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夏の扉を開けるとき  作者: 萩尾雅縁
第三章
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迷路 

 赤毛を庇って泣くコウを、どれほど抱きしめていただろうか――。


 自分がこれほどまでにみっともなく、愚かだと思ったことはない。彼が泣き疲れて寝入ってしまうまで、気の利いたことのひとつも言えず、宥める手立てもなにも思いつかなかったのだから。きっとバニーに呆れられる。きみはいったい今まで何を学んできたのか、と。博士号を返還するかい、くらいの嫌味も言われるかもしれない。


 解ってる。コウをここまで追い詰めたのが、僕の不寛容さだってことくらい。コウと赤毛の関係性は、決して僕とコウとの間のような恋愛じゃない。だからコウは悪びれることなく赤毛を庇える。そこには僕に対する後ろめたさも何もない。こんなことで納得できたなんて皮肉なものだな、と思う。だが、そういうことなのだ。コウは、コウ自身の持ち前の律儀さで、赤毛との約束を守らなければならないと信じているだけなのだ。


 その約束とは何なのか。


 コウは教えてくれなかった。「言えない」と、ただ首を振るだけだった。


 そしてコウは、彼が赤毛を尊重することが僕への裏切りになることもまた、ちゃんと理解している。だから苦しむ。彼自身の誠実さが彼を苦しめている。僕が赤毛への寛容さを示すだけで、コウはずっと楽になれるに違いないのに。僕には、どうしてもできなかった。理解が感情の問題を解決してくれないことだってあるのだ。僕は、僕の知る唯一の方法で僕の理性を取り戻すしかなかった。目の前にいたコウで、この激情を処理したのだ。彼にだけは、こんなマネをするまいと心に固く誓っていたのに――。


 僕が僕でいることは、きみを傷つける。


 僕はきみよりもずっとよく、その事実を知っている。そして、きみよりも長く生きてきた分、僕は、それをどう処理すればいいかも知っているんだ。


 けれどこんな僕を、きみは決して認めてくれることはないだろう。




 そう、そして同じように、僕にもどうしたって彼らの関係性を認めることはできないのだ。たとえコウに奴に対する恋愛感情がなかったとしても、奴もそうだとはいいきれない。奴の僕に対する感情は明らかに嫉妬だ。僕と同じ。だから解る。赤毛は僕たちの仲を邪魔し続けるだろう。コウに対する支配的な態度を改めたりはしないだろう。コウをこんな状態に陥れてでも、自分に縛りつけておきたいのだから。


 奴のことを考えるだけで苛立ちがぶり返してくる。時間が経つにつれてますます鮮明になってくるコウに刻まれたこの赤い焔が、僕を嘲笑う。


 けれどこれはコウの責任ではない。僕はどんなコウであろうと愛している。愛しているのだ。確かにそれだけは変わらない。



 まったく、僕の方が泣きたい気分だ。あんな赤毛なんかにしてやられて。

 エリックを使ってコウを揺さぶり、僕から引き離していたこの一週間の間に、赤毛はコウに気づかれないように少しづつこの入れ墨(タトゥー)を入れていたのだろうか。そんなことが可能なのか。それこそ奴お得意の魔術(マジック)とやらでも使ったのかもしれないな。


 くっと、喉から苦笑が漏れていた。コウが身動ぎして僕に頬を擦りつける。かわいい。くしゃりと髪を撫でると、ゆっくりと頭をもたげて、彼は泣き腫れた瞼を持ちあげた。涙で洗われて赤くなっているのに、瞳は透きとおる宝石のようで。



「バスタブに湯をはってくるよ」

 彼の髪にキスを落とした。きっとコウはそうしたいだろうと思ったのだ。

「行かないで。きみがいないと、僕はまたすぐに眠りに落ちてしまう」

 コウの瞳が不安げに僕に縋る。

「じゃあ、いっしょに」

 

 コウをシーツに包んだまま抱きあげた。

 ここの浴室には、確か、長椅子があったはず。湯が張れるまで、コウはそこで待っていればいい。僕だって、もう一時だってコウと離れたくはない。




 大理石を張った広々とした部屋の中央にバスタブが置かれている。壁一面が鏡のドレッシングコーナーには、クリスタルの花瓶に山と盛られた白薔薇(アイスバーグ)。こんなもの、赤毛の好みではないだろうに。

 反対側に置かれた長椅子にそっとコウをおろした。バスタブに湯を張り、そこらじゅうの棚を空けてタオルやバスローブを探している間、コウはじっと僕を眺めていた。

「なに?」

 視線がくすぐったくて彼を振り返ると、コウは「なんでもない」と笑っていた。


 


 透明の湯に、そっとコウをおろした。バスバブルは入れなかった。コウはただ湯に浸かるのが好きだから。でも、理由はそれだけじゃない。

 揺れる湯のなかで、コウに刻まれた焔が熔けだすように揺蕩ってみえる。それはまるで、僕の喰いこませた爪痕から、血が滲み流れでているようでもあったのだ。


「染みる? 痛いなら、」

 一瞬顔をしかめたコウに、僕の心もズキリと痛んだ。

「痛いよ」

「――ごめん。僕は本当にどうかしていたんだ。こんなふうに、大切なきみを傷つけてしまうなんて」

「いいんだ。解ってる。僕の痛みはきみの心の痛みだ。僕がきみを傷つけたからだよ」


 そうではないことを、僕は知っている。僕は自分でコントロールできなかった怒りを吐きだしただけ。それはきみのせいじゃない。きみが引き受けるべきことじゃない。


 パシャンと水を跳ねて、コウが腕を伸ばし、僕の頬に手を当てた。


「アル、ありがとう」


 訳が解らずコウの掌を頬に感じるまま、小首を傾げた。


「僕を気持ち悪がらないでくれて――。僕に触れてくれて」


 コウは眉をしかめて目を固く閉じた。僕から手を離し、口を覆って嗚咽を殺す。


 僕はまたどう応えればいいのか判らなくて、なにも考えられないまま、湯船に腕を入れて彼を抱きしめた。






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