へと辿りゆく道標みちしるべである。罪獄の中に身を浸し、闇深き罪の泥炭に心を満たす者には、けして自らの罪を汚れと知ることはなく、愚かさを嘆く事すら知らぬ。自らの罪を罪と知り得た汝等の嘆きこそ、天に至るしるべを得た証に他ならぬ――ただし、汝等は知るだろう、天と地は二つに分かれ、けして交わることが無いことを。汝等は嘆くであろう。示されるのはしるべのみで、生きながら天に辿り着く道は、世に有り得るべからざることを――しかし、知るが良い。神は汝等を知り、神は汝等と共にあり、汝等の為すことを神は全てご存知であることを、汝等が自らの愚かさと罪に苦しむことを、神はその全てを知り得る御方であることを――故に汝等は嘆きを捨てて面を上げよ。神の差し伸べるしるべを辿り、神に至る御光を受けて希望せよ。如何に罪獄に彷徨さまよう亡者であろうとも、あるいは、弱者を食らう野獣であろうとも、その野獣に追われる哀れな子羊、手足無く地を這う毒蛇、草むらにうごめく野鼠や虫螻むしけらに至るまで、面を上げて天を仰ぎ見て、泥炭に足を取られながらも、尚も前に進むその姿こそ、聖者と見まがうほどに雄々しくも美しき姿であることを――やがて、死して泥炭の海から逃れたそののち、それまで神のしるべに応えてきた者こそ、やがては天に至る道筋を踏みしめることが出来る――」


 聖典に記された聖句を、一字一句誤らず――辺りに、少女の涼やかな声が響きわたり、王子はもはや聖典を追うことも忘れて聴き入り、少女を見つめていました。

 その王子の麗しい瞳にようやく気付いた少女は語るのを止め、恥いるようにうつむいてしまいました――いや、恥いるべきは王子の方でした。何かをしてあげるつもりが、少女に素晴らしい力を示されてしまったのですから。


(庶民の子と思ってあなどり、僕はさげすんでしまっていたのかもしれない――)


 王子は改めて想いました。初めて出逢ったその時以上に、自分は正しく、大地が育む聖霊と出会い、逢いまみえているのだと――ただし、字を知らぬ庶民の生活を知らない王子ならばこそ、そのように感じたのかも知れません。全て口頭で用件を伝え合う彼ら庶民ならば、相当に記憶力が鍛えられているでしょう。ましてや、度々唱えるお祈りの言葉なら、全て頭に入っていても不思議ではありません。ただ、この少女は庶民の中でも群を抜いて優秀であったのかも知れませんが――。


「あ、あの……」


 少女はまた、おずおずとした庶民の子供に立ち返り、王子に別れを告げようとしました。もうすっかり、日は沈んでいます。


「ああ、そうだね」


 王子は気がついて、別れを告げました。


「では、また逢おう――素晴らしかったよ。ありがとう」

「……!」


 少女はその王子の言葉に歓喜し、瞳を輝かせて王子を見つめ返しました。


 ――ああ、それだ。それこそ僕が魅了され、再びまみえることを夢見た、瞳の輝き――。


 少女は大きく頭を下げて別れを告げ、帰路に急ぐその姿を、王子はいつまでも見送っていました。


(十八) 蜜月


 それからというもの、二人は週に一度の逢瀬を重ね、二人にとって輝かしい日々が続きました。


「春の花々、散りゆくのちは、

 緑が萌ゆる、夏の訪れ、

 秋の紅葉こうよう、山を染め、

 大地を覆う、冬の白き雪景色、

 四季の精霊、立ち替わり、

 大地をいろどり、天地を巡る……」

「息子らよ。我は長き旅に出る。時に鳥のように風に舞い、時に大魚と化して海を渡り、我は様々な姿となって世界を巡るだろう。やがては大樹となって大地に根付き、再び、そなたらと相見えることがあるだろう。しかし、そなたらは我のことに気付かぬだろう。心得ておくが良い。我は何者にも姿を変えたとしても、絶えずそなたら見守り、そなたらと共にあることを……」

「慎みを知らず悦楽に溺れる部族は全て滅ぼされ、の親族だけが冬に耐え、春を迎えることが出来ました。ただし、神は云われます――忠実なる下部よ。そなたらは教えを良く守り、我は約束通りにそなたの親族は滅ぼさずにおいたが、そなたには二つの罪がある。一つは我が教えを伝える努力を怠り、一つは例え愚か者といえども滅びゆく隣人に救いの手を差し伸べることなく……」


 少女は王子が求めるままに、聖典にある詩歌や聖句、様々な逸話や、子供向けの物語に至るまで、時間の許す限り、語り聞かせました。

 王子は一応、手持ちの聖典を持参してはいましたが、それを開くことは無く、きと語り続ける少女の姿を、いとおしげに見つめていました。

 かつては、少女の方から別れを切り出していたのですが、沈みゆく夕陽を見極め、王子の方から「ああ、ちょっと待って。今日はここまでにしよう」と引き留めなければならないほどに、少女は夢中で語り続けます。


 少女は夢中でした。自分の好きなこと、自分が得意とすることを認めて貰えることに夢中で、その夢中な姿をいつでも、いつまでも見守りたいと、王子は想いました。


 時には雨の日もありました。天候が荒れれば、互いに来ることは止めようと、事前に約束を交わしていました――交わしていた筈だったのですが、降りしきる雨の中、互いに顔を合わせて苦笑いする一幕もありました。流石に、夕陽が拝めなければ時も判らず、顔を合わせただけでも良しとしようとした王子でしたが、「あ……いや、短い詩篇だけでも……」と云い直し、こころよくうなずく少女。しかし、雨を避けるため、木陰で大きなマントを二人でかぶり、ぴったり王子と身を寄せられ――暗がりでも判るほどに少女は赤面。語る口調もたどたどしく、


「え……えっと……雨風もまた、天の恵みなりきと……」


 短い筈の詩篇がずいぶん長くなってしまったそうで――。


 ――週に一度だけの短い逢瀬でしたが、その楽しみがあるだけでも人は快活になると云うもの。王子はその短い逢瀬が待ち遠しいばかりでしたが、とても上機嫌にすごしていました。

 また、普段の生活にも影響しました。いつでも、聖典を唱える少女の声が聞こえてくるような気がして、折々で自らも引用するようになりました。


 「皆、心やすかれ、我ら、共にあり――だよ」などと、不安を語り合う家臣達に告げると、一同はどっと喝采――無論、なんの解決にもなりませんが。

 「流石、ご勉学の成果が出てますな」などと、例の騎士長からも声をかけられる始末。嘘から出たまこととは云いますが、あながち、嘘ではなかったということですね。


 少女にとっても、たとえ変化のない薄暗い生活の中でも、華やかな気分で日々を過ごすことが出来ました。鼻歌交じりで有頂天、というほどではありませんでしたが、例え仕事場で怒鳴られても気にならず、いたずらっ子の魔の手もスルリと交わし、次はどんな話にしようと、そればかりを考えていました。王子に語る自分の姿を想像しながら、頭の中での練習に余念がありません。


 やがては聖典にとどまらず、町で年寄りから聞いた昔話や、かつてお祭りで演じられた物語まで語るようになりました。


「三匹の狐は新たな住処を求めて、野を越えて、山を越えて、長い長い旅を続けました。しかし、いけどもいけども荒れ果てた荒野が続くばかりで……」

「盗賊は姫をそっと寝室に戻し、こう云いました――夢を見たのさ。ちょっと怖い夢を見たと思えば良い――しかし、姫は盗賊の手を離さず――」

「――そして、ついにいかだは完成し、大きく帆を膨らませ――いよいよ、出航となりました。男は一族に向かい高らかに宣言しました――いざ行かん! 約束されし豊穣の地へ!」


 演劇団の役者が演じて見せたように、思わず大見得を切ってしまった自分に気づいて、少女は夕焼けに溶けてしまいたいくらいに後悔したのですが、王子は拍手喝采。


「すごいよ。面白かった――それは、旅の芸人がやっていたの?」

「あ、はい……お祭りで……その……」


 今度、一緒に。


 流石に、そこまでは口に出せませんでした。王子には「ああ、もう夕陽も沈んでしまったね」と、取り違えられた挙げ句にお別れとなってしまいました。

 しかし、この短い逢瀬だけでも少女はとても幸せだったし、身分が高い相手であろう「王子」を誘うのは無理だろうと、はなから諦めていたのかも知れません――実は、少女は相手が「王子」であることは知りませんでした。一度、尋ねたことがありました。


「――お城の人?」


 王子はハッとなって、どう答えるべきかを考えました。この質問は、自分が王子かどうかを知らないという意味です。王子は、


「うん、そうなんだ。お城での生活は窮屈でね……」


 などと答えるのみで、それ以上は何も云いませんでした。王子であることを隠すのがとても心地よく感じられたし、身分を笠に着たくないとも思ったのでしょう。併せて、純粋な友情――もしかしたら、愛情――だけの関係でいたいと思ったに違いありません。


 それ以上は二人とも語りませんでした。短い逢瀬ではあまりにも時が惜しく、二人で神の言葉を語り合うのが純粋に美しく、愛おしく思えましたから。


(十九) かげ


 糧を求めて哭く狼の、その遠吠えの切なさよ――。


 そんな物悲しい詩歌を口ずさみながら、少女は一人、仕事場の掃除をしていました。

 その役目は、あまり重労働ばかりでは体が持たない少女に割り当てられた一人作業で、鼻歌交じりでも出来る、一番好きな仕事です。おまけに、最近の気分は上々の筈――なのですが、掃除の合間に溜息が出るのは何故か。心なしか、伏し目がちなのは気のせいか。


(お誘いしようか。どうしようか)


 お誘い――つまり、この前に言いそびれてしまったお祭りへのお誘いのことです。お祭りは、信仰の深いこの時代ならば当然の如く「神への感謝祭」であるのは必然。つまり、宗教にまつわるお祭りということで、規定された安息日に取り行われるならわしとなっていました。

 それならばちょうど、王子との逢瀬の日。予定を立てるのも難しいことではないはずです。ましてや、今の関係ならば、王子は快く応じてくれるでしょう。ならば、何故、悩むのか。


(やはり、誘っても仕方ない。お城の立派な人には、町のお祭りなんて――)


 かつては夢見たお城の世界。きらびやかで、華やかな貴族達が集い、舞い踊る夢の世界――いまだ、少女にとって「王子」こそ、そんな夢の世界から舞い降りた天使のようなお方であるのでしょう。そのようなお方が、下々の貧相なお祭りを楽しめるとは思えないけど……でもやっぱり、諦め切れない?


(……今まで、一人が良いと思っていた。あのようなお方にもし出会ったのだとしても、相手にされないと想っていた――想っていた、筈だったのに)


 週に一度の逢瀬といえど、誰かと共に過ごすことが至上の喜びとなり、今現在、こうして一人でいることが寂しく思えてきた自分――幸福を味わい、それが人を不幸に追いやることもあるとは、誠に皮肉なものです。


(仕方ない。諦めよう……いや)


 少女は少し、気を取り直して、


(お祭りには行かず、いつもの通り、あの方とお話をしよう。その方がずっと良い)


 そんな次善の案が浮かび、ようやく上向き加減となった少女の気分――掃除する調子も上がってきた、その時。


「おおい! 誰か来てくれ! こっちで婆さんが倒れた!」


 その声にビックリした少女は、思わず掃除用具を手にしたまま、現場へと向かいました。その場では既に何人かの大人達が集まっています。そのうちの人が、倒れた老婦の顔を叩いていましたが、老婦はグッタリとしたまま目を開きそうにありません。


「おい、こっちだ。こっちに運び出せ」


 と、雇い主らしき男の指図によって、老婦は担ぎ出されました。それを見送りながら、大人達は囁きあいます。


「やれやれ、あの婆さんもか。年寄りなのに無理をしすぎなんだよ」

「といったって、あっちじゃ若いのも倒れてたぞ」

「俺達、ろくなもん食ってないからな。肉なんて最後に見たのはいつのことだったか」

「でもどうすんだよ。あの婆さんにゃ、寝たきりの爺さんが居るはずだよな」

「ん? お前が面倒見るのか」

「い、いや……」


 その会話を立ち聞きしていた少女は、仕事に戻ることも忘れてしばし呆然ぼうぜんとしていました。特に、確かな想いや考えはないけれど、なんとなくモヤモヤとした、薄暗い陰りが心に染み込んでくるような、そんな不安を感じていました。


 ――糧を求めて哭く狼の、その遠吠えの切なさよ。如何に森が枯れゆくも、獲物得ずして帰られぬ。我が子の元には帰られぬ――。


 家に帰れば、また、父親が贅沢品である筈の肉製品を手みやげに帰っていました。今度は塩漬けのベーコンで、それを粗末なシチューに入れれば、王子が食べていたそれと、ほぼ同等となるでしょう。今度は少女も兄に奪われることなく、ベーコン入りシチューを平らげました――実は、また自分によこさないかと兄が物欲しそうに眺めていたのですが、父親がその少女との間に割って入ったので、奪うことも譲ることも出来ません。

 父親は一言だけ「しっかり食べなさい」と、少女に云い渡します。少女はおぼろげながら、父親の意図を感じ取りました。


(俺達、ろくなもん食ってないからな。肉なんて……)


 父親は手みやげで権威を示そうとしているのではなく、家族の健康を守ろうと苦心しているのだと理解し始めました。肉類だけでなく、ちょっと珍しい野菜、あるいは少し痛んだ果物などを子供達に手渡すこともありました。子供達は単純に喜びましたが、母親だけは不信を露わにしています。


「あんた、まさか盗みなんかしていないだろうね……」


(二十) 処断


 華やかな春の盛りにも、風雲急を告ぐ嵐が訪れる――。


「――やはり、東国を落とすべきだ。それ以外にない」


 王国につかえる家臣達の議論の中で、ギョッとするような意見が発せられました。静まりかえる一同――その中には王子も居ました。まだ子供に近い年齢でしたが、勉学の一つとして参加しているのでしょう。

 並み居る家臣達から、いくさに賛同する声は挙がらない模様。しかし、反対の意見も上がりません。もしかしたら、それもまた一つかと思案しているのかもしれません――とすれば、それはどのような事情なのでしょう。

 東国を落とすべし――いくさを勧めた者は、更に説明を加えて意見を押し通そうと、立ち上がって論じます。


「民衆に病に倒れる者が増えている。それは流行病はやりやまいという訳ではない。食料が、労働に耐えうるだけの食事が出来ていないのだ。国内の産物では足りないのだ。足りなければどうするか? それは外に出て、狩りをする他は――」


 これを聞いた王子は反射的に、少女のことを思い浮かべました。自分は王子という身分で、食事は十分に事足りていますが、少女の身分では、そういう訳にはいかない筈。そこで王子は一つの考えが頭をよぎりました。


(あの少女を城に召し上げてはどうか)


 王子のお気に入りの召使いとして雇い入れ、少女の生活と健康を守るということです。ただしそれは利己的な事情であり、王国全体の解決につながることではありません――でも、そういう局所的なままも、王子となれば許されても良いような気もしますが――王子は首を横に振りました。


(こんな自分勝手な考えに気を取られていてどうするんだ。僕がもし国王であるならば、この場では相応の意見を考えなければならない。病気で伏せる父上に何かあったら、僕は国王として――)


 ドンッ――!


 巨大な音が響き渡り、論議の場にいた一同は、飛び上がらんばかりに驚きました。


 広間の入り口には、病気で伏せているはずの国王が、そこにいたのです。まるで皆を粛正するかのように、杖を床に叩きつけたのでした。国王は云いました。


「ならば、どれほどの兵を用いて、どれほどの兵士を死に追いやるのか、答えて貰おうか。どれほど物資と食料を浪費するかもな」


 いくさを唱えた家臣は、こうも真っ向から問いただされては何も云えません。狼狽うろたえながらも、「いや、そこまでは、今の所はまだ……」などと言葉を濁すばかり。


 国王はそのあやふやな返答を攻めもせず、更にたたみかけます。


「そして兵士と民衆をどれだけ死なせ、国土をどれだけ荒し、そのとき征服した相手の国力、作物はどれだけ穫れるのか、どれほど敵国の恨みを買い、どれほど各国の不安を煽り、その時、我が国がどれほどの見返りを得られるのか――しかし、わしも国王、必要とあらば犠牲を顧みず、相手を冷酷に処断する覚悟はある」


 国王の声は、やまいむしばまれていることなど信じられないほどに、静まりかえる家臣達の耳に殷々(いんいん)と響き渡ります。


「しかし、国力の低下を補うために、国力が互いに削がれるいくさを起こすなど論外。そして、もっとも悲しむべきは、この指摘をわしが自らしなければならないことだ」


 王子を含む、全ての家臣達に向けた指摘に広間はシンと静まり返りました。大の大人である家臣達は、まるで教師に叱られた生徒達のように頭をうなだれ肩を落とし、そして言葉もありません。国王は溜息をついて、「大臣――」と呼びかけます。


 大臣は、王子に講釈を下していた権威は何処へいったか、顔を強ばらせて立ち上がりました。


「は、はい」

「今度こそ、任せても良いか。もし、同じ意見を唱える勇気ある者が現れたら、わしの寝室によこすが良い」

「は……」

「では、頼むぞ――息子よ、話がある。来なさい」


 呼ばれた王子はすぐ立ち上がり、国王に続いて広間を退出しました。


「――む、む」


 流石に力が尽きたのか、国王はよろめき、杖にすがりました。王子は慌てて肩を支えます。家臣の皆には弱味を見せられなかった故に、王子を呼んだのかも知れませんが――話があるのは本当でした。


 やっと寝室の前に辿り着いてから、国王は切り出しました。


「息子よ、評判は聞いている。勉学に励んでいるようだな。良い顔つきになった」

「いえ、それほどでは……」

「良い顔つきではある。しかし――まあ、わしにも覚えがあるから判るのだが」


 その言葉の意味を掴みかねている王子を、国王は「冷酷に処断」しました。


「分不相応という言葉がある――国王に私的な生活など許されぬ。今後、庶民との個人的な交際は控えなさい」


 あまりの指摘に、顔面蒼白で凍りついた王子を残して、国王は寝室へと去りました。


(二十一) 目


「やあ、ここにおられましたか、王子――王子?」


 ようやく、王子は声をかけられたことに気がついて、振り返りました。例の騎士長が呼びかけていたのですが、自失とも、落胆とも云うべき想いに気を取られていた王子の耳には、なかなか入らなかった様子です。


(知られていた……何故、どうして……)


 騎士長に向き直った今ですら、そんな想いにとらわれている王子に、歴戦の騎士長は遠慮なく尋ねます。


「どうされました? 近頃、せっかく良いお顔であったというのに」

「いや……なんだい?」


 問いかけを避けるためか、逆に用件を促す王子に対し、騎士長はあえて探りを入れようとせずに答えます。


「今日の鍛錬を拝見する時間なのですが――いや、今日は趣向を変えましょう。気分を変えて、町へ出てみませんか」

「町に……?」

「庶民の町並みや生活を見ておいた方がよいと思いましてね」


 庶民と聞いて、王子は心のざわつきを覚えましたが、断る理由も見あたらず、その申し出を承諾しました。

 そんな王子を見る騎士の目つきには、あまり優しいとは云えない鋭さがありました。気晴らしと云いながらも、それは王子を気遣っての優しさではなく、未熟な子供を見守る厳しさをたたえていました。


(やれやれ、何があったか知らないが……ま、若いときは調子づく時もあれば、落ち込むこともあるでしょう。しかし、大人になれば、そんなことを云ってられないってことを、少し味わって頂きましょうかね)


 ――恐らくは、そんな考えに基づいてのことでしょう。


 さて、王子を伴った騎士長は、騎士達の集会所を兼ねた食堂に向かいました。そこでは騎士達がくだけた調子で雑談を交わしていたのですが、王子が一緒であることに気づいて一斉に立ち上がり、姿勢を正して敬礼します。そんな彼等にくどくどしい説明をせず、


「町に出る。十名ほど着いてこい――おい、お前」

「――はッ」

「鎧を脱げ。王子に着て頂く」

「はいっ」


 そう命じられたのは、王子に背格好のよく似た若い騎士で、恐れ多くも王子に関われる緊張と喜びに顔を強ばらせながら、ガチャガチャと着ていた鎧を取り外しました。騎士長は云います。


「ちょっと匂うかも知れませんが、それを着てやって下さい。今日はお忍びですので」

「ああ、わかった」


 王子は嫌がりもせずに鎧を受け取り、騎士長自らの手伝いを受けながら、無表情で鎧を着込み、大きな兜で顔を隠しました。そのまま馬上の人となり、城の開門を待ってから町へと出発です。


 騎士達は普段の訓練振りを発揮して、組まれた隊列は一糸の乱れなく町中を進みます。先頭には騎士長、その両脇には王子と、副隊長らしき騎士が並びました。


「王子――ご覧なさい、庶民の生活を。そして、連中の目を」

「目……?」

「はい。部下にもよく云うことなんですがね」


 騎士長は町中で歩く庶民達を見渡しながら、王子に教えさとすように語りました。庶民達はみすぼらしい服装ばかりで、伏し目がちで疲れ切った表情――あるいは、何の感情も持ち合わせていないような無表情な者ばかりです。騎士長は語り続けます。


「笑わなくとも、怒ったり、泣いたりしているぐらいなら、まだマシです。なんていうか――んでますな。どの顔も」

「……」

「もう何年も前からですがね。民衆だけじゃなく、城内でも、近頃はそんな顔つきばかり――いよいよ深刻ですよ」

「それだけ、王国が危ういということ?」

「はい。人の目や顔つきを見れば、そいつがどんな奴で、元気なのか、病んでいるのか、何を考えているのか判るってもんです――王子もね」

「え?」


 騎士長は部下がいる手前、声を潜めて云いました。


「付き合っていた女に振られたような、そんなお顔をされていますよ」


 王子はギクリとして、誤魔化すことも出来ずに絶句しました。当たらずとも遠からず――流石は騎士長、大勢の騎士達を率いているだけのことはあります。王子のその様子を見て、図星だったことを見極め、「なんなら相談に乗りますが」と囁いたのですが、丁度その時、王子の反対側にいる副隊長が口を挟みました。


「そう云えば、明らかに異国の連中と判る目つきが増えましたね」

「……あ? ああ、東国の連中だな。彼奴等あいつらは判りやすいからな」


 クックと騎士長は笑って請け合いましたが、王子には真剣な面差しで云いました。


「だから判るんですよ。東国を落とさなきゃならんって考えがね」

「え……?」


 鋭い指摘に自失しかけていた王子でも、流石にギョッとして騎士長に振り返りました。騎士長は王子が驚くのを判っているかのように頷きながら、その訳を話します。


「降りかかる火の粉は払わなきゃならない。東の連中が間者かんじゃを送り込んで、我が王国を狙っているのは火を見るより明らかなんです――かといって、国王陛下の仰る通り、いくさで消耗するのは論外かも知れませんが、連中に内側から崩されるのを黙ってみている訳にはいかない」

「……」

いくさの是非はかく、近いうちに、異国人狩りでもしなきゃならんでしょう。陛下もああ仰っていたことだし、直接、お話ししてみましょう」

「そうだね……」

「その折りは王子にも臨席して頂きましょう――おや? あいつをご覧なさい」


 騎士長は何やら見つけた様子で、顎をしゃくって王子に示しました。その先には、ボロを着た男が、キョロキョロと周囲に目を光らせています。


「あれが……東国の?」

「いやあ、違いますね。只のコソ泥でしょう」


 と、答える騎士長は、失笑するかのように鼻を鳴らしました。


「ああして、目を泳がせているたぐいは大抵そうです。異国の間者かんじゃなら、もっと肝がわっているでしょう。ありゃあ、すぐにでも何かやらかしますよ」


 と、騎士長の云う通り、コソ泥と指摘された男は辺りの様子を伺いながら、町の店先へと足を忍ばせてます。そして、遂に思い切り、店頭の商品を奪い取り、人混みに紛れようと駆け出しました。


「やりやがったな――追え。逃がすな」


 その騎士長の一言で、背後に控えていた騎士達は馬に鞭を入れて、コソ泥の後を追いました。


「!?」


 まさか、騎士団が近くで見ていたとは知らなかったのでしょう。騎士達の号令に気付いたコソ泥は慌てふためき、アタフタと逃げ去ろうとしましたが、馬の速さに逃れる術はありません。おまけに人混みが行く手に立ち塞がり、どうしようもなく追い詰められ――遂にコソ泥は自暴自棄を起こしたか、懐の刃物を抜き払いました。


「畜生! 貴様ら、どけぇ!」


 きゃあ、という悲鳴があがり、民衆は右往左往してその場を逃れます。コソ泥は無茶苦茶に刃物を振り回し、人々を追い立ててその場を逃れようとしましたが、それを避けかねた子供が一人。


 王子は蒼白となりました。あれは、あの少女とそれほど変わらない年頃の――。


 ぎゃああああっ!


「ああ! 殺した! 子供を殺したあっ!」

「ひ、酷い!」

「なんてことを!」


 もはや、阿鼻叫喚の有様となり、騒然とする人々の中、遂に騎士達はコソ泥を取り囲み、腕を捻ってねじ伏せました。騎士長もまた、渋い顔で馬を下りつつ、コソ泥へと近づいていきます。そして、いまだ馬上のままの王子に云いました。


「やれやれ……こんなことになる前に取り押さえたかったんですがね。ま、丁度良い機会です――王子」

「……え?」

「殺した者は殺す。それが殺人者への掟です。こういう場合、見せしめとしてその場で命を絶つのが慣例です」


 それを聞いたコソ泥はギョッと驚きましたが、そのコソ泥の頭髪を騎士長は掴み、悲鳴を上げるのも構わず、無理矢理にその首を引っ張り上げました。コソ泥は慌てふためいて命乞いを試みます。


「や、止めてくれ! 俺には病気の女房が!」


 ですが、騎士長は聞く耳を持ちません。掴んだままの頭髪をひねって、更に悲鳴を上げさせながら、


「王子、斬ってみますか。人を斬る練習なんて、滅多に出来るもんじゃない――」


 恐らく王子には無理だろうと、騎士長は高をくくっていたのかも知れません。その瞬間の、王子の目を見るまでは。


 ザシュッ……。


 王子は騎士長の申し出を聞いた瞬間、邪魔な兜を脱ぎ捨て剣を抜き、一気にコソ泥の首を斬り落とし……。


 その王子の気迫に満ちた双眼――まるで、鬼神デーモンの魂を宿したかのような、鋭い眼光を目の当たりにして、今度は騎士長が蒼白となる番でした。


「お……お見事です……」


 かろうじて、騎士長が云い表した後も尚、王子は荒い呼吸を続けたまま、剣を振り下ろした姿勢で凍り付いていました。それはまるで、聖者が悪徳を重ねた罪人に鉄槌を下した、その有様を絵画にしたかのような――。


(二十二) 罪悪


 ――王子のみならず、騎士長や民衆の人々までも絵画のように凍り付く中、狼狽うろたえ、慌ててその場から離れる人物が一人。


 誰であろう、その者こそ、あの少女の父親でした。


 慌ててその場を走り去り――そんなことをしては、かえって怪しまれるものですが――町の狭い路地に駆け抜けて、とある建物の中に入り込みました。キョロキョロと辺りの様子をうかがいながら――その時の父親の目は、処断されたコソ泥とそっくり同じです。それでは父親もまた、母親に指摘された通りに盗みに手を出していたのでしょうか――それは、遠からず当たっていたようです。


 そのまま父親が入り込んだ建物の奥には、一人の男が小さな机を前にして座っていました。その男の細く釣り上がった目つきは、疑いようもなく、東方の出身であることを示していました。鋭い眼光で何かの帳簿に目を通しながら、小石をぎっしり並べた奇妙な道具をパチパチと弾いています。その東方の男は顔を上げぬまま、父親に声をかけました。


「よう、遅かったじゃないか」


 父親は、その愛想の悪い出迎えを無視して、荒々しく問いかけます。


「なあおい! 俺のやっていることは大丈夫なんだろうな!」

「おいおい、何を慌てているんだ。何かあったか? ……ふむふむ、ああ……成る程ね」


 町中で起きた顛末を聞いた男は、鼻を鳴らしてようやく顔を上げました。


「心配するな。お前は誰か殺したか? でなけりゃ何も心配いらんよ――で、今日は持ってきたのか」

「あ、ああ……」


 そう云って、父親は小さな紙切れを手渡します。その紙切れには、いくつかの品目と数字が書かれていました。受け取った男は、それを読み上げながら、帳簿に書き記していきました。


「ふむふむ、小麦が百五十、野菜が二百、と……ふむふむ」

「なあ、聞きたいのだが――それって役に立つのか」

「ああ、役に立つとも」


 男はニヤリと笑って答えました。


「詳しくは説明できないがな。お前さんは読み書きが出来るんだし、算術って奴も覚えてみるかね――まあ、それだけでは、俺のやっていることは理解出来ないだろうがね」


 そう云いながら、数枚の銀貨を父親に手渡しました。


「今日もそれで旨い物を買って帰ると良い――そういえばお前さん、昔は城の騎士団にいたんだったな」

「……それがどうしたんだ」

「いや、だったら腕に覚えがあるって訳だ。ついでに、城の事情って奴もな」

「い、いったい何をさせるつもりだ。確かに騎士団にいたが、もう城に入ることも出来ないし、俺はそんな……」

「ああ、判っているさ。ヤバいことは頼まんよ。こうして出荷の数とか、当たり障りのない所を伝えてくれりゃ十分さ。ただ――」


 東方の男は、闇のように黒い瞳を光らせてこう云いました。


「もっと、金が欲しけりゃ相談に乗るぜ」

「あ……ああ……」

「今、云ったことは漏らすなよ。今度は俺があんたに、ヤバいことをしなきゃならんからな」

「……」


 父親は口をつぐんで、黙って男の元から去りました。東方の男はニヤリと笑って見送りました。


 ――毒は蒔いた。花が開けば、シメたものだ――。


 建物から出た父親は、彷徨さまようように細い路地を歩くうちに、頭がふらつき、徐々に体が震え出しました。


(俺は、大変なことをしているのではないか)


 その、今更ながらの罪の意識に囚われ、もう体の震えが止まりません。


(――いや、もう引き返せない。城に訴え出たところで、俺があの男にしてきたことも全て知られてしまう。それをとがめられ、そして――)


(いや、もしかしたら――訴え出た褒美の代わりに、不問にしてもらえるかも知れない。昔の知り合いに相談すれば――いや、ダメだ)


 父親はいつの間にか、町中の大通りを歩いていました。そこでは王子達が見た通り、精気のない民衆達が力なく行き交うばかりです。


(不問にされたところで、どうする? うちの家族も例に漏れず、病で倒れていくだけだ。父親として、それを黙って見ている訳には――)


 貧困は罪である、と誰かが云ったか。貧困が更なる罪を産む、とも――。


(腕に覚えがあるか、だと……? その腕で何をさせるつもりなんだ)


 あの男は東方の出身。その望みは、まさか、この国の繁栄のためではないだろう。


 その後は、この国はどうなってしまうのか――。


 ――父親は急に考えるのを止めました。もう行き着くところまで考えてしまったからです。もう、考えたところで行き詰まるだけだと、判っているから。


 父親は肉屋に赴き、少し古くなったソーセージを買い込みました――肉屋の店主は怪訝けげんそうに、父親から金を受け取ります。よく金が続くものだ、とでも怪しんでいるのでしょう。やがては、それを突いて密告されることも、あるかもしれませんが。


 やっとの想いで、我が家に帰り着いた父親を出迎えるのは、雑然とした家族の騒音でした。母親は洗濯物を片づけ、娘である長女が、疲れた顔で夕食の鍋をかき回しています。父親はその鍋に入れるようにと、ソーセージの袋を手渡そうとして――。


 ――ばたん。


 長女は受け取ることが出来ず、床に倒れてしまいました。


「どうしたんだ! おい! しっかりしろ!」


 ……。


 脈を取っていた年老いた医師は、首を振って答えました。


「――例に漏れず、だ。お前の娘さんは、もうダメかもしれん」

「そ、そんな……どうすれば、何か打つ手は……」

「薬ってやつがあるんだがね。わしゃ持っとらんよ。薬を手に入れるには金がいる」

「金って……薬を買うほどの金なんて……そんなもの、あるはずが」

「ま――今日はいらんよ。看ただけだからな。じゃあ」


 やっと呼びつけた医師は大して役にも立たず、何もせずに帰って行くだけでした。長女は、母親の看病を受けながら、絶え絶えの息を吐きながらも、その意識は戻りません。そんな有様の娘の姿を、父親は呆然ぼうぜんと見下ろしていました。

 父親はこれまで高価な食材を買い続けてきましたが、母親は「その金をとっておけば」などととがめようとはしませんでした。それも、こうなってしまわないようにと、薬代わりとして父親が苦心して入手していたことが判っていましたから。しかし、それも追いつかなかったということです。


(金……金が……)


 もう父親には、選択の余地はありませんでした。


(二十三) 慚愧ざんき


 かたや、罪の意識を捨てようとする者と、そして、罪の意識に囚われている者と――。


 王子は自室の机に伏したまま、罪の意識にさいなまれていました。


(殺した――人を殺してしまった――僕は――)


 剣を腰に差しているのは何のためか。これまで剣の鍛錬を積んできたのは何のためか――誰かが王子の有様を見れば、そうなぐさめもしたでしょう。あの騎士長は、何も云わなかったのでしょうか。

 王子は気がつくと、城の自室に戻っていました。どうやって戻ってきたかも、鎧を脱いで返したことも、何も覚えていませんでした。ただ、頭にあるのは、あの叫び。


(や、止めてくれ! 俺には病気の女房が!)


 その彼の訴えを、「冷酷に処断」した王子。


 流石は王家の血筋だ、などとからかっては、王子はどれほど逆上するか判りません――そう、王子には、逆上する血気が備わっているのです。


(あの少年が、「あの子」に見えた。あの時、正に「あの少女」が殺されたと、この目に映り――それから、何も判らなくなった)


 しかし、殺した男には女房が居た。むしろ、あの男にも「あの少女」と同じような子供が居るかも知れない――いや、むしろ。


 万が一、あの男が「あの少女」の父親ということも――そのような悪魔の偶然も、十分に有り得る。


 想い、そして悩む王子の心。確かめもしない仮想の事実に、王子の心は千路に乱れました。そこによみがえる父上の、国王の言葉。


(分不相応という言葉がある――国王に私的な生活など許されぬ。今後、庶民との個人的な交際は控えなさい)


 今こそ、王子は身分違いの罪悪を味わいました。国王こそ罪悪であり、罪人つみびとである、と。


 国王こそ、国のために庶民に冷酷な処断を下す、その罪を背負う者。分不相応とは、庶民を身分のいやしき者とさげすみ遠ざけることではなく、王家の者こそ、清貧に生きる少女や庶民達と親しみ、庶民の楽しみを味わうことなど、許されない罪人つみびとなのだ、と――いや、ならば――。


 ふと、以前の思いつきが頭をよぎる。


 ――ならば、あの少女をこちらに引き入れれば良いではないか。庶民の一個人を贔屓にすることは、多少の問題があるだろう。しかし、あの子は群を抜いて優れているのだ。あの子なら、父上の眼鏡にかなうことも、ありえないことでは――。


 そんな、なかば苦し紛れな思いつきに奔走する王子の心。藻掻もがきながらも上向きになった、その王子が見たものは――。


 ――そんな彼を優しく見つめる瞳がありました。王子が見上げた先には、そこには亡き母上――幼い頃に亡くした、母の肖像画がありました。おぼろげながら今も尚、王子の脳裏に残る、母の優しさ――。


(そうだ、この灰色の王国で唯一、光に満ちていた母上様の瞳、この世は灰色の世界じゃないと教えてくれた)


 それは、かつて奪われ、そして再び、少女となって現れた。


 しかし――神よ。何故、あなたは与えておきながら、また奪うのか。


 その問いには、母の隣に立つ、父が答えた――光はある。神の教えの中に、と。


「嘘だッ!」


 もっとも罪悪な者が何を云うかと、思わず手にした聖典を投げつけた。母と並ぶ、国王たる父の肖像画に――。


 王子はまた、肩を落とす。自分の怒りに、自分の激しさに恥入り、後悔する。


(ねえ、母上様は? 母上様はどうしたの? イヤだ! ボクは……)


 それから厳しくしつけられ、忘れた筈の自分の激しさ。

 捨てた筈の、王家の生まれの慢心まんしん傲慢ごうまん

 その傲慢を、優しくなだめる母を失い、無茶苦茶に城内を荒らした、幼い頃の記憶。


(神は与え、また奪う。手にしてしまえば、また奪われる)


(そうだ――もし仮に、あの子を王家に引き入れたとしても、母上様のように、また神に奪われる。ならば――)


(ならば、そっと別れを告げよう。互いに行方を教えず、互いに生きていくことを信じ合えば)


(この世界で共に生きていることを、信じることが出来るなら)


 慚愧ざんきに耐え抜き、王子はようやく立ち上がりました。


(もうこれ以上、王家という罪悪に、あの子が関わってはならないのだから)


 そして、次の安息日――。


(二十四) 約束


 その日、少女はなかなか現れませんでした。夕陽が沈みかけても、その姿を見せませんでした。


 でも、王子は苛立つことなく、少女を待っていました。むしろ逢いたくない、逢えば別れを告げなければならない、逢うのが怖い――そんな気持ちが働いているのかもしれません。

 しかし、もう逢えないと心に決めた。それを告げずに縁を絶つ、などという礼儀を欠くわけにはいかない。しかし――。


 ――しかし、本当に少女に別れを告げることが出来るのだろうか。あの輝く瞳にほだされ、云えずじまいになるのではないか……。


 千路に乱れる心が時を忘れさせ、夕陽が沈んだ今も尚、惑う心に翻弄され――。


 ガサッ!


「あ……」


 振り返れば、少女がそこに現れました。


 山道を大急ぎで駆け通してきたのでしょう。髪を乱し、肩で息をしながら、遅刻を詫びるような、申し訳なさそうな顔つきで。

 粗末な衣服の端々に木の葉がまといつき、それを払う手間も惜しんで、少女は王子の側に駆け寄りました。そして、その少女の第一声が――。


「――どうしたの?」


 自分の遅刻の顛末も忘れて、王子の異変に気付いた少女。王子は思わずギョッとしますが、少女のあまりの鋭さに、何も言葉が出せません。


「あ、その……」

「……」


 少女は無言で、更に王子のそばに寄りました。ジッとその高貴な顔を、その苦悶を隠しきれない顔つきを見上げて、云いました。


「お別れ?」

「――!?」


 ――王子はまだ、少女をあなどっていたのかも知れません。少女は聖典に精通し、多くの物語を語り、様々な人間模様を知っているのです。年齢的に経験できるはずはないけれど、その場面が来れば、これがそうかと理解することは出来るでしょう。

 少女が知らない筈はないでしょう。身分違いの恋など、実に不幸で、なんと実りにくいものであることか――あらかじめ、こうなることが判っていたのかも知れません。


 王子はうめくように「う……その……」と、少女に自ら云わせたにも関わらず、言葉にすることが出来ませんでした。

 そんな王子に、自分の指摘が間違いでないことを察した少女は、寂しげな笑顔を浮かべました。


「なら――お願いがあります。最後にあと、一度だけ――一緒に、お祭りに行きませんか」

「お祭り……?」

「はい。町の皆は、それはもう楽しみにしているお祭りなんです。お城の人には詰まらないかも知れないけれど、一度で良い――一度で良いから、一緒に行きたい――」


 王子は思わず、少女の足下にひざまづき、か細い体を抱きしめました。


「行くよ。一緒に行こう。必ず――必ず……」


 少女は、いまだ子供でしかない王子の肩に手を添え、彼が泣き止むのをジッと待ちました。


「ごめんね……ごめんなさい……」


 王子は謝り続けました。尚も顔をくしゃくしゃに歪めながら……。


(二十五) 祈り


 王子と別れを告げ、少女が家に戻った頃には、すっかり日が暮れていました。特に家族の皆は何も云いませんでした。それは、いつものように放置されているのではなく、長女の看病に掛かり切りだったからです。


 各自で食事を済ませ、交代で看病に当たっていたのですが、高熱が続く長女の額を冷やすため、言い訳程度に濡れタオルを取り換えるぐらいで、治療の役には立ちません。

 少女はその交代の合間を縫って、王子の元に駆け付けたのでした。長女よりも幾らか下のお姉さんが、視線で交代を告げました。少女は立ち上がり、濡れタオルを絞って看病に取りかかります。


 そこに、兵隊に行っていた一番上のお兄さんが帰っていました。お城から手に入れたらしい卵を溶いて、長女の口に含ませようとしていますが、なかなか受け付けない様子です。


「畜生、王様だったら医者が付きっ切りで、毎日、高い薬を飲んでいるのに、俺達ときたら……」


 お兄さんの口から、云っても仕方がないような愚痴が聞こえてきました。その有様なので、少女はお話しすることも出来ません。昔は親しんだ仲であり、少しはお話もしたかったけど、このような有様では仕方がありませんでした。

 お兄さんは兵士の鎧のままでした。心なしか、昔よりもすさんだような、そんな荒々(あらあら)しさを感じます。特に、王子と比較したり、などということはないけれど――お兄さんはすぐまた家を出て、お城へと戻ってしまいました。差し入れの卵を届けるだけで精一杯だったのでしょう。


「親父は? こんなときに何やってるんだか……」


 更に、そんな愚痴も付け加えながら。


 そういえば――と、少女も想いました。近頃、父親の顔を見ていない、やはり仕事が忙しいのか、父親ならば仕方が無いけど、それでも、少しぐらいは顔を出して欲しい――そんな想いがよぎる中――少女は聖典の中から、聖句の一つを唱え始めました。誰にも聞こえないほどの、小さな声で。


(あなたの友が難儀し、手助けする術は何もなく、金銭や食べ物をも与えることが出来ないのなら、ただ、せめてその手を握りなさい。僅かでも、友と共に一瞬の時を過ごしなさい。金銭や食べ物があれば、明日を生きることが約束されるでしょうが、今、この時、この瞬間を金銭や食べ物であがなうことは出来ません。今、この時、この瞬間を、稼ぐでもなく、遊ぶでもなく、共に過ごしていることを――)


(――共に過ごしていることを、あなた自身の心に刻みなさい。苦しむ友を見るあなたこそ、まず、救われなければならないのだから――)


 ハッと少女は、長女の顔を眺めました。微かにその唇が動き出し、少女と共に聖句を唱えていたような――そして、微かに目が開いて最後に付け加えました。ありがとう、と……。


 しかし、奇跡はそれが最後でした。


(二十六) ささや


 ゴトン――。


 父親の目の前に置かれた、一振りの短刀。


 それは東方独特の武器で、王国の物とは異なる片刃の剣でした。それを手にして抜き払うと、鋭いやいばがギラギラと光を放ち、父親は震えが止まりません。


「標的は、この国の王子だ」


 えっ……と絶句する父親に、東方の男は囁き続けます。


「いいか。今のお前さんが城に入り込むのは無理な話だが、面白い情報を耳にしたのだよ。どうやら王子は、城の生活に退屈したのか、お忍びで町に出ているらしい。城には古い抜け道があってね。そこから度々、城の外へと飛び出しているそうだ。城の外で何をしているのか、詳しいことまでは判っていないがね――もし、王子の行方が掴めて、そこを仕留めることが出来たなら――」


 出来たなら?


 この王国は跡取りを失い、命運は尽きる――語るまでもないと、東方の男は笑う。


「だからこそ、報酬は望み次第……なあに、事が済めば、家族を連れて東に来るんだな。歓迎するぜ」


 家族を連れて――その言葉はまるで、父親の心に絡みつく黒い鎖のようでした。父親は心を強ばらせ、ギラつく片刃の光に魅入られました。


「これだけは判っている――」


 東方の男は、告げました。


「王子は決まって安息日に城を出る――次の週は祭りだったな。そこに王子が来ないはずは無いだろう?」


 父親はカチリと刃をさやに納めました。


(二十七) 最後の日


 ――少女の家。


 ずっと、長女の看病を続けていた母親は、その顔を拭いてやりながら、他の子供達に云いました。


「やっと熱も引いたようだね。もう大丈夫」


 子供達は何も云いません。その言葉に喜ぶこともなく、重い表情で母親の顔を見返しました。母親は淡い笑顔を浮かべて云いました。


「さ、今日はお祭りだよ。みんな行っておいで」


 子供達はしずしずと扉を開けて、家を出ました。そうすべきだと云うかのように、母親と長女を残して――いや、末の娘である、あの少女は立ち止まって、長女と母親を眺めていました。しかし、母親は溜息をついて、促します。


「……察しの悪い子だね。さっさと行きな」


 そう云われては何も云えません。少女は目礼するかのように顔を伏せ、家を立ち去りました。独り切りになった母親は、再び手ぬぐいで長女の顔を拭いながら云いました――確かに、熱は下がっていました。


「お前は一番の働き者だったね。ありがとね……ありがとう……」


 何故だろう――今の顛末を経て、少女は心が洗い流されたかのような、そんな清らかさを得たような気持ちになりました。まるでお姉さんが、祭りの日を邪魔しないように立ち去ったかのような、少女や家族の、皆の迷いや憂いを持ち去ってくれたかのような――。


 夕暮れが近く、冷たい風が少女の頬をなでました。少女は、ふぅっと息を吐きました。そして、頭上の山を、頂上のお城を見上げました――さあ、今日は「あの方」との最後の日です。少女は普段の通り、通い慣れた山道を目指しました。深緑の渦巻く森のトンネルを抜け、夕陽にあかく染められた展望台へ――。


 ――一方、王子は、重いフード付きのコートを着込んで、お忍びで外出する仕度を調えていました。そんな身仕度をする王子の心にも、迷いも憂いも、何もありませんでした。安らいでいると、云っても良いかも知れません。少女との逢瀬を引き替えに、苦痛と罪悪から逃れることが出来るのですから。

 この日を境に、わたくしのない王家としての生活が待っています。それは逃れることの出来ない宿命であり、庶民には理解できない陰鬱いんうつな人生となるでしょう。


(我々は全て苦役を背負う隷属れいぞくだ。苦痛を知らずに生きていける者などいない。周囲の軋轢あつれきに身を翻弄ほんろうされ、時には罪悪に手を染める――我々は伝承者だ。わたくしなど存在しない。些細な苦楽に惑う心すら、誰かに与えられたものでしかない――我々は旅人だ。全ての事象は、通り過ぎるだけの道でしかない。路傍ろぼうの花は摘み取らず、心に咲かせておけばよい。その手の中で散りゆくのを見るぐらいなら――)


 そのような、心の中で唱えてきた例え話も胸中から既に消え、王子は心を封じるかのようにフードを被り、抜け道への扉をくぐりました。城の古い抜け道を抜けて、既に朱に染まった山道を下り、少女との出会いの場所、少女と過ごした、あの展望台へ――。


 ――既に、少女はそこに立っていました。普段と変わらない姿で、そこに居ました。まぶしい夕陽に溶けてしまいかねないほどに、可憐な姿がそこにありました。王子は何も云わず、何も云えないままに、少女の元に歩み寄りました。


「――さあ、いきましょう」


 少女は王子に手を差し伸べました。王子はそっと、その手を取り――そして初めて、踏み越えることの無かった展望台の向こう側へと渡ったのです。


 少女は王子が足下を滑らせないように気を配り、王子は大丈夫と云うかのように少女を見返します。二人の間に言葉はありませんでした。口に出して確かめ合うことはなく、行き先やかかる時間にも不安を抱かず、互いを信じて、二人は歩いて行きました。


 その歩く姿は、親子という程ではないけど、身長の差がとても大きく、少女の頭は王子の胸元に届く程度。さしずめ、少し年の離れた兄と妹といったところでしょうか。少女は幼い頃から実の兄と親しんでいたため、王子との関係も馴染みやすいものであったかもしれません。

 既に別れることを決めた二人ではあったのですが――二人がもし望めるならば、どのような関係となりたいと願ったでしょうか。恋人同士、あるいは、夫婦となって家庭を築くことでしょうか。

 相手がそうと望むなら、このまま別れることなく、相手がそうしようと望んだならば、その望みのままに応じたかもしれません。そうすべきだと誰かが促したならば、小さな聖典を片手に駆け落ちして、寂れた村に住み着き、農作業を手伝いながら、ささやかな教会を営み――二人なら、そのような結末に至ることが出来るかも知れません。それから先、どのような困難が待ち受けるのかは、判りませんが。

 しかし残念ながら、そのような考えなど、二人の胸中には一片ひとひらもありませんでした。王子は王子の役目に殉じ、少女はその王子の意志にあらがうことなく見送ることを、既に心に決めていたのですから。


 山を下りても尚、手を繋ぎ合い、夕暮れの道を辿る二人――その道はやがて町中に至り、徐々に人の流れが生まれ始めました。その誰もが高揚感に顔を輝かせていました。そして向かう先は、待ちに待った祭りの喝采――。


(あ、ああ……)


 王子はその光景に心を奪われ、ただ呆然と立ち尽くしてしまいました。多くの篝火かがりびかれ、町並みが炎のあかに染まり、まるで夕暮れの中心にやってきたのかと思うほどでした。そこでは多くの庶民達が集い、誰もが笑顔で目を輝かせ、精一杯の祭りを楽しんでいました。

 精一杯――本当に心尽くしの、精一杯のお祭りでした。道に並ぶ屋台では、貧しいはずの庶民達が開いているというのに、全て無料で品物が配られていました。といっても、粗末な材料で焼かれた目の粗いクッキーや、わずかな糖蜜を薄めただけの生ぬるいジュース、明らかに素人の手作りと判るお面や飾り物など――それらを子供達は大いに食べて、華やかに身を飾り、目を輝かせて祭りの出し物へと向かうのでした。大人達もまた、子供達に大いに振る舞うことで、満悦の笑みを浮かべていました。

 今日だけは、今日だけなら我慢する必要はないのです。子供達は大いに楽しみ、大人達は先行きの不安を捨てて、子供達を楽しませることが出来るのです。

 これが精一杯の、庶民達の出来る精一杯のお祭りでした。城で守られていた王子が初めて目の当たりにした、幸せそうな庶民達の姿でした。


(この国は、この世界は、決して灰色なんかじゃない――)


(世界は喜びを望んでいる――決して、荒廃した灰色の世界に甘んじている訳ではないだ――)


 その国を守る。その世界を守る。その喜びを守る。

 例え僅かであろうとも、一年でたった一度きりの喜びであろうとも。

 身を砕いて、身を苦役に投じるのは、そのために。


 それは、なんと切ない願いであることか――。


 ――どう?


 少女は我が事のように自慢げに、少し微笑んで王子を見上げました。王子はもまた微笑んでうなずき返します。素晴らしい、と。

 そして少女に身を委ねて導かれるまま、祭りの中を歩いていきました。


 通りでは様々な大道芸人が観客にその特技を披露していました。といっても、こうした芸人は素人と本職の区分けなど無いもので、明らかに練習不足で出鱈目でたらめな芸が大半でした。

 少し練習すれば出来そうな曲芸は失敗ばかりで、それすらも観客は大笑いで喜び、なけなしの小銭を投げてやりました。調子の合わない楽器の演奏で、不揃いの振り付けで舞い踊り、そしてガラクタを身に纏ったような役者達が大仰な大見得を切りながら演じられる演劇など――。


 王子は、物語好きの少女ならば、その役者達の前で足を止めるかと思いました。しかし、既に知っているお話だったのでしょうか。少女は他の大道芸と同様に、少し立ち止まっただけで先へと進みます。


 やがて二人は、もっとも大きな篝火へと向かいました。そこは、もっとも大きな十字路で町の中心地。その更に中央には太いたきぎが積み上げられ、天をも焦がせとばかりに巨大な炎が上がっていました。

 その周囲には人々の三重の円――篝火の周囲には楽団が舞曲を演奏し、その周囲で庶民達のカップルが舞い踊り、更にその踊り手達を観客達がはやし立て、手拍子で喝采しました。これぞ正しく、祭りの最大のクライマックスでした。


 ――ふと、少女は思い切って王子の手を離し、王子の正面に立ちました。


「――?」


 察しの悪い王子は小首を傾げました。少女は両手を後ろに組んで、躊躇ためらいながらも思い切って王子を見上げ――あこがれといとしさに瞳は輝き、恥じらいと不安に目を泳がせながら、まるで、初めて出逢った時のように――。


「い、いっしょに……その……」


 一緒に踊って。


 少女の願い、少女のお目当てがこれでした――本当は、物語は語るよりも、実現させる方が良いに決まってる。やはり少女は夢見る女の子、王子様と舞踏会でダンスを踊る、そんなおとぎ話の夢を、最後の最後に実現させたい――。


 この小さな天使の切なる願いを、断る者など居るのだろうか?


「喜んで!」


 二言目を云わせない。躊躇ためらいなど許さない。撤回する余地すら与えない。


 王子は重いコートを脱ぎ捨てて、凄まじい勢いで少女の体を抱え上げ、踊りの輪に滑り込みました。少女は何が起こったのか解らず、目を丸くて動転していました。


 少女との身長の差をカバーするため、相手を抱き上げて踊る王子の光景は、まるで人形やほうきを相手にしているかのような――そんなチープな例えで申し訳ないのですが――それでも、少女の体を軽々と抱き抱えたまま、見事なステップを踏んで、華麗なターンを観客に披露しました。


 庶民達は騒然としました。研ぎ澄まされた王子のダンスを目の当たりにして仰天し、そして更に仲間や家族を呼び寄せました。「おい来て見ろ! 本物の踊り手が来ているぞ!」と――その呼びかけに(素人だったことがバレてしまった)大道芸人達までも集まり、かつて無かった程の大喝采が巻き起こりました。


 恐らく、それぞれに楽しんでいた庶民達が、王子の存在に気付いたのは、これが初めてだったでしょう。その立ち振る舞いは常ならず、着ている衣服の格の違いや、既に隠すのを諦めてしまった美貌を目の当たりにして、これは余程の貴人ではないかと気付き始めたのです。


(いた! ついに見つけた! あれに間違いない! これを逃したら、もう機会なんて二度と来ない!)


 しかし、その観客の喝采も二人には蚊帳の外、二人は見つめ合い、少女はようやく、自分が本当に王子と踊っていることに気付いて、握られていた手を握り返して指を絡ませ、頬を紅潮させて瞳は更なる輝きを増し、これまでで最高の笑顔を王子に手向たむけました。

 王子もそれに応えました。もはや王子の役目も、国王の戒告かいこくをも忘れ、明日からの苦難も、王子としての気位も捨てて、少女に返す笑顔は亡き母上の贈り物、童心に返った汚れ無き魂からの喜びを――。



 ドスッ……



 凄まじい衝撃が、少女の背に突き刺さる。


 そして、少女は振り返り、見てしまった。


 自分の心臓を貫いた、暗殺者の顔を。


「とう……さん……?」


 身分違いの二人の恋に、数々の不運が襲いかかる。



(二十八) 不運


 二人を襲う、その数々の不運とは。


 それはまず、

 王子の身代わりに、少女が殺されたこと。

 王子とは、死に別れとなったこと。

 王子が共に居ながら、守れなかったこと。

 少女が暗殺者を見てしまったこと。

 その暗殺者が実の父親であったこと。

 自分が父親に殺されたことを、少女が知ってしまったこと。

 それら全てを王子が知ってしまったこと。

 その王子が生き残ってしまったこと。

 その王子は誇り高き王家の血を引いていること。

 その王子の誇りが、この惨劇に耐えられないこと。

 その王子は既に、冷酷な処断を下す術を知っていること。

 そして王子は、次期の最高権力者であったこと――。


「ああああああ……」


 美貌を誇っていた少年の顔は歪み、野獣のような咆吼を辺りに轟かせる。


「あああああアアアアアアアアアアアアッッ!」


 ――バキリッ!


「があぁっ!」


 耳を裂く父親の悲鳴。王子は暗殺者たる父親の腕を、折れるまで捻り上げた。あまりの惨劇に王子の心は鬼と化す。騎士達に鍛えこまれたその技には、狼狽する父親では適わない。

 王子は父親のうめきに耳を貸さず、少女の背中から、その命を奪った凶器を引き抜いた。見れば判る、東方独特の短刀を。


「お前は……」


 そう、王子は云いつつ、父親を地面に踏みつけた。更に悲鳴を上げたが、構いはしない。


「お前は――ここでは殺さない!」


 慣例通りにその場では殺さず、王子はいったい、何をするつもりか。


(二十九) 報復


 バタンッ。


 夜分遅く――少女が殺された、その日のうちに。


 巨大な扉を王子は蹴破る。余りの騒音に、病に伏せる国王は目を覚ました。ここは、国王の寝室であった。


「う……だ、誰だ。衛兵、衛兵は――」

「父上、私です」


 王子は、しゃがれた声で返答した。片腕は暗殺者を繋いだ鎖を握り、もう片方には、東方の短刀が握られていた。暗殺者である少女の父親は、果たして如何なる拷問を受けたのか、鎖で引きずられていくその体は血まみれで、王子はその返り血に体を染めていた。王子は、その血で寝室を汚すことも辞さず、真っ直ぐに国王の枕元へと突き進んだ。


「――息子よ、何のつもりか」

「父上、いえ、国王陛下。私は東方の手先に殺されかけました。これがその下手人です」

「……それで」

「陛下、あなたは東国にいくさを望むなら、直接、ここに云いに来いと仰られました。私はそれに従い、ここに来ました。この者は東国の手先であると白状しました――私は助かりましたが、一人の少女が、この国の庶民の命が断たれました」

「……」


 国王は、夜分遅くの来訪や、王子の性急すぎること、兵士達が王子を引き留めなかったことにも、何一つ言及しなかった。

 ただし、今の王子に、もっとも云ってはならない言葉を口にしてしまった。


「只一人の少女の命で、いくさを起こすわけには――」


 王子が思い切るには十分すぎる言葉であった。

 王子は短刀を構え、父上たる国王に躍り掛かった。


 これもまた、王子が為すべき報復の一つであった。


(三十) 強襲


 ――そして、更にその深夜のうちに。


「諸君!」


 只ならぬ事態に叩き起こされ、大急ぎで集められた家臣達。こんな深夜に、などと不平を言う者は居なかった。ただ一言のみ伝えられ、その一言で誰もが飛び起きたのだ。


 王子はその一言を改めて言い直した。


「諸君! 国王陛下が殺された! 東国の手の者によって殺されたのだ!」


 手にしていた短刀を振り下ろし、テーブルの上に突き立てた。そして、もう片方の手に握られていた「首だけとなった父親」もまた、テーブルに置いた。


 家臣達はどよめき、中には悲鳴を上げる者も居た。しかし構わず王子は続ける。


「その現場に僕は居合わせたのだ。余りの所行、それ故に我慢がならず、下手人の命を絶つ他はなかった――だが、その直前に自供させた。更に、この刀が東国の手先であるという何よりの証拠――許さない。このような卑劣な真似をした東国を、僕は決して許さない。戦争だ! 今すぐ! 全ての兵士を叩き起こして、出撃を開始しろ!」


「お、お待ちください! 王子!」


 絶叫にも似た声を響かせ、あの騎士長が差し止めようとしたのだが――王子はむしろ静かに、騎士長をジロリと見下した。


「誰が王子だと? 誰を指して王子と呼ぶのだ?」

「は、あの……」

「既にわれは国王である。そなたは全ての騎士と兵士の規範となる騎士長の座を預かりながら、われの最初の命にそむくつもりか」

「は……」


「いや、国王陛下――まことに、陛下のおっしゃりようは、まことにごもっとも」


 ――と、大臣が口を挟む。しかし、子供をあやすような声色に、王子は眉をしかめた。


「へつらいは無用だぞ、大臣」

「いえ、そのようなつもりは決してございません。しかし、陛下。戦争となれば、それ相応の準備が必要となるものですぞ。まず、相手の非は既に明確ですが、それをまず掲げあげ、周辺諸国にも併せて布告を――」

「我が父の暗殺に布告はあったか!」


 王子は自らの剣を引き抜き、大臣に突きつけた。


「ひっ……お、お待ちを、陛下……」

「罪人に対する処罰の基本はなんであったか、われになんと教えたか、繰り返してみろ! ――騎士長! 人殺しの罪人には、どうするのが慣例であったか!」

「はっ……」


 騎士長は姿勢を正し、答える他はなかった。


「目には目を、歯には歯を、殺戮には、その命を、その場にて……」

「ご苦労! 会議は終わりだ!」


「お、お待ちを……」


 早足でその場から去ろうとする王子をなんとか引き留めようと、大臣は取りすがる。


「兵士共はともかく、出兵ならば、それ相応の物資を整えなければなりませんぞ。食料や……」

「不要!」

「は……?」

「相手が持っているではないか。東国の連中に、明日を生きる必要は無い! 兵士共に云っておけ! 腹が空いたら、死に物狂いで奪い取れ!」

「そ、そんな無体な!」


 続いて、騎士長。


「出兵の数は? 一国を丸ごと相手取るだけの兵士を出せば、王国の護りが――」

「何処が攻めてくるというのだ? 南方の小国か?」

「いや、しかし万が一、西国が――」

「あの国が気付く前に終わらせる! 全軍を用いて、一気に踏み潰すのだ!」

「……王子! それは無茶だ!」


 思わず、かつてのように騎士長は呼びかけたが、それは王子の耳に届くこともなく、掻き消されてしまった。他の家臣達が、新国王たる王子の采配に、大いに喝采し始めたのだ。


「そうだ! 陛下の仰るとおりだ!」

「東国など、我が王国の敵ではない!」

「一気に叩き伏せてしまえ!」

「国王陛下に栄光あれ!」


 喝采する家臣達の波に揉まれ、大臣と騎士長、二人の忠臣は既に蚊帳の外となってしまった。そして王子は号令する。


「全軍出撃! われ自らが指揮を執る!」


 正に、王子の強襲は図に当たったのだ。


(三十一) 策謀


 王子は強襲に成功し、家臣達から多くの支持を得たかに思われた。しかし、その真相は違っていた。

 次々と城から出兵する騎士団を尻目に、幾人かの家臣達が走り去る。そして町外れに足を運ぶと、更に数名の男達が集まった。それらは全て、東方独特の目つきをした男達であった。その中には無論、少女の父親を誘い掛けた例の男も混じっていた。


「これほど、図に当たるとは!」

「王子の暗殺に失敗したのは、まあ、無理もないが」

「なあに、あの王子では命が幾らあっても足りなかろうて」

「しかし、国王が死んだとはな。いったい、何がどうなったのか」

「フン、何があったのか、大体想像がつくわ」

「……さて、皆の衆。急がねばならんぞ」

「おう」


 そして、東方の男達は、「西」へと走り出したのだった。彼らは皆、西国からの間者かんじゃであった。城の家臣達もまた西国に寝返り、東国を襲わせる役目を果たした者達であったのだ。


(三十二) 粛正


 一方、王子の率いる騎士団は快進撃を続けていた。


 慌てて反撃を繰りだそうとした東国であったが、騎士団の強襲を受けて、あっという間に蹴散らされた。王子の軍は民衆の住む村々や町並みに到達。騎士団の後に続く兵士達は滅茶苦茶に叩き壊し、奪い争い、炎を放って焼き尽くした。


 騎士団は王子の采配に驚喜していた。先代の国王はいくさを好まず、騎士達はやり場のない鬱憤を溜め込むばかりの日々であったからだ。遂にそれらを撒き散らす機会を得て、騎士達は思う存分、破壊と殺戮の限りを尽くした。

 庶民にちかしい兵士達は、たとえ城で養われていても、貧困に耐える生活は変わらない。貧しい待遇で、兵士の厳しい職務に耐える彼らにとって、王子の「全てを奪え」との暴言は、夢のような勅命であった。兵士達は腹に溜まった強欲を解き放ち、目に付くもの全てを奪い尽くしていった。

 決して、あの少女は見違えてはいなかったのだ。正しく地獄から湧き出た大鬼オーガの軍勢と化してしまったのだ。


(まだだ。もっとだ。全てを焼き付くせ――全てを奪い尽くせ――)


(僕は許さない。僕は決してお前達を許さない)


(東国も、我が王国も、民衆も、騎士も兵士達も)


(そして、僕自身も――)


(ありとある罪を背負い、神の業火に焼き尽くされてしまうが良い!)


 これほどに、許せない想いを抱く王子に、何があったのか。


(三十三) 狂気


 あの夜――少女が刺された、その直後。


 事件の勃発に、周囲の人々はどよめいた。楽人達は演奏を止め、他の踊り手達も足を止めた。それはそうだろう、観衆の目を奪っていた王子の異変に、気づかぬ者はない。


 王子が下手人である父親をねじ伏せ、そこに駆け寄る警備の兵士達――まだ、王子とは気付いていなかった。平の兵士達は、王子の顔を知らなかった。しかし、貴人と見極め、「とりあえずこちらへ」と丁寧に王子の体を促したのだ。そこに、王子は隙を突かれた。


「あ……」


 少女の体は、一旦、地面に降ろしてしまっていた。そのままにしてはおけない。


 しかし、既にそこには何もなかった。


(!?)


 その場からほうきを手にした兵士が走り去っていく。既に何もなくなっている。少女の遺体も既になく、飛び散った血糊すら消え失せて、殺戮の現場はその位置すら解らなくなってしまったのだ。


 やがて、兵士から促されて楽人達は演奏を再開、人々は何事もなかったかのように――こともあろうに、再び踊り出したのだ。


(お、お前達は……お前達は……)


 自失呆然とする王子の耳に、人々のさざめき、笑い声が狂気のように耳に響いた。やがてそれは、悪魔の哄笑と化して、王子の心をむしばんでいく。


 ほんの少し前までは、民衆の祭りに感動し、心を震わせたばかりであったのだ。その同じ光景が、王子の心をせせら笑う悪魔の饗宴と化したのだ。


 人々は見たはずだ。この場で少女が刺されたことを。人独りが刺し殺された有り様を、人々は見ていたはずだ。


 しかし庶民達は、あえて、この事件から目を背けたのだ。年に一度の、せっかくの祭りの日、明日からはまた、灰色の労働生活が待っている。今日だけは、全てが楽しくなければならない、幸せでなければならない。そんな想いで、必死に祭りの狂喜にしがみついている民衆達――。


 実のところ、貧しい町中では、決して治安が良いとは云えない。恐らくは、このような出来事など、よくあることなのだろう。だからこそ、もはや騒ぎ立てる者など居ないのだ。


 庶民達は笑う。王子の感動を、庶民達への敬愛を愚弄ぐろうし、ないがしろにして嘲笑あざわらう――そうさ、所詮、人間なんてこんなもんさ、今更知ったのかい? なんてお人好しなんだろう、と。


(許さない。お前達など、絶対に許さない。独りとして生かしておくものか)


 ――王子は、荒ぶる騎士達が殺戮する様を、貪欲な兵士達が略奪する様を、食い入るように見つめながら、庶民達の狂気を思い返していた。


(さあ、全ての罪はわれにあるぞ。もし神が観ているなら、この身を今すぐ焼き尽くすが良い。神の鉄槌を今すぐ下して、この身を地獄の底に叩き落としてみよ! この汚れた魂のまま、天界であの子とまみえる事など出来はしない!)


(三十四) 業火


 ――例え、東国との戦いに勝利したとしても、世界は決して王国を許しはしないだろう。周辺諸国は結集し、悪逆非道の王国と、そして王子を討ち滅ぼすだろう――そんな計算をしていた王子であったのだが、果たして、神が王子の願いに答えたというのか、その時は思いの外、早くに訪れた。


「陛下! 陛下!」


 馬上のまま、戦況を見ていた王子の前に、本国からの伝令が転がり込んできた。


「陛下! 西国が攻め込んで参りました! 至急、お戻りください!」


 王子に代わり、その取り巻き達が返答する。


「そんなバカな! 西国とは同盟が進んでいるはずだ」

「本国の隙を突いたにしても、いくらなんでも早すぎる――陛下!?」


 王子はもう伝令に構わず、馬に鞭を入れて本国へと駆け出した。取り巻き達は慌てて王子を呼びかけ、その後に追いすがろうとする。


「陛下! お待ちください! 陛下!」

「全軍、撤退! 全軍、撤退!」


 凄まじい勢いで駆け出した王子を先頭に、王国の軍は来た道を駆け戻り始める。しかし、王子の乗る名馬は極めて速く、騎士達に比べて遥かに軽装の王子に、誰も追いつくことは出来なかった。しかも、伝達が行き届かず、大半の騎士は尚も戦い、略奪を続けるばかりで、王子に続いた者は極少数となってしまった。だが王子は、そんなことに構いはしない。別に応戦するつもりは無い。


(早くしなければ終わってしまう。我が王国が滅び行くのを、この目で確かめたい。そして、その神の鉄槌を受けるのは、この僕だ)


 果たして、そのような願いが何処まで叶うのか。


 本国では、既に戦いが始まっていた。戦いにもならなかった。騎士長は居残っていた僅かな兵を率いて応戦したが、あっという間に粉砕された。大臣は外交手段に出ようとするが、相手は聞く耳を持たなかった。

 西国もまた、王国の破滅と征服だけを望み、その騎士団も凄まじい力を発揮して、みるみる王国の町並みを焼き尽くしてしまったのだ。


 そこに、王子はようやく到達する。


(おお……)


 紅蓮の炎が上がる町並みを見て、王子は思わず嘆息する。この光景こそ、かつて少女と共に眺めた、夕陽に染まるあかい町並みそのものであった。王子は祭りの時よりも、更なる高揚感に満たされていた。


(そうだ。こんな灰色の王国など、全て焼き尽くしてしまえ)


(僕はこれを望んでいたのだ。あの夕暮れが胸を打つのも、祭りの篝火に心を打たれたのも、本当は、この光景を望んでいたのかもしれない……)


(さあ、次は僕の番だ――この体も全て焼き尽くしてしまえ……)


 もはや、王子に追い付くものは誰もおらず、引き留める者は誰もいなかった。王子は大きく両腕を広げ、敵陣へと突き進む。その王子の体に、幾万の矢が殺到する……。


(三十五) 神


 炎は燃え尽き、全てが真の灰となった。

 そこに、「天使」が舞い降りて、既にした王子に告げる。


「来い。神がお会いになる」


 そして、うずたかく積み上がった遺体の山から、王子の魂が引き上げられた。


 その天使はわしのようであった。人の体にわしの顔と翼を持ち、鉤爪のある足は猛禽のそれであった。その頭上には光輪などなく、獰猛どうもうなる魔物とも見間違える姿であった。

 他にも多くの天使があたりを飛び交っていた。そのわしのような天使の他に、黒いからすの羽根と頭を持つ者や、巨大なふくろうの目を持つ天使もいた。そのような天使の姿を書き記した者は、人類では誰もいなかった。

 皆、死滅した戦場いくさばを飛び交い、命無き死した魂を連れ去る光景は、まるで地獄図を描いた戯画そのものであり、死人を刈り取る天使のさまは、正しく死神そのものであった。そして、それら天使は人よりも遙かに巨躯きょくであり、片足だけで軽々と王子の体を掴み上げ、空の彼方へと跳び去っていった。


 やがて天使は天界へと辿り着いた。そこは永遠に夜の世界であった。しかし、頭上の夜空には星が輝き、天界の神殿では消えることのない焚き火があり、そこは決して暗闇ではなかった。


 王子はその神殿に投げ降ろされた。王子の魂は肉体から離れたにも関わらず、その魂も満身創痍まんしんそういで、未だ血塗れの姿であった。今尚、死に至らしめた傷は深く、神殿の冷たい石畳に横たわったまま、身動きは出来なかった。それでも辛うじて頭を上げると、そこに神の姿があった。


 その神の姿は、とてもそうとは見えぬ姿であった――帝王のような威厳はなく、僧侶のように清らかでもなく、賢者のように崇高でもなく――服装は清潔だが、だらしなく、顔は笑顔を絶やさぬが、ふてぶてしくもあり、皮肉げでもあり――あえていうなら、酒場の亭主のような、そんな壮年の男であった。

 荒々しさを湛え、気に食わぬ事があれば怒鳴り散らして手近の物を投げつける。しかし、客や知り合いには愛想良く酒を振る舞い、下卑げびた話に花を咲かせる。神はそんな姿であった。


 そうか――と、王子は想う。この男が神であるならば、世界の姿も、こんな男のようなものであるのだろう、と。

 そうと判っているならば、付き合いようがあるのかもしれない。自分は世界という相手に、夢を見すぎていたのかも知れない――いや、待て。


 ――僕もまた、世界の一部であるならば、何故、僕は生まれてきたのだろう――。


「ま、そう難しく考えるこっちゃない」


 と、神は云う。神は全てを知っている。このような男であれ、やはり神である。


「お前さんはそれほど罪悪でもない。世の中、善も悪も無い。そンなもん、それぞれの都合って奴さ――ああ、これもそうさ」


 神は何かを王子に投げてよこした。それは王子が持っていた「聖典」であった。


「俺はそこに書いてあることなんて、一言たりとも云った覚えはねぇよ。生きてるお前さんらに逢ったことも無いし、何かを教えたことも無い――しかしな。お前さんらは、神が居ることだけは知っている。それがどういうことか、判るかね?」

「……?」

「世の中、良くも悪くも無いが、かろうじて、上向きに前を歩いているって訳だ。なかなか、悪いことばかり目についてしまうだろうが、顔を上げて歩いてりゃ、何か良いことがあるってもんさ――違うかね?」

 

 王子は神の言葉に理解を示そうとした。しかし、死に至る傷が未だに癒えず、心を開くことなど出来はしない。王子は悟りきれずに、目を伏せる。


 そんな王子に神はニヤリと笑みを浮かべた。


「さて、これからの話なんだが……生まれ変われば、前世のことも、俺様が今、教えてやったことも全て忘れちまう。いろいろあったお前さんのことだし、それじゃあ流石に口惜しかろう――ほら、お待ちかねだよ」


 ――え?


 ふと見ると、神殿の柱の陰に、あの少女が立っていた。


 少女の装いは、かつての貧しい庶民のものではなかった。衣服に飾り気はないものの、清楚な装いに改められ、髪は綺麗にくしけずられ、肌はどんな化粧を施しても得られない輝きを放っていた。その姿はまるで幼い姫君のようであった。

 少女は傷ついた王子の姿を見た瞬間、顔をクシャクシャに歪めて涙をこぼした。傷つき、血でまみれた王子の有様に、少女は堪えきれずに側に駆け寄り、その罪深き魂を抱きしめる。


 王子は、この時初めて息を吹き返したように、かすれた声でささやいた。


「綺麗だね……」


 その言葉に少女は驚き、はにかんだ笑みを浮かべたが、それでも、涙がポロポロとこぼれ落ちて止まらない。そんな少女に、王子は繰り返す。


「綺麗だ……綺麗になったね……良かった……本当に、良かったね……」


 もはや二人は、神の御前であることを忘れて、ただ抱きしめ合うばかり。そんな二人に、神は締めくくりの言葉を贈った。


「しばらく、お気に入りの場所で休むといいさ。それに飽きたら、またおいで」


(三十六) 物語ものがたる丘


 それから、数百年の後――。


(えー? またあのお話ですか?)

(頼むよ。僕はあの話が大好きなんだ)

(仕方ありませんね……では、昔々の、その昔――)


 既に王国は潰え去り、人々の記憶からも失せて、歴史にもその名は刻まれておりません。あの山からは僅かな城跡すら見いだせず、そこに人が住んでいたことすら、誰にも知られませんでした。更に、年月を経て山の形すら変じてしまい、そこには小高い丘が残るばかりです。


 今も尚、王子と少女の二人はそこに居ました。夕暮れ時に限らず、昼も夜も二人は共に過ごしました。時には野を駆け回り、雨に降られては木陰に隠れ、夜は体を横たえて星空を仰ぎ見ました。

 いつまでも二人は神の御許みもとに帰ろうともせず、再び、人々の間で生きる幸せも、生きることの喜びを得ようともしませんでした。二人はただ、人々の生きる様を見守り、そして語り合い、そして人々のために祈るばかりの日々を送っていました。


 もしかしたら夕暮れの、いわゆる逢魔おうまときにこの丘に訪れば、少女の話を聞くことが出来るかも知れません。しかし、未だその機会を得た者は無く、そこが物語ものがたる丘と名付けられるのは、いつの日か。二人から真の神の姿を、真の世界の姿を伝えられるのは、いつの日か。


 ではそろそろ少女と共に、このお話の締め括りを致しましょう。


(そして二人は、いつまでも、いつまでも、幸せに暮らしましたとさ――おしまい)


 ――完。


お読みいただき、有り難うございました。

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