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夏の扉を開けるとき  作者: 萩尾雅縁
第三章
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影 4.

 この二人、軽く十秒間は身体を後ろに逸らしていただろうか。返事を待ってみたところで返ってきそうにもないので、僕は手にしていたカトラリーをカチャンと音をたてて戻した。彼らはその音でびくんと跳ねあがり、揃って今度は僕の方へ前のめりにかがみこむ。そして慌てて、腰を浮かせかけていた僕を、顔をブルブルと小刻みに振りながら引き止めた。


「お座りになられてください、アルバート様!」

「お召しあがりになられてください、アルバート様!」

「いらない」

「おねがいでございますとも!!」


 こころなしか、ガマガエルの顔が蒼褪めている。ますます蛙に似ている。それにしても、僕が食べないと都合の悪いことでもあるのだろうか――。ますます怪しいじゃないか。毒でももってあるんじゃないか、と勘繰りたくなる。


「ドレイクがどこにいるか教えてくれたら食べる、こともないかもしれない」


 わざと、彼らの語学力では肯定に聴こえるかもしれない言い方をしてみた。案の定、彼らは揃ってにたりと微笑んで、こくこくと頷きあっている。




「アルバート様、ここだけの話でございます――」

「ここだけの話でございますとも――」


 僕の顔を穴のあくほど見つめ、次いで確認するように片割れにぎょろりと視線を向けあっている。そしてまた僕に向き直ると、ようやく秘密を打ち明けるように慎重に、代わる代わる小声で囁いてきた。ひとこと喋るたびに、互い違いに首をにゅっとつきだして。


「フーランシスさまは、」

「フランシースさまは、」

「ご帰省中でございますとも!!」

「コウを連れて?」

「コウ様もご一緒でございますとも!!」

「どこに?」

「もちろん、コウ様はお優しくてございますとも!」


 やっと言葉が通じたかと思ったのに、また元の木阿弥だ。彼らは母を褒めたたえていた時と同じように、今度はコウを褒めることが止まらなくなった。コウの話なら僕だって嫌じゃない。彼らが僕の知らないコウを知っているのなら、むしろ聴きたいくらいだ。だが残念ながら彼らの話は、コウが彼らにやったもの、ミルクやビスケット、ラズベリー酒に蜂蜜酒、と食べものや飲みもののことに終始していて、あまり聴くだけの価値があるとも思えなかった。コウが彼らに好かれているのはよく解った。誰にでも思いやり深く接するのはコウの美点だ。だがむしろ、僕にはそれが(わざわい)しているとしか思えない。


 もういい、とにかくこの場から逃げだそうと決めたとき、


「コウ様も、あ()こでならすぐにお元気になられますとも!」


 と、ガマガエルが紫色の息を深くついた、――ような気がした。実際のところ、そんなことがあるはずがない。毒ガスを連想させる甘い臭気がしたせいだろうか。


 そんなことよりも、蜂蜜酒からいつの間にコウの体調の話になっていたのだ? 


 あそこって、いったいどこなのだ、と尋ねたい気持ちをぐっと抑えて、素知らぬ顔で耳をそばだてた。僕が口を挿めば、また彼らは話を逸らすに違いないのだ。そのくらいのことは、もう僕だって学習している。


「そうでございますとも。虹のたもとでなら、コウ様も軽く、軽く、おなりになられますとも!」

 

 四つの飛び出し気味のどんぐり眼が、首をつきだして大きく頷きながら僕を見つめていた。


「虹のたもとって――」言いかけたとたん、彼らは揃って首をくるりとティースタンドに向けた。一人が、いそいそと皿にサンドイッチやケーキを取り分けてのせる。その間にもう一方はポットをさげて、冷めてしまったお茶を淹れ直しにいった。


「さぁ、どうぞお召しあがりください、アルバート様!」

「虹のたもとって、どこにあるの?」


 座ったまま、彼の大きな顔を覗きこんだ。とたんにこの大きな口は、貝のように合わさる。


 僕はため息をつくより仕方がないのか。


 ローテーブルに置かれた皿をぐいと押し返した。前に彼らを雇うの雇わないのでもめたとき、料理を褒めたかどうか、などという理不尽極まりない理由で一方的に判断されたのだ。冗談でも、ここで何かを口にするなんてしたくない。


「アルバート様! お約束されましたとも!」

「まだ答えてないだろ? ドレイクはどこにいるんだ?」



「アル!」


 背後から聞こえた思いがけないコウの声に、驚いて立ちあがっていた。前を塞ぐこの男を押し退けてコウに駆けよった。コウは当たり前に僕に飛びついてきた。しっかりと抱きしめる。安堵感からか、一気に力がぬける。


「アル、来てたんだね!」

「コウ、起きて大丈夫なの?」


 彼の頬を両手で包んで上向かせ、顔を覗きこむ。顔色は悪くない。むしろいつも以上に薔薇色に輝いているみたいだ。


「平気だよ。待っててくれたの? 起こしてくれればよかったのに!」

「起こして? コウ、どこにいたの?」

「ずっとここにいたよ。眠ってて。ごめん、きみに黙って出てきちゃって。ドラコが心配して主治医にみせるってきかなくて。でも、大丈夫だよ。ちょっと疲れてただけだった。ほら、もうすっかり元気!」


 コウはにこにこ笑って、嬉しそうに僕を見つめている。彼は確かにコウなのに、僕の部屋にいたコウとはまるで違っていた。突然、別の誰かに入れ替わったみたいに、明るく、快活に喋っていた。



 


 



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