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夏の扉を開けるとき  作者: 萩尾雅縁
第三章
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影 8.

「僕が僕でいることがきみを傷つけるのなら、いったい僕は、どうすればいいんだろう?」


 コウが、僕の背中越しに呟いた。


 ようやく話しかけてくれたのだ。僕の酷い仕打ちに抵抗もせず、ずっと放心したように目を見開いたままで一言も喋らなかったのに。呼びかけても返事もしてくれなかったのだ。そんな彼を見ているのが堪らなくて、終わってから、僕はずっと彼に背中を向けていた。コウが喋ってくれたことで、ほっと胸をなでおろしていた。嘘じゃない。それなのに僕は、間を計ってすぐには応えようとはしなかった。まだコウを見るのが嫌だった。僕がこの手で傷つけた彼を目の当たりにすることが。


 怖かったのだ。一時の激情の波が引いてみれば、後に残るのは底知れないほどどす暗い色をした悔恨でしかない。僕はもう何度もこの沼地を歩いてきているというのに。


 コウがどんな想いで告白してくれたのか、僕は解っていた。変わってしまった彼の身体を誰よりもコウ自身が恥じていたことにも気づいていた。それでも彼を思いやることもいたわることもせず、ただただ自分の感情を彼にぶつけたのだ。


 コウを見ることができないのは、僕が僕自身を恥じているからだ。伸ばされた彼の手を、自らの手で振り払ったからだ。


 コウに謝らなければ。僕こそが、彼に赦しを請わなければ。



 覚悟を決めてゆっくりと身体を返して彼に向きなおると、コウは虚ろな瞳でぼんやりと天井を見ていた。いや、なにも見てはいなかったのかもしれない。そんな感情の見えない瞳だった。涙さえ、流すことのなかった――。


 僕こそ、こんな彼になんと声をかければいいのだろう?


 痛々しい。こんな彼を見るのは悲しくて、やりきれなくて、堪らない。それなのに、彼の肌に刻まれた赤い焔が僕を内側から燻ぶらせる。怒りが僕を欲情させる。急きたてる。また、あれほどコウにぶつけておきながら。


 こんな感情に呑まれてはだめだ。

 苦しんでいるのはコウなのに。僕は、僕の腹立ちを処理させるためだけに彼を使ったのだ。こんなことが、許されていいはずがないじゃないか。



「コウ、おいで」


 目を瞑って、彼の肩を引き寄せた。力の入らない虚脱した身体を抱きすくめた。


「きみがきみでいることで、僕は傷ついたりしない。僕はきみを受容できなかった自分自身に傷つけられただけだ。きみのせいじゃない」

「――僕のせいだよ」

「きみは悪くない。きみはきみの意志で起きたわけではないことに、どんな責任ももつ必要はないんだ、コウ」

「それでも僕は、きみに対して責任があるんだろ、そう言ったじゃないか」


 激情のままに放った自分の言葉に、揚げ足を取られるなんて。


「誤解しないで。きみの思っているような意味で言ったんじゃない。きみがきみ自身に責任をもつこと。それが僕に対するきみの責任だよ。誰にもきみを傷つけることを許さないで。僕のために――」


 どの口が言ってるんだ。自分で言いながら、自分自身に呆れかえる。コウの肌の上には、僕がつけた拘束の痕がまざまざと残っているというのに。こんな暴力的な方法で、この焔の軌跡を消そうとしたのは誰だっていうんだ。


 それでも僕の口は、こんな綺麗ごとをいけしゃあしゃあと言ってのける。僕をこんなにも愚かにするのは、コウなのだ。


「だから、コウ、僕はこんな形できみを傷つけた彼を許すことができない。解るだろ?」

「解ってる。だから、そういうことだよ。僕が僕であること。そのことと彼は切り離せない。だから――、これからもきっとこういうことがある。そのたびに、僕はきみを怒らせ、悲しませ、傷つけることになる。それが、僕だ。そしてきみは、そんな僕を許すことができないんだ」


 

 赤毛を許せ、ということなのか――。


 彼を抱きしめる腕に力が籠っていた。だけど彼はどんな反応も返してはくれなかった。力なく、僕にもたれたままで。


「コウ、話をすり替えないで。彼の負うべき責任をきみが背負う必要はないんだ。この入れ墨(タトゥー)は、きみが望んでしたことじゃないだろう? きみ自身がそう言ったじゃないか。きみの意志を尊重しない彼に従うのはもうやめてくれ、僕の言いたいのはそういうことなんだ」

「――僕の意志じゃなくても、僕のためだ。必要だから、――だから、彼は僕のためにしてるんだよ」


 コウの腕が、ゆっくりと僕の背中に回される。僕を抱きしめる。


「だから――」


 コウは声を詰まらせ嗚咽しはじめた。ようやく流れでた涙が、僕の胸を濡らしていた。


 ゆっくりと見開いた僕の瞳には、コウをかき抱く僕の腕に巻きつく緑の渦と、彼の身体の赤い焔鎖、この二つの渦が、西日で金色に染まる部屋のなかで呼応するように、浮きあがり、うねり輝いて映っていた。





 

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