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夏の扉を開けるとき  作者: 萩尾雅縁
第三章
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 赤毛の豪奢なペントハウスは不気味なほど静まり返っていた。エリックに連れてこられたときと同じ。ここには誰も住んでいないかのような。

 この静けさに、コウがまたほったらかされているのではないか、と気が気じゃなかった。だからすぐに駆け足で順繰りに部屋を見て回った。ドアを一つ一つ開けて。どこもかしこも似たような白い空間の中を。


 まさか、またテラスに放りだされているのか? コウは熱があるのに。


 同じだ。室内にはやはり誰もいない。エリックの不在に安堵すると同時に、それ以上の怒りを覚えていた。肝心のときに役に立たない奴、と悪態をついた。コウを守ってくれとまでは言わないが、あんな電話をかけて寄越すなら、せめて僕を待っていてくれるくらいしたっていいじゃないか。


 その時点では、僕はまだ知らなかったのだ。バニーがその言葉の通り、速やかにエリックの措置入院の手続きを取っていたということを。僕がナイツブリッジに着いた頃にはもう、エリックはここにはいなかったのだ。バニーのその旨を伝えるメッセージが、煩く入ってくるどうだっていい呼び出しに紛れていたことに、僕は後から気がついた。




 居間へ戻り、テラスに続くガラス戸を開けた。とたんにすさまじい突風が吹き込んできた。ゴウゴウと唸る風に煽られ思わず顔を伏せていた。逆巻く髪を押さえ、目を眇めてテラスへ足を踏みだした。こんな中に放置されているとしたら、コウはそれこそ本当に病気になってしまう。


 だが、バタバタと波打っているタープテントの下にもコウはいなかった。


 僕が来ることを知って、赤毛はコウを別の場所に移したのだろうか。


 

 ひとしきりテラスを彷徨いコウの姿がないことを確認してから室内へ取って返すと、スマートフォンでもう一度コウの所在地を確かめた。間違いなくコウはここにいる。――地図上では。となると、コウはここで時計を外したのだ。そうなるともう、僕はコウを追うことができないということだ。


 やりきれない思いで、ソファーにドサリと腰を下ろした。


 まさか、ここまできて行き止まり(デッドエンド)だなんて――。



 ぼんやりと見上げた視線の先、白い漆喰天井には、血のように明るい赤線で描かれた魔法陣。

 家のキャビネットにある人形(ビスクドール)の身体に描かれたものと同じだ。円の中の幾何学模様。六芒星。月。太陽。そして、僕には解読不可能な不思議な文字群。コウと赤毛の背景(バックグラウンド)ともいえる世界が、(かれ)に重なる。その事実が、今さらながら僕を苛立たせる。



 思い返してみると、僕は赤毛のことを何も知らないのだ。奴は確かに英国籍だと誇らしげに話していた。だがいったいどこの出身だ? 両親は? 家族は? 

 奴はここをコウのために買ったのだ、とエリックは言っていた。これから彼が通うことになる大学に近い、ただそれだけの理由で。それが本当ならば赤毛の生家はどこにある? まさか、日本というわけではないだろう。アンティーク金貨やエリックの言う宝石類を、どこからともなく調達していたのだから。僕は奴が財布を持っているところすら見たことがない。それに、奴が口利きしたデリバリーの会社のことにしろ、とても知った身内の一人もいない本国へ帰ってきた帰国子女とは思えない。確かコウは、奴の親戚がケンブリッジにいるらしい、と言っていたような気がする。だがこれも定かじゃない。


 考えれば考えるほど奴は得体がしれない。そんな奴を同じ家に、コウの傍に置いていたなんて、自分の軽率さには、ほとほと呆れるしかないじゃないか。


 打つ手なし。


 そんな絶望的な想いが脳裏を過ったときだった。誰かが僕の名を呼んだ。


「アルバートさま」、と――。






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